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ノスタルジスト  作者: 黒檀
略述
2/36

百年の孤独(2)

 






 貯金が目標額に達した頃、僕は12歳だった。


 そして僕はマルセルの職業専門塾の受験を申し込んだ。二週間前には一次試験を受けた。

 その結果は、今日届いたようだ。工場を出たところで、憔悴しきった様子のジャームッシュが迎えに来ていたからだ。僕に確実に手渡されるべきであった重要な報せは、僕の許可なく家に届けられ、なおかつ姉に勝手に開封されたということでもあった。配送屋がマニュアル通りに働いてくれないのはいつのものことだけど、今回ばかりはあんまりだと思った。

 ジャームッシュは挨拶がわりに手を挙げ、下がった眉のまま笑った。

「その、状況は想像がつくだろう? ……お手上げだ」

 僕は無言で頷いて、後部座席に腰をおろした。ジャームッシュはエンジンを入れる。窓は開きっぱなしになっていた。風を通していたんだろう、彼がここでしばらく待っていてくれたのだとわかった。走り出すと砂埃が車内に入ってくるので、きっちりと閉めた。

「姉さん、怒ってた?」

「そりゃあ、もう」

「ごめん。迷惑かける」

 前を向いたままでひらひらっと手を振るジャームッシュの指には、金の指輪が嵌められている。ジャームッシュの家の慣習では、結婚相手には指輪を贈るのだという。二年前、彼は姉さんの夫となり、姉さんは彼の妻となった。その時から、彼は僕にとっての義兄だ。これで形式的にも正しく、僕らは家族になったというわけだ。だからといって彼をあてにはしないと強く決めていた。

 だから僕は毎晩工場にいる。砂漠観光と砂漠性動植物の生産で成り立っているコンドマで、子どもでもコンスタントに確実に定額を得るには、工場で雇ってもらうのが一番だった。基礎学校が終わってからの時間を、アンドロイドの基礎部の微妙な調整が必要な溶接とか、よくわからない端末の回路の点検だとかに費やした。自分がお世話になることのない機械を作っているのは不毛だった。僕の生活範囲ではアンドロイドなんてハイカラなものはまずお目にかかれないし、端末を通したありやなしやの世界よりもまず五感が働く範囲の世界(コンドマ)がすべてだ。

 砂漠にほど近い内陸部のコンドマは、寂れたままの町だ。休暇に入った軍人さんたちだって、この町をスルーして海沿いのハイエンドエリアに向かうのが普通だ。彼らの立場だったら、きっと僕だってそうする。ご近所のガタカに発掘屋一行がやってきたときは、この町もにわかに盛り上がったのだけど、それも一時的なものだった。発掘所は一年前に閉所して、その跡地には新たな集住施設が建設されている。そこから出てくるものは何もなかった。

 何かが出てこようが出るまいが、依頼主の願いどおり地面の下を探ることが発掘屋の仕事のひとつだ。役目を終えた発掘屋たちは、旅芸人の一座のように、土地から土地へと移っていった。僕はそんな姿にあこがれ、恋い焦がれている。

 ジャームッシュは、ハンドルの上で指を遊ばせ、なんと切り出そうかと迷っているようだった。タイヤに巻き上げられた土ぼこりが消え、舗装道路に乗り入れたとき、彼はようやく話を再開した。

「でも、一言くらい相談してほしかった。僕はちょっとさみしいぞ」

「ジャームッシュには話を聞いてもらいたかった。でも、姉さんにバラしちゃうだろうから」

「当然さ。僕らの間に隠し事は無しだからな」

 これだよ、と僕は笑ったし、ジャームッシュも照れたように笑った。

 この二年で、僕は彼のことが好きになっていた。姉さんの目に狂いはない。彼はとてもいい人間だ。だけど、彼の目はどう考えても狂っていた。

 彼はバックミラー越しに僕を見る。

「僕にも少年時代はあったし、夢を追わずにはいられないってのもわかってるつもりだ。それにしてもリヤンは遠すぎる。近所の養成所に通う、ってのはダメなのか?」

「どうしてもそこへ行きたいんだ。マルセル財団ってわかるよね? 『眠り姫』を保管している人たち。彼らが作った塾なんだ」

「もちろんわかるさ。オカルトから金融、政治、……マルセル家は、ロアノーク家と並んで陰謀説にひっぱりだこの“大財閥”だ」

 彼は困ったように髪をくしゃりと揉んだ。

「なおさら、レイにもきちんと話しておくべきだった」

「なんで過去形なの」

「あれだけ怒らせて、今からイエスの返事をもらうのはひどく難しいと思うな。経験上」

「そういうこと。僕も経験上、あらかじめ相談してもイエスの返事をもらえないだろうと思って、やったもん勝ちで動いたんだよ」

「君らはまったく、似たものどうしだな」

 彼はやれやれと苦笑して、アクセルを強く踏み込んだ。シートに体が食い込む。

「……似てないよ、ぜんぜん」

 姉さんに似てると言われると、もやっとした気持ちがわきあがってくる。顔にも出てるらしい、ミラー越しのジャームッシュは、子ども扱いするように目じりを下げて僕を見ていた。

「……軽蔑した?」

「まさか。ただ、頼りにならなくて悪かったと思うよ」

「どうして。ジャームッシュは悪くないし、関係もないよ。僕は僕について自分で決めたんだ」

「本気で言ってるのか? 大事な時に息子を支えたいと思うのは、当然じゃないか」

 ジャームッシュがごくまじめに、僕を息子だと言うのは、十分に想像できた。僕を応援するときの常套句でもある。それに対して、昨日までの僕なら黙ってほほ笑んでいたろう。

「君だって、人間が一人じゃ生きていけないことくらい、分かってるだろう?」

 彼は、言外に、二年前の事件のことを匂わせた。確かに、ジャームッシュがいなければ、なんだかんだ稼働している今の毎日はあり得なかった。でも、もっと言ってしまえば、母親があの選択をしなければ、僕は姉さんといろんな考えを共有できて、互いの意思決定を尊重できたかもしれなかった。今ほど歪むこともなかっただろう。

「……ジャームッシュは僕の父親じゃないし、姉さんももちろん僕の母親じゃない。その肩書は、二人のあいだにできる子どものためにとっておきなよ」

「はは。それはまだ先のことさ。……いいかい、トキツグ。これからはきちんと家族を頼ってくれ。みんなで将来について話し合おう」

 僕は彼の気楽さに少しいらついて黙り込んだ。

 ジャームッシュは、姉さんに拒絶されることを知らない。話しても無駄だ、という僕の感覚は理解してはくれないだろう。


 姉さんもジャームッシュも、アンナが落ち着くまでは子供を作らないと決め、幼いアンナを支えることを第一としたらしかった。母親が死んでから、姉さんは軍施設での仕事を抜けたかわりに、別の仕事をしながらアンナのことを看た。僕らの妹は、不思議な幻を見ておびえ、おかしなことを口走るので、託児施設の職員の理解を得ることが難しかったのだ。(彼らは拒否権を存分に活用した。)アンナ自身も、他人よりも姉さんや僕のそばにいることを選んだ。

 母親が死んでからのこの生活で、もともと険しかった姉さんの性格は、ますます刃物ように尖ってきた。他者を断罪し、否定することによって、彼女は自分の立ち位置の正しさや平常さを確かめたがっているようだった。その「他者」は、A棟に移り住んだ古い女友達であったり、昇進したかつての同期であったり、女を連れ込んだときの卑猥な音に構わない隣人であったり、お喋りに夢中でおててがお留守な可愛い売り子であったり、コンドマへの観光客だったり、落ち度のない役人であったり、ニュースで話題の人であったりした。ようするに、ささやかな日常の一場面についてとても過敏になっていた。「他者」に対するまなざしは厳しく、選ぶ言葉は敵意と悪意に満ちていた。彼女のこの審判には一切の生産性がなく、それを聞かされたところで、一片の幸福さえ芽生えようがなかった。

 もちろん、姉さんの敵意は僕やアンナに向けられることもあった。けど、彼女は口に出して罵りはしなかった。そのかわり、僕らが挽回する機会も与えなかった。僕らは、ほかの多くの「他者」と同じく彼女にとっての罪人であり、彼女は誰をも赦しはしなかった。だから、僕こそが姉さんを赦せなくなってしまったし、彼女に気持ちを伝える努力をやめて、彼女の言葉に耳を塞いだ。

 それでも、ジャームッシュだけは、いつだって彼女の側にこそ正義と社会性があるのだと認め、彼女のすべてを受け入れてねぎらい、毒を吸い取っていた。彼女には、この人の圧倒的な清らかさと献身が必要だった。それが歪みを助長する厳しさのない優しさだとしても。的確な助言や、冷静で正しい批判なんかよりもずっと必要だった。僕らのうちのだれもが「なんとかしなければ」という変革の意思を持ってはいないかったのだから、第三者的なまっとうさなどただのおせっかいでしかなかった。だからこそジャームッシュの眼は狂ってるとしか言いようがない。穢れなく優しいジャームッシュは、ラッツェル家には出来すぎた人だ。

 僕はこの人をこそ見習うべきだったろうけど、どうあっても、彼がいるような至高所に至ることができなかった。生きている時間も、見てきた世界も違いすぎて、とてもじゃないけど追いつけなかった。できない理由はそれだけじゃない。僕は、この能天気な男のことを心の底からばかにしているし、あわれんでいる。あなたのような人が、なんで姉さんなんかのパートナーになってしまったんだ、と。ジャームッシュは、砂の女の蟻地獄に引きずり込まれた間抜けな男だ。彼を好きだと思う気持ちとはまたべつのところで、そう感じていた。

 やっぱり彼は、ほとんどいつもどおりに明るい表情で、暗い夜道を照らして走っていた。







 町営住宅G棟三階に我が家がある。砂塵除けの窓は、白く汚れていた。

 町営住宅はひと棟が一つの町のようにでかくて、エネルギー生産から買い物や仕事、娯楽、医者にかかるなど、この建物内で一通りのことはできてしまう。

 といっても、当然、生活レベルごとに区分けされて享受できるものにも大きな違いがある。住人の洗練度合は言うまでもなく、徴収される金と配給の内容、教育の質、インフラの充実度なんかが変わってくる。事あるごとに僕らは住処を変えてきたので、中~下層の生活はひととおり体験している。母親が死んでからは、G棟で申請した。父さんがいたころはC棟で、母親がいたころはF棟だ。

 ここで僕と姉さんとでお金を出し合って、下層一般の生活レベルが維持できていた。(わずかばかりの遺産には手をつけても、ジャームッシュのお金には一切手をつけなかった。)

 共用廊下は静まり返っていた。夜間の働きに出ている人が多いせいだろう。今は建設関係の仕事なら、引く手あまただ。

 外から見た時は、部屋の明かりは消えていた。いつもみんなが寝た後に帰ってくるので、暗い家が普通だけど、今日に限っては閉め出されたのかも、と一瞬ヒヤッとする。けれど、鍵は開いたままだった。中に入る前、ジャームッシュは耳打ちした。僕以上に、この話し合いを怖がっているみたいだ。

「トキツグ、わかってると思うけど、落ち着いて話すんだ」

「僕は落ち着いてるよ。姉さん次第だ」

 けんか腰に言ってしまった。ジャームッシュはますます不安そうに眉根を寄せた。

「……そうは思えないな」

 中は真っ暗だった。物音もしない。僕らは拍子抜けして顔を見合わせた。

「……寝たのかな、レイは」

 すっかり安心したジャームッシュは、駐屯所に戻ると言って再び家を出て行った。

 僕は寝室へ行き、アンナを起こさないようにしながらベッドの下に隠しておいた旅行鞄を引きずりだした。こんな日が来るかもしれないと、試験を受けた日にまとめておいた。部屋を出る時、スライドの音が案外大きく響いて、僕はびくりと振り返った。アンナはすやすや寝ている。安心して前を向いたが、廊下の奥の人影に思い切り飛び上った。

「許さないからね」

 整った容貌は、怒りにさらされるととても恐ろしい陰影を作る。寝たと思っていた姉さんは、起きて待ち構えていた。僕が考えつくくらいのことなんて想定内だったんだろう。こっそり夜中に逃げ出すことなんて。

「姉さんの許可は必要ない」

「そんな強気でいいの? 合格証明通知は私が持ってるんだけど」

 姉さんは腰の後ろから半透明のカードを取り出し、掲げた。月明かりにかざして、書かれてある文字を読み取ろうとする。この姉さんの言葉で、僕は合否を知ることができた。

「じゃあ、お願いだ。それを僕に渡して」

「駄目」

 ここで張り合っても無駄だ。僕は早々に諦めた。

「……なら、それは姉さんにあげる。試験は来年も受けられる。でも、家を出るには今しかない」

 姉さんの脇を通り過ぎようとしたその時、ものすごい力で襟首をつかまれ、そのまま壁に叩きつけられた。のど元を前腕で押し付けられ、爛々と怒りに燃えた双眸が僕を捉えた。最低限にでも、姉さんは軍学校の訓練を受けている。適うはずもなかった。

「どんくさいとは思ってた。ここまでバカだとは思わなかったけど」

「ここまでって……話を聞く気も、ないんだろう。よく、言うよ」

 彼女の腕の力が強くなった。目から勝手に涙がこぼれてきた。

「ええ、必要ないわね。身勝手に家族を捨てようとする奴の言い訳なんか。発掘屋になりたい? 甘いこと抜かしてんじゃないわよ。大した理由もないくせに」

 姉さんは僕の喉を解放した。たまらず、床にくず折れてしまった。せきと涙でぐしゃぐしゃになった僕の頬に、彼女は合格通知をぺちぺちと叩きつけた。

「まったくあんたには騙されたよ。母さんが死んでからずっと、しょぼくれてるのかと思ってたんだけど、………違ったわね。こそこそと逃げ出す機会を窺ってたってわけ。この人でなし」

「……そうだよ。その人でなしを、どんな理由があって引きとめるって言うんだ」

「理屈なんてない。家族なんだから、一緒にいる。それだけじゃない」

「嘘だ」

 ジャームッシュが言ったのならば、僕は信じる。言葉通りだったろう。彼は自分で自分を幸せでみたしてやることができて、理屈なしに心の底から、愛する人の幸せを願える人だ。でも、姉さんも僕も違う。

「嘘じゃない」

「だから、嘘だろ!」

 本当は、姉さんだってずっと前から気づいていたはずだ。少なくとも、父さんが出て行った時から、ラッツェル家はもはや家族の体をなしてなかった。父さんは自分のことしか考えていなかったし、母親は僕らから逃げたかったし、姉さんは僕を疎ましく思っていたし、僕は姉さんを恐れていた。

「僕わかってたよ」

 僕は姉さんをねめつけた。涙はようやく止まりかけた。

「……僕やアンナのことなんて捨てればよかったのに、どうしてそうしなかったの? 捨てないことを選んだのは自分なのに、どうしていつも不幸せそうなの?」

 姉さんは答えなかった。

 姉さんは、出ていこうと思えばすぐにでも、家族の割れた殻から出ていくことができた。僕もアンナも、捨てられたところで追いすがったりはしなかったろう。それは姉さんも十二分に承知しているはずなのに、出ていかなかった。僕やアンナを忘れて、ジャームッシュと二人になれば姉さんは少しは気が楽だったかもしれない。利用できる制度だってあった。姉さんだけは、妻として軍基地の兵士寮に移ることができた。そうしたところで、彼女を咎める人間なんて、この世のどこにいるって言うんだ。自分で自分に背負わせた厄介なルール意識から、自ら罪人になることはできず、彼女は誰をも見捨てることができなかった。

「……自分で誰かのために我慢することを選んでおいて、不幸せそうな顔をするなんて、虫唾がはしる。自分がかわいそうだと思いながらする自己犠牲が、この世で一番嫌いだ!」

 僕は自分でも信じられないほど大きな声で叫んでいた。隣人の部屋にも聞こえたのだろう、ドン、と右側の壁が振動した。

「よくそんな口が利けるもんだわ……この恩知らず」

 姉さんは、驚きと憤りでたとえようがない表情をしていた。傷ついたような顔でもあった。

「あんたは、ガキだから。わがままで、世間知らずのガキだから。何も分かってないのよ。あんたこそ、私のことなんか、私が選んだひとつひとつについて、何一つ分かってない!」

 月に雲がかかったのだろう、廊下は急速に暗くなっていった。姉さんは気が狂ったような表情になり、わなわなと体を震わせた。

「……ジムよ。ジムが許すはずがないじゃない。あの人は、私を愛するのと同じく、あんたやアンナも愛したわ。なにより家族をいちばん大事にする人。そんな人の前で、あんたたちガキどもを捨てたいなんて、言えるわけなかった。……でも! 母さんさえ死ななかったら、ジムの異動に合わせてとっとと陰気くさいコンドマなんかとおさらばできるはずだった! 二人で今度こそ幸せな家族をやり直せたのに、今頃私は、本当のわたしの子どもを抱いていられたのに……! 母さんが自殺なんてしなければ、そんな未来を選べたのに! あの女は逃げたのよ。どこの誰とも知らない子どもを私に押し付けてね」

「……誰のことを話しているの?」

 姉さんは僕の質問を無視して続けた。

「……母さん、あんたに何を言い残したのか知らないけど、私には、アンナを絶対手放すな、そう言いつけたのよ」

 僕は混乱した。つまり、アンナが、他人? そういうことなのか?

「言ってる意味がわからない。アンナが僕らの妹じゃない? 母さんの……父さんの子どもじゃないの?」

 言いながら、自信がなくなっていった。僕も姉さんも、試験管ベビーだ。アンナも多分そうだけど、はっきりと断言できないのは、僕がアンナが家にやってきたころのはっきりとした記憶がないからだ。そのころ、僕はおそらく六歳で、工場のアルバイトも始めていた。父さんからもらった本だって、読めるようになっていた。でも、家のことについてきれいには思い出せない。アンナはいつの間にかいて、いつの間にか成長していた。

 それにしたって、母親の子供でない可能性だったら僕や姉さんのほうが高いじゃないか。アンナは母親に似て病弱で、僕らはふてぶてしく健康に生きている。

「なんでこんな目にあうの? おかしいじゃない。私はずっと母さんのために、父さんのために、そしてあんたたちのために自分の選びたいことは我慢してきたのに。どうして私が……」

 振り絞るような声だった。彼女の長い独白を頭の中で整理していたら、アンナについて真実を問いただす気が失せた。どうせ、もう二度と会わないんだ。どこのだれだってかまわないじゃないか。最後の慈悲のつもりで、姉さんの言葉をただ聴いていた。姉さんは、僕を引き留めようとしているわけじゃない。僕に罪悪感を植えつけるために、哀れぶっているにすぎない。一歩詰めれば、姉さんは一歩退いた。床に落ちた合格通知をつかんで、今度こそ歩き出した。姉さんは、震える声で話しかけてくる。

「私に全部押しつけて、追いつけない場所に自分一人で逃げちゃうの? 父さんや母さんみたいに? ……みんなみんな、身勝手よ。誰かが身勝手にしたぶんの歪みは、絶対に、どこかにしわ寄せがいく。誰かが自由になるぶん、誰かが不自由になる。逃げることなんてできない。……あんたも私と同じで、分かってると思ったのに。そんなひどいこと、あんたはできない子だと思ったのに」

 姉さんは僕にしがみ付かんばかりにして訴えた。姉さんの言うことは、その通りだと思った。実際、僕らは両親の身勝手のしわよせを受けたのだから。だからといって、誰かに同じ思いを味わわせたくないなんて思うような殊勝さを養うことができず、ただひたすら自分だけでも助かりたかった。誠実ぶった人間ほど損をして、薄暗いところで聞くに耐えない愚痴を垂れ流す羽目になる、というのが僕が見てきたちっぽけな真理だった。

「……姉さん、僕わからない。いったいどうやったら、誰かの幸せのために、と思えるんだろう」

 もし僕が、「兵隊さん」に憧れる男の子であったのなら、すこしはましだっただろう。だけど、現実の僕はどこまでいっても、「誰かのために」、を考えることができなかった。それもそうかもしれない。自分で自分の心を癒せない奴が、誰かのほんとうの幸せを願えるはずがないのだとしたら。

 姉さんは、哀れみでいっぱいの眼を僕に向けた。

「あんたは可哀想な子ね。誰にも愛されないし、誰のことも愛せない。ひとりきりで、死んでちょうだい。でないと、私、この恨みをどこにもっていったらいいか、わからないわ」

 姉さんはもう、恨みすぎるぐらい人を恨んでいる。

 姉さんが強く望むのであれば、ジャームッシュはきっとあなたの言う通りにするし、決してあなたを蔑むこともない。彼は、僕とアンナに許しを請うて、一生自分を責めながらも、絶対に姉さんを幸せにしてくれる。それがわかっているのに、姉さんは、あえて自分が不幸せになるほうを選んだ。僕らを捨て、僕らに恨まれ、罪悪感を抱え続けるくらいなら、僕に裏切らせ、僕に罪悪感を抱えさせ、自分が弟を恨むと決めた。姉さんは気が違ってるとおもうけど、僕だってそうだ。たとえば世の人が自然にそうしているような、自己犠牲と自己中心のあいだの歩き方なんて、僕は知らない。

 ただ一刻も早く、星の裏側に逃げてしまおうと思った。

















 あれから、また二年が経った。僕は14歳になった。

 アンナは死んだ。誰にも責任はなかった。ごく自然に、命のともしびが消えるように死んでいった。どうでもいいと思っていたはずなのに、涙が止まらなかった。冷たくなってしまったアンナの手はまだ小さくて、どうして僕はこの子のために精神的に最善を尽くさなかったのだろうと悔んだ。ばかであわれなのは、ほかでもない僕だった。僕は再び、僕自身を変える必要に迫られた。

 アンナとの別れは、家族とスモーキンタウン医師せんせいだけでひっそりと行った。彼女のために、僕らラッツェル家は初めて墓土地を買い、そこにアカシアの苗を植えた。アンナは、その出自の謎を抱えたまま、ふたたび星に帰っていった。

 姉さんは、私が死んだら、私も木の下に埋めてねと笑えない冗談を言う。母さんの遺言があるの、と樹皮をなでながら彼女は呟いた。(彼女の肩は、例の如くジャームッシュによって守られていた。)アンナが死んだら墓に入れろ、ってこと? 違う。「終わりは(レイ)に託します」、そう書いてあったわ。だから、ここに錨を下ろすわ。大嫌いなコンドマにね。

 でも、子ども、生まれるんだろう? 僕は姉さんの大きなおなかを見下ろした。彼女は優しい手つきでそこを撫でた。ジャームッシュが、その姉の手を上から包む。この子には何も教えないわ。伝えなければ、存在しなかったことと同じだから。

 家を出ると騒いだあの日、姉さんはすべてを語ったわけではなかった。

 あの夜、僕は結局家を出ていくことができなかった。先延ばしにするという選択をしたことで、姉さんと僕の関係は少し気楽になって、より無関心になった。姉さんについて本当に知っていることは少なかったし、僕についてわかってもらうことが必要なのかといったら、そうではなかった。

 アカシアの小さな若葉が揺れたとき、姉さんは、ほとんど初めて僕に笑いかけた。


「さよなら、時継。おまえはもう、自由だよ」


 僕は泣いた。

 二度目の合格通知を握りしめて、アンナの墓の前で大声で泣いた。泣いても泣いても、砂漠の熱い風は涙を一瞬で消し去ってしまう。

 土の下には、僕らの小さな眠り姫がいる。ここはやがて、失われる一族の旅路の最果てになる。何億年という途方もない失われた時のなかに溶けて還る。

 僕がずっと憧れていたのは、穏やかな死の眠りについた過去を荒々しく暴くことなんだろうか。そんなことをしたいがために、僕はアンナを殺してしまったのだろうか。

 僕は、ひとりになんてなりたくなかった。














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