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蓮華ヒステリック  作者: 大仏薫
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第一話 蓮華との出逢い



 ここのところの女は、疲れ切っていた。思い返せば、先週も残業、出張、飲み会とフルタイムで超多忙な日々を送り、仕事以外に何かをしたという記憶がない。おまけに、この残業の内、二日間は徹夜になったし、週末も普段通りに出社した。ここのところ、ずっとこの調子である。女は、このままこの毎日が続くのであれば、きっと自分は壊れてしまうと危惧しながらも、上司に言われるがまま、馬車馬のように働き続けている。

 しかし、女は上司を恨んだりはしていない。上司には、またその上司がいることも理解しているし、会社の一員ということは、そういうものだとも弁えている。従って、女は上司の指示に対して、嫌がるということは決してしない。何を頼まれようが、何を命令されようが、喜んで... いや、そういう振りをして引き受ける。

 そんな女は、当然のことながら上司に気に入られている。女は上等なAIロボット。何もかも的確に、そして疲れを知らずに、急な出張だろうが、それがどんな遠方だろうが、我儘を言わずにどこまでへも行く... と、思われている。こんな部下を嫌いな上司がいる筈がない。



 女は、昨日も多くの仕事を頼まれ、遅くまで会社に残る羽目になった。漸くそのすべてを片付け、帰宅の身支度を整えだした頃、「よく頑張ってくれた。褒美に飲みに連れてってやる」と、上司が女の肩を軽く叩いてそう言った。上司の常套句である。当然回答は「はい。ありがとうございます」だ。勿論、女にとってこの誘いは有難迷惑である。そして「これが褒美か?」と言いたくなるような場末の居酒屋の席では、上司の、そのまた上司の愚痴を散々聞かされる。「もう帰りたい...」何度も言いたくなるが、当然、女がこの言葉を発することはない。それどころか、何を聞かされても女は作り笑いを崩さず、絶妙なタイミングで相槌を打ち、必要とあらば上司を励ましたりもする。これがまた誤解を招く。自分の言いたいことだけを言い放ち、適当にストレスを解消した上司は、挙句の果てに「よし。もう一軒行くか」流石に女の目は点になる。この上司は、部下が迷惑しているなどとは一切考えず、それどころか部下の共感を得たと完全に誤解している。女は、こんな毎日が確実に自分の心を痛めつけ、精神の崩壊への道を邁進しているのではないかといった気がしてならない。しかし、女はやはり「勿論、ご一緒します」と返事をする。傍から見れば... 頭がおかしいとしか思えない。

 漸く「おっ、そろそろ終電だ」と、上司が言ったのをきっかけに「じゃあ、私、お会計してきます」と女。

「いや。私が誘ったんだから私が払うよ」と上司。

「いえいえ、一軒目でごちそうになりましたから、ここは私が出しますね」と女。

 出来る部下として当然の、気を遣った演技である。

 ところが「そうかい。悪いねえ。娘が今年大学だから助かるよ。ありがとう」一瞬たりとも躊躇うことなく、上司はニコニコ顔で言い放つ。

「...」女。

「どこまで下衆なんだ!」勿論これは声には出していない。心の叫びである。全くもって行きたくもない残念な居酒屋に拉致された上、聞きたくもない愚痴を延々聞かされ、更に支払いまで持たされる。

「わー!!」女は叫びたかった。でも、しない...


 上司の一言により、漸く放免されることが決定した女は、店の出入り口で上司に別れの挨拶とご馳走のお礼を丁寧に述べた後、送り出した上司の背中が夜の街並みに吸い込まれ、消えていくまで見送った。上司から、自分が見えなくなっただろうと思われた瞬間、女は駅に向かってダッシュである。幸運なことに、上司とは電車の路線が違う。同じ駅を利用しないのだ。恐らく、上司と同じ電車に乗るなどということになったら、自分は上司の首を絞めかねない、勿論、あり得ないことではあるが、女は、ちょっと考えてみたかった。更に、帰途の終電の中、女は、ここで暴れたら気持ちいいんだろうなあ、と、うとうとしながら考えたりもした。

 この女、どう考えても、完全にヤバイ状態だ。

 しかし、この日、結局女の理性は崩壊することなく、大人しく何駅かを通り越すことに成功した。そして、そろそろ下車駅に着こうかという時に、女はふと思った。そうだ、明日はあそこに行こう、確かそろそろ、いい時期だったはずだわ。ちょうど昨年のこの時期に、女は出張先の東京多摩地区で、見事に凛と咲く蓮華を見かけたことを思い出した。



 それは、やはり連日の徹夜仕事で心身ともに、かなりのダメージを受けていた、初夏のある日の朝のことだった。女が、目の前に山積みされている書類のチェックに没頭していると、電話の呼び出し音がオフィスのフロアに鳴り響いた。女が受話器を取ろうと手を伸ばした瞬間、呼び出し音が止まる。「チッ!負けた」女は周囲に聞こえないように小声で言った。女はこの程度のことにも一生懸命だ。それが悪いのかといえば、勿論そうではないが、この性格が災いして今の現状から抜け出すことが出来ないことを、女は解かっていない。

 女が、誰が受話器を取ったのか確認してやろうと周囲を見回すと、上司が例のニコニコ顔で受話器を握り、社名を口にしている。女は、上司のこういうところは嫌いではない。この上司には、偉ぶるところもなければ、サボろうとするところもない。

 女が、手元の書類に視線を戻そうかと思った瞬間、上司の声のトーンが急に変わった。それまで「ちょっと立場に対して明るすぎるんじゃないの。バカっぽく思われるからやめなよ」と言いたくなるぐらいの軽い印象の声のトーンが、明らかに違ったものに変化していた。女が、再び上司のほうへと視線を戻すと、上司は受話器を握りしめたまま、電話機に向かって何度も頭を下げている。

 女は直感した。これはヤバイ。恐らくこの電話はクレームだ。女は、視線を書類に戻し、目の前の仕事に集中している振りをした。勿論、聞き耳を立てているのだが...

 程無くして、上司の声が止んだ。そして聞こえるのは、自分の背後へと近づいてくる足音。やはりそうなるか、女は観念した。

「すまん。出張だ」上司の声が女の背中に降りかかる。女は振り向きざまに「どうかしましたか」と尋ねる。

「どうも先日納入した機械が止まってしまったらしい」上司は何故だか軽い口調で、しかもニコニコ顔で言う。

 女は、寝不足のせいもあり「すまん」と言いながらも、どこにもそのような雰囲気が見受けられないこの態度に流石にカチンときたが「承知しました。私に任せてください!」と、すぐさま気を付けをして、敬礼でもしかねないような勢いでそう答えた。そして、これに続く専門的で具体的なやり取りを終えると、女は身支度を整え会社を後にした。


 女は新宿駅に着くと、すぐさま小田急線の改札を通り抜け、ホームへの階段を下った。もう既に、ホームの右側には一台の急行電車が停車して出発の定刻を待っていたが、女はその電車には乗らない。女は、まだ車両の影のない、左側のホームの白線へと歩いていく。

 女は、新宿駅から目的地までの乗車時間である数十分間を休息に充てるつもりだ。先発の電車から十分遅れで出発予定の次発電車の到着を待ち、シートに座って仮眠をとってやろうと目論んでいた。新宿駅は始発駅である。この時間帯であれば、次発の電車を待てば、ほぼ座れることは知っていた。何しろ、連日の徹夜で眠さもピークを迎えている。仮眠というのが残念ではあるが、今の女には、この僅かな自由な時間でさえ、とてもありがたく感じられた。

 女は、程無く左側のホームに到着した小田原行きの電車に乗り込むと、出入り口付近のシートの角に腰かけた。もしも、寝過ごしそうになった場合でも、出入り口付近であれば、下車するのに時間が少なくて済む。乗車人数が多ければ、シートの中央付近からだと下車に手間取り、次の駅まで行く羽目になる。女は、過去の経験から、ここのところ、いつもそうしている。


 女が急行電車の心地の良い振動に揺られ気を失っている間に、いつの間にかその電車はどこかの駅に停車していた。時刻表に従って、新宿駅を予定通りに出発したところまでは覚えているが、女には、そこからここまでの記憶がない。女は、慌てて周囲を見回す。すると、目に留まった停車駅の看板は、未だ途中駅のものであった。胸を撫で下ろした女は、そろそろ目的駅に到着することを知って、名残惜しくもあったが再びの仮眠をとることを我慢した。

 下車する者を吐き出し、乗車する者をその腹に飲み込み、急行電車は程無く発車した。その後の女は、車窓からの外の景色を、ただ何となく眺めていた。そして、急行電車の窓越しに、緑色の景色が増えてきた頃、車内アナウンスで下車予定の駅名が告げられた。


 女は、目的の駅に到着した急行電車からホームに降り立つと、バスターミナルに続く改札へと足を進める。改札を出て暫く歩いたのち、目的地に向かうバス停を探し当てた女は、一息ついて周囲を見回してみた。ここは、到着直前の車窓に写る緑の景色からは想像し難い、少し不自然なぐらいの都会的な駅である。駅に近かったらいいのにな、と、これから先がまだ長い道程であることを知っている女は思ったが、当然、立地については相手先の都合である。どうすることもできない。


 程無く到着した目的地行きのバスに乗り込んだ女は、一番後ろのシートへと進み、腰を下ろした。下車するバス停は、このバスの終着点である。一番後ろで寛ぐのがいい。

 バスは走り出し、都会的な街中を進む。しかし、ものの十数分走ったところで、車窓の外を流れる景色は変化していった。駅の周囲、極僅かの地域しか都会的ではないのだ。バスは少しづつ坂を上り始め、山の緑が近づいてきた頃、終点のバス停に到着した。女は、バスが完全に停車したのを確認してから、下車口へと向かう。気のよさそうな運転手が笑顔で見送ってくれた。何となく心が和む。

 バスを下車した女は、更に山の方へと歩んで行く。ニ十分程は歩いただろうか。もう既に、周囲は山の自然に囲まれていた。それらの山は決して高くはないが、深い緑に包まれ、空の青との対比が美しかった。

 そうこうしているうちに、女は、小さな工場にたどり着いた。ここが、目的の取引先である。女は受付で丁寧に挨拶をすると、持参した菓子折りを、品のよさそうな受付嬢に渡す。続けて、社長に取り次いで欲しい旨を伝え、暫しロビーで待った。

 程無く、社長が現れる。女は、上司の電話応対の態度から、余程怒っているのではないかと想像していたが、社長は笑顔だ。拍子抜けである。

 女は、幾度もこういった修羅場を潜り抜けて来てはいるのだが、やはり毎回、それなりに覚悟はしている。最後は土下座だ。常識の有る経営者ならば、流石に、女に土下座をさせることはできない。そんなところを自社の女子社員に見られでもしたら、このご時世、大変なことになる。

 この時、女は「この度は大変なご迷惑をお掛けして誠に申し訳ありませんでした」と切り出そうとしたが、社長は、これを途中で遮った。

 そして「いやあ、こちらこそ謝らなくちゃいけないんだよ。実は、どうも新入社員が設定を間違えたみたいで、お宅の機械には全然問題なんか無かったんだ」と、悪びれる様子もなく言った。

「えっ...」と女。

「いやあ、本当にごめんね」と社長。

「てめえ。ふざけんな!こちとら、連日の徹夜仕事でフラフラの中、こうしてこんなところまで来てるんだ。問題無いのが判ったら直ぐに連絡するのが道理だろ!バカヤロー!」と女。

「いやあ。本当にごめんね。僕も直ぐに連絡しようと思ったんだけど、実は... 君に会いたくって」と社長。

「えっ... そういうことならしょうがないですね。許します」と女は即答。

「貴方は何て心が広いんだ。僕と結婚してください!」と社長...

 勿論「てめえ。ふざけんな!」からの下りは、女の妄想である。この社長、実は結構な美男子であった。

 実際のところ女は「謝るなんてやめてください。問題なくて良かったです。今後も何かあったら、何でもおっしゃってください。直ぐに飛んできますから」と言っていた。女は、また自分の心に嘘をついた、と思いつつも笑顔を崩さない。女にとってはいつものことだ。

 この後「どうですか。時間があるならお茶でも飲みながら少しお話しませんか」などと、女はイケメン社長に誘って欲しかったのだが、社長の口からは「いやあ。そう言ってもらえると助かるね。今後ともよろしくね」と、遠回しに「ご苦労さん。もう帰っていいよ」と言う無情の言葉が浴びせられたのである。

 イケメン社長とこんなやり取りをしたのち、傷心?の女は「それでは失礼いたします」と言って、丁寧にお辞儀をし、社長に背を向けた。


 女は小さな工場のエントランスから表へ出ると、バス停とは反対の方向へと歩き出した。クレーム対応にかける筈だった時間が空いたので、たまには散歩でもしてやろうと思ったからだ。勿論、会社に残してきた書類の山は気になるが、気分がリフレッシュできれば、却って仕事の効率が上がるのではないかと考えた。

 そうして暫し、決して高くはない山間にある野道を、いい気持ちだなあ、などと考えながら歩いていた時である。女は、目前に拡がる景色の中に、空へ向かい凛と咲く、見事な蓮華を見出した。それは、愛しさを感じるほどに美しく、見惚れる、ということは、こういうことかと、女はこの言葉への理解を深めて頷いた。この時、女はいつまでもこの蓮華を見ていたかったのだが、既に予定の時間はとうに超過してしまっていた。このまま立ち去るのは名残惜しくもあったが、この蓮華に「またきっと来るね」と挨拶をし、帰社の途に就いた。



 上司の愚痴を散々聞かされ、心神崩壊寸前に追い込まれた飲み帰りの昨日の終電の中で、ふと女は、この時のことを思い出した。そして、再開の誓いをしたあの蓮華に、再び逢いに行こうと決めたのだ。

 そして、その翌日である今日、女は愛車のハンドルを握り、高速道路を西に向け走っていた。いつもの朝であれば、この時刻は満員御礼のラッシュの電車内で窒息しかけている頃であるが、今日の女は、カ-ステレオから流れるお気に入りの音楽に合わせて鼻で歌ったりしながら、朝の空気を満喫していた。

 女は、仕事を休んでしまった。どうしても休まなければならないといった、特別な事情があった訳ではない。ただ、あの蓮華との約束を果たすためだけに、入社以来ひたすら我武者羅に勤め続けてきた会社を休んだのだ。遂に、女の中でこれまで張りつめていた糸が切れてしまった。しかし、女は当然のことながら、無断で欠勤することなどは、決してしない。


 昨晩、帰宅してから、あれこれと欠勤の理由をどう伝えようかと考えてみた。勿論、女には自由に有給休暇を取る権利がある。しかし、今の会社には、それが許されるような雰囲気はまるでない。昨今の事情から、上司も口では休暇を取るように促してはいるが、その上司がまるで休暇を取らない。その直属の部下である女は、上司が先に休暇を取るまで、自分も休暇を取らないと決めていた。しかし、女は遂に、入社以来続けてきたこの誓いを破ることに決めたのである。だが、恐らく辛くて休みたい日もあるだろうに、休暇を取らず毎日頑張って仕事をしている上司の手前、蓮華を見に行くなどといった理由で欠勤するのは、気が引けた。そこで女は、この際、何かしらのそれらしい理由をでっちあげようと考えた。勿論、嘘をつくことには少し抵抗もあったが、今回ばかりは、自分の人間性を維持するために必要なことだと割り切った。

 女は、順番に考えてみた。やはり、欠勤の理由の定番は、体調不良である。しかし女は、入社以来一度も体調不良で休んだことはない。これは、女が風邪もひかぬということではなくて、インフルエンザにかかっても、マスクをして、解熱剤を飲んで出社しているということだ。今更、体調不良で休むなどと言ったら、どれだけの大病かと心配されるだろう。下手をすれば、あの上司が見舞いにでも来かねない。女は、蓮華を見に行っていて留守にするわけだから、それは困る。

 となれば、次の候補は仏事である。例えば、欠勤の理由を法事だとすれば、明日は平日である。絶対に平日に法事をしないというわけではないが、少し説得力に欠ける。

 では、通夜ではどうかと考えた。しかし、通夜などと言ったら、あの上司が根掘り葉掘り聞いてくるだろう。間違っても自分の身内などと言ってしまったら、以前、祖父が亡くなったときのように、香典を用意してくるに決まってる。流石に、嘘をついて会社を休み、その上、金銭をいただくわけにはいかない。

 そこで女は、この際、友人ということにしたらどうだろうと考えた。上司にあれこれ聞かれたとしても、友人であれば、適当な思い当たる者を決めてしまえば、ある程度のことは矛盾なく回答できる。勿論、友人程度の繋がりであれば、香典をいただくこともない。しかし、東京などの人口が多い地域の友人ではだめだ。最近は、セレモニーホールや火葬場などが混雑していて、順番待ちになったりもするらしい。亡くなったからといって、直ぐその日に通夜を行えないこともよくある。



 実際に、女の祖父が亡くなった時もそうだった。女が訃報を聞いて駆け付けると、丁度、祖父の自宅前から救急車が走り去って行くところだった。その場に居合わせていた近所の人らしき女性に尋ねてみたところ、どうも、祖父は救急車に乗せられて運ばれていったらしい。女は、祖父は亡くなったと聞いたのに救急車で運ばれていくんだ、と、少し不思議に思ったが、だからどうということでもないので、その近所の女性に礼を言って、取り敢えず玄関へ回った。

 玄関の扉は解放されていたので、呼び鈴を鳴らさず、挨拶もせずに家の中へ入った。玄関から続く廊下を突き当りまで進み、左手にあるリビングの奥のほうに目をやると、初老の男と若い男が祖母を囲んで何やら話をしている。女が近くに寄ると、それに気が付いた初老の男が声をかけてきた。

「こんにちは。警察のものです。失礼ですが、どちら様ですか」

 すると、女が口を開く前に、祖母が慌てて答える。

「刑事さん。この子は孫です。先ほど連絡をしたから、仕事の途中だったのに来てくれたんです。全然怪しくなんかないですよ」

 女は、突然の祖母の言葉に驚いた。

「えっ、おばあちゃん疑われてるの?」と、女は目を丸くして言った。

「いえいえ。形式上の聞き取り調査ですから安心してください」と刑事。

 多少パニくった女は「祖母が祖父に対して何事かをするなど決してないです。私が保証します」と、女は何の根拠も示さずに保証という言葉を口にした。

「それは、我々も解っています。だから、安心してください」と、重ねて刑事が言う。そして続けて「お嬢さんは、今まで何処にいらっしゃったんですか」と、手元の手帳に視線を落とし、あくまで形式的な聞き取りだと思わせるかのように、軽い口調でそう言った。

 祖母が「だから、会社にいたんです」と言い出したのを、女は左手で遮って「新宿のオフィスで仕事をしてました。それを証明できる人は沢山います」と言った。

「わかりました。ありがとうございます」と刑事が言うと「だから言ったでしょ。怪しくなんかないって」と祖母が不満そうに口にした。

 この後、刑事は襟を正すような身振りをしてから「それでは、今回の件についての調査はここまでにします。今後は、検死の結果を待って、ご連絡差し上げますね」と、丁寧に言った。そして「葬儀社等はもうお決まりですか。良かったらご案内しますよ」と続けた。

 この言葉に、祖母も女も、目を点にした。祖母と女は、今、人が死んだというのに、いきなりこのようなことを言われて驚きを隠せなかった。

 女は「その言い草はなんだ。公務員のくせに営業か。さては、リベートを受け取ってるな」と、言いそうになったが、祖母の手前もあり我慢した。祖母は女のことを、心優しい大人しい女だと思っている。夫の死で、落ち込んでいるだろう祖母を、谷底に突き落とすようなことは絶対に避けなければいけない。女は、祖母の前では猫を被ることに決めていた。

 刑事は続けて「それというのもね。検死が終わった亡骸を運ぶには、それなりの資格が必要なんですよ。自宅に運ぶにしても、身内の方が勝手にというわけにはいかないんです。もしも、心当たりがあるなら、すぐにでもその葬儀社さんに連絡を取っていただけますか。もし無いようであれば、ご紹介しますので、その時は遠慮なさらずにおっしゃってください。今日の夕方には、検視結果も出ると思いますから、早めの手配がいいと思いますよ」と、言い慣れた口調でそう言った。

 二人は「へー...」と、今度は目を丸くして、口を合わせた。女は、これまで身内の死を経験したことがなかったので、このようなことはまるで知らなかったし、祖母も、過去にこのような死亡直後のやり取りを経験したことがなかったので、二人して「勉強になったね」と言って、顔を見合わせて頷いた。

 そうこうしているうちに、二人の刑事は「それでは失礼します。後ほど連絡しますから、それまでに葬儀社のほうよろしくお願いします」と言い残し、リビングから廊下のほうへと歩き出した。その刑事に玄関まで同行し、そこから出ていくのを見送った二人は、再びリビングへと戻っていった。その途中、女は祖母に対し、祖父の死因や、状況を聞いてみた。

「おじいちゃんは、どうして?」

 この問いに対して祖母は「どうも、心臓らしいの」と言って、女に視線を向けた。そして「救急隊の人が言うには、風呂場でのヒートショックが直接の原因じゃないかって」と続けた。そして更に「おじいちゃんは、昨日までは、本当に普通に元気にしてたのよ。まあ、元気と言っても、あちこち大分弱ってきてたけどね」と、女に祖父の前日までの状況を説明した。

 女は、自分の狂気に満ちた会社生活を顧みて、人間なんてそう簡単には死なないものだと、勝手に勘違いをしていたが、こうして祖父の死に触れてみると、最期はあっけないものなんだと考え直した。

「何だか、簡単に逝っちゃうんだね。いろいろな意味でショックだな」と女。

「私にも、もうすぐお迎えが来るだろうから、その時はよろしくね」と祖母。

 その言葉を聞いた女は「何言ってるの。そんなこと絶対言わないで」と、祖母を諫めるようにそう言った。

 女がリビングで祖母とこのようなやり取りをしている時に、電話の呼び出し音が鳴った。祖母が直ぐに反応して受話器を取った。

 祖母は、夫を突然亡くしてしまったというのに、きちんと電話の主に応対している。先程、自分ももうすぐだ、などと言っていたのは、日頃からある程度の覚悟を持っているからなのだろうと、女は推察して、少し寂しい気持ちになった。

 電話の主は叔父だった。即ち、祖父の息子である。叔父はサラリーマンであり、近くには住んでいるが、祖父夫婦と同居はしていない。どうも、出張が多いらしく、この日も地方へ行っていて直ぐには戻れないらしい。

 祖母は、ここまでの状況を丁寧に叔父に伝え「無理はしなくていいよ」と言って受話器を置いた。そして祖母は、女に「葬儀社のほうはすべて手配してくれるって」続けて「自分の会社は大人数だから、こういうことに接することは、ままあるそうよ」と言った。

「へー、叔父さん頼りになるね」と女は言って、あの叔父さんなら任せておいて大丈夫だな、と考えた。

 この後、担当の刑事から電話があり、検死の結果がでたと告げられた。やはり、死因は心臓疾患ということらしい。恐らく、変調を感じたのは一瞬のことで、長く苦しむことはなかっただろうということだ。祖母にとっても、女にしてみても、これが唯一の救いであったことは間違いない。刑事は、電話を受けた祖母に、遺体を警察署まで引き取りに来るように告げて、電話を切ったということだった。

 このあと祖母は、身支度をするから、と女に告げて寝室へと消えていった。女は、これから通夜や葬儀を忙しく執り行うことになるのだろうな、などと、ぼんやりと考えながら祖母の支度を待った。同時に、やはり会社は休まなくちゃいけないのかな、とか、祖父を知る人達にお知らせするのも手伝わなくちゃいけないな、などとも考えた。

 祖母の外出の準備が整ったのを見計らい、女はタクシーを呼んだ。数分待っただろうか、玄関先でクラクションが鳴る。

 祖母は慌てて「ほら、急いで。待たせたら悪いわよ」と言って、女を急き立てる。

 女は「解ってるから、そんな風に言わないで」と、きつい言葉を吐きたくなったが、これ以上、祖母を悲しませたくなかったので、大人しく祖母の後をついていった。

 玄関を出て、戸締りを確認した二人は、そのメーターに、迎車、と表示されているタクシーに乗り込み、警察署へと向かう。警察署に到着すると、受付に赴き、担当してくれた刑事を呼び出してもらった。

 暫くすると、あの初老の刑事が現れ「どうぞ」といって、奥のエレベーターホールへと手招きをした。刑事は、エレベーターの扉横にある上階へ向かうことを示すボタンを押すと「検死をされた先生からお話があります」と言って、扉の上部に視線を移した。その視線の先には、エレベーターの現在位置を知らせる数字の羅列されたボードがある。その刑事は、それ以降は黙って、順番に数字が点滅していくボードをずっと見つめていた。

 エレベーターが到着し、これに三人は乗り込んだ。女は、検死医が待つ部屋が何階にあるのか知らなかったが、刑事が数字の3の書かれたボタンを押したので「三階なんですね。私のオフィスのフロアーも三階なんですよ」と、刑事に向かって言った。この直後、女の顔は少し赤くなった。女は恥ずかしかったのだ。女にとって、この狭い空間での沈黙が大変居心地の悪いものだったので、つい訳もなく意味のないことを口走ってしまった。

「あっ、ああ、そうなんですか」と、刑事は、なんと返事してよいやら困った風にそう言った。

 再びの沈黙の後、エレベーターは三階に着いた。刑事は、開いたドアを右手で抑え「どうぞ」と言って、二人をエレベーターの外に誘導する。祖母と女が数歩進んだところで止まって待っていると、刑事は「こちらです」と言って、二人を先導した。廊下を進み、幾つかの扉の前を通過した後、刑事が「どうぞお入りください」と言って、一つの扉を静かに押し開く。二人は、祖母、女の順に部屋の中へ入って行った。

 女が部屋の中を見回すと、隅のデスクの上に白い書類が置いてある。そして、その書類の前には、普段着の老人男性が座っていた。女は、検死医がここで待っていると聞いたので、てっきり白衣に身を包んだいかにも医者ですと言わんばかりの人がいるものだと勘違いしていたので「あれ、意外」などと小声で呟いた。


 刑事が、検死医を二人に紹介すると、この検視医は、二人に席へ着くように促した。

 検死医の話は、二人が事前に耳にした情報と合致していた。ところが祖母は、その一言一言に初めて聞いたような口ぶりで返答する。検死医は、恐らく、既に遺族は知っているだろうと思ってはいるが、仕事として正確に伝えなくてはいけないと頑張っているのである。祖母は、その気持ちに対し、礼を尽くさなければならないと考えているのだろう。女は、祖母の性格からそのように推察した。

 検視医の話が終わり、祖母が丁寧に礼を述べると、女も「色々お世話になりありがとうございました」と、祖母に続けて謝礼を述べて、深々と頭を下げた。

 その後、刑事と祖母と女の三人は、再びエレベーターに乗り込み、受付のある階へと降りた。目的の階に止まり、扉が開くと、その先には黒いネクタイをした若めの男が待っていた。その男は、女達を先導している刑事に一礼する。

 女は直ぐに気付き「葬儀社の方ですか」と尋ねた。

「はい。よくわかりましたね」と男。

 女達は、ここで待っていれば、葬儀社の者が来てくれると、叔父から事前に聞かされていた。

「叔父から聞いていましたし、黒いネクタイをしていたので」と女は答えた。

 男は感心した様子で「よく見てらっしゃるんですね」と言った後、続けてこう言った。「この度はご愁傷さまです」そして「これから、ご遺体を運ばさせて頂きます。安置させていただく場所は、こちらの斎場になります」と言って、地図の書いてあるパンフレットを祖母と女に見せる。更に「今後のことについては、こちらでお話ししましょう。では、お先に失礼いたしまして、斎場でお待ちしています」と続けて話し、一礼をすると、二人に背を向けてフロアーの奥へと歩いて行った。

 これに対し祖母は「お世話になります。よろしくお願いします」と言い、女は「後程伺います。よろしくお願いします」と言った。そして、男の背中に向けて、二人も一礼をした。

 この後、刑事が葬儀社の男と同行してしまったので、二人は誰に暇の挨拶をすればよいのか分からなくなってしまった。その場に居合わせている人々は皆、この二人などには関心を示さず、それぞれの用事に集中しているようだった。そこで女は、取り敢えず周囲を見回してから、誰に向かってということもなく「お世話になりました」と申し訳程度の小さな声で言って、祖母の手を取り警察署を後にした。


 女と祖母が、葬儀社の男に教えられた場所へ向かおうと、バスの停留所へと足を進めたその時「どうだった」と背後から聞き覚えのある男の声がした。女は振り返って、その声のした方向に視線を向ける。その男は、女の父親だった。父親は、走ってきたらしく、息が上がっている。

「いやあ、これでも急いで来たんだけど、今になっちゃった。二人ともごめんね」と、いかにも息苦しそうに父親が言う。

「お父さん、いやに疲れてるね」と女。

「そこの駐車場からこっちを見たら、見覚えのある二人の背中が遠退いていくのを見掛けたんで、三十メートルダッシュだよ」と父。

「あらあら、もう年なんだから、無理しちゃだめよ」と祖母。

 この言葉には、何の反応もせず父が言う。「それで、どうだったの」

 女は「どうも、ヒートショックだったらしいよ。苦しかったのは、一瞬だったんじゃないかって」と、自分が知っていることを掻い摘んで説明した。

「そうか。それで、お袋は大丈夫か」と、父が祖母のほうを向いて言う。

「うん。私は大丈夫だから、心配しないで」と祖母。

「独りで背負い込まないで、何でも相談してくれよ」と父。

「うん。ありがとう。いろいろお願いね」と祖母。

 そして父は、女のほうに顔を向けてこう尋ねた。

「それで、この後はどうなってるの」

 女はすぐに答えた。

「これから、葬儀会場に行くことになったの。おじいちゃんのご遺体をそこに安置するんだって」

 父は、この言葉を聞いて、直ぐに理解をしたようで「車で来てるから、一緒に行こう」と、たった今、ダッシュして来た駐車場からの道程を、速足で戻り始めた。祖母と女も、その背中について行く。


 三人が車に相次いで乗り込んだ後、父親は、女が右手で持っていた葬儀社のパンフレットを受け取ると、その背表紙に記載してある電話番号を、カーナビゲーションの目的地にセットした。続けて、祖母と女にシートベルトを締めるよう促し、車をゆっくりと走らせた。女は、テレビドラマで見たように、父も祖母も泣き崩れてしまうのかと思っていたのに、車中の会話も特段平時と変わらぬことに、少し戸惑った。しかし、自分とて、未だ涙を流していない。まだ、実感がないというのが、この三人にとって、正直なところなのかもしれないと思った。しかし、会話の途中に祖母が何気なく口にした、あの人は、死ぬ間際まで、自分の好きなように生きて、きっと、とても幸せだったと思う、という言葉は、会社の奴隷と化した女にとって、印象に残るものだった。


 程無く、三人の乗った車は、祖父が安置されている葬儀会場に到着した。父親は、他に車の影のない伽藍とした駐車場に車を止めて、祖母と女に下車するように促した。車を降りた三人は、その駐車場の目前にあるエントランスへの道程を、周囲を見回しながら、ゆっくりと歩いて行った。到着した三人をエントランスで出迎えてくれたのは、大きくて如何にも重そうな開き扉であった。父親が、少し力を入れてその扉を開くと、祖母と女は、その扉を支える父の横をすり抜け、中へと入った。斎場の内部には、余計なものは何もなく、受付に使われるだろうカウンターと、その横に、小さめのソファーとデスクで構成された応接セットがポツンとあるだけだった。三人が奥へと足を進めると、それを見つけた恐らく担当者と思われる男が、きちんとした身なり、態度で応対してくれた。

「この度は誠にご愁傷さまです」と、男は切り出し、続けて自分が担当者であること、そして自らの氏名、そして「心苦しいでしょうが」と前置きをした後、今後の段取りを話し合いたいと告げ、応接セットのほうへ手招きをする。

 父親は「よろしくお願いします」とだけ答えて、男の招きに応じて、応接セットのソファーへ腰を沈めた。祖母と女も、それに倣う。

 最後に担当の男が席に着き「早速ですが、お通夜とお葬儀の日程を決めて頂かないとなりません」と話し始めた。

 この時女は、通夜といえば、故人の亡くなったその日の夜に執り行うもので、葬儀はその翌日なのだと、勝手に解釈していた。女がこれまで生きてきた歴史の中で培った常識とは、そういうものだった。

 そこで女は「えっ、自分たちで決めていいんですか?」と、担当の男に聞き返した。

 担当の男は「はい。ご遺族の都合の良い日程で構いません。勿論、そんなに先延ばしには出来ませんけどね」

 女は「今日お通夜、明日告別式とかではないんですね」と、納得できずにもう一度尋ねる。

「現代は、ご遺体の保存技術が進歩していますから、それ程急がなくても良いんですよ。何より、ご遺族の方々が集まり易い日程で送り出して差し上げたほうが、ご本人もお喜びになるでしょうから」と担当の男は言った。そして続けて「あと、実は、今日と言われましても、会場の準備や火葬場の順番待ちで、ご希望に応えることができないということもありまして...」と申し訳なさそうに言った。

「そうなんですね」と女は納得した。

 ここまで何も言葉を発せず、静かに二人のやり取りを聞いていた父親が口を開く。

「会場の準備とは、具体的にどのようなものなんですか」

 担当の男が直ぐに答える。「先ずは、お棺を選んでいただき、祭壇、装飾のお花、通夜の後のお清めのお食事など、大きなものはこういったものですね。その他にも、住職さんのご都合もおありでしょうから、残念ながら、今日というのは難しいです」

 父は「成程。色々細々と決めていかなくてはいけないんですね」と答え、担当の男は「東京など都市部では、今やご高齢の方の人口も大変多いので、火葬場もそこそこお待ちいただかないといけませんから」と、再び申し訳なさそうに言った。

 結局、祖父の通夜と告別式は、親類が集まり易いということで、次の週末になった。



 女は、この時のことを鮮明に思い出し、随分長いこと、その回顧に時間を割いていたが、思考の脱線のキーワードとなった”亡くなった当日に通夜ができないかも”というところまでその記憶が辿り着いたところで、我に返った。

 女が今やらなくてはいけないことは、友人を探すことだ。女は、その髪の毛が回転による遠心力で大きく膨らむほどに、ぶるぶると首を左右に勢いよく振って、その後、頭頂部を自らの右拳で軽く小突いた。

 今時、アニメぐらいでしか見ることのない稀有な仕草だ。恐らくオフィスでこんなことをしたら周囲から引かれることだろう。女は今、独り暮らしの自宅にいる。よって、誰かにこの仕草を見られるという筈はないのだが、流石にちょっと恥ずかしくなって辺りを見回した。やはり、女は壊れかけているようだ...

 女は、傍らに転がっていた愛用のスマートフォンを手に取った。そして、人口が少なく、当日か、その翌日に通夜が行なえそうな地方の友人を探すために、電話帳のアプリを開いた。その後、暫く画面をスクロールしながら考えていた女は、程無く、この大役に適任の友人を電話帳のリストから見つけ出した。流石に嘘とはいえ、亡くなっていただくわけだから、あまりに仲の良い友人は気が引ける。だからと言って、電話帳で名前を見ても顔が出てこないような友人では、諸々問われたときに、整合性のとれた説明ができない可能性が考えられる。そこで、女は、学生時代の友人の中から、今は地方の実家に戻ってしまって、疎遠になっている後輩を選び出した。






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