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蓮華ヒステリック  作者: 大仏薫
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第二話 後輩との出逢いと、嘘の始まり



 この後輩との出会いは、全くもって腹立たしいものだった。

 女が学生時代に、多くの買い物客などで賑わう商店街のアーケード下を、独りで歩いていた時だ。何やら背後で「私、買ってくる!」という元気な声が聞こえたかと思ったら、直ぐに「危ない!」そして、女は声のする方向に振り向く間もなく地面に突っ伏した。この瞬間、女は何事が起ったのか解らなかった。しかし、直ぐに「わあ、痛ーい。えっ、大丈夫ですか!すみません!ごめんなさい!気付かなかったんです!本当にすみません!許してください。本当にごめんなさい!」と、謝罪の言葉のオンパレードが、女の耳に飛び込んできた。ここでやっと、女は理解した。何者かが、女の背に勢いよくぶつかってきたのだ。そのせいで、女は地面に倒されたということだ。女は取り敢えず起き上がろうとしたが、どうも膝を痛打したらしく、痛くて直ぐには立てそうもない。地面に長座するのがやっとだった。

 女が視線を上げてみると、目前には、同じぐらいの年齢の女と、その母親らしき人が、心配そうに自分を見てしゃがみこんでいる。続けて女は、周囲に視線を向けてみた。すると、その親子らしき二人の、後ろから左右、更に女の背後にまでどんどんと人が増えていくのが目に入る。そのすべての人が、自分のことを心配そうな眼差しで見つめていた。女は流石に恥ずかしい。

 この状況から一刻も早く抜け出したいと思った女は「ちょっと膝を打ったみたいですけど、大丈夫ですから、心配しないでください」と目前の二人に対して慌てて言った。

 ところが、母親らしき人のほうが「いえ、大丈夫な訳ないです」と、ちょっと怖い顔で決めつけるように言うと、更に続けて「病院へ参りましょう。私がお連れします。絶対に行ったほうがいいです」と言うや否や、半ば強引に女の腕をとった。

 この三人の周囲を取り囲んでいた者の中には、女が応対したことで、安心してこの群れを離れる者もいたが、多くの者達は、そうだ、そうだといった面持ちで頷いていた。女は兎に角、この晒し者的な状況から解放されたかったので、この母親らしき者に同意して、その肩を借りることにした。

「本当に、すみません。馬鹿でおっちょこちょいな娘なもので」と母親らしき人が、母親だと判るように女に言うと「本当にすみませんでした。馬鹿でおっちょこちょいで」と娘が重ねて言う。

 女は「もういいですよ。怪我も大したことないし」と返す。

「いえ。私が馬鹿でおっちょこちょいなのがいけないんです」と、真面目腐った妙顔で、娘が重ねて言う。

 女は、いきなり体当たりをされ、地面に倒された挙句、自分を群衆の面前で晒し者にし、更に何の都合も聞かず強引に病院へ連れて行こうとするといった、この親子の一連の諸々に対してそこそこ腹立たしく思ってはいたが、この娘の妙顔に、不覚にも吹き出して笑ってしまった。

「あっ。ごめんなさい。余りにも真面目な顔で、馬鹿だのおっちょこちょいだの言うから、つい笑ってしまいました」と、女は、娘の顔が妙だったということは伏せて、笑顔でそう言った。

「本当に許して下さい。私、何でもします。どうぞ言ってください」と娘。

「だから、気にしなくっていいですって。失敗は誰にでもあることですから、自分を責めちゃ駄目ですよ」と、女はもう、それまでの怒りなどどうでも良くなって、優しい声で、娘を諭すようにそう言った。

「えーん。ありがとうございます。普通だったら滅茶苦茶怒って当たり前なのに、あなたって本当に優しい人なんですね。私、感動しました。ファンになってもいいですか」と、娘が急に人懐っこくなって言う。

 ”えーん”って、ちっとも泣いてなんかいないじゃないかこの娘!と女は思ったが「そんなこと言われると恥ずかしいですよ。やめてください」と娘の申し出を軽く受け流し、手で遮る真似をした。

「じゃあ。行きましょうか」と母親が言うと、女も「そうですね。お願いします」と、笑顔で応えた。

 そして女は、この娘の母親の肩を借り、このような馬鹿馬鹿しいやり取りを寧ろ楽しみながら、片足を引きづりつつ病院へと歩いていった。


 病院は直ぐ近くにあった。そこへと向かう道すがら、この親子から、ここへは、つい昨日に越してきたばかりだと告げられた。女は、越してきたばかりなのに、何故、迷いなく病院への道を歩けるのか不思議に思って尋ねたところ、娘が言うには、その引っ越し先が、病院のすぐ裏手にあるということだった。そして、母親が決めた引っ越し先の選定条件に”病院の近く”といった項目があったことも同時に明かされた。

 娘は「母が心配性なもので、何かあった時に病院が近くにあれば安心だっていうんです。今まで居たところは、もの凄く田舎だったから、病院も全然近くになくて大変だったこともありましたから」と説明した。

 女は「そういうことなんですね。謎が解けました」と言い、続けて「失礼でなければ、何で越されてきたかも聞いていいですか」と尋ねる。

 すると母親が「娘が、こちらの大学に入学することが決まりまして、独り暮らしをすることになりました」

 女はこれに対し「それは、おめでとうございます。良かったですね」と祝いの言葉を述べる。女は続けて「独り暮らしですか。お母さんとしては色々心配ですね」と言った。

 母親は「そうなんです。もうご存知だとは思いますが、この娘は馬鹿でおっちょこちょいですから」と、申し訳なさそうに女に言う。

 これに対して女は「いえいえ。私も同じようなものですから、親には、きっと心配をかけていると思います。若い子達は皆そうだと思いますよ」と、落ち込んでいる風の母親を慰めるつもりで、そう言った。

 そうすると母親は「いえ。この娘は特別です。放っておくと何をしでかすかわからないもので、いつも心配でしょうがないんです」と言って、娘を睨む。

 娘は肩を窄めて「ごめんなさい」と応対した。

 母親は「独り暮らしといっても、暫くは私が同居して監督するんです。よそ様にご迷惑をお掛けするわけにはまいりませんから」と言った。

 女は「余程信用されていないんだな。まあ、こんな感じじゃしょうがないか」と言いたくなったが、それは心の中だけにして、微笑んでいた。

 三人は、数百メートルの道程をゆっくりと歩き続け、程無く、病院の前へと到着した。すると娘は、ささっと入口のドアへと走って行く。どうも、入口の自動ドアを開けておいてくれるつもりらしい。娘は、女と母親がそのドアに差し掛かった頃「さあ、どうぞ」と言って、中へと招き入れたかと思うと、直ぐにまた走り出した。女が目で追うと、娘は病院の受付のカウンターへとまっしぐらである。女が、母親の肩から離れ、待合室の椅子へと腰を下ろしたところ、娘がまた走って戻ってくる。その手には、何やら紙の挟まった下敷きのようなボードを持っている。

 娘は「『この用紙に必要事項を記入してください』って言われました」と、女にそのボードを手渡した。女が手に取ったその用紙を見ると、それは初診受付の問診表で、ボードの端に付属している金具にはボールペンが挟んであった。

 女が「私、初診ではないんですよ。家がこの近くですから。診察券も持っています」と娘に言うと、娘は「えー、そうだったんですか!嬉しい!」と、恐らく、”家が近い”という言葉に反応した。そして直ぐに「あっ。すみません。取り乱しちゃって」と、気を付けの姿勢から、腰が直角に成るほどの深いお辞儀を、物凄い速さで行った。娘は元の姿勢に戻ると「私、そのように伝えてきます!」と言い残し、また走って受付へ戻って行く。

 女は「ん?」と、この娘の動きを見て閃いた。この娘は、自分のところから受付へ走り出すときに、その走っていく方向など全然確認しなかった。行き成り振り向き、行き成りダッシュしたのだ。女が商店街のアーケード下で、この娘に地面へと沈められたのは、正にこれが原因だと気付いて「ああ」と、思わず口にして、頷いた。

 女は、隣に座った母親に対し「確かに危険な香りがしますね。ご心配なさる気持ちが少し理解できた気がします」と、にこやかに冗談っぽく口にした。

 母親は「本当に、お恥ずかしい限りです」と、本当に恥ずかしそうに、そう言った。

 娘は再び戻ってくると、女に対し「それでは、診察券をお願いします」と、両手を揃えて、女の顔の前に差し出す。こうなるだろうと考えていた女は、娘が二回目に受付へ行ったその隙に、財布から取り出して用意していた診察券を「はい。お願いします」と言って、娘の掌の上にそっと置いた。娘は「じゃ、行ってきます!」と、今度は女に、軍隊式の敬礼をお見舞いして走り去っていく。

 流石に女は、爆笑してしまった。母親は、頬を真っ赤に染めて、本当に恥ずかしそうに俯いていた。


 診察を終えて、女が待合室に戻った時は、母親が娘に説教をしている最中だった。娘は再び肩を窄めて、すまなそうに頭を垂れながら頷いていた。診察自体には、そう長い時間はかからなかったが、レントゲン写真などを撮影したので、そこそこの時は経過していた筈だ。従って娘は、母親に大分長いこと叱られているのだろうと、女は推察した。

 女に気付いた母親は、娘への攻撃を止め「どうでしたか」と、心配そうに女に尋ねる。

 女は「骨は全然きれいでした。ちょっとした打撲ですって。何だかもう痛みも退いてきて、普通に歩けます。ご心配おかけしました」と、笑顔で返した。

 親子は「良かった」と、安堵の表情を女に見せながら、声を揃えて口にした。

 女は「本当にご心配おかけしました。却ってお時間取らせてしまって悪かったですね。何か買い物をされていたんですよね」と母親に尋ねた。

 母親は「いえいえ。心配だなんて、こちらが一方的に悪いんですから、当然のことです」続けて「買い物と言っても、ちょっと買い忘れたものがあっただけで、別にいつでもいいんです」と答えた。

 女は「そう言えば、娘さんは『私、買ってくる!』って叫んでましたね。あれは、買い忘れたものに気付いて、買いに戻ろうとしたんですね」と言った。

「そうなんです。本当にこんなことになってしまって、何とお詫びしたらよいものか、本当にすみません」と、母親は、女の言葉に、謝罪の言葉を返した。

 女は「もう全然大丈夫ですから、本当に気になさらなくていいですよ」と言って、両手で母親の詫びを遮るような素振りをした。

 すると娘が「お住まいはお近くなんですよね。良かったら私の家に来て、夕食でもどうですか。まだ昨日越してきたばかりで、部屋の中はぐちゃぐちゃですけど、私、お料理得意だから滅茶苦茶頑張って美味しいものご馳走しますよ」と、とても嬉しそうに女に話す。

 母親は「それはいい。本当に部屋の中は恥ずかしくてお見せできない状態ですけど、この娘の料理だけは自慢ができるものなんです。良かったらお詫びのしるしと言っては、失礼かもしれないですけど、ご一緒にいかがですか」と娘に重ねた。

 女は流石に、初対面の親子に御呼ばれするのは気が引けるので「すみません。お気持ちは大変嬉しいんですけど、私、この後ちょっと予定がありまして」と、やんわりとお断りをする。

 すると娘は「そんなあ、残念。じゃあ、今度都合の良いときに絶対来てくださいね。絶対ですよ」と言い、母親が「そう言うことでしたら、無理にお誘いするのはいけませんね」と言った。

 女はこの言葉には特に何の返答もせず「では、私、失礼しますね」と言って立ち去ろうとした。

 すると「また、何かあったらよろしくお願いしますね」と、女の住まいが近所であることを知った母親が、軽くお辞儀をして言う。

 これに対して女は「また何かあったら困ります」と、にこやかに冗談を言って、その場を後にした。


 そして、数日が経ち、女がバイト先である、あの商店街のパン屋で、商品の陳列をしていた時のことである。このパン屋の陳列棚のその先は、ガラス張りになっていた。そのガラスの向こうは、この商店街のアーケード下の道路で、常時、買い物客の行きかう姿がよく見えた。女は、手にしていたトレーから、焼きあがったパンの全てを陳列棚に置き終えた後、何気なくガラスの外を見た。すると、何やら挙動不審な女を見つける。その女は、時期的に花粉症なのかもしれないが、使い捨てのマスクを着け、色の濃いサングラスをしている。そして、暫く見ていると、明らかにこのパン屋の内部を覗きながら、通り過ぎてみたり、また戻って来たりを繰り返していた。

「店長、なんか変な人がいます」女は、不審な女から目を離さないようにして、厨房で作業をしていた店主に聞こえるよう大きめの声で、そう言った。

 店主が「えっ、どんな人」と厨房から答えると、女は、厨房にいる店主へと視線を移して「取り敢えず見に来てください」と訴えた。

 そこで店主が「ちょっと待って。今行くから」と言って厨房から出てくると、女は、店主が自分の目前まで来るのを待って「ほら」と言って振り返り、不審な女がいた方を指さした。ところが、そこに不審な女はいなかった。

「あれ」と、女が言うと、「あれ」と、どこかで聞いたことのある声がする。

「えっ」と、女が声のする方に目をやると、そこにはさっきの不審者がいた。

「わっ!」と、女は声を出し、思わず後方へと身を引いた。先程まで店の外にいたはずの不審者が、自分のすぐ近くにいたものだから驚いたのだ。

「こんにちは」不審者が女に向かって言う。続けて不審者はサングラスとマスクを外して「私です!この間はすみませんでした。ここで働いてるんですね。奇遇です。ん?運命かな。実は私もここで働きたくて」と、例の人懐っこい調子でそう言った。

「あれ、あの時の」と女は、不審者があの娘だと気付き、こわばっていた顔を緩めてそう言った。

 娘は「ちょっと外から見ていたんですけど、良さそうなお店だなあって思って、思い切って入ってきちゃいました」

「えっ。どうしてここなの?」と、女が尋ねると、娘は「私、お料理が得意じゃないですかあ。本当は、お料理屋さんとかでバイトしたかったんですけど、良さそうなところは、中々女の子だと厨房に入れなくて」と残念そうに言う。

「でっ、パン屋なんだ」と女が返す。

「私を雇ってください!先輩!」と娘は、例の調子で勢いよく頭を下げた。

「ちょっ、ちょっと待って!私は経営者じゃないから」と、女は娘の申し出を手で遮った。続けて「この人が店長さん」と言って、この二人のやり取りを、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で聞いていた店主を指さした。

 娘は「すみません。またやっちゃいました」と女に頭を下げて、次は店主に向かい「私を雇ってください!店長さん!」と言い、また思いっきり頭を下げた。しかも今度は握手を催促するかのように、右手を差し出している。

 店長は「いいよ。ちょうど先月一人卒業して抜けちゃって、人手が足りなかったから寧ろ助かるよ」と、娘の右手を握り返して、そう言った。

「やったあ!ありがとうございます。私、何でもします。今からでもいいですか。もう、直ぐに働けますよ」と、娘がその可愛らしい目を輝かせて、握りしめた店主の手を上下に勢いよく何度も振ると、それを間近で見ていた女は、また不覚にも噴き出した。

 店主は「あっ、ああ。じゃあ頼むね」と言って、娘によって激しく振られる右手を振り解こうとゆっくりその手を退こうとしたところ、娘は「ありがとうございます。私、死ぬ気で頑張ります!」と、今度は店主の右手を両手で掴み、更に激しく上下に振った。この時女は、完全に困り顔の店主を見て「可笑しすぎる」と言って、腹を抱えながら爆笑していた。


 この辺りまで、後輩の記憶を紐解いたところで、女は、この後輩のこういうところは、少なからず自分の人生に影響を及ばしているな、と、しみじみ思った。この後輩は、いつも一生懸命だった。何事に対しても全力で対応して、そして、全力で行動していた。お辞儀一つとってもそうだ。この後輩の、このような態度、仕草を間近で見ていると、女はいつも気持ちが良かった。例え、商品に難癖をつける嫌な客だろうと、この後輩は、他の客と何も変わらない誠実な態度で応対していた。この娘を嫌いな人間など、この世の中には存在しないだろうと、女は常々思っていた。


 学生時代のバイト先で、この後輩と共に働いたことは、自分にとって財産になったと、女は今でも思っている。衝撃的な初対面の出来事さえ、今となっては笑い話だし、良い想い出だ。しかし、この後輩には死んでもらわなくてはならない。勿論、女は、この後輩のことが大好きだ。後輩ではあるが、ある意味、人生の師である。

 他の友人に白羽の矢を向けることも考えたが、まず第一に、選考基準のトップを飾る”田舎に暮らす”という条件をクリアする友人が少ない。地方に実家がある友人も、その殆どが、都会で暮らしている。やはり、田舎では求人も少ない上に、何しろ生活が不便である。学生時代に、都会の利便性にどっぷりと浸かってしまったら、中々抜け出せないのだろう。しかも、都会暮らしはちょっとお洒落だ。勿論、都会で暮らしているからといっても、実家が地方にあるならば、葬儀はそこで執り行われるだろう。しかし、もしもその友人と会っているところを、会社の人間に目撃されたりすれば、自分のこれまで積み上げてきたものが、全てアウトになるかもしれない。女は、嘘をついて会社をずる休みするような人間には見られたくなかった。実際は、そうなのだが...


 以前、女は、会社帰りに友人と待ち合わせをして、会社近くの居酒屋で楽しく飲んでいた時に、会社の男性社員に声をかけられたことがある。しかも、その同僚は女の友人に興味が湧いたらしく、暫く同席して一緒に飲んでいった。自分のグループはほったらかしにしてだ。それを考えると、危険な賭けはできない。そういった確率が、限りなくゼロに近い対象者を選定しなくてはいけないと、女は思った。また、この後輩のように、もしも、その人となりや関係を尋ねられても、細部まで矛盾なく返答できる逸材は他に考えられなかった。


 女は「ごめんね。私を助けて」と呟いて、頭の中にいる後輩に、合掌して頭を下げた。全く縁起でもない...

 すると「そういうことなら、喜んで協力します。いえ、協力させてください!」と、あの元気な声が何処からともなく聞こえたような気がした。全くこの女の耳は、都合よくできている。

 これにより、心の整理がついた女は、上司にEメールで欠勤の届を送ることにした。本来ならば、欠勤届は書面で提出する決まりになってはいたが、なにぶん急なことであるといった演出が必要と考えて、敢えてのEメールだ。

 以下、その全文である。


件名:欠勤願い

本文:

大変夜分遅くに申し訳ありません。

また、先程はごちそうさまでした。

色々なお話を伺えて、勉強になりましたし、楽しかったです。

また機会がありましたら、ぜひ誘ってください。


さて、表題の件ですが、つい先ほど自宅に帰ってから留守番メッセージを聞いて知ったのですが、学生時代の後輩が亡くなりました。

つきましては、明日お通夜を営むとのことで、本当に急なことで申し訳ないのですが、明日は欠勤させてください。

ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします。


 女はこのEメールを送信して「ふー」と安堵の大きな溜息をついた。もう既に時計は午前1時を過ぎていた。流石に、この時間のEメールは迷惑だったかな、と女は思ったが、さっきまで散々迷惑をかけられたお返しだ、と割り切ることにした。

「さて、シャワーでも浴びよっかな」と、女が小声で呟き、立ち上がろうとしたとき、目前のテーブルに置いたスマートフォンの振動音が聞こえた。スマートフォンは、マナーモードのままだった。女は、スマートフォンを手に取り、そのディスプレイを見た。上司からの返信だった。女は、既に上司は自宅に戻って寝ているのではないかと思っていたので、少し驚き、「へー、まだ起きてるんだ」と、また小声で呟いた。

 以下、上司の返信の全文である。


件名:Re:欠勤願い

本文:

こちらこそ、先程はありがとう。

半分はご馳走してもらっちゃったから、礼はいいよ。

勿論、また誘うからよろしくね。

今度は朝までいっちゃう?


まあ、これは冗談で、欠勤の件、こちらで何とかするから、心配しないでお通夜に行ってきてください。

ところで、どこまで行くの?

で、どんな関係なの?

一応聞かせて。


 女は「もう。折角、シャワーを浴びようと思っていたのに」と、多少苛立った風に独り言を口にし、返信の文章を考え始めた。

 以下が、程無く完成したその全文だ。


件名:Re:Re:欠勤願い

本文:


まだ、起きていらしたんですね。ちょっとビックリしました。

明日も早いのでしょうから、早く寝てくださいね。お身体に障りますから。


お尋ねの件ですが、後輩の通夜会場は青森県です。

明日の朝早くの新幹線で向かうつもりです。

お通夜だけ参列して、明日中にはこちらへ戻ります。

後輩とは学生時代のバイト先で知り合いました。

後輩のお母さんとも懇意にさせて頂いておりましたので、本当に悲しくて仕方ありません。


 と、女はこのようなEメールを送信して、少し考えた。もしも、本当にこの後輩が亡くなるようなことがあれば、自分は何としてもその葬儀に駆け付けるだろうな。でも、そうしたら、その時は上司に何と言って休もうか、もう次はこの後輩を殺せない。上司が覚えていたら面倒なことになる。では、その母親が亡くなったことにしたらどうか。でも、そうしたら、また本当に母親が亡くなったらどうしよう。また、他の誰かを犠牲にしなきゃならないな。と頭の中でどんどん死人が増えていく。

 ここで、再び、女は髪の毛が膨らむほどに頭を左右に勢い良く振って「あー、もう分かんない!」と言って、考えるのを止めた。取り敢えず、今回は後輩ということにしてしまったのだから、それでいいや、と、女は割り切って、もしも上司がこれ以上根掘り葉掘り聞いてきても、この後輩なら大丈夫と、自分に言い聞かせた。

 そして女は、漸くシャワーを浴びて、この後、就寝の床に就いた。



 で、女は、今、高速道路の上にいる。勿論、青森に向かっているのではない。東京から西へと向かっているのだ。そう、あの蓮華との約束を守るために。

 女が三曲目の鼻歌を歌い終えた辺りで、助手席に置かれたスマートフォンから、Eメールの着信音が聞こえた。女は直ぐに、あることに気付いて「ヤバイ」と、思わず口にした。今、自分は運転中である。当然のことだが、送られてきたEメールを見るわけにはいかない。もしも、このEメールの送り主が、上司だとしたら、返信が遅れると怪しむのではないか。女は、前回のEメールに、朝早くの新幹線で青森に向かうつもりだと書いてしまったことを思い出した。上司は、女が今頃新幹線に乗っていて、手隙だろうと思って、Eメールを送ってきた可能性がある。女は「早く返信しなきゃ」と独り言を呟いて、カーナビゲーションの画面へと目をやった。すると、有難いことに、地図上の現在地の僅か先に、サービスエリアの表示があった。女は「よし!」と言って、小さなガッツポーズをとる。勿論そこで、返信のための休憩をとることにした。

 女は、サービスエリアの駐車スペースに車を止めると、慌ててスマートフォンを手に取った。そして、着信しているEメールを開いてみた。送り主は、やはり上司であった。

 以下は、そのメールの全文である。


件名:Re:Re:Re:欠勤願い

本文:


おはよう。昨日は返信できなくてごめんね。

あと、僕の身体の心配までしてくれて、ありがとう。

君は本当に優しい子だね。

行先及び、関係、承知しました。

他の社員に尋ねられた時に、答えられないと困るからね。

君のことだから、仕事のことが気になるだろうけど、こちらのことは心配しないで、先方のお母さんに優しくしてあげてください。

くれぐれも気を付けて。


 女は、近くにサービスエリアがあって良かったと、胸を撫で下ろした。新幹線に乗っているのなら暇なはずである。急いで返信することにした。

 次が、女の返信の全文である。


件名:Re:Re:Re:Re:欠勤願い

本文:

おはようございます。

昨日はよく眠れましたか。

私は今、新幹線の中にいます。

今日一日ご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いします。

社の皆さんにもよろしくお伝えください。


 女は急いでいたので、よく考えもせず、短文を連ねて直ぐに送信した。送信ボタンを押して「ふー」と一息ついた女は、また返信が送られてくることを想定して、暫くこの場に留まることにした。その間の女は、トイレに行ったり、ショップの土産物などを見回したりしながら、暫しの時間を潰した。

 そして、流石にもうそろそろ大丈夫だろうと、女は駐車スペースの愛車へと戻った。車に乗り込んだ女は、セルボタンを押すと、軽くアクセルを踏む。心地の良い振動が、女の身体を包み込む。女は「ああ、幸せ」と、口にした。どうも、平日の朝に仕事をしないで、こういう所に居ることが、どうにも嬉しかったようだ。

 そうして再び、女のドライブが始まる。女は、日常的に、尋常ではない激務に晒され、あれほど疲れ切っていた筈なのに、またしてもご機嫌で鼻歌だった。

 そして、暫く進むと、目的地へのインターチェンジを示す看板が目に入った。女は、ルームミラーとサイドミラーを交互に確認し、左方へのウインカーを点滅させると、左車線へと車を寄せた。続いて女は、スピードを緩め、本線との分岐点を左へと進む。あの愛しい蓮華にもう直ぐ逢えるかと思うと、嬉しくてしょうがなかった。

 女は、本線から分岐した曲がりくねった道を進み、料金所のゲートへと向かう。女は、あまり普段は車を利用しない。従って、ETCは搭載していなかった。女は、有人のゲートへと車を進めると、係員の制止に従い、ブレーキを踏む。小さなブースの中から「こんにちは」という挨拶が聞こえた。女は、その挨拶に「こんにちは」と返し、続けて「はい、よろしくお願いします」と言って、頭上のサンバイザーに挟んで置いた、通行券をその係員に渡す。係員は女から通行券を受け取ると「少々お待ちください」と言って、目前の機械を操作し始めた。程無く、女の前方にある電光掲示板に通行料金が表示されるのと同時に、係員の口から同額の料金が言い渡された。

 女は、係員が機械を操作している間に手元へ用意しておいた財布から、請求された金額を支払うと「ありがとうございます。今日は良い天気で気持ちがいいですね」と、何に礼を言ったのかは解らぬが、係員に満面の笑顔と共に、自らの上機嫌を言葉に乗せて送り届けた。

 これに対し係員が「そうですね。お気をつけて」と返すと、女は「では、行ってきます」と、その言葉に明るく応えて、そのブースからゆっくりと発進した。


 女は、更に上機嫌になっている。目的の蓮華にもう直ぐ逢える。鼻歌はいつの間にか口笛になっていた。

 高速道路の料金所を通過した後、暫く幹線道路を進んだ女は、カーナビゲーションの指示に従い、深い緑の道へと入って行った。大小様々な木立に囲まれた区間のドライブは、女の心の中に溜め込まれていた数々の不満の粒子を洗い流していくようだった。この道を進むにつれて、女の機嫌は益々良くなっていく。遂に、女は、カーステレオの音楽に合わせて上体をくねらせながら、軽く踊り始める。この時、口笛は大声のシャウトへと変化していた。

 程無く、カーナビゲーションのアナウンスから、目的地付近に到着したことを知った女は、周囲から見ればほぼ狂乱状態と受け取れる踊りと歌を止め、車のスピードを落とし、目前の枝分かれしている小道に目をやった。女は、カーナビゲーションの地図を一番詳細なモードに切り替え、目の前の道と交互に見比べる。

「あっ、この道ね」と呟いた女は、ゆっくりとその道に侵入していく。そして暫く進むと、あの決して高くはない山間の野道が見えてきた。女は「きたあ」と少し大きめな声を上げると「待っててね、今すぐ行くよ」と、恐らくあの蓮華に向かってそう言った。

 女は、行き道の直ぐ先に、小広い駐車スペースを見つけると、そこに車を停めた。この時、またしても鼻歌が始まっていた。女は、助手席に無造作に置いてあったスマートフォンをバッグへと入れて、続けて先程の料金所で、バッグから取り出してサイドポケットに入れていた財布を、バッグへと戻した。そして、運転席横のドアを開けると、遂に念願の地へと降り立った。

 女は「おはよう」と言って、両腕を伸ばして頭の後ろで組み、背伸びをした。長時間のドライブで座りっぱなしであったから、固まってしまった背中の筋肉をストレッチしたくなったのだ。しかし、まだあの蓮華は見えていない。何に向かって「おはよう」と言ったのだろうか。女は、少し気が早い。

 次いで、女は、あの蓮華の方向へと歩き始めた。僅かに進んだところで、女は、その歩みをスキップへと変えた。よっぽど、嬉しいらしい。しかし、直ぐにスキップを止めた。肩にかけたバッグが跳ねて、動きづらかったのだ。その後の女は、決して高くはない山間の野道を、バッグが跳ねない程度の急ぎ足で進む。あの蓮華には、もう直ぐのところまで来ているのに、何しろ、早く着きたいらしい。

 暫く進むと、漸く、清純さを感じさせる白色に淡い紫をあしらった、何とも見事な蓮華が群生する池が見えてきた。女は、ここでその足を止めた。そして女は、感無量といった面持ちで、蓮華の池を含む周辺に目をやる。池の先には、神社があるのだろうか。少し先に白い立派な鳥居が見えた。その鳥居は、小高い丘になっている森の手前に、神前への門として、威厳高らかに構えている。恐らく、その先の森の中に社があるのだろう。女は、軽く頭を垂れて礼をした。

 そして「貴方達の住んでいるところは、なんて素敵なところなの」と、女は蓮華の池に向かってそう言って、再び歩き出した。女は、池の畔にまで来たところで、また足を止める。ここからは、先程まで小さくてよく見えなかった蓮華の姿、形がはっきりと見てとれる。女は、その中の一輪の蓮華の前に進み「ああ、逢いたかったよ。約束したもんね」と、感極まって泣き出してしまいそうな表情で言った。勿論、目前に咲いているのは、昨年、再開の約束を交わした蓮華ではない。女にとって、その辺はどうでも良かった。やはり、今年も愛らしさ満点で、澄み渡る青空へと向かい凛と咲き誇るその姿に、感動したのである。

 女は、今日一日、気が済むまでここにいて、この蓮華を見つめ続けていたいと、そう思った。そして、実際女は、そうした。駐車スペースからここまでの移動の間にすれ違った、恐らく近辺の散策を楽しんでいるのだろうと思われる中年過ぎのご夫婦が、再び女の横を「いやあ、結構遠かったねえ」などと会話しながら汗だくで帰っていっても、女は同じ場所に留まって蓮華を見詰めていた。ニ時間はとうに過ぎていただろう。この間、女は周囲の景色と一体になっていた。行き交う人が、微動だにしない女を見て、マネキンか、モニュメントと勘違いしてもよさそうな程だった。


 そして、更に暫くの時が経ち、女に突然、ある考えが浮かんだ。

 -そうだ。写真に撮ってあげよう。-

 この蓮華も、今はこんなに奇麗に咲いているが、時間が経てば、必ず散りゆく運命を背負っている。この小さな生命の精一杯の輝きを、自分がしっかりと記録してあげなくてはいけないと、そう思ったのだ。日頃、そこらじゅうで写真を撮っている者を見掛けるが、この女のように、ここまで考えてシャッターを押している者がどれだけいるのだろうか。この女は、素晴らしい。及び... ちょっと大袈裟だ。

 女は、その肩に掛けているバッグの中から、スマートフォンを取り出した。続けて女は、カメラのアプリを開くと、正面から、右から、左から、また、立ったり、しゃがんだりと四方八方から蓮華を撮影する。まるで、グラビアアイドルに向けて、プロカメラマンがシャッターを切っているかのような状態だ。先程まで、ピクリともしなかった女が、今度は、物凄い勢いで動き回っている。周囲を散歩していた老人や、女と同じく蓮華を鑑賞に来ていた者たちなどが、皆一様に目を丸くして女を見ていた。だが、女は勿論、人の目など気にしない。目前の蓮華を如何に美しく記録するかに集中してるのだ。


 更に時は経ち、辺りを包む光の色がオレンジ色へと変化してきたころ、漸く女は、その動きを止めた。流石にスマートフォンを支え続けていた左手が痛い。女は「いっぱい撮ったし、今日はこの辺にしとくね」と、蓮華に向かってそう言って、少しの時間考えた後「今年は、また来るからね。待っててね」と付け加えた。女は、この撮影会が随分と気に入ったらしい。今年中にもう一度来ると、蓮華に約束をした。そして女は、スマートフォンをバッグへとしまい、蓮華に向けて「バイバイ」と言って、手を左右に振り、蓮華の池を後にした。


 愛車を停めた駐車スペースへと戻った女は、バッグからスマートフォンを取り出し助手席に置き、帰宅の途へついた。家に着いたときには、既に日が暮れていた。女は、先ずシャワーを浴びて身体を清潔にしてから、帰りのサービスエリアで仕入れた弁当を口にした。女は「うーん。美味しい」と小声で呟き、続けて「今日は本当に楽しかったな」と、今日一日を回想しながら、しみじみと独り言を言った。この時の女は、美味しい食事に巡り合えた幸せと相まって、本当に幸せそうな面持ちであった。

 食事を終えた女は、その後片付けをする。弁当箱を小さくたたみ、その運搬に使用したレジ袋に入れて、口をしっかりと結んだ。そして女は「ふー」と溜息をつき「さて、写真をチェックしなくちゃ」と言って、帰宅後直ぐにテーブルの上へと置いたスマートフォンを手に取った。女が調子に乗ってシャッターを切り捲ったおかげで、蓮華の写真の枚数は、尋常では考えられない程の数であった。

「これを全部チェックするのは、ちょっと無理があるな」と、女はニコニコ顔で呟く。この膨大な量の写真が、却って一種の達成感を与えてくれているのであろう。

「きっと、全部きちんと見てたら明日になるな」と言いつつも、女は、やたらと楽しそうだ。

「さてと」と言った女は、写真を一枚一枚チェックし始めた。


 写真のチェックが終わったのは、鶏の声と共に朝日が昇り始めた頃、と言いたいところなのだが、女は、その作業の途中で眠ってしまっていた。女は、明け方前、余りの寒さに目を覚ます。

「ヤバイ。風邪ひいちゃう」と、女は口にしたが「もうちょっと、寝よ」と言って、ベッドまで這っていき、再びの睡眠をとった。



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