第十話 感謝
翌朝、女は毎朝定時に鳴り響くアラーム音で目を覚ました。目覚めた女は、アラームセットの解除を忘れていたことに気付く。女は、もう出勤する必要がないのだ。朝の満員電車に揺られる必要もない。当然、定時に起きる必要もなかった。このあと女は、二度寝をしようかとも考えたが、折角の朝の空気を満喫しようと、ベッドから降りて、陽の射す窓辺の方へと歩いて行った。そして、程無く、女によって解放された窓から、朝の空気が室内へと流れ込んだ。不思議なことだが、空気はいつも同じである筈なのに、いつもの出勤時のものと、今日のそれとはまるで違って感じられた。このような感覚は、女が小学生の時分に、学校のある日の朝と、休日の朝とで感じた、それと正しく同じだった。
女は、その爽やかな空気に全身を包まれた状態で伸びをした。深呼吸をした。これらのことは、それ自体誰でもが普通に行う、まったく他愛のないことなのだが、女の心は、このありふれた行為だけで喜びに包まれた。そして女は、こう口にした「私にこの幸せを運んできてくれたのは、あの蓮華さん達ね」と。
思い起こせば、全ては、あの蓮華との出逢いから始まった。女が、取引先のトラブルで出張に行った先で、偶然、あの蓮華を見つけなければ、今日も女は、これまで通りに出勤していたはずだ。そして、その偶然も、偶然が重なったものであった。もしも、あの取引先の新入社員が、機械の設定を間違えなければ、女は出張に行くことはなかった筈だし、例え、出張に行ったとしても、それが、あの時期でなければ、蓮華の池に行ったところで、花は咲いていなかっただろう。また、この出張が、本当のトラブルであったのならば、恐らく、散歩をする時間的余裕などなかった筈だ。そうであれば、当然、蓮華に出逢うこともなかった。
そして、この蓮華に魅了されたがために、女は、後輩が死んだと嘘をついた。そして、この嘘のために、女は苦しみ悩み、後輩に電話を掛けることにした。そして、その電話によって後輩の母親の死を知り、後輩の自宅へと訪問することになった。そして、この訪問があったからこそ、女は、それまでの自分の生活に、強く疑問を持つようになった。また、この期間、会社を休み、仕事に距離を置いたことで、女は、自分と会社との関わりについて、深く考えることが出来た。そして、それが、自分自身の為に退職するという決断につながったのである。これらの全ては、あの、蓮華との出逢いがあったからこそのものだ。女は、この偶然の出逢いが、自分の人生を変えたのだ、と改めて思った。
女はこの後、後輩に電話を掛けることにした。電源を落としたままのスマートフォンに、再び電源を入れることには暫くの躊躇を必要としたが、今回の決断をする上で、後輩が果たした役割は相当に大きかったので、一刻も早く、その報告と、礼を述べなければいけないと思ったのだ。
女は、昨日一日テーブルの端に置き去りにされていた、愛用のスマートフォンを手に取った。そして、電源ボタンを長押しして、眠りについているスマートフォンに通電させた。女は、そのままの姿勢で、基本アプリがロードされ、起動するのを待った。程無く、スマートフォンが通話可能な状態になると、女は、ディスプレイの左下に表示されている電話のアプリをタップした。そして、発信履歴を開き、その一番上に表示されている後輩の電話番号に指を持っていく。女は、そういえば、後輩と電話をしてから誰とも電話をしていないな、などと考えながら、そこをタップした。
暫くの無音の後、呼び出し音が鳴る。女は、電話を掛けるのには、まだちょっと早すぎたかな、などと考えながら、後輩が受話器を取るのを待った。五度目の呼び出し音が鳴り始めた時、後輩の元気な声がスマートフォンのスピーカーから響いてきた。
「おはようございます。先輩ですね」と、後輩は、早朝とは思えない高いトーンの声で、元気に挨拶をした。
女は「そう、私。おはよう」と、今の気分のそのまま、元気な後輩に対し、明るく爽やかに挨拶を返した。そして続けて「今回は、本当にお世話になりました。どうもありがとうございました」と、電話の向こうの後輩に、丁寧に礼を述べた。
すると後輩は「いえいえ、こちらこそありがとうございました。遠路遥々、母にお線香あげに来て貰えて、本当に感謝しています」と、女の礼の言葉に、こちらも丁寧に、礼の言葉で応えた。
女は「どういたしまして。そんな、お礼を言われる程のことではないし、自分が行きたかったから行ったんだし、全然気にしないで」と、楽な言葉に戻って言う。
すると後輩も「いえ、母のことだけではなくて、私と父とのこともそうですし、私自身も先輩と沢山お話しできて楽しかったですし、もう、感謝し捲りです」と、砕けて言う。
女も「私だって、物凄く感謝してるよ。そして、あなたと話せて、凄く楽しかった」と返答する。
後輩は「いえ、私の方が感謝してるし、楽しかった筈です」と、何だか女の言葉に張り合ってくる。
女は「そんなことないって。私の方が上よ」と、負けじと張り合った。
後輩は「それは、違います。私が上です」と、更に食い下がってくる。
女は「分かった。じゃあ、今回はあなたに譲るわ」と呆れた感じで言った。
後輩は「ありがとうございます」と答えた。
勿論、この会話の間の二人の顔は、明るく楽しそうな笑顔であった。
後輩は続けて「私の住んでいるところって、元々過疎地じゃないですか。そのうえ最近は高齢化が凄いんですよ。だから、私、先輩のような若い人と話すことって、殆どないんですよね」と、今度はしみじみと言った。
女は「そうなんだあ」と言ってから、後輩の自宅付近の光景を思い出して「そうだよね、分かる」と言い直した。
後輩は「だから、私の方が嬉しいんです」と、又もや蒸し返した。
女は「だから、あなたの方が上なのは、判ったって言ったでしょ」と、しつこく言うな、といった口調で返し、笑った。
勿論、この時の後輩には、女の笑顔が見える筈はない。しかし、後輩は、女が本気で怒っているのではなく、笑ってこの言葉を口にしていると確信していたので「そう言えば、そうでしたね」と、悪びれることなくそう返して、やはり笑った。
お互いを愉しませるための、挨拶を兼ねた掛け合いが一段落すると、女は「今日はね、報告があるんだ」と、切り出した。
後輩は「何ですか、なんか楽しみ」と、返す。
すると女は「実はね、私、子供が出来ちゃったの」と、冗談を言った。しかし、後輩は当然、冗談だとは思わない。
「えー!そうなんですか。えっ、それはお祝いしなきゃ。えー、本当におめでとうございます。で、先輩、結婚してたんですか?」と、驚きを隠せず、少しパ二くった感じで言った。
女は「冗談」と、軽く言って、笑った。
後輩は「いやだあ。本当かと思っちゃいましたよ。でも、この間はそれらしいことなんて全然言ってなかったから、びっくりしました」と、冗談を信じ込んだことを隠さずに、正直に返した。
女は「ごめんね。あなたがどんな反応するか、聞いてみたくなっちゃって。楽しんで貰えたなら嬉しいわ」と言う。
それに対して後輩は「エンターテインメントの嘘ですね。はい、楽しませていただきました」と明るく答えた。
ここで女は「それでね、本当の報告はね、私、会社を辞めたの、昨日」と、今度は本当のことを言った。
しかし、後輩は「先輩、二度目は駄目ですよ。流石の私も信じませんし、この後、冗談だって言われても笑えません」と、冷静な物言いをする。
女は「今度のは、冗談なんかじゃないよ。本当のこと」と言った。
後輩は「だから、信じませんって」と、重ねて言った。
女は「じゃあ、信じなくってもいいよ。その代わり、この後の話はちゃんと聞いてね」と、少し静かな口調になってそう言った。
後輩が「勿論、聞きますけど、何ですか」と問うと、女は続きを話し始めた。
「私ね、ここのところ、本当に疲れ切ってたの。前にも言ったけど、最近はずっと、出張に飲み会に残業続きだったから。で、残業は徹夜も当たり前でしょ。普通は疲れるよね。でもね、上司も滅茶苦茶頑張る人だし、私自身も、なんか頑張りたい人なのよ。勿論これは、あなたの影響もあるのよ。なんせ私の師匠だから」と、女が話したところで後輩が「師匠は止めてください。恥ずかしいです」と、口を挟んだ。
すると女は「いいから、黙って聞いて」と、その後輩の要請を一蹴した。そして女は続ける。
「そんな中で、上司と飲んで、その席で愚痴を散々聞かされたの。それで、その上司も結局、上から言われて頑張らされているんだなって思ったわけよ。そしたら、私は、自発的に頑張っている人に張り合いたかったんだって感じたの。誰かに頑張らされている人と張り合っても、意味がないから。そんなこんなで、会社をサボっちゃったじゃない。あの嘘をついて。で、色々あって、あなたに電話を掛けて、あなたの家に行ったのよ。そして、凄く色々楽しくて、凄く充実した三日間を過ごせて、それで、凄くリフレッシュできて、もう最高だったの」
女はさらに続ける。
「で、こっちに帰って、次の日、出社したのね。そうしたら、朝の通勤電車も、人込みも、何もかもが、なんか違うのよ、前と。これは、良くなったってことじゃなくて、私に疑問を投げかけてくるの、これでいいのかって。でもね、取り敢えずその日は出勤して... って言ってもね、行くぞって感じでもなかったんだけど、勝手に足が動いちゃったっていうか、気が付いたら会社の前にいたの。なんか途中の記憶がないんだけど」
女の命令に従い、ここまで黙って聞いていた後輩が、我慢できずに「先輩、凄い」と、合いの手を入れる。女は、後輩のこの言葉を完全に無視して、続きを話す。
「それでね、自分のデスクに着いたら、無いのよ」
女はここで、一瞬の間を取った。
すると、今度こそ、と後輩が口を挟む。「何がですか?」
「書類」女は後輩の問いに答えた。そして続けて「休みを貰う前には、私のデスクの上に書類が山積みされてたの。その書類が無くなってたの」と言う。
すると「その書類は何処に行ったんですか?」と、後輩が聞いた。
女は「その後出社してきた上司に聞いたら、全部上司が処理しちゃったんだって」と答えた。
「いい上司さんじゃないですか」と後輩。
「だから、結婚するのよ、彼と」と、女は急に冗談を言った。
今度は、流石に気付いた後輩が「先輩。そうやって、ちょいちょい冗談を挟むの止めてまらえませんか。話が解らなくなっちゃいますから」と言った。
再び、女は、この後輩の言葉を無視して、次を話す。
「でね、これからが問題なのよ。その上司はね、私に言ったのよ。『結果が同じなら、誰がやっても一緒。』みたいなことを。私にはね、その時『会社にとっては、仕事を熟してくれるんだったら、誰でもいいんだよ。』って聞こえたのよ。そしたらね、なんか気が抜けちゃった。でね、ボーっとしてた私に、また上司が言ったのよ。『もう一日ぐらい休んでもいいぞ。』って、これで、私のやる気は地に落ちたって感じ」
ここで、懲りずに後輩が口を挟んだ。「それで、さっきの、結婚するって話は、どうなってるんですか」
これに対して女は「あっ、そう言えば、なんか冗談だって気付いたみたいだから、別に否定しなくてもいいかなあって思って。ごめん。気になってた?」と、言った。
後輩は「やっぱり、冗談だったんですね。そうならそうと言ってください」と、少し怒った風に言った。
女は「ちょっと真面目な話だから、少しぐらい遊ばないとね。あなたも楽しくないでしょ」と、言った。そして又、話の続きを始めた。
「でもね、勿論、この上司は悪くないのよ。きっと、私に気を使ってそう言ってくれたんだから。それどころか、私の書類を処理するのに、二日間徹夜したって言ってた」
そして「私が元気な時は、メッチャこき使うし、酔えば、私が迷惑してるのにも気付かないで、愚痴を聞かせ続けるし、最悪な上司なんだけど、私が凹んでると、なんか凄く優しくて、いい上司になるんだよね」と言った後「まあ、私について考えてることの殆どは勘違いなんだけど」と、少し呆れた感じで付け加えた。
後輩は「なんか、いいんだか、悪いんだか複雑ですね」と言う。
すると女は、三度目の無視をして「という訳で、昨日の朝、辞表を提出したの」と言った。そして「これは、本当の話よ」と言い足した。
何度無視されようが、後輩はちゃんと言うべきところは言う。「そうなんですね。それで、後悔とかはないんですか?」と尋ねた。
女は「全然。今は、物凄くいい気分よ」と答える。
「で、先輩はこれからどうされるんですか?」と、後輩は続けて尋ねる。
「うーん、まだ、決めてないけど、何しろ精一杯一生懸命生きたいのよ。それも、自分じゃなきゃできないことをして」と、女は答えた。
「じゃあ、これからそれを探すんですね」と、後輩。
「そう。中々見つからないとは思うけど、兎に角、色々なことに挑戦してみて、その中から探すつもり」と、女は言った。
「早く見つかるといいですね。私、応援しますよ」と、後輩。
女は「ありがとう」と礼を述べ、後輩は決して見ることが出来ないと知っていたが、スマートフォンを手にしたまま、深く頭を下げた。勿論、これは後輩を無視した非礼について謝っているのではない。女は、心の底から、後輩に感謝をしていたのだ。
女は「それでね、昨日辞表を出してから、また、あの蓮華の所に行ってきたんだ」と、今度は楽しそうに言った。
すると後輩が「そうそう、私、一昨日先輩が帰ってから、母の机を整理したんですよ」と、今度は仕返しだとばかりに、女の話を無視して、そう言った。しかし「あっ、すみません。先輩が今『蓮華』って言ったんで思い出しました」と、結局無視した非礼を謝った。やはり、この二人の仲は、先輩と後輩だった。
そして、後輩は続けた。
「実はですね、その母の机の引き出しの中に、古い写真が幾つか見つかったんですけど、その中に、蓮華の写真があったんですよ。それで、その写真の裏を見てみたら、そこに、東京の多摩地区の地名が書いてあって、もしかして、先輩の言ってた蓮華かなあって思ったんです。でも、違うかもしれないですけどね」と言った。
女は「へー。何て地名?」と尋ねる。
後輩は「えっと、町田市小山田?だったと思います」
女は「えっ、もしかして一緒かも。その写真、蓮華の他に何か写ってないの?」と聞く。
後輩は「じゃあ、ちょっと待っててください。今、持ってきますから」と言った。その直後、女のスマートフォンのスピーカーから、大きな衝撃音が鳴る。後輩は、持っていた電話を恐らく何かしらの台の上に置いた。少し乱暴に置いたのかもしれない。そう、女は思った。
暫くして、スマートフォンのスピーカーから、後輩の声が聞こえてきた。「すみません。電話機落としちゃいました。アンド、お待たせしました」と後輩は、先ず、軽い謝罪の言葉を口にした。続けて「おっちょこちょいですみません」と、明るい口調で、謝罪の言葉を重ねた後、母の机から持ってきた蓮華の写真を見ながらこう言った。「えーと、蓮華は池の中にあって、その少し先に白い鳥居が写ってますね。そして、その後ろは高くない山が森みたいになっています」
女は驚いて「それって、私の撮った写真と一緒」と、言った。
後輩は「やっぱり、そうなんですね」と、何かを納得したかのような言いぶりで返した。そして続けて「机の引き出しにしまっていたってことは、きっと母も、この写真が、いえ、この蓮華が好きだったのかもしれませんね」と、特段驚いた風もなく、平然と言った。
女は、自分の驚きに対して、後輩の反応が物足りなかったので「凄い偶然。びっくりしたよ。なんか背中がゾクっとした」と、もう一度、驚いた風に言った。
すると後輩は「先輩は、母と話も良く合ってましたけど、趣味も合うんですね」と、やはり、女の驚きに大した反応も示さず、普通に言った。
後輩は先程「でも、違うかもしれないですけどね」と言っていたが、恐らく、女と母が同じ蓮華の写真を撮っていたと、既に確信していたのだろう。
すると、女は「ちょっと待って」と言って、黙りこんだ。そして女は、暫しの沈黙の後「私、今朝起きて、考えたの」と、切り出した。
「今朝は、本当に爽やかな気分で起きられて、何もかもが楽しく感じられて仕方がなかったの。それでね、会社を辞める決心がついたのも、この素敵な気分を味わえたのも、全てが、あの蓮華のおかげだって思ったんだ」と、先程の回想をしながら話し始めた。そして続けて「私が、偶然、あの蓮華に出逢ったから、あなたに電話を掛けたし、まあ、その前に色々あったけど、そして、お母さんが亡くなったことを知って、あなたの家にも行ったし、そう、これが、会社を辞める決心につながったの。なんか、全てがあの蓮華との出逢いから始まったんだなあって、思ったんだ。それがね、お母さんも、あの蓮華を知ってたなんて、びっくりだよ」と、後輩に口を挟ませないように、一気に話した。
女の話が途切れた瞬間、後輩は「それって、もしかして、母が先輩をその蓮華のところに連れて行ったんじゃないんですか」と、またもや特段変化のない普通の口調で言った。
女は「そんなことないよ。だって、私があの蓮華に逢ったのは、仕事を始めてからだからね。お母さんに連れて行って貰った訳じゃないよ」と、後輩が現実の話をしていると思って、その発言を否定した。
後輩は「いえ、そうじゃなくて、母が亡くなってから、母が、あの蓮華の場所に先輩が行くように仕向けたんじゃないですか」と、重ねて言った。
女は、この言葉を聞いて、後輩が言っていることが霊的な話だと理解したが、このような話は認めたくない。
「でも、最初に行ったのは、お母さんが亡くなる前だよ」と、しつこく重ねて否定した。
すると「母は、天国かどこかで、先輩との共通の場所を知って、だから、仕向けたんですよ」と、後輩は、何としても女に認めさせようと、次の句を継いだ。そして続けて「先輩も『なんで、こんなにも蓮華ちゃんに心を惹かれるのか解らない』って言ってたじゃないですか。きっと、母ですよ。母が先輩を、あの蓮華のところに連れてったんですよ」と、畳みかけた。
ここまで聞いた女は、後輩の言葉に納得し、否定することが出来なくなった。
言い負かされた女は「うー、ヤバい。背筋が凍りそう」と、声を震わせて言った。女は、この手の話には、滅法弱い。しかし、一瞬の間を置き「でも、お母さんなら、なんかそんなに怖くない」と、母親のお化けを想像してみて、そう言った。
すると後輩は「この間、私、母が何らかの方法で、先輩を引き寄せたんじゃないか、って言ったじゃないですか」と言って「覚えてますか?」と、付け加えた。
これに対して、女は「うん。覚えてるよ。確か、三日目の朝の台所だよね」と答える。
すると後輩は「母が机にしまっていた蓮華の写真を見つけた時に確信したんです。きっと母は、私と父とのことを心配して、心から信頼している先輩にお願いしたのかなあ、って」と言った。続けて「でも、先輩の枕元に立ったら、先輩はきっと気絶すると思って、蓮華を通して、仕向けたのかなって」
流石、女のことなら何でも分かると豪語するだけのことはある。この娘は、鋭かった。
これに対して女は「気絶するのは、間違いないね」と言った。
後輩が「でも、本当のところはどうなんですかね」と、言う。
この問いに対し、後輩の話を聞いて少し心変わりをした女は「ちょっと怖いけど、なんか信じたいような気がするな」と答えた。
この後も、二人の会話は話題を変えながら延々と続いて行く。後輩は、女の仕事を心配する必要が無くなったので、自分から電話を終わらせることはしなかった。女も、時には後輩をからかい、時には持ち上げ、また、時には感謝の言葉を述べたりしながら、只管に話し続けた。会話の途中、女が「ごめん。トイレ」と、言ったのを切っ掛けに、この日の電話は終わりを迎えた。女と後輩は、近いうちの再会を固く約束して、電話を切った。女は、この電話を切った後、後輩に対する宣言の通り、一目散にトイレに向かったのだが、スマートフォンをトイレに持ち込めばそのまま通話が続けられたな、と、用を足しながら思った。しかし、それは流石に失礼か、とも思った。
そして夕刻、女は有り余る時間を利用して、久しぶりの自炊をした。女の料理は、独り暮らしを始めてからというもの、殆ど使用することのなかった調理器具を洗うところから始まった。その後は勿論、同じく殆ど使用することのなかった食器の洗浄だった。そして、これらの物が使用可能な状態になったところで、女は、今日の料理に使うそれぞれの食材の下ごしらえに手を付けた。これらの食材は、日中に、駅前のスーパーマーケットで調達したものだ。
女の包丁さばきは、流石に十六部音符とまではいかなかったが、八分音符程の連続音を奏でられる程度には上達していた。女は、後輩の料理教室を経験したおかげで、そこそこの手際を持って、幾つかの料理を完成させることができた。
女は、完成した幾つかの料理を、盆は使わず、手運びでいつものテーブルへと並べて置くと、冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールを取り出した。そして、女は、その出来立ての料理を目の前に、このところ癖になっている缶ビールを我慢する儀式を愉しんだ。
一本の缶ビールを飲み干した女は、ここで漸く料理に箸をつける。自作の味は、後輩のそれには遠く遥かに及ばなかったが、後輩の手を借りず、自分で作ったということに大満足だった。その後、取り敢えず美味だったと言えなくもない自作の料理と、三本の缶ビールを満喫し終えた女は、使用した食器と、空き缶をそれぞれ片付けた。
その後女は、後輩との電話の後、日中に印刷しておいた膨大な量の蓮華の写真の束を、夕食の残骸が奇麗に整理された空のテーブルの上に置いた。その写真を前にして、女は会社のデスクの山積みされた書類を思い出した。だが、そのことは直ぐに忘れて、手にした蓮華の写真を一枚一枚ペラペラと捲っていった。暫く捲り続けた時、女の手が止まった。女が手を止めた写真には、池の中の蓮華と、白い鳥居と、その後ろの高くない山の森が写っていた。
その時「やっぱり、この写真が一番いいな」と女は呟いた。そして「お母さん、ありがとうございます。おかげさまで、元気になりました」と、その写真に向けて、そう言った。
出逢いというものは、本当に摩訶不思議なものである、その出逢いが、吉と出るか凶と出るかは、勿論、その時には判らない。また、その出逢いが、その本人に対し、何らかの作用を及ばすかどうかも、後になって判明するものであって、事前に知る術はないだろう。しかし、その出逢いが、大きく人の人生を変えてしまうことがある、というのも事実である。




