(3)
しかしその柚希の声掛けが事態を悪化させた。陽菜を背中に抱きつかせたままの柚希に突っ込まれ、羽菜の怒りは上昇してしまう。
「なによ……なによ、なによ」
羽菜は拳を握り締めて俯くと、誰にも聞こえないぐらいの震えた小さな声で言う。自然と目頭が熱くなってきて、上が向けなくなったのだった。
そんなわけがわからない自分に苛立ち、目の前の柚希と陽菜にも苛立ち、羽菜は抑えようにも抑え切れない感情に翻弄されていた。
柚希はそんな羽菜を見て首を傾げ、握った拳を目にする。そして羽菜に気づかれないようにそっと距離をとった。拳が飛んできては困るからだ。
羽菜の様子を柚希の背中からちょろりと覗いた陽菜は怪訝な顔をしている。
「なになに、けんかぁ?」
その状況を楽しむように奏斗が前に乗り出してきた。
柚希は怖がる陽菜を自分で隠したまま、
「いいから、もうどっか行け」
しっしっ、と犬を追い払うような仕草をする。ついでに足下にいた楓は踏み潰しておいた。
「ふーん。ま、いいや。女同士の喧嘩なんてぇ、今後嫌ってほど見れそうだし。ねっ、楓ちゃん?」
「うん、それもそうだね」
ホコリを叩きながら立ち上がった楓の肩に手を置き、奏斗はにやけ顔で言う。えらく楽しそうだ。
「なーんたって、我らが王子がこの学園にやってきたんだからぁ」
「王子?」
両手を広げて興奮気味に言う奏斗に柚希は問うた。
「俺らの友達だよ。絵に描いたような美少年なんだ。顔よし、成績よし、運動神経よし。まさに少女漫画に出てくるような奴。だから俺らは王子って呼んでるんだ」
補足するように楓が答える。
「『俺に出来ないことはない』なんつって、自信過剰なとこが顔に似合わずぅ、だけど。本当に何でもこなしちゃうから、むっかつくんだよねーぇ」
柚希はその聞き覚えのあるそのフレーズに反応し、怪訝な顔する。美少年でその台詞を言う人物を自分は知っているような……。
「帰国子女だから英語もぺらぺらだし。女の子が集る、集る。ねっ、楓ちゃん?」
「そうそう。あのモテ具合は異常だよね。王子のいる場所は常に巨大ハーレムだもん」
奏斗と楓は、そうそう、と勝手に二人で盛り上がる。
柚希は二人を眺めながらきな臭い顔になった。美少年、自信過剰、帰国子女。怖いぐらい揃っている。
美少年なんてものはそこらにいるようなものではない。飛び抜けて整った顔の男なんて、柚希は今まで一度しか出会ったことがなかった。
そうなると、その美少年はやはり……。
「う!」
「ゆ、柚希ちゃん!?」
その時、突然、腹の内側からズキズキした、立っていられない程の痛みが柚希を襲った。
柚希は腹を抑え屈んで丸くなる。みるみるうちに顔から血の気が引いていった。
「どうしたの! 柚希ちゃん!」
「は、は、腹……は、は、き、吐き……」
「お腹痛いの? 吐き気がするの? だ、大丈夫!?」
陽菜は慌てて屈み、半泣きで背中をさすって介抱した。
腹の中で誰かが針で突付き回しているような、とんでもない痛みだった。ぐぅるるる、と悲痛の音を鳴らす。
「ちょっとぉ、大丈夫? 保健室行った方がいいんじゃないの」
「なら、俺がお姫様抱っこするべきだよね。柚希ちゃんのナイトとして」
突然苦しみだした柚希に奏斗と楓も心配していたが、頼りにはなりそうになかった。
「だ、大丈夫……ちょ、と、トイレに……」
柚希は死に際のような低く震えた声で途切れ途切れに言った。
力を振り絞り、陽菜の手はあえて借りず、自分で立ち上がると壁に手をつく。楓の腕に抱かれるぐらいなら痛みと戦いながら匍匐前進した方がましだ。
しかしまたなんで急に腹が……?
腹が減っても拾い食いだけはしなかった。思い返しても腹痛の根源が謎なのだ。柚希は心を落ち着かせ、目を閉じ、今日何を食べたか思い浮かべる。
「牛乳とパンと……って、それだけじゃねえ、かあああうわああ、あだだ!」
ぶつぶつ呟いていると波がまた押し寄せてきたらしい。柚希は涙目になる。
「ざ、ざまあみなさいよ」
そんな柚希から気まずそうに顔を逸らした羽菜がポツリと言い放った。
牛乳とパンを持ってきたのは羽菜である。そっぽ向いた羽菜を薄っすら見て、柚希は腹痛の根源は羽菜ではないか、と考えた。
「は、はぁな……おま、おま……」
「昼間っから人前でいちゃこいてるあんたが悪いんでしょ。天罰が下ったんだわ」
「は、はぁ?」
いちゃこいてる? 誰が? 誰と?
柚希は羽菜が言っている意味も怒っている理由も理解し難かった。何を怒っているんだろうと思ったが、羽菜が怒りっぽいのは元からなので深く気には留めない。
「いたたたたた……」
波は更なる波を連れて押し寄せてきた。針が包丁ぐらいに進化している。腹の中を引っ掻き回しているようだった。
「パン……消費期限切れ、だった、かも?」
羽菜はこんな時に限って可愛く首を傾げて言う。
「消費期限切れって、おまえ……今、夏だぞ……」
「だって安か……ったらしいのよ。ね! そうよね! 陽菜!」
羽菜に悪びれた様子は全くなかった。この真夏に消費期限切れ……いくらクーラーの中であっても酷くだ。
柚希が真実を知っていることに気づいていない羽菜は、無理矢理陽菜に話を合わさせようとする。陽菜は戸惑いながら頷いていた。そして、やっぱり、と顔を曇らせる。
「じゃあ、あのチョコチップパンで……腹が……」
「チョコチップパン? あんたに渡したのはチョコチップパンじゃないわよ」
「は?」
柚希は顔面蒼白になった。元から血の気が引いていたが、更に引いた。
つーことは、あの黒いツブツブは……?
「んぷっ」
「きゃあ! 柚希ちゃん!?」
柚希は白目になって両手で口元を抑えた。そして一人とぼとぼ歩き出す。
「……あ。おま、えら近づくなよ。いいな」
そして振り返って、半泣き状態の陽菜を指差した。腹痛で思考回路がストップ仕掛けているにもかかわらず、陽菜への気遣いを忘れていない。
陽菜は柚希に指されて顔を赤らめる。と、同時に羽菜は眉をへの字にして口を尖らせた。陽菜を指差した後、柚希は羽菜に視線を送ったのだった。その視線の意味を羽菜は分かっている。
「あーもう、わかったわよ! なんっで私が!? むかつく、むかつく、むかつく!」
羽菜は陽菜の手を乱暴に掴み、引っ張って、柚希とは別方向に歩き出した。
その場には奏斗と楓だけが残される。それを確認すると、柚希はトイレへ向けて廊下という長い旅路を歩み始めた。
トイレへ向けて歩みだして数十秒。
廊下のど真ん中で死体のように転がっている柚希の姿があった。不思議と誰も声をかけなかった。死体というより道端に落ちているゴミレベルである。
ちくしょう……もう目の前なのにトイレが遠く見えてきやがる……。
柚希は痛む腹を抑えて再び立ち上がり、歩き始めた。のそのそ歩く柚希の横をキャーキャー言いながら女子生徒達が駆けていく。
そのたび柚希はぶつかられ、壁にぶっ飛ばされていた。何かに夢中になると他人の迷惑を考えないのが女の特徴である。
「なんだ、あれは」
どうやらその女子生徒達を夢中にさせているものはトイレ前にあるらしかった。柚希はトイレ前に群がる女子集団を目にした。凄い数である。
「あ、あいつらトイレの前でなにやってんだ?」
乙美達の仕業にしては野次馬が多すぎる。しかも共学になったというのにそこにいるのは女子生徒だけだった。
歩み寄るにつれて、何故かじわじわと危機感が募ってくる。
てめえらが邪魔で入れねえじゃねえか!
そんな柚希の気も知らず、睨んでいることにも気づかず、女子生徒達はきゃぁきゃぁ騒いでいた。
「あのぅ……」
柚希は集団の最後尾に声をかけるが誰も返事をしない。柚希の存在にすら気づいていない状態だ。
「あーのぉー!」
最後の力を振り絞った。声が裏返る。
「なに?」
やっと柚希の悲痛の叫びが伝わったのか、最後尾の女子生徒がだるそうに振り返った。そして素っ気無く問う。
「あ、あの、トイレに……」
柚希は迫力負けしながらもトイレを指差した。が、
「あっそ」
最初から聞く耳を持たない女子生徒に言っても無駄だった。反論の余地のない素早さで会話終了――女子生徒は別人のように再び黄色い声をあげていた。




