1 地下特急(1)
誰かが僕を起こそうとしていた。耳からはやかましいヘリコプターと甲高い女の声が飛び込み、体は絶え間なく揺すられているようで眩暈を感じた。やめて、放っておいて、と手を払ったら、つるっとした人の肌に触れた。
僕はどっと冷や汗をかいて飛び起きた。はずみでイヤホンがころりと落ちて、ヘリコプターとキンキン声は聞こえなくなった。
「もし。気分はいかが?」
なんてこった、目を開けているのに真っ暗で何も見えない。狂ったように頭を振って、めちゃくちゃに手を伸ばしてあたりを確かめた。たまらず叫びそうになったところで、さっきの天使のような声が僕を救った。
「アイマスク、つけたままですわ」
アイマスクを外す手はがくがくと震えているし、はっはっは、と犬のように浅い息が続いた。僕の眼球はせわしなく動いて情報を集めていた。今はいったいいつで、どこで何をしているのだろう。
周波数の高い音が空間に満ちて、重力に磔にされるような重みを下半身に感じる。寝ていた姿勢(座っていた。)から真直ぐ見える、小さなスクリーン。(ヘリコプターから降りたレポーターが、何か喋っている。)ようやく、自分が地下高速旅客列車の中にいることを思い出して、体に力が戻ってきた。
僕は目を閉じて、深いため息をついた。何も悪いことは起きていない、何も。
「ひどくうなされていましたから、起してしまいました。余計なことをしたのでなければ、いいのですが」
僕は何とも答えられずに、天使の声のほうに目を向けた。赤毛の美少女が、心配そうな顔で僕を覗き込んでいた。どう見ても、僕よりも年上だ。大仰な真っ白のコートを着込んでいて、その首回りと袖周りにはきつね色のファーが縁取ってある。生地はとても上等そうで、車内灯の人工的な灯りを受けても生き物のように艶やかに光っていた。彼女の正体を何より雄弁に語るのは遺伝子だった。高貴な血筋の恩恵を受け、素晴らしい場所で育ったんだろう、穏やかで慈愛にみちた愛らしい顔つき。そんな人間が普通席に座っているなんて、救いようもなく場違いだ。決して悪い意味ではなく。
彼女は僕に白いハンカチを差し出していた。それはどういう意味か、僕は自分が涎を垂らしているような妄想に駆られ、めちゃくちゃに口元を肩口で拭った。もちろん神聖なハンカチは受け取っていない。
「……ほんとうに、助かった。ありがとう」
思った以上に、声が枯れていた。快適すぎる空調のせいか、それとも、彼女の言うとおりうなされていたせいか。そしてハンカチは、涎ではなくて涙に対して差し出されたものだった。僕の頬を、涙が伝っていた。アイマスクの裏は、涙でシミができていた。夢を見ていたのだ。
実際は、アンナは棺に入れて葬送した。でも、夢の中では自分が、アンナの亡骸を土の中に埋めているのだった。土をかぶせようとしても、なぜだが土は掌の中から消えていき、代わりに血液になって零れて、死体を赤く染めた。すると、土の中からにょきにょきとキノコのような白い指が生えてきて、アンナの体を引きずりこもうとするのだ。あわてて手を伸ばしたけれど、妹の体が土の中に消えるほうが早かった。さらにどう猛になった指は、僕の事さえも引きずり込もうとする。嫌だ、怖いと泣き叫びながら飛び起きる。アンナが死んでから、何度も見た悪夢だ。母親の死のときは、少しも動揺しなかったのに。
なんだか息が苦しい。浅い息しかできないせいだ。外が見えないせいだ。
「気分が悪いのですか? お水、飲みますか」
水も飲みたくない、僕は拒否しようと目を開けた。その時だ。目の前のスクリーンでは、先の発掘現場の映像が映し出されていた。ジェドヴィチ半島のポリエ発掘所の中継、らしい。どうやら、また不発弾が発掘されたらしかった。ジェドヴィチ半島一帯は戦で荒廃した土地で、歴史保存地区だと解説文が出ている。
「文化科学放送ね」
少女が顔を輝かせた。意外に思って彼女のほうに顔を向けた。すると少女は、にっこり目を合わせてほほ笑む。
「私も、よく見ますわ」
「……自分以外で、文化放送を見る人間に初めて会いました」
僕が気の抜けた声で答えると、彼女は眼をまん丸にしていた。驚いているらしかった。その反応からして、アースラ大陸では、文化科学放送を見ることも、発掘に興味を示すのも、それほどおかしな趣味でもないみたいだ。
コンドマでは、文化にかかずらっている余裕はないし、感受性のある人間はあまりいない。(僕だって、感受性があってコイツを見ているわけではなかった。出てきたものが、どれだけ人類史的に価値のあるものかとか、どれだけ利益を生むかとか、どれだけ大衆を楽しませるかとか、発掘屋の欠くべからざる感性が僕にはなかった。)そんな状態にふさわしく、コンテンツに対応したインフラもあまり整備されてなかった。僕の住んでいた町営住宅G棟のレベルでは、映像を受信するメディアはめったに使わせてもらえなかった。だから、ジャームッシュが軍からもらってきてくれたお下がりラジオで、文化科学放送のニュースを聞いていた。なので僕の今までの実際は、放送を「見る」じゃなくて、「聞く」だった。
それも、必ず聞くことができるわけじゃなかった。うまいこと暇ができた時だけ、僕は最新のニュースに、ちょっとだけ、ほんの一時だけ、触れることができたのだった。父さんが遺してくれた本は古くて、もう正しくなくなっていることもいくつかあった。僕の中に積もったいろんな古い情報が、ニュースによって更新されるのを、砂漠の町で静かに楽しんでいた。
列車はスピードを落とし、やがて停車した。車内の何人かの客が降りて、また何人かが乗り込んでくる。腕時計を検めると、コンドマを出発してからもう少しで丸一日が経つところだった。頭の中で地図と運航スケジュールとを照らし合わせる。順当に進んでいれば、列車はアーソナ大陸の地下を走っているはずだ。
少女と僕は、少しだけ打ち解けはじめていた。彼女は一生懸命、僕と話をしようとしていた。僕も、彼女の穏やかな話し方を学ぼうとしっかり耳を傾けた。コンドマでのコミュニケーションと、その他の都市でのコミュニケーションは一緒にしないほうがいいかもしれないと危惧したからだ。基礎学校は、世界について必要なことは教えてくれるし、対処の仕方も学ぶけど、その内容と町の実際は遠く離れてまるで別ものだった。コンドマでは、お互いだいたい顔見知りだし、どの程度の親しさと口汚さが許されるのかよく承知している。対して都会では、他人の無礼さに対する一切の情状酌量がないのだと聞き及んでいた。言葉ひとつで、味方になってくれるひとがいなくなってしまうというのは、とても恐ろしいことだ。
「どちらまでいかれるんですか? 私は、ザウザンまで参ります」
僕はそのとき初めて気がついた。彼女の前後にを固めるようにして、黒服が座っていた。付き人がいながら、市民御用達の地上列車に乗る彼女の姿は想像できない。ザウザンからは、車にでも乗るんだろうな。
「僕はリヤン」
この地下列車は、アーソナ大陸の交通のハブ、ドランド州ハルブルクまでしか走っていない。アーソナ大陸は、地下開発に対して慎重だったから、ハルブルクが限界なんだろう。むろん、僕の目的地であるリヤンにも地下列車は走っていない。なので、ハルブルクで降りて、A・Rに乗り換えるつもりだった。
「まあ。私、リヤンに住んでいますの」彼女はとても楽しそうに手を合わせた。「リヤンはいいところだわ。楽しんでくださいね」
「観光じゃないんです。これから、リヤンの学校に向かうんです。面接試験が残っているから、まだ受験生ですけど。でも、何にせよそこに住もうと思っています」
「それは素敵なことだわ! これも何かの縁ね。私、マリア・ルーン・メルンブルクと申します。マリーとお呼びくださいな。あなたは?」
「トキツグ。姓はラッツェル。トキツグと呼んでください。ちょっとややこしい音ですが」
「大丈夫よ。トキツグね。よろしく」
彼女はにっこりと笑いかけてくれた。僕も、下手糞だったろうけど精いっぱいの笑顔で返した。
列車が動き出した。アナウンスは、各駅への停車時間を告げている。ハルブルクまではほんのすこしだ。
「リヤンはきっと住みいいわ。無礼を承知でお聞きしますが、学校はどちら?」
「マルセル職専塾です。古物学群を専攻する予定です。……コレクターになりたいから」
彼女ははっとしたように息をのんだ。そして、その細い指を自分の胸にあてがった。
「……すごいわ。偶然ね、私もマルセル職専塾の古物学群。センチネル科だけども、」
「センチネル科……?」僕はコレクター科以外の可能性について一度だって考えたことがなくて、候補にも挙がらなかった。どんなことをやるのかさえ、おぼろげにしか理解していない。
「ええ。とても楽しいわ。それに、コレクターのいちばんのパートナーは、センチネルなのよ」
センチネルが直々に、コレクターに発掘を依頼することがある、ということを言っているのだろうか。彼女の意味の解らない言葉を、僕は大事なところに仕舞った。
「トキツグ、お住まいは決まっていらっしゃる?」
彼女は一番大事で、一番厄介な問題を思い出させてくれた。
「まったく何も」
「まあ、それは大変。リヤンは学生が多いものだから、悪い家貸しがいますのよ。……心配だわ」
列車は失速を始めた。もうすぐザウザンに着くと、車内案内が告げている。僕らは、顔を見合わせてその声を聞き、お互いの背後にテロップが流れていくのを見ていた。
「マリーお嬢様。そろそろご準備を」
黒服が、控えめな声で彼女を促す。僕に対しても、荷物を忘れないように、盗まれないようにと警告してくれた。
「ちょっと待ってちょうだい。……これをあなたに差し上げるわ」
彼女はコートのポケットから、金色のシガレットケースのようなものを取り出した。四角く小さいカードを抜き取ると、僕に差し出してきた。
「リヤンの学生寮街で、友人がマルセル学園寮の寮長をしています。きっと、彼を頼ってくださいね。力になってくださるわ」
学生寮を紹介していくれるらしい。とてもありがたいけれど、ちょっと混乱した。
「僕、まだ受験生です。学生寮に入れるわけがない」
「大丈夫。いずれにしても、貸家屋さんよりもずっと、彼があなたを助けてくれるわ。とても頼りになる人よ」彼女は僕の手を包むようにして握った。「貴方には、きっとまた会います」
「同じ町の同じ学校に居れば、きっとまた」
「そうじゃないわ」社交辞令的に答えた僕を、彼女はくすくすと笑う。「絶対に会うもの」。さっきとは違う、すこし謎めいた笑みを残して彼女は列車を降りていく。「どうか、リヤンまでの道中が素敵なものになりますよう」
「……マリーも」席を立ちあがって言った。
最後に振り向いた彼女は、カード(たぶんそう言った)、と口を動かして手を振る。
座りながら、カードを裏にめくった。
カードは名刺のようで、透明のきらきらした鉱石が浮き上がる加工がしてあった。鉱石の下には、「SIO2男子寮」と書かれてあり、たぶん、住所だと思われる文字の羅列と、コールナンバーも添えられている。裏面には、流れるような美しい字で、彼女の名前が記されている。それだけで、このカードが決して失くしてはいけない大事なものになった。
マリア・ルーン・メルンブルク。僕はその文字を一度見るだけにとどめる。
メルンブルクは、ドランド州にある古い都市だったと思う。彼女のような育ちのよさそうな人の場合、土地の名前が姓になっていることがよくあるらしい。じゃあ、ルーンというミドルネームはどんな意味があるのだろう。「マリア」と「メルンブルク」という音に挟まれた「ルーン」という音は、なんだか収まりが悪い。べつべつの旧言語の音同士は、組み合わせると不協和音のようだった。たとえば僕の名前、「ラッツェル」と「トキツグ」の音が織りなす心地の悪さ。
ハルブルクまで、あと数分で着く。繋ぎっぱなしの文化科学放送を見たくてイヤホンをつけた。モニターの向こうでは、安全帽子をかぶったアナウンサーから、作業着の少年が質問を受けていた。ゴーグルと作業用マスクをが邪魔をして、はっきりとはわからないけれど、僕と同じくらいか少し下の年齢に見えた。
「おそらく、二百年くらい前でしょう。まだ年代測定をしていないので、正確なことは言えませんが」
物怖じしないきらきらとした瞳が、端末を通しても損なわれてはいなかった。長い金髪のインタヴュアーは、ここからが本題ですと言わんばかりに、ぐっと少年に詰め寄った。
「この発掘のスポンサーは、どなたです?」
「未定です」間髪入れずに少年は答えた。
スポンサーがいないということは、今時珍しく、自発企画で発掘しているということだ。報酬はあとから集める、というスタイル。そんな真似ができるなんて、よっぽどの大所帯か、金に困っていない道楽者なのかもしれない。なにせ、いまどき発掘屋なんて、土地開発前の宝探し屋としての需要と機能しかないのがほとんどだ。発掘屋のクライアントが、デベロッパーや開発公社、なんてザラだ。文化科学的に価値ある仕事であったかどうかは、後になってからでないとわからない。『旧世界』を探したいだけの僕には、そんな時勢なんて関係なかった。たとえ50年前だろうが今だろうが100年後だろうが、「眠り姫」と出会うことさえできたのなら、同じことを思って発掘屋になろうとするだろう。
でも、一時だけ、弱音を漏らしそうになる。僕に過去を掘り返す資格があるのかどうか。妹を埋めたその手で、いったいどんな墓を暴けるというのか。
金髪女はこちらを向いて目を見張った。
「協賛機関は、まだいらっしゃらない。遺跡保存を考えておられるセンチネル、あるいは研究資料をお求めのラボなど、もちろん、一般企業の皆様も。今からでもスポンサーの名乗りを受け付けるそうです」
少年は怜悧な微笑みで付け加えた。
「ポリエ戦場跡の発掘作業は我々『コンブレー・コレクターズ商会』がすすめております。ご支援を、お待ちしております」
コンブレー・コレクターズ商会。聞いたことがなかった。少年の作業服の胸元で、立体加工をされたジョブカードがきらきらと光っていた。彼と僕はそんなに年が離れているようには見えないけれど、同じ道を、違うスピードで歩いている。いつか、彼と同じようにそこに立つことになるのだろうか。
少年の笑顔も長くは写らず、画面は、トンハオ・センチネルの資料紛失問題へと移った。列車の速度は緩み、ハルブルク、というアナウンスが響いた。はっとして、大荷物をまとめた。