2 地下特急(2)
《ハルブルク、ハルブルク 大陸移動エレベータハートランド行き、アーソナ・ラインをご利用のお客様は、お乗り換え下さい》
あたりの乗客がいっせいに降りる。車窓からは、コンドマの駅とは比べ物にならないほどの数の人が仕事着姿でさかさか歩いているのが見える。彼らが冬服を着ているのを見て、ここが冬なのだということを思い出した。
後ろに続く人がいないのをいいことに、列車から降りてすぐの場所で鞄を下ろす。荷物の多くを占めていた分厚いコートを抜き取った。その直後に、走行レーンとホームとを仕切る保護ゲートが閉まる。
地下交通局の駅の仕組みは、ユリゼン・ラインとはけっこう違う。まばらになった人の流れにかろうじて着いていき、彼らの真似をしてアルミニウムゲートをくぐった。これが改札口なのかと思ったら、ただの生体認識機だったようだ。本物の改札口で渡航カードをリーダーにかざさなければならなかった。
地下一階へあがれば、街案内のための立体地図ホログラムが上空に浮びあがっていた。さすがはアーソナ大陸のハブ、駅の中でさえも一つの町のように賑やかだ。食品店や本屋(ブックコードを探す検索機だけなので、店自体はとても狭い)、服屋や家貸し屋なんかが軒を連ねていた。朝も早いのに、まるで昼間のような明るさだ。なかでも、すぐそばで殺人的にいいにおいをまき散らしている本物のチョコレート屋に入ってみたくて仕方がなくて、うろうろ中途半端に立ち止まっていた。
でも、多くの人が行き交うのでうかうか立ってもいらない。僕は壁際に退き、役に立つ気がしない拡大率の地図を広げる。地下交通局とアーソナ・ラインは会社が違うので、乗り場もまた別だ。下調べはしておいたのだけれど、実際にその場に立ってみると、途方もない広さで、今自分のいる場所は駅の北側なのか南側なのか、はたまた西か東かわからないのだ。
「やあ、地図とは古典的だね、坊や。そして大荷物だ」
隣には、スーツのおじさんが手ぶらで立っていた。40歳の中ほどに見えるけど、しゃんとして立ち姿がすごく格好いい。ビジネスマンは無駄な荷物は配達サービスを使っているに違いない。(それにしたって手ぶらはやりすぎだ。)僕のような大荷物を抱えて歩いている人は、当然ながらほとんどいない。地図を持ち運ぶ人がいないように。
「エクスパンドは?」
無視しようと思った。でも、おじさんは謎めいたことを言うので思わず反応してしまった。その瞬間、彼がにやっと笑ったので、僕は騙されたような気分になる。
「エクス……、なんですって?」
「これのことだよ、これ」
おじさんは、スーツを広げて見せた。ポケットの裏側あたりに、青いノートみたいな代物が縫い付けてあった。いや、縫い付けてあるように見えるだけで、実際はベルトで留めているだけだ。彼はそれを抜き出して振った。まさしくノートのように開閉する端末だった。田舎者でも知ってる。必要な世界中の情報は、オールマイティな端末で買うのがセオリーだということくらい。つまり、わざわざ個別の情報媒体を持ち歩かなくても、たった一つで事足りるというわけだ。
どこに進めばいいかわからないでいるような人たちがまわりもいたけれど、僕のように地図を広げているような人はいなかった。みんな、さまざま形式の端末の操作をしている。持っていない人は、公共用の端末に列を作っている。
「体内に埋め込むのが流行らしいが、――これは私個人の意見だが――、身体のぜいたくな拡張は、身体の外部に依存するものでなければならない。まあ、エクスパンドを持ち運ぶ手間が減るぶんだけの機嫌は良くなるだろうが」
彼が何を言っているのか、いまいちわからなかった。「まあ、」と言われても、前の話と後ろの話に論理的なつながりがあるのかどうか、僕には判断できなかった。ハートランド風のぺちゃっとした発音が聞き取りにくい、という話ではなく。猛烈に面倒になったので、僕はぶっきらぼうに答える。
「なんにせよ、僕もってないです」
「私のを貸そう。どこについて知りたい?」
「いいです。アーソナ・ラインのハルブルク駅に行きたいだけだから。それに、あなたに親切にしてもらう理由もない」
口にしてしまってから、はっとする。さっき考えたばかりのことをもう忘れている。
確かな関係性が育まれていない、ある二人のコミュニケーションにおいて、目的を達するために幾通りもの言葉や表情が選べるとして。ふさわしくない距離感の言葉を使ったり、不必要に相手を不快にさせる物言いをすれば、情緒レベルが低いとみなされる。とすれば、受け手は、まともに口をきくこと(相手にすること)を放棄してもかまわない。無礼に対してそれ相応の態度で切り捨てる権利が保障されてるということ。それが、都会や仮想空間という人の多い場所でのルールになっているということ。
でも、おじさんは心が広かった。どこかで見たような笑みを浮かべて言った。
「……困っている子どもををほうっておくのは趣味じゃないんだ」
大人におせっかいをやかれてちょっとムキになっていたのだと自覚した。おじさんは、それがわかっていたから笑ったのだろう。
「……そんなに困った顔してました?」
「ああ、むろん。顔に書いてあったぞ」
僕はむっとなって頬を隠した。その笑みはなんなのか、心当たりがあった。……ジャームッシュだ。僕を子ども扱いして、うれしそうにするときは決まってこんな顔だった。
「……私は今しがた、ハートランドからのエレベーターで到着したところでね。これから顧客のところに向かうのに、A・Rへの乗り換えが必要なんだ。一緒に行こう」
おじさんは僕の背中をたたいた。コートのおかげで、そんなに痛くはなかったけど、少しよろめいて前につんのめった。そんなことは一向に気にしていないようで、ついてこいと腕を振る。ためらっている僕のほうを振り返り、苦笑した。
「大丈夫。私は怪しいやつじゃないさ。それより、ここで一人のほうが危ない。なんだかんだ、ハルブルクはこのぐらいの時間が一番混雑するんだ。人々の中の朝と夜が交代する時だからね。ぼうっと迷っていたら、君の大事な荷物も、いつのまにかなくなってしまうかもしれない」と、言いながら、泥棒の真似ごとのように僕の鞄をすばやく拾って颯爽と歩きだした。ちらちら振り返るので、ついていく以外になさそうだった。「みたところ、おのぼりさんだ。どこからきた」
「ユリゼンです。初めて大陸の外に出ました」
「それじゃ、むろん、ハルブルクは初めてだね?」
「ええ。ハルブルクどころか、全部」
「なら、少し町の景色を見ながら駅に向かおうか。ずっと土の中にいたのでは、空の明るさを忘れちまうだろう」
おじさんは表情を明るくして頷いた。人の波から外れて、おじさんは外に出る階段を登った。重いはずの僕の鞄を、軽々と肩の上にしょっている。
ハルブルクの街は、明け空に染め上げられていた。簡易ホテル、家庭用機器会社のレーザー広告が大きなビル面に照射されている。ビル面をスクリーンにして、アニメーションのようにうごうごと動いていた。それなのに、ごみごみとした感じはしなくて、統一された落ち着きがある。均質的な色調や文字のかたちがそうさせているのだと思う。それぞれが協調しながら、製品をアピールしている。
「案外、新進的な町だろう?」
都会の街並みにこころうばわれていたところ、おじさんは振り返って話しかけてくれていた。
「……僕の町に比べたら、どこだって」
ごくごく小さい声だったので、おじさんの耳には届かなかったろう。なんだって、と大げさに耳を近づけてくる。その通りだと思います、と僕は答えた。
「ハートランドとの直通線の恩恵だ。陸空、どちらの便もある」
おじさんはおしゃべりだ。ときどき何を話しているのかよく判らないけど。
「あなたは、ハートランドの出身ですね?」
「ん、ああ、そうだが? ……話したかな?」
「さっき、ハートランドから来たって。あと、なまりもある」
「ああ、なるほど。でも、なまりじゃないんだ。これが正統な発音だよ、坊や。土着の旧言語風の音に慣れていると、ちょっと違和感があるだろう」
ハートランドはアルビオン政府の発祥の地であり、世界の中心だ。だから、世界標準はいつだってサーマス大陸から発生する。おじさんの発音に出会って、砂穴から出た実感や、世界に触れた実感を得た。
おじさんはちょっと得意になって続ける。
「むかし、世界各地には、それぞれの言語やコミュニケーションツールが存在していたんだ。今の言葉が広まり、多数派になっていくにつれて、マイノリティのことばは相対的に旧言語ってなったわけだ。旧言語の名残はそこかしこにある。さっき言った訛りもそうだが、たとえば、人の名前や土地の名前もだ。つまりだ、固有名詞の読みと綴り。それぞれ言語の規則なんて、よっぽどの物好きか、学者ぐらいが知っていればいい」
僕は母親のことを思い出した。彼女は、純粋な現世語の使い手だ。当事者でさえ忘れ去ってしまっていて遺すことができないもの。こうして、現世で「失われたもの」が増えていくのだろう。そういえば、「言語」を発掘するコレクターもいたような気がする。父さんがくれた本のなかに書かれているのを読んだことがある。そのこともあって、父さんは僕に、ある特別な「文字の読み解き方」を教えてくれたのだった。
おじさんは、歩きながら街の景色について蘊蓄を披露する。それから、アーソナの不便さについてだとか、人々の頑迷さだとかを、ハートランド風だというユーモアとスタイルで面白おかしくこきおろしていた。面白おかしく、というのも、おじさんの手ぶりが冗談風だったのでそういうことなんだろう。彼のジョークの文脈に対する知識がなくて、またしてもわからなかった。これから学ぶ必要があることがいっぱいでてきて、途方にくれる。
アーソナ・ラインのハルブルク駅の駅舎が見えてくると、もうすぐ着くぞ、と僕の頭に手を置いた。
「そういえば、坊やはどこに向かうんだい」
「リヤンです」
「リヤンはいい町だ。急進派の中には『ねじ式の町』と呼んで皮肉る連中もいるが、そんなことよりも学生街として有名だ。アーソナで、学生時代に過ごした街はどこかと聞けば、1000人中1人はリヤンと答えるだろうよ。……いや、適当な数字だが。……つまり、大荷物の理由は、進学かな?」
「そんな感じです」まだ受験生だけど。
「君くらいの歳なら、高等学校かな?」
「いいえ、職専塾です」
「リヤンで職専『塾』といったら、マルセル学園グループのそれしかない」すこしぴりりとした口調でおじさんは言った。でも、次の瞬間にはゆるい手の動きで僕を和ませる。「マルセルはロアノークに並ぶ超名門だ。すごいじゃないか。で、何になりたいんだい?」
「発掘屋です。だから、古物学群に」
おじさんは足を止めた。あやうくぶつかりそうになる。彼は不思議な表情で僕のことを見降ろしていた。アーソナラインの地上入口はすぐそこだった。増えてきた人々が、どんどんその奥へと吸い込まれていっている。
「……まったく、数奇な出会いだ。とすると、君と私は商売敵になるってわけだ」
「あなたは、コレクターなんですか?」
おじさんは、いいや、と首を横に振った。
「ただ君が、実存的な土を探る喜びでしか生きられない不幸な人間になってしまったとしよう。その幸せな道は一本に限られないってことを伝えておく。正道を往くにこしたことはないが、どんな手段を使おうが、進めば目的地に到着することはできる。挫折した時のために、覚えておくといい」
お手上げだ。僕はふきだして笑った。「……よく、わかりませんね」おじさんの話は全て。
「つまりだ、マルセルを修了するのは難しいとも聞く。私の友人に、マルセルの……何のコースだったかは覚えていないんだが、何人かいてだね。結局、マスターすることなくドロップアウトだ。君がそうならないという保証はない。……でも、だ。君が真の発掘者であればこそ、どこで何を学ぶかは関係ないのだよ」
「それもちょっと、まわりくどい」
正直な感想を言うと、おじさんは参ったな、と笑った。とにもかくにも、僕は礼をいうべきなんだろうと思った。おじさんは、なんのなんの、と豪快に笑って僕に鞄を渡してくれた。あんまり重くて、腕ががくんと鞄に引っ張られた。そこで僕らは、別れのあいさつを交わした。改札を通り抜け、僕はリヤンのほうへ、おじさんはスーべニアのほうへ、それぞれのホームへ渡った。
ホームの売店で甘い紅茶を買い、ちょっとした食事を買って、生まれて初めてのこの旅を楽しむことにした。香草入りの白パンは、丸くて柔らかくて、とても懐かしい味がした。