第三話 後悔と苦悩
翌朝、女は毎日定時に鳴り響くようにセットされた、目覚まし時計のアラームによって、目を覚ました。女は、上半身だけを起こし、万歳の姿勢から上方へとストレッチをすると、同時に大きな欠伸をした。この動作により、身体中に朝の酸素を送り込んだ女は「よし、今日からまた頑張るぞっ」と可愛い声で決意を述べて、ベッドから床へと足を伸ばした。
その後、昨日のことを回想しながら、出勤の支度を整えた女は、溌溂とした面持ちで家を出る。この日も青空が美しい良い天気だった。女は、その空を見上げて暫時静止してから、駅に向け歩き出した。暫くして女は駅に到着すると、改札を通り抜け、ホームのいつもの場所からいつもの電車に乗り込んだ。そして、いつものように、窒息しかけながら満員御礼の電車に揺られ、いつものように、自らの身を置く会社に着いた。すると、女はエントランスを目前にして、この時何故だか、物凄く久しぶりに会社へ来た気がすると、不思議な感覚に包まれる。とても、昨日一日休んだだけだとは思えなかった。そして、やはり昨日の休暇が充実していたんだろうなと、改めて女は思った。
女は、エントランスからロビーを奥へと進み、その突き当りのエレベーターホールで、上りのエレベーターを待った。そして、程無く、ロビー階に到着したエレベーターに乗り込んだ女は、自分のデスクがある三階へと移動した。エレベーターを降りた後、廊下を進み、オフィスの入口のドアを押し開くと「おはようございます」と大きめの声で言ったのち、これも、今日は何故だか少し懐かしい感じがする、自らのデスクの前へと足を進めた。続いて女は、肩に掛けたバッグからスマートフォンを取り出し、デスクの端に置いた。そして、そのバッグは、デスクの引き出しへとしまった。このようにして女が仕事を始める準備を整えた丁度その頃、上司が出社してくる。それに気づいた女は、直ぐに席を立ち、上司のもとへと向かった。
女は、少し遠いところから「おはようございます。昨日はすみませんでした」と声をかけた。
女が、上司の目の前まで来たところで「ああ、おはよう」と上司が挨拶を返す。
女は「本当にご迷惑をお掛けしてしまって、申し訳ありません」と頭を下げた。
上司は「いや、いいんだよ。仕方ないもんね。誰にでもあることだから、謝らなくていいんだよ」と優しく言った。
女は「いやいや。私は嘘をついて休んだんです。そのことは内緒ですけど、せめて謝らせてください」と、心の中でそう呟いた。
上司は「それで、先方のお母さんはどうだった。さぞや、気を落とされていたんじゃない」と、女に尋ねる。
女はすかさず「いやあ。もう本当に可哀そうで可哀そうで、私、励まさなくちゃと思ったんですけど、一緒に泣いちゃうものだから中々声にならなくて」と、事前に用意していた言葉を口にする。
上司は「そうか... 君も大変だったな。長旅ご苦労さん」と、女に労いの言葉をかけた。
女は続けて「実は、結構後輩の自宅が山奥なもので、帰りの時間がぎりぎりになってしまったんです。本当は、青森のお土産を買ってこようと思っていたんですけど、時間がなくて買えませんでした。新幹線へもやっと走りこんでセーフって感じだったんです。すみません」と、またこれも用意していた言い訳を口にする。
青森へ行ってきたのだ。本来ならば、その証拠として土地の土産を持ち帰るのが当然である。しかし、女が青森の土産を買うことはできない。青森になど行ってないのだから。そこで、怪しまれないための言い訳が必要だった。
上司は「いや、いいんだよそんなものは。気を使う必要なんかないから。だって君も、後輩が亡くなって、落ち込んでるんでしょ。先ずは、君が元気になることが一番だよ」と、女に優しい言葉を投げかけてくる。
女の後輩は死んでなんかいない。当然、女は悲しくなんかないし、元気がない訳もない。寧ろ、昨日のリフレッシュのおかげで、元気一杯だ。しかし、女は、この上司の優しい言葉に、不覚にも泣きそうになった。心の中では、嘘をついて欠勤したことをそれなりに気まずく思っている。本来ならば、叱られるような行為をしたのに、そのことを知らないとはいえ、こんな心の籠った言葉で包み込んでくれる上司に、感動したのだ。
上司は続けて「気を落としてるところ、余り思い出させてもどうかなと思うんだけど、どうして亡くなっちゃったの」と女に尋ねる。
女は「事故だったみたいです。元々後輩は、おっちょこちょいなところがありましたから」と言って、後輩との出会いのエピソードを話そうかと思ったが、話が長くなるので、またの機会にしようと、そこで止めた。
上司は「そうか。思い出させて悪かったね。もう、席に戻っていいよ」と言った。
女は「ありがとうございます」と軽く頭を下げて、自分のデスクへと戻った。
デスクに戻った女は、目前に山積みとなっている書類の山を前にして、嘘に嘘を重ねていく自分に対し「これでいいのか?」と、問いかけた。女は自分の小さな胸の内が、良心の呵責に押し潰されそうになって喘いでいることに気付いたのである。その後の女は、書類のチェックに集中しながらも、ふと、自分の過ちを思い出しては後悔するといったことを繰り返した。今更、今回のことはどうすることもできない。正直に話したところで、誰の得もないし、喜ぶ者もいない。嘘をついた自分が罰を受けるだけだ。女は、このように考え、今回のことはもう忘れよう、でも、これからは決して嘘はつくまい、と心に誓った。
女は、この日、上司に気分が優れないからと願い出て、定時に退社させてもらった。女の出社時を見ていた者がいたとしたら、この退社時の女を見たら、同一人物だとはまさか思わないだろう。この時の女は、肩を落とし、背中が老婆のように丸まり、俯いた状態でゾンビのような足取りで歩いていた。誰が見ても心配したくなる様子であった。今日一日、良心の呵責と戦い続けたことによって、女の疲労感は相当のものだった。女はこのあと自宅に辿り着くまで、繰り返し「もう嘘はつかない」と、呪文のように呟き続けた。自業自得とはいえ、傍から見ると、やはり、心配になるし、可哀そうでもある。しかし、周囲の人間は、事情を知らぬがゆえに、只々、気味悪がるだけだった。
自宅の玄関前へまで帰り着いた女は、鍵を開け、扉を開けて室内に入った。そして女は、肩に掛けてあったバッグを適当なところへ投げ捨てて、ベッドの上へとダイブした。そのまま、俯せで泣いたのだ。女は、本当に後悔している。可哀そうだが仕方がない。これについては、自分自身で始末を付けるしかないのだ。
女は、その夜、夢を見た。女と上司が、例の場末の居酒屋で飲んでいる。そこへ、どこからともなく近づいてきた二人組が「あらっ」と声を掛けた。女がその声のする方へ視線を移すと、その二人組は、あの後輩とその母親だった。女は、後輩の姿を上司に見られたら大変だ、と慌てたが、死んでしまったことになっている後輩とは別人だということにすれば大丈夫か、とも考えた。しかし、女は、もう金輪際嘘はつかないと心に誓ったことを思い出した。とはいっても、中々決断ができない。上司に対してこの場を借りて正直に謝ろうか、それとも、また嘘をついて後悔の念に押し潰されるか、と迷っていた。
そこで、後輩が口を開く。
「先輩、お久しぶりです。元気でしたか」あの、いつも一生懸命で100パーセントの後輩の声だった。
女は、まだ先述のことについて、どうするべきか答えを導き出せていない。
「う、うん... 元気だよ...」と、煮え切らない返事をする。
すると「先輩、私、先輩と同じ会社に就職することになったんです。また、先輩と後輩ですね」と、後輩は物凄く嬉しそうにそう言った。
女は「えっ」と大声を上げ、心の中で、万事休す... と呟いた。
ここで母親が口を開いた。
「また、何かと宜しくお願いしますね。何しろこの娘は、貴方のことを世界で一番大好きで、世界で一番頼りにしているって言うんです」
この言葉に対して、女が何と返してよいものかと思いあぐねているうちに、母親が次の句を継ぐ。
「貴方のことが世界で一番好きなんて言ってたら、結婚できないですね。ご迷惑でしょうが、この娘のこと、大事にしてやってください」
女はこの言葉を聞いたところで「わー!」と叫んで目が覚めた。
夢だとはいえ、こんなに自分を慕ってくれている後輩を、自分の嘘のために殺してしまうなんて、どれだけ自分は酷い先輩なんだ。きっと、神様が自分を戒めるためにこんな夢を見させたんだろうと、女は考えて、また、酷く落ち込んだ。女は、この後、暫く呆然となって起きていたが、程無く頭まで布団を被り「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」と、再び呪文のように唱えながら目を閉じた。
そして、再び、先程の夢の続きが始った。今度は上司の言葉からだった。
「いやあ、すまんが、この人はもう君の先輩ではないんだよ。今日付けで辞めてもらったから」と、後輩に向かって言っている。上司は続けて「何しろ、この人は平気で嘘をつくんだ。会社としては、信用に関わるから、そういう人は雇っておけないからね」と言った。
すぐさま後輩は「そうですか。それでは仕方ないですね。私もそういう意見には大賛成です」と、それが当然といった面持ちで頷きながらそう言った。
この後、上司は女に向かって「君がこの可愛い後輩に向かって、どのような仕打ちをしたのか解ってんのか!」と大声で怒鳴る。続けて「社会人失格だ!いや、人間失格だ!」と、店内のすべての人が振り向く程の大声を上げた。
当然、ここで女は跳び起きる。今度は、肩で息をしていた。女は、またもや暫しそのままの姿勢で呆然とし、頭の中で、人間失格という言葉にエコーがかかって鳴り響いているのを聞いていた。
この後、女は眠るのを諦めた。というよりは、眠れなくなった、と言った方が正確かもしれない。女はベッドの上で、只々考え続けた。
自分は、今回の件について、この後どのような対応をとるのが一番良いのか、また、更には、自分は今後どのような人間になることを目標にすれば良いのか、また、どのような人生を歩んで行けば良いものかと、只管考えた。勿論、そんなに簡単に答えが出る筈はない。悟りを開くには、多くの場合一生を費やすものだ。そして、それでも叶わない人が殆どだろう。それでも女は考えた。毎朝定時に鳴り響くアラームの音がその耳に届くまで。
ベッドから降り立った女は、出勤の支度を始める。昨日の朝とは、百八十度も違う憂鬱な気分である。そして、身体も言うことを聞かなかった。今日こそは、嘘をつかずに体調不良と言って、欠勤を願い出るということも考えられたが、この時の女には、このまま家にいても、この鉛よりも重い最悪な気分が良くなるとは思えなかった。いや、寧ろ、悪化していくことを恐れたのだ。そう思った女は、出勤することに決めた。そして、いつものように家を出て、駅のホームのいつもの場所から、いつもの電車に乗り込み、いつものように窒息しかけ、いつものように会社に着いた。そして、いつものように自分のデスクに辿り着いたとき、いつものように、上司が出社してきた。女は、やはり、いつものように上司のもとへと歩いて行き「おはようございます」と挨拶をした。
上司も「ああ。おはよう」と挨拶を返した。そして、女の顔色が悪いことに気付いた上司は「今日も気分が優れないようだね。大丈夫か。もう一日二日休んでもいいんだぞ」と心配そうな表情で優しい声を掛けた。そして更に続けて「君に元気がないと、僕も心配になって調子が出ないんだよ。昨日も君が帰ってから、早く良くなればいいなあって、考えてたんだ」と、優しい言葉で畳みかけた。
女は、この言葉を聞いて、この日は本当に泣いてしまった。ここにいるのは、昨晩の夢の中、あの大きな怒鳴り声で「人間失格!」と自分を叱責した上司ではない。ちょっと気に入らないところもあるが、時には優しく自分を包み込んでくれる、いつもの上司だった。
突然泣き出した女を見て、上司は「ちょっ、ちょっと。ここで泣かないでくれよ。皆が見てる」と、慌ててそう言った。
女は「すみません。取り乱しちゃって...」と、袖で涙を拭いながらそう言って返した。
女は、酷い嘘をついて、いうなればこの優しい上司を騙して仕事をずる休みしたのに、そんな自分に対し、上司が心から優しく接してくれるということに、嬉しさの余り泣いている。しかし、上司はそのことを知らない。上司は、女が、後輩を亡くしたことで、若しくは、その母親の悲しみを憂いて、泣いていると思っている。所謂、勘違いだ。だが、これは仕方がないことだ。女が、その口から真実を告げない限り、上司には判るわけがない。
上司が、どうこの場を収めようかと、おろおろしながら、女の周りを回っている時、女は「もう、大丈夫です」と言って、その顔を上げて、上司に向けてにっこりと微笑んだ。女は、決めたのだ。取り敢えず、会社にいる間は余計なことを忘れようと。こんな自分でも、会社にとっては幾らかの戦力になっているはずだ。そうであれば、迷惑を掛けた分はしっかりと仕事で返そう。それが、ケジメだろうと。
「よし。私、頑張ります!」と、女は急に明るい声でそう言うと、自分のデスクへと戻って行った。
その場に取り残された上司は、周囲の者の冷ややかな目に晒され、全力で違う違うと手を左右に振ってアピールしていた。
女は、デスクに積まれた書類の山を、てきぱきとした動きで確実に減らしながら、自分に与えられた膨大な仕事を片付けていく。それを暖かくも慈悲深い目で見ている上司は、女は悲しみを忘れるために、敢えて気丈に頑張っているのだと、未だに勘違いしていた。女は、そんなことを思っている上司の視線などには気付かずに、目前の仕事に集中し続けた。そして、定時を少し回ったところで、ふと、背後に人の気配を感じ、女は振り向いた。
「ご苦労さん。今日はもう帰っていいよ。...いや、帰りなさい。これは命令だ」と、上司が微笑みながら、女に向かって、そう言った。
「いえ。まだやれます」と女が言って返すと「今は、休みなさい。君だって、僕にこの間、身体に気を付けろと言ったじゃないか」そして「今の君を見ていると、本当に心配なんだよ。今日はここまでにして、絶対帰るんだよ。いいね、絶対だよ」と、上司が少し厳しい顔になってそう言った。
ここまで言われると、流石に女は上司の言うことに逆らえず「はい。分かりました。今日は帰ります。本当にお気遣いありがとうございます」と、頭を下げてそう言った。この後、上司が、女のデスクから自分のデスクへの帰り道、心の中で「自分は何てできた上司なんだろう」と自画自賛し、満足顔で頷いていたのを、女は知らない。
そして女は、帰宅の途に就いた。
会社の最寄り駅から電車に乗って、自宅の最寄駅へと辿り着いた女は、降り立ったホームから階段を昇り降りし、改札へと向かう。そして改札を通り抜けたあと、女はその正面に、大きな入り口の扉を全開にし、改札から出てくる乗降客を丸ごと鵜飲みにしようかと待ち受けているスーパーマーケットに、まんまと飲み込まれた。女は、夕食の調達の為、ここに立ち寄ったのだ。女は、総菜コーナーへと足を進め、そこそこ美味しそうな、調理済みの商品を買い物かごに入れ、レジへと向かった。女は時間帯的に超混雑のレジで暫く並んだ後、会計を済ませ、今買ったばかりの商品を、レジの出口前に据え付けられている作業台の上でレジ袋に詰めた。そして、このスーパーマーケットを後にすると、ぷらぷらと夕食の入ったレジ袋を揺らしながら、自宅へと歩いて帰った。
玄関から室内へと入った女は、肩に掛けているバッグからスマートフォンを取り出すと、テーブルの端に置いた。そしてバッグは、入口付近の壁に自分で取り付けたフックへと掛ける。
「よし。取り敢えずシャワーっと」女は得意の独り言を、自らの行動の掛け声とした。
女は、浴室から出ると、今日も「ふー」と言って、暫しの間、洗面台の前で裸のまま涼んだ。程無く、シャワーの温水によって火照った身体が冷えてくると、ドライヤーを右手で掴み、髪を乾かす。そして、寝巻を身に着け一連の作業を終えると、女はスマートフォンの置いてあるテーブルへと戻り、漸く夕食にありついた。
この時の女は、会社で上司に優しくして貰えたおかげで、大分落ち着いていた。しかし、心の中には依然、もやもやとしたものが燻っている。上司に対して嘘を言ってしまったことは、もう致し方もない。だが、これからは心を入れ替えて、絶対に嘘はつかない、と決めたことで、一応の心の整理はついた。しかし、女はまだ、あの後輩に自分がしてしまった仕打ちに対して、何の償いもしていない。何の罪もない可愛い後輩を殺してしまったということを、心の底から申し訳なく思っているのだ。正確に言えば、何の仕打ちもしていないが...
女は、後輩に電話をかけることにした。後輩に直接電話を掛けて、潔く、正直に事情を明かして謝ってしまおう、と考えた。きっと、謝ってしまえば、心の中のもやもやは、たちどころに解消されるのではないかと思ったからだ。女は、もういい加減、楽になりたかった。大分、心の状態は落ち着いて来ていたが、いつ、またぶり返すとも限らない。だが、そう考えた直後、女は、謝るのはおかしいのではないか、とも考えた。よくよく考えれば、実際のところ自分は後輩に対して、何かをしたという訳ではない。きっと後輩も、突然女に謝られても、どうすればよいのか解らずに困るだろう。夢の中の上司に「君がこの可愛い後輩に向かって、どのような仕打ちをしたのか解ってんのか!」と、大声で叱責されたことで、頭の中では後輩に酷いことをしてしまったと後悔しているが、後輩にそんな話をしても、笑われるだけなのではないか、とも考えた。
女の思考は、中々答えを見出せない。決心が出来なかった。そして女は、暫くの堂々巡りの果てに、取り敢えず、今は謝らないと決めた。
女は後輩に謝ることは止めたが、電話は掛けることにした。やはり、声を聞きたかったのだ。この二日間、何度も後輩のことを思い出した。懐かしさも増して来たし、謝らないとしても、声を聞ければ、未だ燻る心の中のもやもやも薄らいでいくかもしれないと考えた。
女は、テーブルの上のスマートフォンを手に取り、電話帳アプリを開く。リストの中から後輩の氏名を探しだし、軽くタップした。暫しの無音ののち、呼び出し音が鳴る。三回目のコールの後、あの元気な声が応対した。
「先輩ですか!めっちゃ、お久しぶりです!わー、超嬉しい!」と、相変わらず物凄い勢いを感じさせる。
女は、学生時代から携帯電話の番号を変えていない。後輩は、着信の番号を見て、直ぐに女だと気付いたのだろう。
女はこれに対し「元気にしてたあ。私も久しぶりに、そのすっ飛んだ声が聴けて超嬉しい!」と、微妙にいじりながら応対した。
後輩は「その言いようから推察すると、先輩は元気そうですねえ。私は... ちょっといろいろありましたけど、今はもうしっかり元気です」と、ちょっとした皮肉を混ぜて、本当に元気一杯な声でそう返答した。
「で、馬鹿でおっちょこちょいは変わってないの?」と、女が尋ねると「はい。馬鹿でおっちょこちょいは、私の特技ですから、一生このまま大事にします」と、後輩は気の利いた返事をする。
「いやあ、こうして話してると楽しいね。また、一緒に働けたらいいのにね」と、女がしみじみ言うと「そうですね。また、東京に行っちゃいましょうか」と、後輩が調子よく答える。
この時の女は、こんな会話を続けているうちに、心の中のもやもやした燻りが、消えていってくれればいいな、と思っていた。そして、この後も沢山のおバカな遣り取りを楽しんで、一息ついた頃、女は「お母さんは元気?」と軽い口調で後輩に問いかけた。それまで、漫才のような軽快なテンポで会話を続けていた後輩が、電話の先で一瞬言葉に詰まった。
そして「実は... 半年前に、母は亡くなりました」と、ゆっくりと噛み締めるように話した。
すぐさま女の口からは「えっ」と、いう驚きの声が発せられる。そして、女は我が耳を疑い「今、なんて言った」と、問いただした。女は、信じたくなかった。あの、ちょっと強引なところもあったが、他人のことをいつも第一に思い、自分のことも本当に大事にしてくれた後輩の母親が亡くなった。とても、受け入れられるものではなかった。
「半年前に、母は亡くなりました」と、もう一度、ゆっくりと後輩が電話の向こうで答えると、女は、スマートフォンを握りしめたまま俯き「嘘だ、そんなの絶対嘘だ。私、信じないよ。私を担ごうとしてるんでしょ」と、今にも泣き出しそうな震える声で否定した。
実は、女に母親はいない。女が幼少で、まだ何の分別もつかない時分に、母親は、父のもとを離れていったらしい。従って、女には母親の記憶がない。母とはどういう存在なのかを知るためには、テレビドラマで確認するしか方法がなかった。こんな女にとって、後輩の母親との出会いは、母親というものを身近に感じる初めての経験だった。
後輩とバイト先で、一緒に働くようになってからというもの、女は頻繁に、その母親が待つ後輩の家へと邪魔をした。三人で食卓を囲み、三人で母親が用意してくれていた夕食を、三人で仲良く談笑しながら頂き、そのまま、三人で寝てしまうということもままあった。女と後輩の二人共が、バイトのシフトから外れている時などは、日頃のお礼といって、女と後輩の二人で夕食を作り、母親にご馳走したりもした。後輩は、幼い時分から母親の手伝いをするなどして料理上手であったが、女はお世辞にも上手とは言えなかったので、これは良い花嫁修業になったことだろう。といっても、女は後輩の指示に従うだけであったので、どれだけ身に着いたのかは判らぬが...
三人でショッピングに出かけることもあった。女が服を選んでいる際にも、親身になって色々と助言をしてくれたり、店内のあちらこちらから様々な衣服を持ってきては、これが似合うかしら、いや、こちらの方がいいかしら、などと言って、女の胸にその衣服を合わせては、優しい目をして微笑んでくれた。衣服選びのセンスは少々疑問のあるところだったが、女は、この人が自分の母親だったらどんなにいいだろう、と、常々喜びに包まれながら、そう思っていた。
女の頭に、数々の想い出が浮かんでくるのと共に、女の下瞼には、それに応じて涙が浮かんでくる。
そんな時、後輩が「嘘じゃないんです。私、嘘は嫌いですから」と言った。
女は、この言葉に、後輩の母親が亡くなったのは真実なんだと確信したのと共に、自らの罪を咎められたかのような気分になった。後輩は曲がったことが本当に嫌いだった。恐らく、これは母親から受け継いだものだろう。その後輩が、こういうのだから、嘘の筈はない。そして、女は後輩が死んだ、と嘘をついたことを再び後悔し、後輩に対して申し訳ないと思う気持ちで、その胸を一杯にした。
女は思わず「ごめんなさい」と口にする。
後輩は「えっ、どうしたんですか。先輩」と尋ねる。
女は「いえ、疑ったりしてごめんなさい」と言葉を重ねる。
「そんなの全然いいですよ」と、女の気持ちを知らない後輩は、何も気にしない風に軽く言った。
「ところで... 何で... 亡くなっちゃったの」と、女は下瞼に溜まりゆく涙を拭いながら、途切れ途切れの声で尋ねる。
後輩は「どうも、畦道から水路に転落したみたいです。前の日に凄く沢山雨が降ったので、田んぼを独りで見に行ったんです。中々帰ってこないから、父が探しに行ったら、水路の排水口に引っかかっていたと聞きました。畦道は多量の雨でぬかるんでいましたから、足跡もはっきりと見て取れたらしいんですけど、畦道の水路側の端に、靴が滑ったような跡があったそうです」と、かなり詳しく説明した。
これに対し女は「事故だったの?」と続けて問う。
すると後輩は「恐らく、畦道の下の水路を見ようとした時に誤って転落して、雨で多量になった水路の水に流されて、排水口に足が挟まって水死したのだろうというのが、警察の見解です」と答えた。そして続けて「母も私と一緒で、おっちょこちょいでしたから」と、後輩は、しみじみと思い出に浸るような口調でそう言った。
更に続けて「蛙の親は、蛙ですね」と冗談を言った。後輩は、女が電話の先で泣いていることに気付き、多少なりともその悲しみを忘れさせてあげたかったのだ。この時の女の悲しみのレベルは、勿論、最高潮であったが、女は、この冗談に後輩の優しさを感じ取り、平静を取り戻さなくては、と、一度大きく深呼吸をした。
そして女は「悲しいことを思い出させちゃって、ごめんね。お父さんとかは、大丈夫。凄く悲しんだでしょ」と、出来うる限り平時の口調で、そう言った。




