第四話 後輩の実家の想い出
女は、後輩の父親に一度だけ会ったことがある。女がその父親に会ったのは、大学の夏季長期休みに後輩から誘われ、その実家がある青森に、二人で遊びに行った時だった。その時の女は、地方というものを殆ど知らなかった。つい気軽な気持ちで、訪問することを約束し、そのまま気軽な気持ちで旅に出た。
その女を待ち受けていたのは、第一に長時間の列車移動苦というものだった。始めのうちは、勿論、問題などこれっぽっちもなかった。いや、寧ろ楽しくてしょうがなかった。未だ、足を踏み入れたことのない土地に行くということ、また、自分の良く知らない田舎と称される地方に行くということが、女の心をハイにしていた。
女は、車窓の先を流れる景色に心奪われながら、この時分から既に得意だった鼻歌を口ずさんだり、時折、指揮者のように両手を振ってみたりと、ルンルン気分で列車の旅を楽しんでいた。傍から見れば、正しく、今時の女学生の旅である。何の苦労も無くここまで生きてきたのだろうな、と感じさせるお気楽な雰囲気を全身で表現していた。
周囲に居合わせていた老齢の紳士などは、そんな女達を、自らの若かりし時を懐かしむように、微笑みながら目で追っていた。しかし、同じく周囲に居合わせていた、中年過ぎの淑女様は「もう、うるさいわねえ」と、二人に聞こえるか聞こえない程度の声で言い、怪訝な顔で睨んでいた。そんな周囲の目などには、まるで気が付かない女は、更に声のトーンを上げ、時には腹を抱えて大声で笑いながら、列車の揺れに身を任せていた。寧ろ、年下である後輩のほうが、このお気楽な先輩の大声を手で制止したりしながら、周囲に気を配っていたかもしれない。
しかし、列車が東京から三県程を通過する頃には、女の様相は一変していた。女は何しろ、腰が痛くてたまらない。ストレッチをしてみたり、車内の通路を一号車から最終号車まで歩いてみたりしたのだが、その直後は一旦気にならなくなったとしても、また、座っていると凝って痛みが復活してくる。女は、通路の床に寝そべってしまおうかとも考えたが、流石にそれは、ルール違反だと知っていたので、自制した。
そんな女を見かねた後輩は「はい。先輩、後ろ向いて」と言い、女の腰のあたりを両手の親指でマッサージしてあげる。なんて、気の利く、素晴らしい娘なんだ。
女は「嬉しい!ありがとう。うーん、もう最高」などと、後輩の親指の動きに合わせて、合いの手のような言葉を連発し、正しく悦に入った顔をしていた。
程無く女は「もういいよ。疲れたでしょ」と、後輩に労いの言葉をかけ、前を向く。
後輩は「まだ、大丈夫ですよ。気にしないでください」と、女に両手の親指を向けたまま、言葉を返す。この尊敬に値するできた娘は、女を自分が誘ったという手前、招待客であるこのちょっと変わった先輩に、十二分にこの旅を楽しんで欲しかった。
女は「いや、もういいよ。うん。かなり良くなった。ありがとう。でも、随分上手だね」と言った。
後輩は「子供の頃から、両親の腰をマッサージしてあげてましたから」と、それが当然といった面持ちでそう答えた。
女は後輩のこの言葉を聞いて、後輩が母親の腰をマッサージしている姿を頭に思い浮かべた。そして、自分も自分の母親に、マッサージをしてあげたかったな、と、ぼんやり思った。女は、心温まる後輩の話に感じ入るところがあって、親孝行をしてみたくなったのかもしれない。
勿論、その気になれば、父親に対していくらでもマッサージしてあげることが出来たのに、そんなことは一度もしたことがないし、考えたこともないが...
後輩のマッサージのおかげで、またちょっと元気を取り戻した女は、再び、周囲の迷惑も顧みず燥ぎ始めて、遂には眠ってしまった。まるで、年端もいかない小学生のようである。後輩は、眠ってしまった女を横目に、車窓の外に拡がる懐かしい景色にその視線を向け、優しい目をして微笑んでいた。
暫くして、車内に降車予定の駅名がアナウンスされると「そろそろ着きますよ」と、後輩は優しく言って、幸せそうな笑顔で眠りこけていた女を揺り起こす。
女は「はい!」と、勢い良く返事をして跳び起き、周囲を見回す。女は、夢でも見ていたのだろうか。
この仕草に後輩は、くすっと笑う。
女は、目に入ってきた情報を頭の中で分析し、自分の置かれている状況を理解した。
「もう着くの?」女は改めて後輩に尋ねる。
「そうですよ」と、後輩が返事をした。
その後の女は、窓の外の景色に視線を移し、何やら考えているような面持ちで、暫く黙っていた。そして程無く列車はブレーキを掛け始め、そして、停車した。漸く後輩の実家の最寄り駅に到着した二人は、長らくの移動を共にした列車から、駅のホームへと降り立った。
女がこの駅に到着する直前に、列車の窓から見た景色は、それはもう凄いものだった。それを見た女の頭には、こんなところに人が住めるのか?といった疑問しか浮かんでこなかった。そして、食事の素材はどうやって仕入れるんだろう、とか、日用品の買い物は何処でするんだろう、とか、何かで体調不良を起こしたときは、どうするのかなあ、とか、そんな心配ばかりが頭を過った。何しろ、目に映るのは山の緑だけであった。基本的に都会だけしか知らない女にとっては、何でも思い立ったら直ぐに手に入れられるというのが当然のことで、このような場所には、鹿や猪ぐらいしか住んでいないのではないかと感じたのだ。
それでも女は、駅の周辺ならば、スーパーマーケットがあって、大きな病院があって、八百屋や肉屋、そして女が大好きなケーキ屋などが入った商店街があるのだろうと、考えていた。ところがだ、駅から見渡せる景色の中に、考えていたようなものは何一つ存在していなかった。どの方角を見ても、車中の窓の外に見えていた景色と何ら変わらない。建造物と言ったら、自分達が、今、立っている駅舎位のものだった。
「えー。本当に何にもないんだねえ」と、女は驚きの声をあげた。
「そうですよ。だから、言ったじゃないですか」と、後輩は平然と言う。
そう言われてから女は、ここへ来ることが決まった時に、後輩から事前に知らされた情報を思い出した。
その時後輩は「私の実家があるところは、凄く気持ちが和む良いところですよ。でも、ちょっと不便なのが玉に瑕なんですけどね。何しろ付近に何もないんですよ。東京に暮らしてる先輩には、こんなこと言っても良く解らないでしょうけど、少しの覚悟はお願いしますね」と言っていた。
女は、後輩にこう言われたので、少しの覚悟はしてきたつもりだ、しかし、この土地に来て、その目に入ってきた光景は、女の想像を遥かに越えていた。
女は、自分の覚悟など何の役にも立たない、と、バッグの中に一本余計に入れてきた虫除けスプレーのことを考えながら、自分の浅はかさを呪った。しかし、直ぐに、でも一本余計に持ってきたのは正解かもしれない、と目の前を掠めて飛んで行った羽虫を見て、超ポジティブに考え直した。いったいこの女は、どれだけ虫除けスプレーを塗りたくるつもりなのだろう。
「さて、行きますか」と、後輩が号令をかける。
女は「よろしくお願いします」と、不安いっぱいの眼差しで、後輩を見詰めながら、そう言った。
ここからが、女にとって第二の試練の始まりだった。女は、旅行に行くという感覚だったし、よそ様のお宅へお邪魔するわけだから、そこそこ小綺麗に着飾って行かなくちゃ、と考えた。そこで、お気に入りの白色が基調の、長めの裾のスカートと、ヒールの高いお洒落な靴を履いてきた。
駅の改札を抜けて歩いて行くと、数十メートル進んだところで、道路の舗装が無くなった。女は、直ぐに、この出で立ちの選択が間違っていたことに気が付く。そこから先は、未舗装の砂利道であった。女のヒールは、その踏み出す一歩一歩が砂利石の間に埋もれて、ぐらぐらと足首を揺らす。歩き難くてしょうがない。充分に気を付けて歩かないと、足首を捻挫してしまいそうだった。このような道を、暫く二人は歩き続ける。女は、どうしても砂利石に足首の屈曲を強いられるこの道に、既にかなりの苛立ちを感じていた。そこで「そうか、これが覚悟ってことね」と、判った風のことを心の中で呟いた。
程無く、女の足首を痛めつけるこの砂利道の歩行は終わりになった。そして、その先は野道であった。この野道は、勿論、未舗装で地面が剥き出しの状態であるが、表面は確りと踏み固められていたので、女の足首への負担は激減した。都会のアスファルトで舗装された道よりも着地の衝撃が少なく、寧ろ、足腰に優しいと感じる。女はこの時、漸く歩き易くなったこの道が、後輩の実家まで続くのだろうと、勝手に思い込んでいた。
暫く続いた歩き易い野道の幅が、少しずつ狭くなっていることに女が気付いた頃、後輩が「ここからは、ちょっとした山道に入りますから、足元気を付けてくださいね」と言った。
女は「まだ着かないの?」と、後輩に尋ねる。
後輩は「この山道を超えれば、直ぐですよ」と、女に向けて、頑張ってください、と応援するかのような面持ちで微笑んだ。
女は「まさか、この山一つを乗り越えるってことはないよね」と、冗談のつもりで軽く言ってみた。
すると後輩は「そうですよ」と即答する。
まるで、それが何か?と、いった感じである。これを聞いて女は、意識が遠のきそうになった。どう過小評価したとしても、目前の山は、スカイツリーよりも高い。これまで、いくら歩き易くなったとはいえ、もう大分歩いてきていて、流石に足には疲労が溜まってきている。女は、またしても、後輩の言う、少しの覚悟、に対する自分自身の認識の甘さを痛感した。
「うへー!」よく解らないが、これが、女が後輩に返した言葉だった。
後輩は「さっ、ここから上がっていくんです」と、今迄歩いてきた野道から、山の中へと分かれていく細い道を指さす。
女は、後ろを振り向き、もう既に駅からは大分進んできてしまったことを確認すると「もう戻るってことはあり得ないな」と、小声で独り言を発し、観念した。
すると「分かった。もうひと頑張りだ!」と、女は後輩より先んじて、その細道へと入って行った。
「あっ、ちょっと待って」と、後輩が女の背中に向けて呼び掛けた。
「えっ」と、女が振り向くと、後輩は「山の中は、あちこちで水が湧いていますから、結構足元が滑るところもありますから、注意してくださいね」と言った。
この時女は「うん、分かった。気を付ける」と、この言葉の意味を充分に理解せずに、そう軽く返事をした。
そうして二人が山の中の細道に侵入して幾何か進んだ頃のことである。女は、足元に転がる朽ちた大小様々な木の枝に、その行く手を阻まれた。女の靴底には、小高いヒールが付いている。これで木の枝など踏もうものなら、たちどころに女は転倒するだろう。女は、その靴の着地点を慎重に選びながら、僅かずつ細道を上って行った。ふと、女が視線を上げて先を見ると、後輩が、まるで猿かと思わんばかりの身のこなしで、ぐんぐんと上っていく。勿論、この時、後輩はスニーカーを履いていた。
女は「待ってー」と、後輩の背中に縋る思いで大声を張り上げる。
その声に振り向いた後輩は「もう直ぐ、広いところに出るからあ」と、ガッツポーズを送ってくれた。
女はその言葉に、ここを抜ければ、もう直ぐ広いところに出れて、後はらくちんなのね、と、少し気が楽になって、同時に足元への注意が疎かになった。
その時、女は枝を踏んでしまった。しかも、靴底の内側で。
次の瞬間、女は足首を内転させて「わー!」と、大きな悲鳴を上げて転倒した。
勿論、後輩はその声に反応して「大丈夫ですか!」と、やはり、悲鳴に近い大声で叫んで、例の猿の身のこなしで、女の側まで戻ってきた。
「痛ったあ」と、女が、不覚にも内転させてしまった足首を擦りながら言うと、後輩は「足が滑っちゃったんですか?」と問う。
これに対し女は「滑ったんじゃなくて、枝を踏んで足首を捻っちゃったの」と、半泣きの顔で返答した。
後輩は「どうしましょう。立てそうですか」と、尋ね、自らの手を女の前に差し伸べた。
女は、後輩のその手を掴むと、もう一方の手を地面について、後輩の力を借りて立ち上がってみた。不幸中の幸いというか、案外内転したはずの足首は痛まなかった。
「あれ、意外と大丈夫かも」と女は言って、足踏みをして見せた。
後輩は「ああ、良かった。先輩に何かあったらどうしようと思っちゃいました」と、ほっとした表情でそう言う。
女は「ごめんね。心配かけて。もっと私が用心していれば良かったのに。却って、迷惑かけてるみたいで、本当にごめんね」と、謝った。
後輩は「やっぱり、都会とは勝手が違うんですね。私、軽い気持ちで誘ってしまって、何だか申し訳ないです」と、すまなそうに言った。
女は「そんなあ。謝るなんてやめてよ。私は大丈夫だから」と言って、後輩の肩を軽く叩いた。
女は、後輩の肩からその手を離してみて気が付いた。今、自分が触ったところが、茶色く汚れている。
女は「あれ?」と言って、自分の手を見た。その手は、泥塗れであった。
女は直ぐに「いや、本当にごめん。いえ、ごめんなさい。私、気付かなくって。本当にごめんね」と必死で謝った。
若い娘が帰省とはいえ旅行に出かけるときに着ている服だ。大切な洋服に違いない。それを、気付かなかったといえ、泥で汚してしまったのだ。この罪は大きいと考えた女は、本当に申し訳なくって仕方なかった。
ところが後輩は「いえ。こんなの全然いいですよ。私、気にしませんから」と、軽い口調でそう言って「それより... 先輩のスカート大変なことになってます」と、言い難そうにそう続けた。
「えっ」女は直ぐに反応して、自分のスカートに目をやった。すると、その白色が基調になった、裾の長い如何にも清潔そうなお気に入りのスカートが、半分から茶色に染まっていた。
「いやあー!」と叫んだ女は、その泥だらけの手で、自らの顔を覆って少しだけ泣こうかと思ったが、その後が面倒だと思い、これはしなかった。
女は「これが、少しの覚悟ね」と、今回ははっきり後輩に聞こえるように言った。
後輩は「本当に、申し訳ありません」と言って、深く、深く頭を下げて、女が「もういいよ。頭を上げて」と言うまで、そのままでいた。
女は「あなたは全然悪くなんかない。私、やっと覚悟を決めたわ。さあ、行きましょ」と言って、高めのヒールの靴を脱ぎ、長い裾のスカートをミニスカート程度の長さになるまでたくし上げ、前で纏めて縛って、後輩のほうを真直ぐな眼差しで見た。その目は決意に満ちた輝きを讃え、この女は、この時この瞬間に成長したのではないかと感じさせるものだった。
少しこの説明はオーバーだったかもしれない...
覚悟を決めた女は、この後、素早かった。流石に猿のようには動けなかったが、後輩の歩みに、ほぼ遅れることなくついて行けていた。女は、素足の裏で山の土を感じながら、また、朽ち落ちて転がる木の枝を踏み越えながら、後輩の背中を追い続けた。程無く、確かに、後輩が先ほど言っていたように、二人は景色の開ける広い場所に出た。そこから見えたのは、山間の集落であった。その奥の辺りに見える棚田が美しかった。その下限には、小川のような水路が見える。その水面は、キラキラと日の光を反射して輝いていた。その場所へは、まだ少し道を下らなくてはいけないが、今のペースで歩いていけば、間もなく到着できると予想できた。
女は、恐る恐る「もしかして、ここ?」と、後輩に尋ねる。
後輩は「そうです。長旅ご苦労様でした。本当に色々大変でしたね。もう直ぐですから頑張りましょ」と、労いと心配と励ましの言葉を立て続けに言った。
「やったー!」と言って、女は先程脱いで手に持っていた小高いヒールの靴を、天に向かって投げた。
で、直ぐに回収へと走った。投げた靴が坂道を転がり、回収に手間取ると、ちょっと後悔した。そうして、二人は後輩の実家へと無事?到着した。
後輩が言うには、その実家は、集落のほぼ中央付近に位置しているということだった。。
女は、集落の入口からそこへと向かう途中「へー」とか「ほー」とか、おじさん臭い感嘆の声を上げながら歩いていた。女にとって、軒下に吊るされた農産物や、庭先にある手押しの井戸だとか、見るものすべてが新鮮だった。女は、相変わらず素足である。折角のお洒落な靴に、泥塗れの足を置いて汚す気にはなれなかった。いや、既に、直に自然を感じる素足での歩行が気に入っていたのかもしれない。
通り過ぎる民家の庭先で何やら作業をしていた高齢の女性が声を掛けてきた。
「あら、帰ってきたの」
後輩は「そう。こちらの方は、東京の先輩」と、にこやかに返事をした。
「へー、ここに東京から人が来るなんて、何年ぶりかしら」と、その高齢の女性が言った。そして「でも、こんなこと言っちゃ失礼かもしれないけど、なんか凄いかっこだね」と、ほんのり笑いながら付け加えた。
勿論、後輩の身なりは、何一つ可笑しいところはない。東京を出発した時と変わらない。この女性が言っているのは、女のことである。
女はこの言葉に「こんにちは。途中で転んじゃいましたあ」と明るく答えた。
今迄の女であれば、こんなことを言われたら、頬を真っ赤に染めて、恥ずかしさのあまり、その場を速足で逃げ去るところだが、今ここにいる女は、今回の試練で成長し、別人になっていた。
後輩は、女性に対し「ここへ来る途中、色々なことがあってね」と、再びにこやかに言って「それじゃあ、またね」と言って、手を上げてバイバイをした。
集落と言っても、東京のように住居が密集しているわけではない。一軒一軒の間隔はかなり広い。お隣さんに行くのにも、ゆっくり歩けば五分はかかる。女は周囲に目をやり、その長閑で美しいキラキラした景色を存分に楽しみながら、先を行く後輩の背中について行く。そのようにして暫く歩くと、その頂点に瓦を冠した白く美しい土塀が女の目に入った。ここまでの道程で見てきた周囲の住居には、このような立派な土塀は見られなかった。その殆どは、敷地が直接、各戸の間を隔てる道に面していた。そんな中、この土塀で囲まれた住居は、一際立派であった。
後輩が立ち止まったのは、その土塀沿いを暫く歩いた先にある一際大きな門の前であった。
「ここ?」と、女が尋ねる。
「そうです」と答えた後輩は「何だか既に懐かしいな。母とも、もう何年も会ってないような気がします」と、続けた。
後輩が、この実家を離れ、東京に出てきてまだ五か月だ。しかも、一緒に監督として東京についてきていた母親が、実家へと戻ったのは、つい一月程前のことである。
女が「えー。お母さんとは、ちょっと前まで一緒だったじゃん」と、笑って言ったら、後輩は「そうなんですけどね」と言って、眼尻を手の甲で抑えた。
女が、後輩の顔を覗き込むと、後輩は涙ぐんでいる。女は、仕方がないな、と思った。何しろ、この土地から東京に出てきて、まるで経験したことのない都会暮らしに戸惑いながら、様々な不安に対峙してきた訳だ。東京に出てきて暫くの間は母親と共に暮らしていたので、アドバイスを貰ったり、時には優しく包んで貰ったりで、まだ良かったのかもしれない。しかし、母親が実家に戻ってしまってからは、全ての難問を自分の力だけで解決していかなければいけなかったのだ。心配なことは、幾らでもあっただろう。恐らく、相当に緊張の糸を張りつめて、ここまで頑張ってきたのに違いない。そして今、両親の待つ実家を目の前にして、漸くその糸が緩むと共に、涙腺も緩んでしまったのだろう。
この時女は、後輩が泣いているのは、感極まっているだけだと確信していたので、大した心配はしなかった。
しかし、一応「大丈夫?」と、相変わらず眼尻を抑えて流れるものを拭い続けている後輩に声を掛けた。
「はい。大丈夫です」と、後輩は答えた。そして続けて「もうちょっと、ここにいていいですか。母は、私が泣くのを嫌うんです。『女の癖にめそめそしない!』って怒るんです」と言った。
「それって、普通『男』だよね」と、女が笑って切り返した。
すると後輩は「母は『女の一生には、男よりも辛いことが一杯あるんだ。』って『些細なことで泣くようなそんな弱いことでどうするんだ。』と言うんです」と、少し微笑んで言った。
それは確かに尤もだ、と女は思ったが、でも自分は泣きたい時には泣こう、とも思った。
そして女は「そんなこと言うのって、お母さんらしいね。分かった。涙が止まるまでここにいよ」と、ここは先輩らしくその包容力を見せる時だ、などと考え、優しく後輩に声を掛けた。
女は何しろ、ここに到着するまでの間に、後輩に迷惑を掛けたことについて、先輩として少し情けなく思っていた。
これに対し後輩は「ありがとうございます。本当に先輩って優しい人ですね」と、女が期待していた通りの言葉を返した。これを聞いて、女が心の中でほくそ笑んでいたのは言うまでもない。
そして程無く、後輩が「はい。もう大丈夫です。さあ、入りましょう」と言って、目前の一際大きな門を潜る。女も、その背中に続き、その門を潜った。女は、誰の姿も見えない広大な庭を進みながら、大きめの声で「お邪魔しまあす」と言ってみた。当然のことながら、何の返答もなかった。そして、二人が玄関に辿り着くと、後輩は玄関の引き戸を何も言わずに開放した。
女は驚いて声を上げる。「えっ。鍵はかかってないの?」
後輩は「この辺じゃ、当たり前ですよ」と、別に特別なことではない、といった風に答えた。そして続けて「逆に私は、東京で鍵を掛ける習慣を身に着けるのに本当に苦労しました」と付け加える。
この時女は「へー」としか言えなかった。
玄関の内へと足を進めた後輩は「帰ったよー!」と、やたらと大きな声で、家の奥に向かって叫ぶ。女はこの時、後輩がこれ程までに大声で叫ぶということは、この家はやはり、余程大きくて広いのだろうな、と思った。
玄関の内側は土間になっていた。後輩は、その土間を進み、その奥の一段高くなっている縁側のようなスペースに腰を下ろし、履いていたスニーカーを脱ぎ始めた。
そして「どうぞ。先輩も上がってください」と言った。
その縁側のようなスペースの先には、大きな四枚の板戸があって、中央の二枚は解放されている。その板戸の先は、畳敷きであった。
「ちょ、ちょっと待って」と、女は少し戸惑い気味にそう言った。そして「私の足は、泥だらけだよ。このまま上がったらお家の中を汚しちゃう」と、相変わらず両手に小高いヒールの靴を持ったまま、そう続けた。
「あっ、そうですね。ごめんなさい。懐かしさに感傷的になってたら忘れちゃいました」と、もうすっかり元の元気に戻った後輩がそう答えた。
「じゃあ、こっちに来てください」と言って、後輩はスニーカーを脱ぐのを止めて、再び玄関の外へと向かった。
女は、後輩に従った。玄関を出て、左手に回ると、そこには手押しの井戸があった。
「ここで、洗ってください」と、後輩が促すと、女は「えー。実物に触るの初めてえ」と、何だか期待に満ちた表情をした。
女にとって、初めての経験はやはり嬉しい。
そして、手に持っていた靴を横手に揃えて置き、井戸水の出口であろうパイプの下に足を持っていくと「こうするの?」と聞きながら、ハンドルを上下に動かしてみた。
この女の問いに後輩が返事をする前に、冷たい水が、女の素足にかかる。
女は「うわー。冷たい!」と、出てきた水の温度が想像していたものと違うことに、少し驚いて軽く叫んだ。
「でも、気持ちいい」と、その後、悦に浸った顔で、感想の言葉を付け加えた。
女が冷たい井戸水を足に掛け、その清涼感を愉しんでいる間に、後輩は井戸の向かいに干してあったタオルを取りに行く。
そして戻ってきた後輩は「はい。どうぞ」と言って、女の前にそのタオルを差し出す。
女はそれを受け取ると、足の裏から膝下までの水滴を丁寧に拭き取った。
後輩は、その間に、女が横手に置いた小高いヒールの靴を女の前に、揃えて置きなおす。やはり、この娘は気が利いている。
女は「ありがとう」と言って、靴を履いた。この時女は、やっぱり自分はこの娘に負けているな、と思った。
そして、再び二人は玄関へと向かう。玄関の引き戸は、先程出てきた時のまま、開けっ放しになっていた。先に入った後輩に続き、女が玄関内部の土間に足を踏み入れると、奥の縁側のようなスペースに、後輩の母親がきちんと正座をして待っていた。
「気付いたあ?只今」と、後輩は、久しぶりに会えた母親に向かって嬉しそうにそう言った。
母親は「『帰ったよー。』って言う声が聞こえて来てみたら、誰もいないから空耳かと思ったんだけど、玄関の戸は開きっ放しだし、土間の足跡を見てみたら、人間の素足のものがあったから、そういうことかと思って、待ってたのよ。正解だったわ」と言った。
女は「お久しぶりです。お元気そうですね」と挨拶を述べた後「まるで探偵さんですね。凄い推理力です。感心しました」と続けて言った。
後輩は「この辺は色々な野生動物がいるから、自然と足跡は見ますからね」と、女に向かって言う。
女は「でも、この土間にそんな判りやすい足跡は残ってないじゃん」と、不思議そうに言った。確かに、人の足型がくっきり残っているところは確認できない。
そこまで聞いていた母親が「ほら、そこに五本の指の跡が見えるでしょ」と指さす。
女は「えー、これで判るんですか」と、驚いて目を丸くした。
母親は「ここに住んでいると、命にかかわる問題だから、足跡の判別は上手になるわね」と言った。そして続けて「ところで、凄いかっこだけれど、山道で転んだの?」と、女に尋ねる。
「その通り。名推理です」と、女が恥ずかしそうに答えた。
母親は「まあ、その姿を見れば、誰でも判るけどね」と笑顔で答えた。続けて「まあ、お上がりなさい。こっちに、貴方たちの荷物届いているわよ。取り敢えずお着換えなさい」と言って、立ち上がり、畳敷きの奥へと歩いて行った。
この会話の間に後輩は、既にスニーカーを脱ぎ、縁側のスペースに立って、女が上がってくるのを待っていた。女は、小高いヒールの靴を脱ぎ、靴の爪先を玄関に向けて揃えて置くと「お待たせ」と軽い口調で言って、その後、後輩と畳敷きの部屋の内部へと入って行った。
女は、部屋の隅に置かれていた自分の荷物を紐解いた。そして、山道での転倒により、その半分を茶色く染めてしまったスカートの着替えをしながら「荷物を宅配便で先に送っておいたのは正解だったね」と感心した風に後輩に言った。これは、勿論、後輩の指図である。女は後輩に言われなければ、絶対に目前のキャリーバッグをその手に抱えてきただろう。
後輩は「足元の悪い山道を歩かなくちゃいけないから、絶対手ぶらのほうがいいと思って」と返す。
女が「でも、こんな便の悪いところにも、宅配便て届くんだね。凄い感心する」と言うと、後輩は「線路からだとこんなですけど、割と近くに高速道路が来てるんですよ」と、答えた。
女は「じゃあ、車で来たら、来やすいの?」と尋ねる。
後輩は「でも、やっぱり東京からだと遠いですよ」と、答えた。
女が着替えを済ませると、後輩は女を更に奥の部屋へと案内する。奥の部屋には、一本の大木から切り出したような天板が印象的な座卓を前に、母親がお茶を用意して待っていた。
「改めまして、ようこそ御出でくださいました。遠かったでしょ」と、母親が女に向かって微笑みながらそう言った。
女は「はい。道程の三分の一を過ぎた辺りからは、まだか、まだかって感じでした」と、同じく笑顔で返した。
「そうよねえ。東京からだと、ちょっと骨が折れるわよね。まあ、今日はゆっくりしてね。長旅の疲れを癒してちょうだい」と、母親は娘と東京にいた時と変わらず、優しく女に声を掛けた。
そして「お父さんを呼んでくるわね」と言って、席を立った。
女と後輩が、お茶を啜りながらぺちゃくちゃやっていると「おお。帰ったかあ」と背後で大きな声がした。女が振り向くと、そこには大柄で屈強な感じが強烈な、真っ黒に日焼けしたおじさまが立っていた。
後輩が「お父さん、只今」と、笑顔で挨拶をする。そして続けて「こちらが、東京で凄くお世話になってる先輩。奇麗でしょ。私の自慢なの」と、言った。
父は「そうかあ。本当に奇麗だなあ。東京にはこんな奇麗な人が沢山いるのか?」と娘に問う。
後輩は「もう、お父さんたらっ。鼻の下伸ばさないでね。先輩の前でかっこ悪いから」と、今度はちょっときついことを言った。
父は笑って「ごめん。ごめん。あんまりこちらのお嬢さんが奇麗だったから、ついね」と、悪びれる風もなくそう言う。
後輩は「そうでしょ。奇麗でしょ。私の憧れなんだあ」と、また笑顔で言った。
そして父は「どうぞ、自分の家だと思って、ゆっくりしていってくださいね」と、女に向かって笑顔で言うと、また、どこかへ行ってしまった。
程無く、母親が戻ってきて「お父さんと会った?」と娘に聞く。
後輩は「さっき、玄関の方から来たよ」と言った。
「それで、どこ行った?」と母親が聞くと「また、どっか行った」と後輩が答えた。
母親は「もう、お父さんたらっ」と、先程父に向かって娘が言ったのと同じ口調で、同じことを言った。
どうも、この父は、一所に居るということがないらしい。常に、あちこちで何かしらをしているということだった。
「先輩。先輩!聞こえてますか?」電話の向こうで、後輩の声がする。女が、後輩の父親の回想をしている間に、どうも後輩は何事かを話していたらしい。
女は「ごめん。ちょっとお父さんのことを思い出してて、聞いてなかった」と言って謝った。
そして「えっと、何の話してたっけ?」と、後輩に尋ねる。
後輩は「『父が凄く悲しんだでしょ。』って、先輩が聞いてきたところです。それからずっと、先輩は黙ってました」と、ちょっとだけ苛ついている感じで答えた。
「あっ、そうそう。それでどうなの?」と、女が聞きなおすと、後輩は「父は、棺の蓋を閉める時までは、物凄く冷静に、色々なことを一人で全て片付けていました。悲しさとかその姿からは、まるで感じなかったんです。この人、ちょっと冷たいなって思ったぐらいです。けど、蓋が閉まった瞬間から、大泣きでした」と、当時を思い出してそう言った。
女は、思った。自分の祖父の時も、亡くなった直後は、実感が湧かなかったし、悲しくもなかった。女が悲しくなったのは、祖父の棺に花を詰める作業の時からだった。恐らく、後輩の父も、同じようなことなのだろう。
女は「そうなんだあ、可哀そう」と、祖父の時のことを思い出しながらそう言った。
後輩は「でも、直ぐに私のことを抱きしめて、私に泣顔を見られないようにしてましたけどね」と、父を小馬鹿にするように、そう言った。
女は「あなたのお家は、女でも泣いちゃいけないって家訓があるからね。男の人はもっと大変だ」と、軽く冗談っぽく返した。
「そうですね。父はこの後、一切泣きませんでした。まあ、私の見ていないところではどうだか分かりませんけど」と、やはり同じく小馬鹿にして返した。
「お父さんに、宜しく伝えてね。私がそう言ってたって」と女が言うと「父も喜ぶと思います。何しろ、先輩のことがお気に入りでしたから」と後輩が答える。
そして続けて「でも、私も父も、母のことからは、もう立ち直ってますから、心配しないでくださいね。『これは、順番なんだ。』って父に言われてから、まだ漠然とですけど、自分にもそういう日が来るんだって思うようになって、そうしたら、不思議と悲しくなくなっちゃったんですよ」と言った。
女にもこの話は理解できた。女も祖父が亡くなった時、同じようなことを聞いて、同じように思ったことがある。これは、自然の摂理であって、誰にも避けられないことであるし、寧ろ、亡くなった本人にとって、死後の世界のほうが幸せなのかもしれない。また、何しろ、その本人が、残された者の嘆き悲しむ姿を見れば、より悲しむのではないかと考えることにしたのだ。女は、このように考えることにしてから、自分は急速に立ち直ったと感じている。後輩達も、同じなのだろう。
女は「お母さんのお位牌に、お線香あげたいな」と言った。
後輩は「ありがとうございます。そう言ってもらえると、母も喜びますね。ついでに父も」と言って、ちょっと笑った。そして続けて「でも、無理しないでくださいね。何しろ、ここはご存知の通り、凄いところですから。また、スカート汚しちゃいますよ」と、昔の話を蒸し返した。
女は「言っときますけど、私、今は車を運転するのよ。ちゃんと高速道路を使っていくから、大丈夫」と、小学生が友達に馬鹿にされたときに言って返す、負け惜しみのような口調で、そう言った。
後輩は「それは、失礼いたしました。では、暮れぐれもお気をつけて」と、女の口調に応えて、慇懃無礼な感を込めてそう返した。
その後、二人が声を合わせて笑ったことは言うまでもない。
女は「いつもお家にいるの?」と、後輩に尋ねる。
後輩は「母が亡くなるまでは、地元の農協で働いていたんですけど、亡くなってからは、ずっと家にいます。父のお世話もしなくちゃいけませんから。あと、よくお客さんも来るので、その対応もありまして」と答えた。
女は「じゃあ、お母さんの代わりをしてる感じだね。それは大変だ。ご苦労様です」と、労いの言葉をかける。
後輩は「ですから、私、いいお嫁さんになれますよ」と軽く自慢して、笑った。
女が「そうだね。お料理も上手だったし、羨ましいな」と言うと、後輩は「誰か、紹介してください」と言って、また笑った。
これに対し女は「任せて」と即答して、ちょっと思い当たるところを考えてみたが、頭の中には、あの上司しか思い浮かばなかった。女は「ああ、やっぱり期待しないで」と言って、前言を撤回した。
女と後輩の話は尽きない。この後も、楽しい話や、懐かしい話で盛り上がり、時間が幾らあっても足りなかった。しかし、後輩が「明日、先輩仕事ですよね」と、言ったのを切っ掛けに、二人の会話は終わりに向けての軌道へと入って行った。そして会話の最後は、女の「必ず行くからね」という決意表明と、後輩の「気長に待ってます」という挨拶だった。ここで二人は電話を切った。
スマートフォンを、テーブルの端に置いた女は「ああ、楽しかった」と思わず口に出して、直ぐに反省した。後輩の母親が亡くなって、楽しいなんてことを言ったら罰が当たる。女は直ぐに、両手を目の前に持っていき合わせると、目を閉じて頭を下げた。そして、今、自分が保留している約束を思い出してみた。一つは、たった今、後輩と交わした、後輩の母親に線香を上げに行くという約束。そして、もう一つは、あの蓮華に再び逢いに行くという約束だ。女は、この約束達をいつ果せるかな、と考えながら、再びテーブルの端に置いたスマートフォンを手に取った。
女は、スマートフォンのスケジュールアプリを開く。そこに表示されるカレンダーには、所々に出張の文字が目立つ。蓮華については、一日あれば大丈夫だが、後輩の家へ伺うとなると、流石に一日だと物足りない。恐らく、後輩と話し始めたら、丸一日あっても時間が足りないかもしれない。最低、一泊。出来れば、二泊はしたいと思った。しかし、スケジュールは、かなりタイトに詰まっていた。
女は「うーん。暫くダメかな」と、独り言を言った。




