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HOPE!  作者: NATSU
第二章 『重なる甘い誘惑』
9/35

(1)

「ぶぇーっくしゅんっ!」

 チャイムが鳴り終わると同時に席についた柚希は、鼻水と唾が飛び散る程の大きなくしゃみをした。

 なんとかギリギリ間に合い、本日は遅刻を免れている。ちなみに彼は余裕を持って行動する、ということを知らない。

 さっきくしゃみをしたばかりだというのに、再びくしゃみをしたかと思えば、三連続くしゃみ。

「ちくしょう。昨日、扱けたせいで尻はいてえし、腰もいてえし、風邪は引くし……」

 それでも傘を貸したことに後悔はなかった。扱けたから風邪をひいたのだ、と思っている柚希である。

 柚希は朝飲みそびれた牛乳パックを取り出すと右手で握ったまま、ぐったりと机に突っ伏した。

「柚希ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」

 柚希は顔をあげると死んだ魚のような目で隣の席を見た。ノート貸しの少女、優が心配そうに柚希へ視線を送っている。

「ぬわぁーに、ちょっと尻と腰が痛いだけさ」

 柚希は腰を擦って見せた。昨日、尻餅ついた際に打ったお尻と、その衝撃を受けた腰が今日も悲鳴をあげていたのだ。ズキズキと鈍く痛む。

「お尻と腰?」

 優は眉間にしわを寄せると、すぐにはっとした顔になり目をギラつかせた。

 ギラギラした瞳で自分を見てくる優に嫌な予感を感じた柚希は再び突っ伏そうとしたが、

「もしかして、柚希ちゃぁーん?」

 テンションが上がってきた優に肩を掴まれ、それは阻止されてしまった。

「な、なぁーにぃ?」

 柚希はうっすら笑みを浮かべた。

「可愛い顔して、凄すぎるよっ!」

「なにがだよ!」

 反射的に突っ込む。

「んもうっ、腰が痛いのはまだしもお尻って……柚希ちゃんの彼氏ったらアブノーマルぅ!」

 優は照れくさそうに、しかし楽しそうに言った。

「おいおいおいおいおい! 一体なんの話だよ!?」

 柚希は目の前できゃっきゃっ言っている優を白い目で見た。

「なんの話って……もうっ! わかってるくせにぃ!」

「いやいやいやいや……単なる風邪ですが……」

 そろそろこのテンションの勢いがピークに達し、背中でもばしんばしん叩かれた日には腰が死ぬ。確実に死ぬ。

 危機を感じ取った柚希はやんわりと否定するが、

「え? 風邪なのに襲われたの?」

 今時女子に通用するはずがなかった。

「誰が襲われたんだよ! 誰が!」

 優の思考はそこからなかなか離れないらしい。うっすら笑みを保つのも辛くなってきた柚希は、牛乳を一気に飲み干してパックを握りつぶす。そして一人で勝手に盛り上がっている優を尻目に、

「……具合悪いから保健室行ってくるわ。HRは適当になんとか言っといてくれ」

 のっそり席を立ち上がって保健室に向かった。

「オッケー! お任せあれ!」

 優は完全に勘違いしたままだが、柚希にはもう撤回する気力もない。失業したサラリーマンのような柚希の背中に笑顔で手を振っていた。


 くしゃみが止まったかと思えば鼻水が出始めた。掌をおでこに当ててみるが熱はなさそうだ。それがせめてもの救いである。

 柚希は保健室のドアを開けると犬のような人懐っこい笑顔を浮かべた。

「美奈子せーんせ!」

 長い髪を後ろでアップにして、白衣を着ている養護教諭が柚希の声を聞いて回転椅子を半回転させる。

「あら、柚希くんじゃない。どうしたの?」

 見た目からすると二十代後半といったところ。いい感じの大人の女性で、赤ぶち眼鏡がよく似合っているインテリ系な養護教諭である。

「ほぅわ! ちょっと先生! その呼び方!」

「ふふふ。そんなに驚かなくても大丈夫よ。今保健室には誰もいないから」

 美奈子先生は、相変わらずね、と笑った。

「ったく。これ以上、俺の寿命縮ませないでくれよ」

 柚希は我が物顔でカーテンを開けるとシューズを脱ぎ捨て、勝手にベットへ寝転んだ。速攻、枕に顔を埋める。

 美奈子先生は校長と担任以外で唯一柚希が男だと知っている人物である。身体測定や健康診断、どうしても免れることが出来ない行事のフォローをしてくれているのだ。

 その上、個人的に愚痴を聞いてもらったり、相談に乗ってもらったり、柚希の唯一の理解者でもある。

「最近はどう?」

 美奈子先生はおっとりした言い方で問う。

「牛乳ばっか飲んでる」

 美奈子先生はくすりと笑い、

「身長が高くなる為に?」

 と、核心に迫った。あえて分かりきったことを聞いているようだ。

「とーぜん!」

 柚希はベットの横の棚からティッシュを取り、鼻をかみながら上体を起こした。そしてベットの上であぐらをかく。

「でっかくなって、男らしくなって「あら、もう女装は無理じゃないの!」っつーことで俺は晴れてこの学園を去るってわけだ」

 手振り身振りで目標を語ると柚希は満足げに鼻を鳴らした。しかし鼻が詰まっているせいか音が鈍い。

「あら、柚希ちゃんがこの学園からいなくなるのは寂しいわ」

 そんな日がくればいいのにね、と美奈子先生はあえて言わなかった。可愛い生徒の夢を壊したくないのである。

「ふっ、わりぃな、美奈子先生。この想いだけは誰にも譲れねえぜ」

 きめ台詞を言った自分に酔いしれながら、柚希は再びベットに横たわった。

 女顔の柚希にとって“見た目が男になること”以上の願望はなかった。これが叶えば女装が厳しくなり、自然とこの学園にも通えなくなる。一石二鳥なのだ。

「男らしく、ねえ」

 美奈子先生は意味深な笑みで寝転んだ柚希を見ると、再び机に体を向けた。

「見た目だけ必死に男らしくなろうとしたって駄目よ」

 柚希は瞑ったばかりの瞳を開ける。

「相変わらず、女の子には興味ないの?」

 美奈子先生は何やら資料を書きながら問う。柚希は再び瞳を閉じた。

「ない」

 キッパリ、ハッキリと言ってやった。第一にそういう感情がいまいち分からない柚希である。

 周囲に女がいるのが当たり前の環境で、その女達は凶暴で下品で――しかしその時、一瞬だけ陽菜が浮かぶ。そういう女だけではないことの証明だろう。

 だからといって女全体のイメージを覆す威力はない。女は面倒なだけ、それが柚希の女に対するイメージである。

 柚希が答えるとその場には沈黙が訪れた。美奈子先生は柚希の機嫌をとるようにして、無理矢理話題を変える。

「そういえば、親友の……」

「ああ、望? 蜜弥望みつやのぞむ

 案の定、柚希は会話に食らいついた。

「そうそう、その望くんからは連絡あったの?」

「いや。あの野郎、連絡のひとつも全くよこさねえで」

 柚希は目を瞑ったまま、眉間にしわを寄せた。

 望とは柚希の幼馴染で親友、柚希の初めての友達である。中学にあがる時、両親の仕事で海外に引っ越してしまったのだ。それから連絡はない。

 しかしそれでも柚希は彼が帰ってくるのを信じていた。たった一人の大事な友人を。

 美奈子先生は笑みを浮かべたまま書類を持って立ち上がる。ヒールの足音とドアの開く音がして、

「あれ、どっか行くの?」

 柚希は半分夢の世界に足を突っ込みながら訊いた。

「職員室に用事があるの。そのまま寝とくんでしょ? 誰か来たら一時戻らないって伝えてちょうだい」

「ああ、起きてたらね」

 ドアの閉まる音を確認すると柚希は枕に頭を預け、安らぎの世界へと飛び立った。

 ……はずだったのだが、すぐにドアの開く音がする。

 安らぎの世界への門が開いたわけではなく、保健室のドアが再び開いたのだ。

 ん? 美奈子先生か?

 ドアの開く音で現実に引き戻された柚希は、泣く泣く重い目蓋を半分程開いた。

 忘れ物をした美奈子先生が舞い戻ってきたんだろう、と思った柚希だったがヒールの音がしない。しかし誰か入ってきたような気配がする。

 んまっ、病人かケガ人だったら先生がいないの伝えるとすっかな。

 柚希は俯せのまま枕をぎゅっと抱きしめて再び目を閉じた。今度こそ安らぎの世界への門を抜け、熟睡へ向かうのだ。

 嗚呼、安らぎの世界。自分だけの素晴らしき世界。凶暴な女はいない。自分は男らしい姿をしている。なんとも夢のような世界だ。夢だけど。

 柚希は目を閉じたまま、にやけた。

「ちょっと、なによ。先生いないわけ?」

 途端、安らぎの世界へ侵入者が現れた。

「!」

 柚希は聞き覚えのある声と口調に思わず目を見開く。見開かずにはいられなかった。彼に眠ることは許されないらしい。すぐさま現実が降りかかる。

 今の声って……いや、まさかな。

 一度聞いただけだというのに、その声の主であろう人物の印象はやたら強かった。

 すっかり目が冴えてしまった柚希は耳に全神経を集中させ、息を潜める。

 とくん、とくん、と高鳴った心臓がうるさい。心臓の音が聞こえないように、と柚希は胸で枕を抱きしめてあぐらをかいた。

「保健室なのに先生がいないなんてこの学校どうなってんのよ。冗談じゃないわ」

 その怒りの声からワンテンポ遅れて、ガタァン、と椅子が蹴り倒される音がした。

 静かなはずの保健室に、雑音が響き渡る。

 ……ごっくん。

 柚希は生唾を飲み込んだ。変な汗が滲み出てくる。

 この強気な口調、間違いねえ。陽菜と姉妹の……羽菜、か?

 確かそんな名前だったような、と記憶を辿った柚希はベットの上でうなだれる。

 あわわわわわ、厄介な奴がきちまった! どうしよう!

 散々、自分を馬鹿呼ばわりした相手だ。それに自分の直感が告げている。彼女と関わるとロクなことがないだろう、と。

 とりあえず落ち着け! 俺!

 柚希は自分の両頬をパチンと叩くと、

「すぅーぅ、はぁーぁ……」

 自分を落ち着かせる為、大きく深呼吸でもしてみた。しかしそれは自分で自分の首を締めることになる。

「ん?」

 息を吸って吐く音に反応して、羽菜は柚希が座っているベットに視線を向けた。

「なに、今の音」

 足音が段々と近づいてくる。

 うわ、まずい!

 柚希は両手で自分の口を塞ぎ、息を止める。

「今確かに、こっちの方から聞こえたはずだけど」

 しーんと静まり返った保健室。物音一つしない。羽菜は柚希のいるベットの前でうろうろしている。今だに疑っている様子だ。

 柚希に緊張が走った。

 い、息がもたなっ……!

 息を止めている柚希が圧倒的に不利である。羽菜は一向に諦める気配がなく、しかしカーテンを開くわけでもない。柚希のベットの前でうろうろしている、だけ。

「……ぶはあっ!」

 とうとう我慢も限界に達した柚希は、手を離して、外の空気を吸い込んだ。酸素がやけに美味しく感じる。

 呼吸のリズムを取り戻したところで、

 やべえ……絶対にやべえぞ、これは……。

 我に返ってカーテンに映る人影を見た。

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