喫煙所一景
今日も、嫌な日だった。
ここのところ、良い日などというものはとんと無い。
嫌でない日があったかすら怪しく、俺は毎日を嫌だ嫌だと過ごしていた。
今日も昨日を上回る嫌な日で、俺はこんな生き方に意味はあるのかと問いながら、誰もいない喫煙所に立って、種類にこだわりのない煙草に火をつける。
道端の、忘れ去られたような喫煙所には、今日も俺以外の誰も、立ち寄りはしないだろう。
いつから営業していないのか、或いはいつまで営業していたのかわからない元煙草屋の閉じられたシャッターの前。この辺りはそんな店ばかりで、人々が通過していくだけのうら寂しい目の前の道。そこから隔離されることもないこの場所では、寧ろ嫌味な視線を向けられることが多い。道行く非喫煙者は、車道側の端に寄らない限り、どうしたって煙を吸い込んでしまう。
そして道の端に寄るような手間を裂きはせず、こんな場所で喫煙する俺を犯罪者を咎めるような視線で一瞥していく。
嫌な気分を更に加速させるようなこの場所をわざわざ俺が選んでしまうのは、もしかしたら俺にそういう趣味があるのかもしれない。
仕事の出来そうなサラリーマンが通り過ぎる。俺を見つけた途端に、ほんの少し車道側に寄って、傘で顔を隠すようにしながら。
喫煙者に厳しい時代になったものだと、喫煙者に優しい時代を殆ど知らない俺が思う。誰だって、知りもしないユートピアに多少なりとも憧れる。
雨のせいか人通りが少なく、彼が通り過ぎてからは誰も居なくなってしまった歩道に、俺はわざとらしく煙を大きく吐いた。
不規則に揺れる煙は徐々に薄くなっていき、雨の中へと消えていく。肺には、他のタバコよりも重いタールが残していった違和感。舌の上には妙な苦味。これらもすぐに消えていく。傘を持たずにここまで来た俺の頭髪から、雨粒だった水がぽたりと落ちる。
煙草を吸うことの何が良いのか、俺には全くわからない。美味くもなければ身体に良いはずもなく、財布の金を減らしていくし、他の人が言うように集中できる気もしない。
無駄なことをしている、という気分になる。
しかしその、無駄なことをしているという気分の為に、俺は煙草を吸い続けるのだろう。これに火が点いている間、俺の嫌な気分は燻り続ける。今日も嫌な日だったことを、俺が嫌な人生を送っていると、確かめることができる。
こんな感情を誰かが理解することはないのだろうと、そう思える。
一本目を吸い終えて、なんとなく2本目に火をつけた頃。何もかもが灰色の歩道に、再び人影が見えた。女子用の高校制服を着た、やはり傘を持った誰かだった。
彼女が近づいてくると、俺は煙草をスタンド型の灰皿の後ろに隠した。子供には副流煙の匂いを出来るだけ感じさせたくない。俺の数少ないこだわりの一つだった。意味もなければ誇りもない、ただなんとなくのこだわりだけれど。
歩調を変えず、避けることもなく、彼女が俺の目の前まで来る。そして、そのまま向こう側へ。その時に彼女が一瞬振り返る。きっと、ただなんとなくだろう。知り合いに似ていたとか、或いは俺が後ろから尾けてくるんじゃないかと警戒したとか。後者だったとしたら、見上げた警戒心だ。嫌味ではなくそう思う。
さぁこのまま通り過ぎて、一瞬たりとも記憶に残すことなく健康に生きていけ。そんな心中とは裏腹に、彼女は立ち止まった。余程の嫌煙家で、煙草を吸う全ての人間を咎めなければ気が済まない類の輩かとほんの少し身構える。遭遇したことはないが話には聞く。そしてそういう輩の吐く暴論は煙草よりも有害で、それでいて喫煙を認める法律よりは一面的に正義だ。
俺は正論を言う人間が嫌いになれないんだからやめてくれよ、と願っていると、彼女の放った一言は意外なものだった。
「お兄さん、何吸ってるんですか?」
彼女は、傘を閉じて俺の横に来た。変な奴、いや、不審者かと思った。初対面の人間に突然好意的に話しかける人間は、怪しい商法の勧誘か宗教の勧誘くらいだ。彼女は格好を見るに女子高生のようだから前者はないだろうが。
普段なら一言も返すことなく無視して拒否の態度を示すところだが、俺は、何故だろうか、返答してしまった。きっと、煙草の灰や吸い殻のように積もり積もった嫌な気分がそうさせたのだろう。
「何って、煙草」
スタンドの後ろに隠していた煙草を口元に持っていく。喫煙者にわざわざ近づいてくる人間に、気遣う必要などない。
「そうじゃなくて。種類のことなんですけど」
「……『しんせい』」
「へぇ。知らない煙草です」
それは当然だろう。コンビニなんかでは、誇張ではなく売っているところを見かけたことが一度もない。どうせどれも不味いのだから、せめて他の人が吸ってなくて、安いやつでいいと買っている煙草だ。
女子高生らしき彼女の友達やクラスメイトの粋がった連中も、まさかこんなものを買うわけがない。
「知らなくていい煙草だよ」
「メンソールですか?」
「違うよ。メンソールは殆ど吸わない」
「気が合いますね。一本下さいませんか?」
やけに丁寧な言葉で、彼女は俺の目をしっかりと見つめ、笑って言った。
内心「はぁ?」と呟きながら、彼女の顔を見返す。童顔で、とても高校生のうちから煙草に手を出すようには見えない。そういう連中を嫌っていそうですらある。
「いいけど、不味いよ」
「大丈夫です。どうせ知り合いなんて通りませんし」
彼女は、俺の「まずい」という言葉を、俺が敢えて言及しないことを選んだ「制服のまま煙草なんて吸うな」という意味だと取ったらしい。
「そうじゃなくて、この煙草が」
「あぁ。それならもっと大丈夫ですよ。どうせみんな不味いんですから」
にこやかに言う彼女。気が合うな、とは口に出さなかった。
「いいけどさ」
「ありがとうございます。あと、火もいただけますか」
無言で、俺は胸ポケットから古臭いパッケージの『しんせい』を取り出し、使い捨てライターと一緒に手渡す。ソフトパッケージの中に残っていたのは三本だった。
雨粒の滴る傘を置いて、彼女が煙草とライターを受け取りパッケージを軽く叩いて一本取り出し、火をつける。その彼女の一連の所作は手慣れたもので、上品ですらあった。
「それ、やるよ」
最初の煙を彼女が吐き出したあとに、彼女が返却しようと差し出してきた煙草とライターを俺は片手で軽く拒む。
「どうせ残り少ないし、自分じゃ買えなくてこんなことしてるんだろ」
「んー、まぁそうですね。お兄さんがいいなら、頂いちゃいます」
もしかしたらも何もなく、俺のしていることはとても褒められたことではないのだろう。未成年の証たる高校制服に身を包んだ見知らぬ女に煙草を渡すなんて。
普段なら、というか、煙草を吸っている時でなければ決して有り得ないことだ。
「お兄さん、いい人ですね」
「女子高生に煙草を渡す奴のどこが」
「そういうところ、です」
彼女は可笑しそうに笑った。いい人や優しい人というのは、決して相手に甘い人間のことではない。言葉遣いや所作はやけに大人びているが、そういうことがまだ分からない辺り、顔や見た目通りに彼女は若いのだろう。
少しの間、俺と彼女は煙を小さく吸っては吐き出すだけの、ちゃちな時間を過ごした。退屈そうな顔の彼女は咳き込むこともなく、丁寧に煙草を燻らせていたが、ある時たっぷりと煙を吸い込み、肺に長く溜め込んでから吐き出した。それは溜息のような呼吸だった。
「そう言えば、変なことを訊くようですが」
そんな前置きをして、彼女は続けた。
「お兄さんは、どうして煙草を吸っているんですか?」
もう一口吸って帰ろうと思っていた俺の手が止まる。
煙草を吸う理由。考えたことがないわけでも、訊かれたことがないわけでもない。大抵は、なんとなくとか、止められなくてとか、そんな当たり障りのないことをヘラヘラと言うのだけど、そんな気分にはなれなかった。
静かな雨と申し訳程度の雨除け、そして奇妙な女子高生というシチュエーションと、今頃全身に巡っているであろう煙草の悪い成分が、俺を妙に真面目な気分にさせていた。
「吸い始めたのは、昔の小説家がみんな煙草を吸ってたから、かな」
「へぇ。確かに、バットとか朝日とか、よく出てきますよね。お兄さん、小説家なんですか?」
「違うよ。読むのが好きなだけだ」
「解る気がします」
彼女の理解が俺の言葉のどれについてなのかは兎も角、俺の言ったことは事実だった。二十才の誕生日に、まさに彼女の言ったゴールデンバットを買って、それ以来惰性や嫌な気分になるために吸っている。そして俺は、小説家ではない。
「格好いい理由ですね。私も今度からそう言っていいですか?」
「勝手にすればいいと思うけど、そもそも煙草は止めた方がいい。不味いとわかってるなら尚更だ」
「不味いと解ってるのに吸っているんだから、止める訳がないじゃないですか」
彼女の言葉は真理を突いていた。俺がもし煙草を美味いと感じることができていたなら、二十才の途中には、良い経験ができたと言って止めていただろう。
良いものは止める理由が一つあれば止められてしまう。悪いものは、一度続いてしまえば止められない。そういう心理と真理。
「私が煙草なんかに手を出したのはですね」
訊き返した訳でもないのに、彼女は語り始めた。最初から、自分が話すための前振りでしかなかったのかもしれない。
「なんだろう。私なんてー、って気分になって。不良になっちゃえ、みたいな。子供っぽいですよね、あはは」
そう言う彼女の笑い方は、確かに自虐的だった。彼女がどれほど幼稚で馬鹿馬鹿しい理由で煙草に手を出そうとも、嫌な気分になるために煙を吸い込む俺が文句を言える筈もない。
「お父さんが昔吸ってたからか、全然嫌な感じもなくて。むしろ懐かしいって思いました、煙草の匂い」
「お父さんが喫煙者だったなら、女の子は煙草嫌いになりそうなものだけどね」
些か男女差別混じりなことを言うが、彼女は特段それを気に留めなかったようだ。
「小学生くらいの頃はそうでした。でも、本格的に思春期を迎える前にお父さんは煙草やめちゃったから」
「良いことだ」
「値上げがきっかけだったかな。覚えてませんけど、気づいたら吸わなくなってました。お兄さんは、値上げとかで止めようと思いませんでしたか?」
「俺が煙草を吸い始める前に値上がりしてたからね。それに、俺は安い煙草しか吸わない」
気分で変える銘柄の内、メインになっているのはゴールデンバットとこの『しんせい』。所謂旧三級品と呼ばれるもので、一箱が三百円前後でしかない。
「お兄さん、結構若いんですね。三十歳くらいだと思ってました。……って、すいません。失礼でしたよね」
「いいや。俺だって大人はみんな老けて見える。高校生なんだから、それでいい」
「大人は、って。お兄さんも大人じゃないですか」
「そうかもしれないな。二十歳になったときは、自分が大人になったと一瞬だけ思っていた」
しかし、年齢が幾つになったところで、子供から大人になるラインを越えた訳ではない。社会的に大人と見なされるようになるだけだ。
自分はいつでも絶えることなく自分で、子供の自分と大人の自分とを区別できない。子供だった期間の方が長いのだから、自認としては子供になってしまう。
自家撞着的で矛盾に満ちた理論だけど、それが自分の大人というものに対する哲学だ。
「そうなんですか。私もいつかなれるかな、大人に」
「制服じゃなければ、俺は君を少しは大人だと思っていたかもしれない」
煙草を吸うような人間は、悪がった者でないなら大人でなければいけないし、彼女は一目では悪がっているようには見えない。ただそれだけの理由ではあるけれど。
「じゃあ、今度はオシャレしてここに来ます。お兄さんから大人だと思ってもらえるように」
「自分を大人だと思えれば大人だよ。見知らぬ男から大人だと思われても、得なんて一つもない」
「凄い、小説みたいな台詞。お兄さん、やっぱり小説家さんなんじゃないですか?」
煙草も吸ってるし、と彼女は冗談なのかそうでないのか、そもそも意味があるのかないのかも判別しにくいようなことを言った。
「君がそう思うならそうかもしれないな。今度は小説家に見えない格好で来ることにする」
「会えるといいですね」
雨の後の虹のような爽やかさで彼女は笑う。まだ雨の中にいる俺にはその笑顔が眩し過ぎて、目を伏せてしまう。
「制服姿の見知らぬ女に煙草を分ける人間は、確かに俺くらいしか居ないだろうしな」
「違いますよ。お兄さんは、また私に会いたいとか、思いませんか?」
それがどのような答えを期待しての質問か解らず、俺は答えあぐねる。
「さぁね、どうだっていい。もしも会ったら俺は惰性で煙草を分けるし、会わなければ変な奴がいたという記憶もなくなる」
相手の意図が解らず、そしてそれが利害に繋がらないのであれば、正直に答えるしかない。それが彼女にどんな印象を与えるか予想できないが、今述べた通り、どう思われようと構わないのだから、尚更に。
「私は、またお兄さんと話したい。お兄さん、映画みたいな喋り方で、私も映画の中にいるみたいな気分になれるから」
意外にも、というと自意識過剰かもしれないが、兎に角彼女は不快を覚えてはいないようだった。或いは最初から、俺がこんな風に答えると予想していたのかもしれないと思わせるような反応ですらある。
それにしても、小説のようだと言ったり映画のようだと言ったり、彼女の俺に対する印象は様々な意味で理解不能だ。
「お兄さんから煙草を貰って、それを吸いながら、クラスメイト、うぅん、彼氏ともできないような話をする。とっても素敵だと私は思います」
「俺には非行への道にしか思えない」
人は、この場所だけが特別だと思い込むことで、普通の道から外れてしまう。それは俺が体験して来たことだから、よく知っていた。
彼女はきっと頭が良いのだろうとこれまでの会話からなんとなく思っていただけに、そんな体験をして欲しくはない。
「だから、非行でいいんですって。不良になりたいんです、私」
「髪を染めて、制服を着崩して、学校をサボるようには見えないけど」
「それだけが不良じゃありませんから。真面目そうな不良になりたいんです」
俺はふと想像した。校則をきっちりと守り、勉学に勤しんで、学級委員なんかもやってしまうのに、裏では煙草を嗜んでいる。そんなクラスメイトが高校生の頃にいたら、どんな風に思うのかということを。
捻くれていると思い込みたい俺にとって、そんなクラスメイトは、非常に魅力的に映るだろう。その秘密を共有して、その思考にシンクロしたいと、要するに、恋愛に似た感情を抱いてしまうかもしれない。
「格好いいと思いませんか、そんな人間がいたら」
「今丁度、俺が高校生だったら魅力的に見えるだろうと考えていたところだ」
「ですよね。やっぱり、お兄さんとは気が合います」
「俺程度がそう思うってことは、他にもこんな奴が山程居るということだよ。そういうクラスメイトと仲良くなればいい。きっとそいつは俺と同じような話し方をするさ」
格好つけてね、と付け足すべきか迷ってから、口に出した。
手許の煙草はフィルターの手前まで短くなっていて、今度こそ迷わずそれを捨てる。
「お兄さん、格好つけてそんな喋り方だったんですか? 成功してますよ、私に対しては」
彼女が、あげたはずの煙草を差し出してくる。先程の言葉を捨て台詞にして帰るつもりだったが、断るのも面倒になって、煙草を受け取ってしまう。
「俺だって普段はもっと平凡に話しているさ。こんな喋り方の人間は、それこそ小説家でもなければ生活していけない」
「私にとってはお兄さんは小説家ですよ。でも、どうして私には普通に喋らないで、格好つけたんでしょう」
煙草を咥えて、ライターを取り出そうと胸ポケットに触れる。何の感触もない。彼女に煙草と一緒にあげたのだから、当然だった。
「変な気分だったんだよ。一人で煙草を吸うときは、いつもそうだ」
彼女はライターを渡すのではなく、背伸びをして、俺の咥えた煙草の先に直接火を点けた。少し驚いたが、これも彼女の言う『映画や小説のようなシチュエーション』のための演出なのだろうか。
今更こんなことに驚いてもしょうがない。俺も夢か何かを見ていると思うことにしよう、と一口目を大きく吸い込む。焦げ臭くて辛い味が口内に広がって、気道と肺を熱くして、傷つけた。
ふぅ、と口を細くして煙を吐き出す。見つめていた雨の景色の一部を煙がぼかした。
「それじゃあ私も」
煙草を持った方の腕が、細い何かに抑えられる。そして、再び背伸びした彼女が、俺にキスをした。
「変な気分なんでしょうね」
自分の口元を手で軽く隠して、はにかむように途切れた言葉を再開する彼女。呆気に取られた俺は、自分の腕に触れたのが彼女の指先であることに今更気付く。ピアノの白鍵に似合いそうな指先は雨のせいか冷たくて、それが離れていく感触がやけに生々しく、スローに感じられた。
「これで、また会いたいと思ってくれますか?」
「……知らない女子高生にキスをされてまた会いたいなんて思う奴は……まぁ、いるんだろうな」
「お兄さんは違うんですか?」
「普段の俺は絶対に違う」
「今のお兄さんの気分を聞いています」
やけに強気な彼女に、またも俺は変な誤魔化しや言葉遊びは通じないと思わされる。
「また会いたいかはともかく、君の頭を開いて、中身を見たい」
「告白だと思うことにしますね。小説家みたいな」
「俺が小説家なら、尚更見たいと思うんだろうね」
「素敵。ふふ」
中身が残り一本となってしまった『しんせい』のパッケージから、その最後の一本を彼女が取り出した。
「シガレットキスって知ってます?」
「ここは小説でも映画でもないし、相変わらず君は俺にとって見知らぬ女子高生だ。そして君はライターを持っている」
明確な言葉にはしなかった否定の意思を彼女は汲み取ってくれたらしく、「なんだ」と小さく呟いた。
「本当のキスまでした仲なのに」
君が勝手にね、と野暮なことまでは言わなかった。
「代わりに、名前教えてくれませんか」
「最近の勧誘は手が込んでいるね」
「私がお兄さんを誘えるのなんて、デートくらいなんですけど」
「尚更手が込んでいる」
「じゃあ、ペンネームの方だけでも」
もうその話題は終わったものだと思っていたが、彼女の中では継続して俺が小説家という設定のままらしい。
「××××だよ。本は一冊も出していないし調べても出てこない筈だけれど」
観念して俺が告げたのは、本名の方だった。
「小説家じゃなくて、卵の方でしたか。本が出る前には教えてくださいね。初めのファンになりたいので」
彼女はそれを随分都合よく解釈して、俺が本当に小説家志望なら喜んでいたかもしれない社交辞令を言う。
「そうだね。そいつが五百円を超える頃には」
「千円になるまで連絡がなければ、フラれたと思います」
「そうなっていたら煙草は止めるさ。そうしたらもう君は俺に構う理由がなくなる」
「キスの記憶はなくなりませんよ。私からするのは、初めてだったんですから」
あぁ、これが本当に映画か何かで、或いは俺が小説家やその志望者だったなら。そんなことを一瞬だけ考えてしまう。
一瞬だけだった理由は、馬鹿馬鹿しいというのが半分と、そしてそうだったとしても何も変わりがないだろうというのが残りの半分だ。
「あ、それから。もしよければ、私のことも小説にしてください。私に読ませても読ませなくても構わないので」
「本物の小説家にそんなことを言ったら失礼だから、気をつけるといい」
「お兄さんになら大丈夫ですよね」
「その通りだ。煙草を止めたら考えるさ」
「嬉しい」
二人同時に煙草を咥える。
吐き出すタイミングは少しだけズレて、風の気まぐれだろうか、煙は二人の間に流れた。
「それから、○○です」
「何が?」
「私の名前。君じゃなくて、次からは、○○って」
彼女が煙草を捨てた。俺はもう一口吸ってから捨てた。もう残りはない。彼女はこれから、貰いタバコに自分で火を点けることになるのだろうか。
「これで、見知らぬ女なんて言わせませんよ。××先生」
名前の方に先生を付けて、彼女は言う。
「君の高校に告げ口をするとは思わないのか。名前なんて教えてしまって」
「先生は共犯ですから。そんな責任を負うようなこと、しないと思って」
図らずも、彼女の言うことは正解だった。責任どうこうに関わらず、そもそも俺に正義感がないだけということを除けば。
「また、ここで会ってくれますか?」
シャッターに立てかけていた傘を手に取って、彼女は再三にも思える質問をする。俺は、再三になる答えを返す。
「自分から会うようなこともしなければ、もう来るなとも言わない。ただ、会うのは難しいかもしれない」
「毎日だって通いますよ。というか、通っちゃうんですけど」
「いいや、俺がここに来なくなるかもしれないだけさ」
「私を避けて?」
違うさ、と敢えて俺は言葉にする。その後を言うか言うまいか迷って、結局言った。
「暫く、嫌な気分になりそうもなくてね」
一歩踏み出す。それだけで申し訳程度の雨除けの庇護から外れてしまい、あっという間に俺は雨に打たれてしまう。
「私は、きっとずっとこんな気分ですよ」
背後から傘を開く音がして、雨の当たる感触がなくなる。遅れて、彼女が俺と肩を並べた。
傘の角度は俺に偏っていて、彼女の右肩が濡れていた。
「良くないことだ」
それだけ呟いて、俺は彼女に半歩分近づいた。
「喫煙よりも?」
彼女が悪戯げに笑う。
灰色をした雨の中、一つの傘で二人が歩く。それを背中から見れば、きっと出来の悪い映画のワンシーンのようだろう。
忘れ去られた喫煙所には、誰も寄り付きはしない。