第七話 後輩との別れ
そして、三日目の朝が来た。女と後輩は、この朝も、朝食の準備のために台所へ行く。女は、初日の夜こそ特上寿司による持て成しを受け、食事の準備には携わらなかったが、それ以降の三度の飯の準備では、必ず後輩の手伝いをした。まあ、初回の手伝いについては、そう言えるのか疑問ではあるが。その手伝いも二回目からは、少しずつ、与えられる作業も増えてきて、女は、自分の成長を確信できるようになっていた。この朝も、幾つかの作業を任され、それらを卒なく熟した。そして、一つでも多くの料理が一遍に運べるように、盆の上に上手に組み合わせて食器を置き、座卓の部屋へと持って行った。
やはり、父親は、胡坐で新聞だった。
「おはようございます。お待たせしました」と女が挨拶する。
「おう、おはよう。ご苦労さん」と、父親は、挨拶と労いの言葉を女に返した。
女に少し遅れて、お茶を持って部屋へと入ってきた後輩は「お父さん、おはよう。今日もいい天気だね」と、明るく笑顔で言った。
昨日の朝以来、後輩と父親との関係は、頗るいい。女も、この二人を間近で見ていて、羨ましいと思う位であった。女は、自分の父親に対して、こんなに優しい笑顔で言葉を掛けたことがあっただろうか。父親のことを理解しようと思ったことがあっただろうか。自問した。やはり、この後輩は人生の師匠である。自分も、次に父に会った時には、このように振舞える娘になろうと、心に決めた。
三人が席に着き、揃ったところで、父親の「それじゃあ、食うか」の号令で、食事が始まった。
女が「これが、ここでの最後の食事です。なんか、あっという間でした」と、父親に向かって言うと、父親は「そうか」と、少し寂しそうに頷いて「いつ頃帰るんだ?」と続けた。
女は「この片づけをして、お父さん自慢のお風呂に入ったら、帰ります」と、笑顔で答える。
「そうか。で、何回、風呂に入った?」と父親が聞く。
女は「残念ながら、五回しか入れませんでした」と、笑顔のまま答えた。
後輩は「十分じゃないですか。あんまり入ってもふやけちゃいますよ」と、やはり笑顔で言う。
女は「そうね。丁度良かったかも」と、笑顔を崩さずそう言った。
そして続けて「本当に今回は、急に押しかけてきてしまってすみませんでした。ご迷惑をお掛けしました」と言うと、父親が「何言ってんだ、迷惑な筈ないだろ。もういつでも来ていいんだぞ。何なら合鍵でも渡しておこうか」と、冗談だか本気だか判らない感じで、言葉を返す。
後輩が「合鍵って、家は大概、鍵なんて掛けてないじゃない」と言って、笑った。
父親は「まっ、そうだな」と言って、一緒に笑った。
女が「こんな私に、本当に優しく接していただいて、心から感謝しています。また、絶対来ますね」と、明るく言うと、父親は「よし。約束だ。また必ず来いよ。待ってるぞ」と言って、あのガッツポーズを女に向けた。
女が「ひゃあ、怖いー」とお道化ると、後輩が「お父さん、そんなことしたら、来てくれなくなるよ」と、タイミング良く突っ込んだ。
三人は、食卓に置かれた料理の数々を食べ尽くすまで、笑顔のままで喋り続けた。良く喋るので、食事が中々進まない。小一時間は費やしただろうか。
父親が、食卓の中央に置かれた大皿の上の最後のひとつを口に入れると「ごちそうさま。今朝も美味かった」と、言って合掌する。
女と後輩も、それに続いた。
父親は「じゃあ、帰る前に、女房の位牌を拝んでやってくれな」と言って、女に向かって頭を下げた。
女は「勿論です」と即答した。
すると父親は「よし。じゃあ、俺は少し仕事でもするか」と言った後「本当にここは、自分の家だと思っていいんだからな」と女に言って、席を立った。
女は「本当にお世話になりました。この三日間、楽しくてしょうがありませんでした。絶対また来ます。本当にありがとうございました」と笑顔で礼を述べ、頭を下げた。
父親は「おう」とだけ言うと、座卓の部屋を出て行った。
女と後輩は、見事に平らげられ、空になった食器の幾つかを重ねたりしながら、盆の上に並べると、それを持ち、台所へと移動した。そして、今日も二人並んでそれらの食器を洗い始めた。
「本当にありがとうね」女は、陶器の食器を手から滑らせないように気を付けながら、そう後輩に礼を言った。
「いいえ、どういたしまして。私も、先輩のおかげで、父ともなんか打ち解けたような気がしますし、何より、楽しかったです」と後輩も手元に注意を払いながら、そう返した。
「そういうのって嬉しいな。誰かの役に立てるのっていいね」と言って、女は手を止め、後輩のほうを向き、にっこり笑った。
すると後輩は「私も、先輩のように、人の為になる人になりたいな」と、しんみりとなって、そう言った。
「何言ってんのよ。あなたは十分に私の為になってるよ。これは、今まで内緒にしていたけど、私はあなたのことを、師匠って思ってんだ」と女が言う。
「そんなこと言うのやめてください。可笑しいです。馬鹿でおっちょこちょいの私を捕まえて、変なこと言わないでください」と、後輩は真面目な顔で、女の言葉を否定する。
「今回久しぶりに会って、思ったんだけど、もう、馬鹿でおっちょこちょいは卒業した感じ。なんか変な言い方だけど、立派になったなあって思う」と女。
「そんなことないですって」と後輩。
「素直になりなさい」と、女が強い口調で、軽く叱るように言うと「はい」と、後輩は歯切れよく返事をした。
この後、二人は洗い物の手を止め、お互いを見つめ合い、笑った。
すると、後輩が口を開く。
「この間、先輩から久しぶりの電話を貰って、話し終わった後、思ったんです。もしかして、母が、先輩の枕元に立ったのかなって」
後輩は、女がこの言葉に返事をする前に、更に続けた。
「まあ、これは冗談ですけど、母が何らかの方法で、先輩を引き寄せたんじゃないかって、思ったんです」
すると女が「へー」と、不思議そうな顔でそう言った。
その反応を見た後輩は「まあ、信じるかどうかは先輩に任せますけど、一昨日、先輩がここに来た時、はっきりと判ったんです。絶対、これは裏で母が糸を引いてると」と、ちょっと笑って言った。
「うー、ちょっと怖い。けど、なんだか嬉しい。なんか複雑ー」と女が言う。
後輩は「母も、先輩のこと大好きでしたし、めっちゃ信用してましたし、そうそう、そう言えば、母が私を東京に一人置いて、こちらの実家に戻るときも『何かあったら、先輩に必ず相談するのよ。あの人だったら、絶対に良くしてくれるから。』とか『あなたに、あの先輩がついていてくれるから、私は帰れるの。あなたも少しは見習いなさい。』とか、最後の最後の別れ際まで、先輩のことばかり言ってました」と、在りし日の母を懐かしむように、そう言った。
「もう、また、私を泣かす気」と、女は良いことばかりを言われて、ちょっと恥ずかしくなったので、その照れ隠しに、そう言った。
「いえ、そういうつもりはないんですけど、本当のことなので」と、微妙に申し訳なさそうに後輩が答えた。
女は、洗っていた食器の最後の一枚を食器乾燥機の中へとセットすると「じゃあ、お母さんのご位牌に、挨拶させて」と、後輩に頼む。
「はい。よろしくお願いします」と後輩が頭を下げた。
女は、勝手知ったる家の中を、自分が先頭に立って歩いて行き、程無く、仏間へと入って行った。これに、後輩も続く。女は、最初の時と同じ手順で、香炉に線香を立てるところまでを終わらせると、この日も般若心経を、母親の位牌の前で空で唱えた。それを後輩は、やはり、女の左後ろできちんと正座をし、聞いていた。
経を読み終えた女は振り返り「あなたも、お経女子にならない?」と、後輩に向けて笑顔で言う。
後輩が「お経女子ってなんですか?」と尋ねると、女は「お経を読む、女子のことよ。そのまま」と答える。
「それは、東京で流行ってるんですか?」と続けて後輩が尋ねると「いえ、私が元祖」と言って、女は笑った。
「じゃ、考えときます」と言って、後輩も笑った。
この応対を聞いて、こいつはその気がないな、と、女は思った。
「さてと」と、女は掛け声をかけて、立ち上がる。後輩も、女に続いて立ち上がった。
そして後輩は「色々とありがとうございました。私達、家族全員喜んでいます。間違いなく母もです」と言い、続けて「私の中では、こうして先輩に会えたのも母のおかげだと思っています。勿論、天国にいるだろう母には、この後、お礼を言うつもりです」そして「でも、もしも、先輩の枕元に母が現れたら、私が礼を言ってたと、伝えてもらえますか」と言って、最後はお化けのような手真似をして、女をからかった。
女は「うん。任せといて」と言ったが、女は霊魂とかの類のものが本当に怖かったので、もしも、母親が現れたら、自分は後輩の礼を伝える前に気絶するな、と思った。
取り敢えず話題を変えたい女は「じゃ、最後にお風呂に入らなきゃ」と、明るく言って、後輩の顔を覗き込む。
後輩は「はいはい、分かってますよ」と呆れた感じで言う。
女は「流石だね。もう以心伝心」そして「次は、テレパシーで話そうか」と、ご機嫌な感じで言った。
暫くして、旅館のような大浴場での湯浴みを満喫した二人は後輩の自室に戻ってきた。
女は「ああ、天国。気持ちよかったなあ」と言って、如何にも幸せそうな顔をしている。
後輩は「もう一泊しちゃいますか?」と、女を誘惑した。
女は「そうしたいのは山々だけど、やっぱり、仕事も気になるのよね。まあ、また絶対来るから。今日は取り敢えず帰る」と、帰宅の決意表明をした。
後輩は「東京にも、先輩を待っている人がいるんですもんね。しょうがないですね」と言って、誘惑が失敗に終わり、残念がった。
そして続けて「そう言えば、先輩が私を殺す原因となった蓮華って、どんなんですか。やっぱり、相当奇麗なんですよね」と、女に聞く。
女は「言っとくけど、凄いよ。私は一目で、心を持っていかれちゃったから」と、あの愛しい蓮華のことを思い出し、ちょっと興奮して言った。「でもね、何でこんなにもあの蓮華ちゃんたちに心を惹かれるのか解らないの」と付け加えた。
すると「興味あるー」と後輩。
「見るー」と女。
「えっ、見れるんですか?」と後輩。
「スマホに写真、いっぱいあるよ」と言って、女は、いつものバッグからスマートフォンを取り出した。
女は、フォトアルバムのアプリを開くと「はい。ここから延々」と言って、後輩にそのスマートフォンを手渡した。
後輩は「嬉しいー」と言って、女の手からスマートフォンを受け取った。
そして、その画面をスクロールさせながら、暫くの間、女の撮った写真を見続けた。
「何だか、尋常じゃない枚数ですね」と、後輩が言う。
女は「なんか、気が付いたら、そんなことになってたの」と答える。
「蓮華も凄く奇麗で可愛いですけど、先輩の写真も上手に撮れてますね」と後輩。
「そうでしょ。私もそう思う」と女。
流石に最後の写真までを見ていたら日が暮れると思った後輩は「この蓮華ちゃんの為だったら、殺されても許します」と言って、笑いながら女にスマートフォンを返した。
「ありがとう。流石、理解があるなあ。もう、大好き!」と言って、女は後輩に抱きついた。
「うんもう、よしてくださいよ。こんなところを、また、父にでも見られたら、面倒ですよ」と言って、後輩は女の身体を押し返して笑った。
「絶対、また来るね」と、女は開放された愛車の窓から後輩に向かって、そう言う。
後輩も「絶対ですよ」と、女に言った。
「そうだ、お父さんにも宜しく言っといてね」と女が言うと「はい。伝えておきます」と後輩。
「なんか、アクセル踏めない!」と女が言うと「早く帰らないと、明日が大変ですよ」と、後輩は、名残惜しそうに中々帰宅の決断が出来ずにいる女に向かってそう言った。
「うん。そうだよね」と、女は、しょんぼりした感じで頷くと「じゃあ、行く」と言って、アクセルを踏んだ。
この後の二人は... やはり泣いた。
女は、高速道路に乗ったのち、最初のサービスエリアで、青森の土産を買った。女は、商品の裏に書かれた、製造者の住所をチェックする。そこに、青森県と書いていないものは、全て土産候補のリストから外した。そして残った幾つかの内から、一番値が張るものを選んで買った。値が張るといっても、サービスエリアの土産である。たかが知れていた。この土産は、自分の詫びの気持ちである訳で、その気持ちは安いものではない。女は、相応の品を選べたと、満足だった。この辺のバランス感覚は、社内で一目置かれる女の、流石なところだった。
サービスエリアを出発した女は、やはり、鼻歌に、上半身ダンスに、シャウトだ。
後輩の自宅で、十分な睡眠と栄養を取った女は、いつにも増して元気満タンだった。この状態をキープして、ノンストップで東京へと到着した。
それにしても、恐るべき体力だ。
高速道路を下りて、自宅へは一般道を走る。幹線道路から、細い路地へと曲がった直ぐのところに、女の自宅があった。女は、車を駐車場に入れ、助手席に置いたスマートフォンと、サイドポケットの財布をバッグにしまうと、後部座席から想い出のキャリーバッグを下ろし、愛車に「ご苦労さま」と労いの言葉を掛け、リモコンキーでドアロックを掛けた。そして「流石に、ちょっと疲れたかな」と、得意の独り言を駐車場に残し、自室へと歩いて行った。
玄関の鍵を開け、室内に入った女は「何だか、凄く懐かしい感じがする」と、心の中で呟いた。この時の女には、つい二日前まで、この場所にいたとは思えなかった。女は、そんな不思議な感覚を持ちつつも、取り敢えずシャワーを浴びて、旅の垢を落とすことにした。脱衣場に入った女は「やっぱり、全然違うな」と、後輩の自宅の大浴場を思い出して呟いた。その途端、女は再び、後輩の家へ舞い戻りたくなった。しかし、女は「贅沢は言わない」と、直ぐに自分自身を諫めるように呟くと、着ていた服を脱ぎ始めた。
シャワーを終えて、髪を乾かした女は、青森のサービスエリアで土産と共に調達した弁当をテーブルの上に置き、冷蔵庫から取り出した、キンキンに冷えた缶ビールのプルタブをゆっくりと起こした。すると室内に、乾いた良い音が響く。
「うーん、いい音」女は、恍惚の表情をする。女は、この音だけで、幸せな気持ちになれた。この時の女は、直ぐにでもそのビールに口を付けたかったが、暫し、そのままの姿勢で待った。口にするのは、十分に自分を焦らしてからにすることにした。そのほうが、ビールが美味くなると考えたのだ。
女は「うー、飲みたい。うー、もうダメ。あー、どうしよう」と言いながら、只管我慢をし続けた。
しかし、程無く「もー、限界」と言った途端、手に持った缶ビールを一気に喉を鳴らして飲み干した。
この女が、会社の激務に耐えられるのは、こういったちょっとしたマゾッ気があるからなのかもしれない。
そして、一般の方々は、恐らく経験したことがないであろう、妙な我慢の儀式を愉しんだ女は、冷蔵庫から二本目の缶ビールを取り出したのち、漸く弁当に箸をつけた。女が口にしたのは、昨日までとは打って変わった貧相な夕食ではあったが、それを忘れるためか、女は四本の缶ビールを空にすることで、それなりに満足することが出来た。
「ああ、美味しかった」と、女は食後の習慣として、いつものように、この言葉を口にした。そして、満腹になったその腹を、両手でポンポンと軽く叩いた。これで咥え楊枝でもしていれば、立派なオヤジである。女は、テーブルの上に置かれた四本の空き缶と、弁当の空き箱を片付けると、テーブルの端に置かれたスマートフォンを手に取った。そして続けて画面のロックを解除し、フォトアルバムのアプリを開いた。
女は、蓮華の写真を見たかった。女は、スマートフォンのメモリーに蓄えられた膨大な量の写真の全てを、まだ見切れていない。これらの写真を撮影したその日の夜は、途中まで見たところで、睡魔に襲われ気を失った。そして、それ以来の色々な出来事のせいで、このチェックは、今日までそのままになっていた。
「やっぱり、可愛いなあ」などと、独り呟きながら、女は一つ一つの写真を、母が幼な子を見守るような優しい目をして眺め続けた。
それなりの時間を費やし、漸くその全てを見終えた女は、この蓮華が、何故、こんなにも自分の心を惹きつけるのか、その理由を考えてみた。清純さを感じさせる白色に淡い紫をあしらったその色彩の妙か、それとも、天に向かって凛と咲く、その立ち姿か、しかし、これらの写真の中に結局解答を見出すことはできなかった。この時、女は、やはり直接逢いに行って確かめなくてはいけないと、心に決めた。
女は、スマートフォンをテーブルの端に置くと、這ってベッドまで移動し、一度も立ち上がることなく、その内部へと潜り込んだ。少し酔いが回ってきていたのか、それとも、長時間の運転で疲れていたのか判らぬが、女は、その直後に気を失った。女は、歯も磨いていない。




