第五話 女の決意
翌日、女はいつものように朝を迎え、いつものように出勤した。そして、いつものように、自分のデスクへと就いて、上司の出社を待ち受けた。程無く上司が出社すると、女は、いつものように上司のもとへと歩いて行き「おはようございます」と挨拶をする。ここまでは、全て、いつものように、だ。しかし、この後、女は、思いもかけないことを言った。
「すみません。皆さんが頑張っているところ、本当に申し訳ないのですが、明日、明後日と二日間お休みを頂けないでしょうか」
この日は金曜日であったので、本来ならばこんな申し出は必要のないところであった。しかし、女にはこの週末に出張の予定が入っていたので、休暇を取るには、上司に断りを入れなくては仕方なかった。
上司は、この女の言葉を聞いて、やはり、まだ後輩の件から立ち直れてないんだな、と考えた。そして「うん。いいけど、その間どうするの?」と、女の出張予定を把握している上司は尋ねる。
女は「青森に行って、お線香を上げてきます。今度は少しゆっくりしてこようと思いまして」と答えた。
上司は、この言葉を聞き、女がこの後輩に対して抱いている感情は相当なものなんだと解釈して、もしかしてその後輩は男か?と邪推した。
しかし、そのようなことは口には出さず「解った。しっかり心を整理しておいで。また君が元気になれるように、僕も祈ってるから」と、優しく女に声を掛けた。
ここで、やはり、女は涙ぐんでしまう。ここのところの色々で、どうも涙腺の閉まりが悪いらしい。
それを見た上司は「あっ、そうだ。もう今日から休んでいいよ。元気になってから出社しておいで」と、再び社内の者から冷ややかな視線を浴びせられるのを恐れて、慌てて言った。
そして、女の両肩を掴んで、強引に百八十度回転させて「ほら、お帰り」と背中を押した。まるで、厄介払いである。
しかし女は、振り返って「でも、私、出張の予定が入ってるんです」と、涙ぐんだまま、申し訳なさそうに言う。
上司は「もうそんなの任せとけ。僕が全部引き受けるから」と言って、今時珍しい、胸を叩くポーズをとった。そして「いつも君には苦労を掛けてるから、こういう時じゃないと恩返しできないからね。僕の言う無理にも、嫌な顔一つしないで頑張ってくれてるじゃないか。何時だって感謝してるんだよ」と、続けた。
女は、この上司の優しい言葉に「ありがとうございます。本当にありがとうございます」と、頭を下げて、心からの礼を述べ「それでは、今日から三日間お休みさせていただきます。よろしくお願いします」と言って、デスクへと戻って行った。
そして女は、デスクの上の山積している書類を横目に、引き出しの中からバッグを取り出し、そこへスマートフォンを押し込むと、自宅へと帰って行った。
自宅に帰り着いた女は、早速、荷物の整理を始める。二泊分の衣服、洗面道具、化粧道具、そしてやはり、虫除けスプレーだ。これらを一緒にキャリーバッグへ詰める。どうも女は、余程、虫が嫌いらしい。しかし、今回は一本だけにした。そしてバッグの口を閉じると「よしっ、行こう」と掛け声をかけ、立ち上がった。
女は玄関を出て、駐車場へと降りて、愛車の後部ドアを開けると、そこへキャリーバッグを放り込む。そして自分は運転席へと乗り込んだ。そして、一度、目を閉じると「無事に行き着けますように」と、小声で天にお願いし、エンジンを掛けた。そこからの女は、やはり、鼻歌に、上半身のみのダンスに、遂にはシャウトだった。
女は先ず、今回の休暇を貰うために、自分が思い切った行動をとれたことに満足している。そして、今回は嘘をついていない。青森に線香を上げに行く、と言ったが、死んだことになってる後輩に上げるとは一言も口にしていない。勿論、先日の事情を知ってる者が聞けば誤解をするだろうが... 女は、その辺は気にせずに、この休暇を大切にしようと思った。昔、大変お世話になった、後輩の母親の供養、そして、暫く疎遠になっていた後輩との再会。これらに充てる時間は、どちらも、今の自分にとって、掛け替えのないものになるだろう、と考えた。特に、後輩との再会への期待は、女を自然とハイにしていた。
勿論、女には迷いもあった。先日ついた嘘に対する謝罪をどうするかである。後輩に電話を掛ける前に、謝罪はしないと一旦決めはしたが、やはり、謝罪してしまったほうが、気が楽になるのではないかとも考えた。女は複雑な気持ちを引き摺りながら、車を北へと走らせた。
暫くの時が経ち、女は高速道路上で、眠くなってしまった。恐らく、年甲斐もなく、燥ぎ過ぎたのだろう。女はこの時、新幹線で行ってたら、楽だったろうな、と一瞬考えた。その気になれば、ずっと寝てられるのだ。しかし、新幹線であれば、その後の駅からのあの辛いウォーキングが待っている。今日は、荷物も持っている。一度経験しているとはいえ、まず都会育ちの軟な自分に踏破は無理だろう。途中で転倒したりするのも、もう二度と御免だし、下手をすれば遭難して、野生の動物に食われてしまうかもしれない。そんなんで、ニュースになるのは絶対嫌だ、と、そこまで考えて「やっぱり車が正解ね」と独り言を呟いた。そして、仮眠のためにサービスエリアに立ち寄った。
やはり、この地方のサービスエリアには、車が少ない。首都圏などとは比べ物にならなかった。駐車のために、列を作って待つなどということは先ずなさそうだった。女は、その殆ど車の停まっていない、だだっ広い駐車スペースの真ん中に車を止めると「なんか、気持ちいい」と、例の独り言を言うと、シートの背もたれを倒す。運転中は、かなり眠かったのだが、いざ、寝てもいいといった状態になると、中々直ぐには寝付けなかった。女は、目を瞑り、今回の騒動を始めから思い返してみた。
先ずは、上司と飲んで終電帰りになった夜、東京多摩地区の蓮華のことを思い出し、そこへ行きたくなったこと。そして、そのために、後輩が死んだと嘘をついて、欠勤したこと。その蓮花に逢えて、我を忘れて夢中になったこと。しかし、嘘のおかげで、自分自身が嫌になってしまったこと。そして、後輩のことが気になって電話を掛けたら、その母親が亡くなってしまっていたこと。これらのことを順番に思い出した。
女は、恐らくこの辺で意識を失った。気が付くと... 周囲の状況は何も変わっていなかった。余りにも何の変化もないので、女は、一、二分しか時が経っていないのかと思った程だ。女は時計を見た。シートを倒し、目を閉じてから三十分ほど経過していた。
「ちょうどいい頃かな」と、女は呟くと、シートを起こし、運転席のドアを開け、車外へと降り立った。女は、サービスエリアの店内に入って、眠気防止のガムと後輩への土産を買い、トイレへと行き、そして再び車に乗り込んだ。
そして「よし、もうひと頑張り」と、自らを鼓舞するように声を上げると、エンジンを掛けた。
勿論、ここからは、鼻歌と、上半身ダンスと、シャウトである。
また暫くの時が経ち、女の車が進む高速道路上の標識に、目的のインターチェンジの文字が確認できた頃、女は「やっと着いたあ」と、ほっとした表情で呟いた。女は、料金所への出口車線へと侵入し、曲がりくねった道を進み、料金所の一般ブースで支払いを済ませ、その先の小広いスペースに停車した。
ここで女は、例のごとく助手席に無造作に置かれたスマートフォンを手に取ると、電話のアプリを開き、発信履歴をタップした。勿論、そこの一番上には、後輩の氏名が表示されていた。女は、それをタップする。そして、左耳へとスマートフォンを持っていき、スピーカーに耳をあてる。やはり、暫くの無音のあと、呼び出し音が鳴る。今日はワンコールで、直ぐに、あの元気な声が響いてきた。
「先輩ですね。また、電話貰えて嬉しいです。あの後、めっちゃ嬉しかったので、あんまり最近会話とかしてなかったんですけど、父に先輩からの電話のこと話したら、父は『何で代わらなかった。』って、ちょっと怒り顔で意味不明なことを言ってました」
後輩は、凄い勢いで、微妙に意味の分かりづらいことを、楽しそうに興奮気味で話す。
女は、後輩に言いたいことを全て話させたら、陽が暮れると思い、後輩が息継ぎをしたタイミングで、自分の話を捻じ入れた。
「昨日はどうもね。実は、今、近くまで来ているんだけど、これから行っていい?」と女。
「えっ、近くに来てるんですか!」後輩の声が一際大きくなった。きっと、相当に驚いているのだろう。
「そう。近くにいるの。今日は車だよ」と女は言った。
後輩は「勿論、大歓迎です。来てください。いえ、いらしてください。えーん」と、返した。
女は「また『えーん』なんて、本当は泣いてなんてない癖に」と言うと、後輩は「いえ、なんか本当に涙が出てきちゃいました」と返答した。
女が「女の癖にめそめそしない」と、後輩にとって想い出の言葉を発すると、後輩は「はい。我慢します」と、泣き声のまま言った。
女は「じゃ、これから行くよ。カーナビだと、あと三十分ってなってる」と言うと、後輩は「本当に嬉しいです。気を付けて来てくださいね」と言った。
女の車が、あの立派な土塀の前へ辿り着くのに、ニ十分程だった。女は、その土塀沿いの道を進み、一際大きな門の前まで車を進めると、そこで車を停めた。すると直ぐに、後輩が走ってやってくる。相変わらず元気一杯な走りだ。
車から降りた女のもとへと走りついた後輩は「わー!本当に来てくれたんですね」と息を切らしてそう言った。
勿論、息を切らしているのは、後輩が歳をとったからではない。家の玄関から、この門までの距離がそこそこあるからである。
女は「だって、さっき電話で、近くにいるって言ったじゃない」と言ったのち「嘘はつかないよ」と続けた。
女にとって、このフレーズは少し心に引っ掛かったが、自分の決意を自分自身で確認する為にも、敢えてそう付け加えた。
後輩は「ありがとうございます!」と言って、女の手を取り、上下に激しく揺さぶる。女は、後輩が再開の握手をしているつもりだと解っていたので、そのまま手を預けた。流石に少しは痛んだが。
「何だか、昨日電話で話したばかりなのに、こうして実際に会うと、妙に懐かしい感じがするね」と女が言うと「私もです」と、後輩が嬉しそうに言って返す。
「元気にしてた?」と女は言った後「って、昨日話したばかりなのに、可笑しいか」と付け加えた。
「だとしたら、私から言わせてもらいますね。先輩の元気は戻りましたか。昨日は泣いてましたよね」と、後輩が笑顔で言った。
「そうね。もうすっかり... あなたのおかげよ。本当に良い後輩を持って幸せ」と、女はお茶らけて言い返した。
この言葉を聞いて後輩は、また涙ぐんだ。そして「私は、先輩に泣かされてばかりです。また、母に叱られます」そして続けて「いえ、失礼しました。私も、本当に良い先輩を持って、最高に幸せです」と、言い直した。
女は「車は何処に置けばいい?」と、未だ感激の涙から解放されていない後輩に尋ねた。
後輩は「えっと、ここから中に入って、もう何処でも好きなところにとめてください」と答えた。
今、二人がいる一際大きな門は瓦葺の屋根を冠しているが、その間口は十分に車が通れるものであった。
「うん。分かった」と、女は言うと、愛車のドアを開け、乗り込んだ。
そして、一際大きな門を潜り抜け、右手に見えた手押し井戸の前にある小拾いスペースへと車を停めた。後輩は、女の車を走って追いかけ、既に運転席の窓の外で待っている。
女は窓を下ろして「ここでいい?」と、後輩に聞いた。
後輩は「ばっちりです」と答えた。
女は、その答えを聞いて、窓を上げ、エンジンを切り、運転席のドアを開け、車外へと降り立つ。
そして「懐かしいね。この井戸」と、過去の失敗を思い出しながら、しみじみとそう言った。
後輩は「あの時は、散々でしたよね」と、漸く涙から解放されたようで、笑顔で答えた。
「今となっては、良い想い出だな。あの時は、それはもう凹みまくったけど、あれのおかげで、自分もちょっと成長したと思ったし」と、女は何だか納得顔で頷いた。
「じゃ、荷物出すね」と続けて女は言うと、愛車の後部座席からキャリーバッグを取り出した。
「うわー。懐かしい」と後輩が言う。
女は「そう。あの時から変えてないの。ここでの経験が私を成長させたって言ったでしょ。あれからずっと、そのことを忘れちゃいけないって思って、いつも目の着くところに置いてあるんだ。このキャリーバッグを見る度に思い出すの。悪路を歩くときにはヒールを履いちゃいけない、荷物は、前以て宅配便で送らなきゃいけない、ってね」と半分からは冗談を言って、後輩を笑わそうとしたのだが、後輩は「そうですよ。それは絶対大事です」と、真面目な顔で言って頷いた。
女は、後輩が自分の冗談を理解してくれなくて少し寂しかったが、後輩にとっては当然のことであり、常識的なことなのだから、後輩の応対は致し方ないことだと理解した。
女は、後部のドアを閉め、愛車のロックを済ませると「はい、お待たせ」と、後輩に声を掛ける。
後輩は「じゃ、どうぞ上がってください」と言って、左手を玄関の方へと差し伸ばし、女を促した。
後輩は、女が歩き出すと、その先を行き、玄関の引き戸を開けた。続けて「お父さん、先輩着いたよ!」と、やはり大変大きな声で、家の内部へ向けて叫んだ。
後輩の大声が鳴り止むと、家の中には音が無かった。
女は、後輩に促されるままその静かな土間を進み、縁側のようなスペースに腰かけ、履いてきた靴を脱いで玄関に向け揃えて置くと、開放されている大きな板戸の間を通り抜け、畳敷きの部屋へと入る。
「前回来たときは、ここで泥だらけのスカートを着替えたんだったよね。懐かしいなあ。なんか前と全然変わってないね」と、女が言う。
「なんか昨日のことのようですね。先輩も全然変わらないし」と後輩が答える。
女は、自分は成長したと思っているので、この後輩の言葉は少し癪に障るものであったが、容姿が変わらないという意味で取れば、逆にちょっと嬉しいな、と思った。
女は「じゃあ、私、まだ学生に見える?」と、確認のため後輩に尋ねる。
後輩は、一瞬躊躇って「えっ、ええ。勿論ですよ」と答えた。
女は「てめえ。今、即答しなかったな」と、汚い言葉で後輩を脅した。
「すっ、すみません。お許しをー」と後輩。
「いや、許さん!」と女は言って、大太刀で切り付ける真似をした。
勿論、後輩の躊躇いは、計算である。そして、女の言葉も、それを知っての冗談である。割と漫才のようなやり取りが好きな二人であった。
後輩は「ひえー」とお道化て言った後「じゃ、奥の部屋へどうぞ」と、素に戻ってそう言った。
女も「はい。お邪魔します」と、遅ればせながらの挨拶を、素に戻って言うと、歩き出した後輩の背中に続いた。
後輩が「こちらへどうぞ」と左手を差し伸ばした先は、立派な仏壇が印象的な、小広い仏間だった。
その仏壇の上段中央には、遠目から見てもはっきりと判る程の、大きく立派な仏様が鎮座している。その左右から、その下の幾つかの段まで、その淵を金色で彩られた黒い大き目のご位牌が並んでいた。
仏間の中へと案内された女は「うわあ、沢山ご位牌があるね」と驚いた風に言う。
後輩は「一応、家は本家なので、多いですね」と返した。そして、ご位牌の内の一つを指さし「これが、母です」と女に紹介した。
女は、そのご位牌を一瞬見つめると「じゃあ、お線香を上げさせてください」と、後輩に向け頭を下げて、仏壇の前に置いてあった座布団を横に外し、直接畳の上に正座をした。
そして、仏様、母親のご位牌の順に視線を合わせると、傍に置いてあるマッチを擦って、蝋燭へと持っていく。ゆっくりと蝋燭から炎が上がると、火の着いたマッチを下へ振り、消火した。
女は、線香を右手で摘み「何本?」と後輩に聞く。
後輩が「家は一本です」と答えると「ありがとう」と言って、一本の線香を蝋燭の炎の上へと翳す。
線香の先からゆらゆらと煙が上がると、一度、左手の近くに持っていき、その先端の炎を手で扇ぎ消し、女は香炉立てにゆっくりとその線香を刺し入れた。
そして女は、もう一度最上段の仏様を仰ぎ見ると、軽く頭を下げる。
続いて合掌すると「ぶっせつまかはんにゃはらみたしんぎょー。かんじーざいぼーさーぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじーしょうけんごーうんかいくー...」と、般若心経を唱え始めた。
女は、敬虔な仏教徒... という訳ではない。
女が祖父を亡くした時、その葬儀で経を上げてくれた住職さんが、その後のお斎の席で般若心経の書かれた冊子をプレゼントしてくれた。女は、家に帰ってから、その冊子を端から端まで、目を皿のようにして読んだ。その時の女は、初めての身内の葬儀で大層ショックを受けていた。女は祖父のために何かしてあげたかったが、何もできそうなことが見当たらなかった。そこで、このお経を覚えて、毎日唱えてあげようと思ったのだ。それが祖父の供養になればと考えて、相当骨が折れるだろうことは覚悟して、そうすることにした。
勿論、その冊子を見ながら読経したとても、何の問題もないのだが、女は、苦労して覚えることに意義があると考えた。自分がそうまでして、祖父の為にお経をあげるということが、供養なのだと、勝手に解釈したのである。当然のごとく、始めのうちはそう簡単には頭に入らなかった。何度も間違えて、また、途中まで唱えても続きが出てこず、冊子を見直してまた唱える、の連続であった。しかし、日が経つにつれ、女の記憶は確実なものになっていった。そんな或る日、始めから最後まで間違えることなく、唱えることができた。女は、とても嬉しかった。そして、頭の隅に「お経女子」なる言葉が湧いてきた。女はこの時「この言葉、流行しないかなあ。私が火付け役って、テレビかなんかで紹介されたら面白いのに」と、野心丸出しの独り言を言った。勿論、この夢は、未だ実現していない。
暫くすると「...はらそうぎゃーてーぼーじーそわかーはんにゃしんぎょー」と、女の経が終わる。女は、再び、その視線を仏様と母親のご位牌へと移し、その後、目を閉じ、合掌したまま頭を下げた。そして、そのままの姿勢で暫し固まっていた。恐らく、後輩の母親と話をしていたのだろう。いや、一方的に話しかけていたのだろう。そして「よしっ」と言って、立ち上がった。
女の少し左後ろで、きちんと正座をして、女の読経を聞いていた後輩は「ありがとうございます。母もきっと喜んでくれていると思います」と言って頭を下げ、畳に額を押し付けんばかりの姿勢で、暫く静止した。
女が「もう。頭を上げて」と、困った感じで後輩に言うと「はい」と言って顔を上げた。
その目には、やはり、涙が浮かんでいた。後輩は、不覚にもまた泣いてしまったものだから、涙を嫌う母の位牌の前でもあり、それを隠したかったのだ。
泣き顔を女に見られた後輩は「もう、嬉しいんだか、悲しいんだか解りません」と、女にいじられる前に、そう言って、手の甲で涙を拭った。
そして、女の意外な一面を見た後輩は「それにしても凄いですね。お経が空で読めるなんて」と、努めて平時の口ぶりに戻し、女を褒めた。
すると女は「いやいや、それ程でもお」と、開いた涙腺を必死で閉じようとしている後輩に気を使い、お茶らけて答えた。
後輩が「先輩、学生時代から覚えてたんですか」と尋ねると「いえ、おじいちゃんが亡くなってから覚えたの。あっ、そう、仕事を始めて二年目ぐらいかな」と答える。
後輩は「やっぱり、先輩は凄いし、素晴らしいし、美しいし、優しいし... あと、何があるかな... まあ、兎に角、私の誇りです。本当にこんな先輩に巡り合えて、私は幸せ者です」などと、女が昇天しそうなくらい、褒めちぎった。
女は、後輩のこの言葉を聞いて「おほほほほ」と高らかに笑いながら、左手の甲を腰に当て、右手のひらを口に当てる仕草をした。
と、その時「おう、着いたかあ」と、大きな声がした。
女が、その声のした方を見ると、そこには後輩の父親が立っていた。相変わらず、大柄で屈強な感じで真っ黒に日焼けしている。女は、父親の急な登場に驚き、先程の姿勢をキープしたまま、固まった。
父親も、娘の先輩が暫くぶりに、訪ねてきて、その先輩に挨拶をしようと顔を出してみたら、自分の娘は、畳に正座?土下座?をしていて、先輩は、腰に手を当て「おほほほほ」と高笑いをしている、この光景を、どのように理解してよいのか、解らずに固まった。
女は、この時の父親の表情が、何か不可思議なものを見て、戸惑っている時のそれだと気付き、慌ててこう言った。
「お父さん。これは、違うんです。誤解です。違いますよ。全然違いますよ」女の言葉は、何を言いたいんだか、はっきりしない。
父親は、これを聞いても、何が違うのか?と、何も理解できなかった。
この時後輩が「お父さん、これはお芝居よ」と、またこれも気を使ったのだかよく解らない、外したことを言う。
しかし、女は「そう。その通りです。これは、お芝居なんです」と、後輩の言葉に口裏を合わせる。
父親は「そうか。芝居か。それならば安心した。俺は、何か娘がやらかして、どうにかなってるんじゃないかと思っちゃったよ」と、ほっとした表情になってそう言った。そして続けて「で、なにか?何で芝居の練習なんかしてんだ」と尋ねる。
後輩は「先輩が今度、舞台に出るんですって。だから、その練習に付き合っていたの」と言って、女の方へ向き、ウインクをした。
これは、話を合わせろという合図だと了解した女は「そう、そうなんです」と言う。
父親は「よし。分かった。俺も協力してやろう。どうだ、始めからやってみ。観客として観てあげるから」と言う。
ここで後輩が「だめ。最初からなんて言ったら、日が暮れちゃう。私と先輩は、積もる話が山ほどあるんだから邪魔しないで」と、困り切ってる女に助け船を出した。
父親は「そうか。残念だな。じゃあ、時間があったら、本番見に行くからさ。その舞台はいつ頃なんだ?」と、女に尋ねる。
女は「えっと... ね、年末?」と、少し考えてから適当なことを言った。
「場所はどこだ?」と父親。
「東京の新宿です」と、女は自分のオフィスがある場所をその場所に選んだ。
父親は「よし。分かった。じゃあ、娘と一緒に観に行くから、連絡くれな」と言った。
後輩は「お父さん、年末なんて忙しくて無理じゃない?」と言う。
父親は「いや、お前の大切な先輩のためだ。何とかするさ」と、即答する。
女は「お気持ちはありがたいんですけど、無理はなさらないでくださいね」と言って、会話の流れに乗り続ける。
父親は「いや、大丈夫だから。連絡くれな。絶対だからな」と、少し強引な感じで言った。
女は、もうしょうがないといった感じで「分かりました。ありがとうございます。まだ、公演できるかはっきり決まっていないのですが、決定したら招待券を送りますね」と言った。
ここで後輩が「ほら、お父さん、もう行って。私が先輩と話をするんだから」と言って、父親を追い払おうとする。
父親は「もうちょっといいじゃないか。俺だって、久しぶりに会ったんだ」と愚図る。
女は「そうですよね。私も懐かしくってもうちょっとお話したいです。あっ、そうだ。まだ、挨拶もしていなかったですよね」「では、改めまして、お父さん、ご無沙汰してしまって申し訳ありません。あの時は本当にお世話になりました」と、軽く頭を下げてそう言った。
父親は「そんな畏まらなくていいよ。で、今回は、ゆっくりしていけるのか?」と女に尋ねる。
女は「取り敢えず、明後日までは会社に休みを頂いています。でも、まだ、どうするか考えていませんでした。突然、思い立って来ちゃったもので」と言った。
女は一応、二泊分の用意をしてきている。しかし、後輩には、まだそのことは言っていなかった。いや、言うタイミングが無かったというのが正しいところだ。
すると後輩が「えー、そうなんですね。私、てっきり直ぐ帰っちゃうのかと思ってました。明後日までお休みできるんだったら、今日は絶対泊って行ってください」と嬉しそうに言った。
父親も、その意見に賛成だ、といった感じで深く頷くと「今日といわず、明日も泊ってけ」と言った。
女は「ありがとうございます。でも、ご迷惑にはなりませんか」と、既に泊めて貰う気満々だったが、一応こう口にした。
後輩が「とんでもない。父も私も、先輩の大ファンですよ。嬉しすぎて、また涙が出そうなぐらいです。迷惑な筈なんてないじゃないですか」と、即答した。
女は「ありがとう。そう言ってもらえると... 何だか、私も涙が出そう」と言って、ちょっと目頭を押さえた。女の涙腺は、ここのところ緩みっぱなしだ。ちょっとしたことで、直ぐに泣いてしまう。
後輩は「じゃ、決まりですね」と、女に向かって笑顔で言うと「お父さん、先輩は二泊ってことで。良かったね、これでゆっくり話せるよ」と父親にも笑顔でそう言った。
女は「では、お世話になります。よろしくお願いします」と言って、頭を深く下げた。
父親は「よし。今日はより一層奇麗になって戻ってきた先輩との再会を祝してご馳走だ。特上の寿司をたらふく食うぞ。早速、出前を頼みに行ってくる」と言って、この場を離れて、家の奥の方へと消えていった。
女は「お父さんは、相変わらず力強い感じだね。お母さんを亡くしちゃっても変わらないところは凄いな。もし、将来、私が結婚して、その相手が先に死んじゃうようなことがあったら、きっとその後一生泣き続けそう」と言った。
これに対して後輩は「父も頑張っているんだと思いますよ。特に、私の前では強い父親を演じているような気もします」そして続けて「父が、母の位牌の前で、ずっと何やら独り言を呟いているところを見たことがあるんですけど、まあ、多分、母に話しかけていたんでしょうが、とても、普段の父からは想像できない、何か、物凄く暗い感じでした」と言って、笑った。
「やっぱり、そうなんだ... 何だか、可哀想」と言って、女は寂しげな表情をして、後輩の笑いには付き合わなかった。
後輩が「じゃあ、先輩、お風呂入っちゃいましょうよ。早くしないとお寿司来ちゃいますよ」と言って、女を促した。
女も「そうだね。さっぱりしてからのほうが、お寿司美味しく頂けるもんね」と、同意した。
この時女の頭の中は、父親が頼んでくれた特上寿司を肴に、美味しい酒を飲みまくるイメージで満杯だった。
入浴の準備を終えた女と後輩は、この家のほぼ中央にある浴場へと赴き、その入口の引き扉を開けて、中へと入った。そこには、二十人は余裕で入れそうな石造りの浴槽と、壁際には十個程のカランが設置されている。ここにあるのは、まるで旅館のそれのような大浴場だ。
「何も変わってないね」と女が言う。
後輩が「そうですね。あの当時のままです」と答えた。
女は、学生時代にここへお邪魔した時、この浴場を見て大変驚いたことを思い出した。
初めて見た時は、とても、個人の家にある風呂場だとは思えなかった。そこで、女は後輩に「旅館でも経営してるの?」と聞いた。
すると後輩は「いえ。只の趣味です。父親の」と答えた。
「えー、凄い。っていうか面白い。うけるー」などと女は返した。
後輩は「父は、旅館の大浴場が何しろ好きなんですって。で、好きが高じてこんなになっちゃったんです」続けて「母は、『こんなの造っちゃって、どうするつもりなのかね。頭がいかれちゃったのかね。』なんて言ってました」と説明した。
女は、この時のことを思い出し「懐かしいなあ」と、回顧に浸りしみじみと言った。
「そうそう。あの当時は、私も知らなかったんですけど、このお湯は、温泉と評価される基準を満たしているんですって」と、後輩が言った。そして「もともと、このお湯は、地下水を汲み上げて沸かしているんですけど、父が先日、専門の機関に水質の検査を依頼して判ったんです」と続けた。
女は「えー、凄い。あっ、そうか。だからあなたの肌はつるつるピカピカなんだ。いやー、本当に羨ましい」そして「よし。今回は絶対十回は入って帰るよ」と、目を輝かせ、気合十分といった感じで宣言した。
後輩は「いつでもどうぞ。ご自由にお入りください。でも、私は付き合えませんよ。ふやけちゃいますから」と、笑いながら答えた。
温泉と同等な成分のお湯を堪能した女は、「まだですかー」と脱衣所でつまらなそうに叫ぶ後輩に「今、行くよー」と大声で言って、名残惜しそうに浴槽を見詰めてから、浴場を出た。そして、又もや旅館のような、特大の洗面台の、特大の鏡を見ながら、髪をドライヤーで乾かした。
そして、女はドライヤーをもとの場所へ片付けると「おまたせ」と、ちょっと頬を膨らました顔で待っていた後輩に声を掛けた。
後輩は「先輩、遅いー。さっき、父が呼びに来ましたよ。早く行きましょ」と、女を急かす。
女は「はい、はい」と、二度返事をして、先を行った後輩の背中について行った。
後輩は、あの一本の大木から切り出したであろう天板が印象的な座卓の部屋へと入って行った。女も、後に続く。既に、父親は胡坐に腕組みという姿勢で、席についていた。また、その目前の卓上には、豪華な特上寿司が所狭しと並んでいた。この座卓は、決して小さくはない、いや、寧ろ一般的に考えれば広い方だ。その卓上に、一杯一杯になる程の特上寿司が並んでいる。
女は「やっほー」と言って小躍りしたくなった、が、父親の視線が気になって我慢した。
代わりに「大変遅くなってしまい、申し訳ありません」と、父親の威厳なるものを漂わせている風の父親に謝った。そして続けて「余りにも、お風呂が気持ちよかったもので、つい長風呂を...」と、言ったところで、父親が食いついてきた。
「そうだろ。あれは気持ちいいよな。俺も、絶対あれはいいと思ってんだ。ところがだよ、亡くなった家内も娘も、ちっともあれの良さが解んねぇんだよ。ほんと嫌んなっちゃうよな」と、堰を切ったように話し出した。やはり、自分の趣味に理解を示して貰えるのは嬉しいらしい。
女は「そうなんですね。まあ、人それぞれ、感性は違いますから」と、一応後輩にも気を使った後「でも、私は大好きです。さっき、娘さんにも、今回は十回入ると宣言しました」と言った。
父親は「うー、滅茶苦茶嬉しいぜ。そんなこと言ってくれた人は初めてだ。あんまり嬉しいから、抱きしめさせてくれ」と言って、胡坐をかいたまま、両腕を広げ女の方へ差し出した。
すると、後輩がすかさず「お父さん!どさくさに紛れてそんな失礼なこと言わないで!」と、一喝する。
父親は「おっと、ごめん。つい調子に乗っちまった」と、笑って言った。そして続けて「冗談はこれぐらいにして、さあ、食おう」と言って、手元に用意していた一升瓶の栓を開けた。
女が「お父さん、最初から日本酒なんですか」と尋ねると「ビールも旨いと思うが、やっぱり、寿司には日本酒だね」と、父親は答える。
それを聞いていた後輩が「お父さんは、何でも日本酒じゃない。この間はステーキでもそうだった」と言う。
すると父親は「はいはい。旨けりゃいいの。余計なこと言わないでさっさと飲む」と言って、湯飲み茶碗に奇麗に透き通った日本酒を注いだ。
続けて「ほい、座る」と、女と後輩に命令すると、今注いだばかりの湯飲み茶碗を、女の方へ突き出した。
そして「今日はたらふく食って、とことん飲むぞ」と言って、ガッツポーズを女に見せた。
女には、この時、このガッツポーズが何の意味を成すのか解らなかった。
食事を始めて、既に三時間は経過していた。相変わらず三人は、飲んでいる。
後輩が「もうそろそろ限界。お開きにしましょ」と切り出した。
父親は「何言ってんだ。まだまだこれからだ」と、やる気満々の回答を返す。
後輩が「だって、先輩にも迷惑でしょ」と言うと「いやいや、まだちっとも酔ってねえじゃねえか」と、父親は、特段変化を見せない女の方を見て言った。
そして続けて「俺は、お前の先輩と勝負してんだ」と言い出した。
女は、ここで漸く、先程のガッツポーズの意味を理解した。そして、付き合っていたらこの大男に殺されると思い「いえ。もう十分頂きました。今日はこれで勘弁してください」と、父親が望んでいた勝利を差し出した。
すると父親は「おっ、そうかい。そんなら仕方ねえ。お開きにするか」と、満足そうに言った。
後輩は女に向かって「本当に馬鹿ですみません」と、父親に聞こえないように小声で言った。
女は「いえいえ、本当に楽しかったわ。お父さんて面白くていい人だよね。私、好きよ」と言う。
後輩は「そんなこと言うのやめてください。絶対勘違いして、後が大変になります」と、慌てて言った。
そして二人は顔を見合わせて、大笑いをした。勿論この時、父親は自分のことを言われているとは解らずに、キョトンとした顔で二人を見ていた。
この後、女と後輩は協力して酒宴の後片付けを終わらせると、後輩の自室へと移動した。そして、押し入れから二組の布団を取り出すと、畳の上に仲良く並べてセットした。
後輩が「じゃ、寝ましょうか。今日は一日ご苦労様でした。遠路遥々会いに来て頂いて、本当に何とお礼を言えばいいか... です」と言った。少し酔っているのだろうか、言葉の最後がよく分からなかった。
女は「いえいえ、今日はご馳走様でした。本当に楽しいよ。ありがとう。あと二日もよろしくね」と礼を述べた。
後輩が「電気消しますね」と言って、手元に置いてあったシーリングライトのリモコンを操作する。
女は「あれ?これは前と違うんだね」と言う。
後輩は「そうなんです。これ便利ですね」と言った。
これが、この家の中で、母親の位牌以外に女が見つけた唯一の変化であった。
そして、この部屋が消灯による暗闇に包まれてから程無く、女は「起きてる?」と後輩に小さめの声で尋ねた。
「はい。起きてますよ」と後輩が応えた。
女は「あのね。実を言うとね、私、このところちょっと落ち込んでたんだ」と、心の中にしまって置いた、もやもやしたものについて、話し始めた。
「やっぱり、そうでしたか。急に先輩から電話を貰った時、何でかなあって考えたんですよ」と後輩。
女は「それで、何だと思ったの?」と尋ねる。
後輩は「きっと、仕事のことかなって思いました。ああ、あと、結婚?とも考えましたけど、だとしたら直ぐに話してくれそうなものだから、違うな、とも思いました」と答えた。
女は「流石だね。図星」と、感心した風に言った。
そして続けて「聞いてくれる?長くなるけど」と、前置きを交えて打診した。
後輩は「勿論、聞きますよ。私は、朝までだって大丈夫です」と、軽く冗談を混ぜて、そう返す。
ここで女は「ごめんね。電気付けてもらっていい?顔を見て話したいの」と言った。
後輩は「勿論いいですよ」と応えて、枕元に置いてあったリモコンを操作する。
そして、部屋の中が明るくなると、女と、後輩は揃って起き上がり、自分の布団の上に足を崩して座った。
女は後輩の目を真直ぐに見つめて、続きを話し始めた。
「私ね、職場では、誰にも負けないぐらい猛烈に働いてるのよ。入社以来ずっとだよ。その間、休みも取らずに、急な出張だって嫌な顔一つしないし、飲み会だって、誘われればとことん付き合うし、残業なんて泊まり込みでもオーケー、与えられた仕事が片付くまで徹夜することもよくあるの」
「それって、かなりブラックですよね」と、後輩。
「そう思ったこともあるけど、上司が結構頑張る人なのよ。その人も、そのまた上司に色々言われて大変なんだろう、って思うわけ。そうすると、やっぱり、その人にも負けられないってなっちゃうの」と女は言った。
「先輩らしいって言えば、そこまでですけど、微妙に損な性格ですね」と、後輩。
「どう考えても、そうよね」と、女は失笑する。
そして続けて「それでね、ある日、上司と飲んだのよ。残業のご褒美って誘われてね。で、その席で、その上司が酔っぱらって、ずうっと愚痴をこぼし続けるわけ。私は、それを聞き続けて、それで、終電帰り。何かその時、急に仕事が嫌になっちゃったのかな。どうしても蓮華を見に行きたくなっちゃったのよ」と言った。
後輩が「蓮華?」と、何だか意味が解らずに聞くと、女は「そう、蓮華。実はね、出張に行ったときに、近くを散歩してて、見つけたの。凄く可愛いんだよ。一目見て愛しちゃったかな。一目惚れだね」と、凄く嬉しそうに、そう言った。
「へー、先輩がそう言うんだったら、相当、素敵な蓮華なんでしょうね」と、後輩が言うと「私にとっては、そうだけど、他の人は知らないわ」と、女は笑って言った。
また続けて「それでね、私はその蓮華にどうしても逢いに行きたくて、会社に嘘をついて休みをとっちゃったの」と言って、一度大きく深呼吸をした。
女は、決心したのだ。これは、またとないチャンスだ。自分の心の蟠りとなっている、あの嘘について謝罪をし、また元のやる気に満ちた自分に戻りたいと思ったのだ。
女は少しの間を置き「で、その嘘というのが、あなたが亡くなったって... それで、青森に行くって言っちゃったの」
ここまで言って、女は俯いた。下瞼に涙が湧き上がってくる。
「本当にごめんね。今は凄く反省しているの。それでね、色々苦しくなっちゃって、あなたの声を聞きたくなって、電話をしたの」と続けた。
この時の女の頭の中は、様々な感情が入り乱れ、整理がつかない状態であった。その一つ一つが涙となり、そして粒となり、座っている自らの膝の上へと落ちて行った。
「そしたら、お母さんが亡くなったって聞いて、絶対にお線香あげなくっちゃって思ったし、あなたにも、会いたかったし、謝らなくっちゃって思って、ここに来たの」と更に続けた。
後輩が「そうだったんですね。嘘って難しいですよね」と言った。
「難しい?」と女が涙声で聞き返すと、後輩は「私は、前にも言ったと思いますけど、嘘は嫌いです。子供の頃に嫌という程、母から叩き込まれましたから。でも、今は、全ての嘘が悪いとは思っていないんです。嘘にも種類があって、肯定できる嘘もあるんですよ」と言った。
女が再び「肯定?」と尋ねると「やっぱり、自分の利益を守るための嘘とか、人を騙して傷つけるような嘘は大嫌いです。でも、人のことを思っての思いやりの嘘とか、人を楽しませるためのエンターテインメントの嘘とかは、肯定しますよ。勿論、嘘の内容にもよりますけど」と、後輩は答えた。そして続けて「先輩の嘘は、まあ、確かに好きではありませんけど、きっと、先輩も追い込まれていたんでしょうし、黙っていれば決して私に知れることなどないのに、こうして、私に謝りに来てくれたし、それで、先輩の心が少しでも癒されたのなら、私は嬉しいのかもしれません」と、少し解り難いコメントをした。
「そう言ってもらえて、少し救われた気がします」と、女は敬語になって話した。
後輩は、未だ俯いて泣いている女に対し、例え話を始めた。
「殆どの小説は、フィクションですよね。これには、多くの嘘が含まれている筈です。勿論、年端のいかない子供でなければ、それを解っていて読んでいるわけです。この嘘は誰も傷つけていません」
そして続けて「あっ、そう言えば、今日最初に父と会った時の、お芝居っていう嘘も、誰も傷付けていませんし、例えば途中で綻びが出たとしても、皆で笑って楽しめるようなものです。これなんかも、今の私は全然悪いとは思いません。この、綻びが出ても笑えるというのが、味噌かもしれませんね」と言った。
そして「人を助けるための嘘も、当然ですけど悪とは思いません」と付け加える。
「まあ、簡単なところで言えば、近くに沼があったとします。その沼は底なし沼で、一度落ちたら二度と岸に上がれないとします。でも、子供たちはその沼に興味があって仕方がありません、という状況で、あの沼には竜神が出る。近くに寄ると食われてしまう。と、子供たちに嘘を言ったとしても、誰も何も言わないでしょう。この嘘が、子供たちを底なし沼から守るわけですから」と、後輩は解りやすく説明した。
「そうね。分かった。解りやすく説明してくれてありがとう。私は今回のことで、凄く落ち込んで、そして自己嫌悪になって、もう一生嘘はつかないって決心したの。でも、その考えは未熟だったわ。嘘の全てが、悪なんじゃなくって、己の欲望の為につく嘘が、悪なのね」と女は言って、やはり、この後輩は自分の師匠だな、と改めて思った。
そして後輩の例え話を聞いて、少し気分が改善されてきた女は、続けて言う。
「おかげさまで、心の整理がつきました。これからは、自分の欲望のために嘘をつくことはしません。そして、人のことを深く思って、考えて、その上で必要だと判断すれば嘘をつきます」
女はこう言ってから「でも、嘘をつきますっていうのは、なんか抵抗があるね」と言葉を継いだ。
後輩は「それは、嘘って言わないんです。人のためにつく嘘は、方便って言うんです」と答えた。
女は「嘘も方便ってやつ?」と聞く。
後輩は「そうです。人を真実の教えに導く言葉のことです」と、そう言って笑った。
この時、漸く女の表情に、いつもの笑顔が戻ってきた。
「ありがとう。私の話をちゃんと聞いてくれて。本当に嬉しい」と、女が後輩の手を掴んでそう言うと、後輩は「正直に私に打ち明けてくれたことが、何より嬉しいです。もしも、先輩が何も言わなかっとしても、勿論、私は何も変わらないですけど、今回のことで、更に先輩のことが好きになりました。先輩は素晴らしいです。やっぱり、私の誇りです」と、にっこり笑って返した。
いつもの女ならば、ここでお茶らけた態度をとるところなのだが、流石にこの時は神妙にしていた。
そして「やめて、恥ずかしい」などと、後輩が未だかつて聞いたことがないような、可愛らしい言葉を返した。
「先輩らしくないです」と後輩が噴き出した。
「やっぱり、そお」と、女も笑った。
そして漸く二人は眠りについた。




