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蓮華ヒステリック  作者: 大仏薫
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第八話 再びの苦悩



 翌日の朝、女は、定時に鳴り響く目覚まし時計のアラーム音を聞くことなく、目を覚ました。女が時刻を確認すると、アラームがセットされている時刻の三十分前であった。やはり、アラームによって強制的に起こされるのと、自然に目を覚ますのとでは、朝の気分はまるで違う。女は、このような時に、アラームのセットされた時刻まで一時間半以上あるときは、二度寝することに決めていた。しかし、それ以下であったら、却って目覚めが悪くなるので、起きてしまうことにしていた。何故そうするかといえば、人間の睡眠サイクルが、凡そ一時間半で、浅い眠りと深い眠りを繰り返すということを理解していたからである。女は、このルールに従い、ベッドから床へと降り立った。その後の女は、普段の出勤時の作法を順番に卒なく熟していった。玄関を出て、鍵を掛けた女は「よし、行くか」と、自らを鼓舞する掛け声を発し、駅へと歩いて行った。

 女にとって、入社以来、ずっと続けてきた出勤の苦行は、いつしか何と言うこともないものになっていたが、この日の朝は、違っていた。窒息しかける満員電車も、人の背中しか見えない駅の階段の昇降も、喧騒に包まれた空気も、それらの全てが女の心に疑問を投げかけた。女は思った。このような暮らしを続けていたら、やはり、自分の心は必ずいつか崩壊するだろう。昨日まで居たあの土地こそが、人の住むべき所なのだ。自分が仕事を辞める時が来たら、絶対に、あのような田舎に暮らそうと。女は、後輩の家での様々なことを思い出し、固く心に誓った。

 帰巣本能ならぬ帰社本能と言うべきか、女は、いつの間にか会社の前にいた。女は、深く考え事をしていたので、出勤途中の記憶が無かった。

 女は「あれ?もう会社に着いてる」と言おうとしたが、周りに沢山の人がいたので、口には出さなかった。

 しかし「私って、凄い...」と、一言小声で呟いた。

 女は、エントランスからロビーを奥へと進み、エレベーターに乗り込み、自分のデスクがある三階へと移動した。エレベーターを降りた後、廊下を進み、オフィスの入口のドアを押し開き「おはようございます」と大きめの声で言って、自分のデスクの前へと足を進めた。女は、肩に掛けたバッグからスマートフォンを取り出し、デスクの端に置いた。そして、そのバッグは、デスクの引き出しへとしまった。

 女にとって、出社からここまでの流れも、自動化されたものだった。女は、毎度、何も考えずにこの作業を熟す。普段であれば、女がこれらの準備を終わらせた丁度この頃、上司が出社してくるのだが、今日は、女が三十分程、早起きをしたために、まだ、上司は来ていない。女は、始業には少し早いが、仕事を始めようかな、と考えた。

 ところが、ここで、あることに気が付いた。自分が休みを取る前には、デスクの上に山積みされた書類があった筈だ。しかし、それらの書類がデスクの上から無くなっていた。

 女は「あれ?どうしちゃったんだろう」と呟いて、デスクの引き出しや、デスクの下やらを探し始めた。取り敢えず、心当たりのある場所全てを確認したが、あの書類の山は見つからなかった。女は、後で上司に聞けば判るだろうと考えて、上司の出社を待つことにした。

 程無く、上司が出社してきた。それに気づいた女は、直ぐに席を立ち、上司のもとへと向かった。少し遠いところから「おはようございます。今回もすみませんでした」と声をかけた。女が、上司の目の前まで来たところで「ああ、おはよう」と上司は挨拶を返した。

「大分、元気になった感じだね」と、上司は女が次の句を継ぐ前にそう言った。

「はい。おかげさまで、もう大丈夫です」と、女は明るく答えた。

「それを聞いて、安心したよ。また今日から頼むね」と言って、女の肩を軽く叩いた。

 女は「勿論です。任せてください」と元気よく返事をし、続けて「ところで、私のデスクに置いてあった書類は、何処に行きましたか」と、上司に尋ねた。

 上司は「ああ、あれなら僕が片付けたよ」と軽く言う。

 女は「片付けたって、何処かへ仕舞っちゃったんですか?」と聞く。

 上司は「いやいや、片付けたっていうのは、ちゃんとチェックを終わらせたってこと」

「あんなに沢山あったのにですか?」と女。

「そうだよ。この二日は、ほぼ徹夜だよ。今日は、応接室のソファーからの出勤」と上司。

「えっ、じゃあ、出張はどうされたんですか」と女。

「勿論、それも、片付けた」と上司。

「えー、それじゃあ、私、凄い迷惑かけちゃったんですね。本当にすみません」と言って、女は勢いよく頭を下げた。

 頭を下げたままの女に対し、上司は「いや、全然気にしないで。会社ってそういうものだから。結局、仕事は結果が同じなら、誰がやってもいいんだよ」と言った。

 そして、頭を上げない女に対し「もういいよ。頭を上げて」と優しく声を掛けた。

 女は「本当にすみません」と、再び謝罪の言葉を口にしてから、頭を上げた。

 上司は「また後で、新しい書類を持ってこさせるから、宜しくね」と言った。

 女は「分かりました。また、宜しくお願いします」と言って「あっ、これ、青森のお土産です」と続けて、手に持っていた、土産の品を上司に手渡した。

「ありがとう。気を使って貰って」と上司は礼を言った。

 女は「じゃあ、デスクに戻りますね。書類届いたら、声を掛けてください。直ぐに取りに伺います」と言って、頭を軽く下げて、その場を去った。

 この時上司は、女が以前の状態に戻っていることに安心していた。

 そして「よくぞ、元カレの死を乗り越えた。偉いぞ」と、自分のデスクに戻って行く女の背中に小声で言った。

 この上司は、未だに女の後輩を男だと勘違いしたままであった。女が、それを否定した訳ではないので、仕方がないといえばそうなのだが。


 自分のデスクに戻った女は、先程、上司が発した言葉について考えていた。

 上司は「結果が同じなら、誰がやっても一緒」というようなことを言っていた。自分が今迄、心血を注いで遮二無二頑張って働いてこれたのは、自分が認められていると、信じていたからだ。上司の言葉は、その女の心の拠り所を完全に崩壊させた。女は、次の書類が到着するまでの間、完全なる放心状態に陥り、ピクリとも動かなかった。

 女が、その放心状態から、現実に引き戻されたのは「おい、大丈夫か」という、上司の声によってだった。

 その声に気付いた女は「あっ、書類届いたんですね」と、慌てて言った。

 上司が「そうだけど。なんか今、かなりボーっとしてたぞ」と、心配そうに言うと、女は「いえ、ちょっとだけ、昨日の疲れが出たみたいで」と、誤魔化した。

「そうか、あんまり無理するなよ。調子の悪いときはいつでも休んでいいんだぞ」と、女の欠勤に慣れてしまった上司は、あと一日位ならいいかと思って、そう言った。

 上司のこの言葉が、一層、女のやる気を削いで行く。

 女は「ありがとうございます。でも、大丈夫です」と、取り敢えずの言葉を返した。

「じゃあ、書類を取りに来て」と、上司が促すと「はい。分かりました」と女は言って、席を立った。


 女が、再びデスクの上に山積みとなった書類のチェックをしていると「もう、帰っていいぞ」と言う上司の声が女の背中の直ぐ後ろで聞こえた。

 時計は午後五時を少し回ったところだった。女が「まだ、出来ますよ」と振り向いて答えると「徐々に慣らしていけばいいじゃないか」と上司が言う。

「でも、随分ご迷惑を掛けちゃいましたから。もう少しはやらないと」と女が言うと「いいから、今日はもうお帰り」と言って、上司は女の肩を軽く叩いた。

 女は、ここで意地を張っても、上司の気分を害するだけだと判断して「では、今日は、これで失礼します」とだけ言って、作業中の書類を閉じて、帰宅の身支度を始めた。


 女は、帰りの電車の中で考えた。いったい、自分は会社にとって、どういう存在なのか。また、自分にとって会社とは、どういう存在なのか。そもそも、本当の自分は、何をしたいのか、どう生きていきたいのか。今の生活に、自分は満足していいのか、それとも、変化を求めるべきなのか。このようなことについて、自問自答を繰り返した。

 自宅に帰り着いてからも女の思考は、止まらない。シャワーの間も、夕食の間も、ベッドに入ってからも、ずっと考えていた。漸く、女の意識が、睡眠によって途絶え、女の思考は止まったかに思えたが、その後も女は夢の中で考え続けた。正確に言えば、女は、考え思い悩んでいる自分を夢で見た、ということだ。


 女が夢で見た自分自身は、会社の屋上にいた。それを女は、遠巻きに見ている。どうも、その自分は、凄く思い悩んでいるようで、俯いて動かなかった。すると、突然、夢の中の自分がフェンスに向かって歩き出す。そして、フェンスを乗り越えた。次の瞬間、夢の中の自分が空に向かってダイブする。

 女は、ここまでは、遠くから見ていたのである。しかし、夢の中の自分がダイブした瞬間、女の視界は都会の上空のものに変わっていた。夢の中の自分と、遠くから見ていた筈の女が入れ替わっているのである。女の目には、アスファルトの道路が物凄い勢いで近づいてくるのが見えていた。女は、その路面に叩きつけられる直前に、目を覚ました。夢の中では「わー!」と、大声で叫んでいたが、現実には声が出ていたのかどうかは、判らなかった。

 この悪夢によって目覚めた女は、上体を起こし周囲の景色に目をやった。そして、自室のベッドにいることを確認すると、大きく深呼吸をして、再び頭を枕へと埋めた。当然、心中は穏やかではない。頭の中で、何でこんなことになってしまったんだろうか、と、夢の中の自分が会社の屋上から飛び降りた理由を探してみた。しかし、少しずつ脳が覚醒してくると、考えたところで解るはずがないことに気付き、再び目を閉じた。その後の女は、恐らく朝まで夢を見なかった。



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