(8)
どくん、どくん、どくん、と、この瞬間を待っていたかのように心臓は騒ぎ出した。爆音を鳴らす心臓が今にも口から元気に飛び出てきそうだ。心臓が口から出そうというのはこういうことなのか、と柚希は思う。
「ゆ、柚希ちゃん。あああ、あのっ」
自分から引き止めておいて陽菜も恥ずかしくなってきたのか声が震えていた。そのまま俯いて黙り込んでしまう。
「陽菜?」
柚希は落ち着いたふりをして名前を呼んだ。
何がなんだかわからない。一番わからないのは何故自分がこんなにも動揺しているか、だ。
陽菜は唇を軽く噛んだ後、決心したように柚希を見つめた。
「あの、その、一緒にいて、もらえないかな……ひとりじゃ心細くて」
「え、ああ、うーん、えっとぉ……」
柚希は頬を人差し指で掻きながら顔を逸らす。陽菜は病人なのだ。だから一人じゃ心細いのだろう。
いてあげた方が……いいのか? いいんだよな?
柚希は自問自答する。自分の知る病人の女は、あれ持ってこい! あれやって! これやって! 私は病人なのよ! なんて怒り出す元気な病人ばかりだった。病気をネタに自分を扱使うような女だった。でも陽菜は違う、断じて。
「だめ、かな? あ、無理しなくていいの。よかったらでいいんだ」
陽菜は微弱な笑みを浮かべて柚希のスカートからパッと手を離した。そんな我侭は自分の姉達に比べたらへとも思わない。
「仕方ねえな。いいよ、いてやるよ」
柚希はちょっと強気で言うと再び椅子に腰掛けた。単純に頼りにされたことが嬉しかった。女の子に頼りにされるなんて初めてだったのだ。扱使われることと、頼りにされるのは違う。放っておけない、そんな気持ちにさせられた。
胸の奥底がきゅっとするような、変な感覚に陥る。
「ありがとう、柚希ちゃん」
自分が残ると言っただけで、たったそれだけで、陽菜は別人のようにパァと明るく花が咲いたように微笑む。
「ああ」
柚希はその笑顔を見て初めて胸が痛んだ。その穢れなき純白な笑顔に何度も癒されてきたというのに――今、初めて、痛んだ。
彼女が向けている笑顔は自分にではない。“女の柚希”に向けられているものなのだ。彼女が好意を持っている相手も、尽くしたいと思ってくれているであろう相手も、頼りにしてくれた相手も……。
自分であって、自分ではない。
そんな分かりきったことを思い返しただけで、何故胸が痛むのかわからない。でも確かに痛かった。
「柚希ちゃん?」
「ん? ああ、ごめんごめん。ちょっと考え事? 今日の夕食は何かなーなんつって」
柚希は陽菜に余計な誤解を与えないよう笑ってごまかした。男だとバレるわけにはいかない。それが何よりも最優先だ。
でも……このままで本当にいいんだろうか?
そんな一縷の不安が過ぎる。
「あの、そのぉ……やっぱり私も一緒に行きますっ!」
陽菜は悲しそうに目を伏せていた柚希を見逃してはいなかった。柚希本人はまさか自分が悲しそうな顔をしているだなんて気づきもしない。無意識に胸の内が表情に表れていたのだ。
陽菜はそそくさ布団を捲り、ベットから降りようとする。柄にもない我侭なんて言ってみるんじゃなかった、と既に後悔していた。ベットから足を出し、腰掛けるようにして床にあるシューズを履こうとする。
「なに言ってんだよ。具合悪いんだろ? 寝てろって」
「でも!」
嫌われたらどうしよう、面倒だと思われたかもしれないどうしよう、それが陽菜の頭の中を埋め尽くしていた。
自分がもし保健室にいる間、柚希と羽菜が親しくなったら……陽菜はそれが気掛かりで仕方がなかったのである。行かせたくなかったのだ。
胸がもやもやする、と陽菜を胸を右手で抑えつける。
柚希は女の子である。ノーマルな羽菜が同性とどうにかなるとは思えない。それは分かっているのだ。
しかし誰かの為に何かをしたり絶対にしない羽菜が自らパンを買って渡し行くなど、どう考えてもおかしかった。天変地異の前触れか、と恐れるぐらいである。双子の自分が一番それを分かっているのだ。
陽菜がシューズを履き終えて腰を上げると、柚希も立ち上がる。二人向かい合った。
「でもなんだよ? いいから寝てろって。な?」
柚希は陽菜の肩を掴んでベットに再び座らせようとするが、
「きゃ!」
足下にあった四角いものを踏み、柚希に肩を掴まれているのもあって、陽菜はバランスを崩す。
柚希は前のめりになって、ベットに、いや陽菜の上に倒れこんだ。
「った……」
「大丈夫?」
「ああ。ちょっとびっくりしただ……」
柚希は倒れこんだ瞬間に瞑った目を開け、固まった。呼吸すら忘れた。ぎょっとなって、瞬きを何度もする。
吐息がかかる程近く、目の前に陽菜の顔が……というより自分が押し倒した体勢で、陽菜に乗っかっていた。しかも最悪なことに押し倒した瞬間、陽菜の制服の上着ボタンをいくつか引きちぎっている。
北山学園制服はボタンの前開きセーラー服だ。赤のスカーフで隠れてると思いきや、隠れきれていない谷間が見え隠れしている。そのままボタンを弾いて溢れ出してきそうな、ソレ、が。
夢の浴衣姿の時に見えていたソレと思わず連鎖させてしまい、柚希は顔を真っ赤にした。
待てよ。てことは……!?
柔らかい感触のある自分の右手に視線を向けて、心臓が止まりかけた。柚希はその清楚感溢れる、胸も溢れる、繊細でグラマラスな女の子に見惚れることしばしば、
「わわわわわ! あの! ごめ! んんっ!」
謝ろうとしたが言葉が上手く出なかった。体も動かない。右手だけは反射的にパッと退けた。押し倒した体勢のまま視線を彷徨わせる。
「こここここ! こちらこそっ!」
陽菜は柚希が右手を退けると両手で胸元を隠した。
柚希は喜び半分、戸惑い半分だった。喜びを感じている自分に違和感を感じる。こんな状況になって事故とはいえ、女の子相手とはいえ、でも嫌じゃない。むしろ……。
夢と全く同じ感覚だった。女の子も悪くない、と思ったのだ。浴衣か制服か。縁側がベットか。その違いだけだった。
その時、タイミング悪く思い出してしまう。
『あんた陽菜が好きなのね?』
羽菜の言葉だ。何もこんな時に思い出さなくていいものを思い出し、柚希はどきまぎした。
好き? 俺が? 陽菜を? なんで?
色んなことが脳内で渦巻く。
見下ろせば、頬を染めて潤んだ瞳で自分を見上げる美少女がいた。これが現実だ。恋愛経験ゼロの柚希にも陽菜がどういう想いで自分を見つめているのか分かっている。
理由なんてなかった。わからなかった。言うなれば本能だ。
柚希はそんな陽菜を見て、愛らしく思い、愛しく思い、そのままどうにかしてやりたい気持ちになってしまった。
これでも柚希は男である。長い間、女達への恐怖感や嫌悪感で封じ込められていた“なにか”が開放されたようで……その後はもう本能に従うのみだ。
ここが学校なんて、保健室なんて、自分が女を装っているなんて――そんなことすべて取っ払って、本能に忠実に正直に。
二人は目と目で見つめあい、無言の会話を交わす。陽菜が目を瞑って手を胸元から退けた。柚希はゴーサインだと思った。
ゴクリ、と唾を飲む。
経験はあった。中学生の時である。しかしそれは詩織の友人に眠っている間、勝手にあんなこんなされ、起きたら素っ裸だかで生々しい気だるさが残っていた、というものだったが。
思い出したくもない悲惨な過去である。完璧、姉達のオモチャだ。
だから柚希には経験による実践能力がない。キスすら、ない。無理矢理されることはあっても、自分からキスなんてしたことがなかった。したいと思ったことがなかったのだ。
しかし柚希は、今、初めて思う。その淡い桃色の唇に……。
柚希は流れに任せ、目を瞑った陽菜の唇に自分の唇を近づけていった。目を瞑った美少女にはあどけなさが感じられる。目を開けていても可愛いが、閉じていても可愛い。
陽菜の無造作に置かれている手が震えていた。柚希は包み込むように握り締める。
唇が触れ合う程、近づいたところで消えかかった己の理性が“本当にいいのか?”と問いかけてきた。だが柚希は自分の中の理性のストッパーを無視してそのまま続ける。
自分も瞳を閉じた。あとはもう、口付けるだけ。呼吸が鼻にかかり、くすぐった……、
「柚希ちゃんっ!」
柚希は聞き慣れた声で名を呼ばれ、ビクリとすると、ピタリと止まった。寸止めだ。絶妙のタイミングで保健室に現れた人物によって、それは未遂に終わってしまった。




