(2)
「ふわぁ……」
手も添えず、すべてを吸い込んでしまいそうなあくびをする柚希。
あれから――自宅まで短パンを履きに帰り、本日も遅刻から一日の学園生活がスタートしていた。頬に絆創膏が貼られているのは、既に学校へ行っていた詩織の代わりに、四姉妹の次女・沙織に殴られたからである。
次女の沙織はがさつでおてんば、男勝りすぎるのが難点だった。詩織と違って武器は使わないが、喧嘩っ早い沙織は素手でも十分に凶器なのだ。
「あーねみー帰りてえ……」
そう呟き、目を細める。暗澹たる気分で頬杖をついて窓の外を眺めていた。
何が悲しくて男の自分が女子高に通わなければいけないのか。毎日考える柚希である。
柚希の通う北山学園には“抽選入学制度”たるものが存在する。
彼が家系の次にもっとも憎むべきものは、この北山学園でのみ実施されている“抽選入学制度”なのだ。
小学校、中学校と共学に通い、男ばかりに告白される日々だったが、それでもまだ普通に近い学校生活を送れていた。
しかしこの制度が彼をどん底に陥れる。
この“抽選入学制度”とは、毎年一人だけ抽選で入学が出来る制度である。受験も何もせず応募して当選したらそのまま入学が許される、とんでもない制度。まさに受験の宝くじだ。
それに母親が試しに応募したら当選してしまい、さあ大変。審査も厳しくない為、難なく応募出来たが運のつき。
女子高の受験で当選したのが“男”だった。しかもそこいらの女の子より可愛い顔立ちをしており、誰がどう見てもその容貌は女の子ではありませんか。
そんな前代未聞の展開を気に入った理事長は校長と話をつけ、彼の入学を認める代わりに完璧に女になりきる事を要求。
母は一言『男の子孫を出した恥を償うため通いなさい』
その恥を一生かけてでも償うからこれだけは勘弁して欲しかった、と柚希は思っていた。
しかし姉にすら下手に逆らえないというのに、まして母親に逆らうなんて自殺行為である。
気づけば自分は女の姿で女子高に通うことが当たり前になっていた。幸い見た目で男だとバレたことは今だかつてない。口調を女にしなくてもバレないのだからよっぽどである。
名前も“柚希”で男でも女でも通用する名だ。おかげで嫌でも女子高に馴染んでいる、馴染まざるをえない、自分がいた。
「……花月さん」
授業そっちのけで窓の外を眺めている柚希をさすがに放っておけなくなった国語教師が声をかけた。
しかし意識が別の世界に飛んでしまっている柚希にその声は届かない。
蝉の歌声に耳を傾け、青空に視線を向け、なんとなくシャープペンを鼻の下に乗せた。
その時だ。
「花月さん!」
痺れを切らした国語教師が腹の底から振り絞った、どでかい声で怒鳴りつけた。
「はいッ!」
柚希は元気の有り余った小学生のような声で返事をし、思わず立ち上がった。ガタン、と椅子が後ろに倒れる。
「全く! あなたはいつも窓の外ばかり見て!」
ザマス眼鏡がやけに似合っている国語教師は、眼鏡のズレを直しながら言う。
「ど、どーも、すいません」
「そしてその足! あなたまた股を開いていたでしょう? スカートで股を開くんじゃありません! 女の子でしょう! 大体あなたはですね……」
――キーンコーンカーンコーン。
定番化している国語教師のお小言が始まろうとした時、タイミングよくチャイムが鳴って言葉を遮った。
クラス一同、ほっとする。もちろん一番ほっとしたのは柚希だ。
学級委員が号令をかけると、無事授業は終了する。国語教師は柚希を見るなり再び眼鏡のズレを直し、ぶいっと顔を逸らして教室を出ていった。
ぬわぁーにが「女の子でしょう!」だ! 誰が女だ、誰が!
柚希は猫のように威嚇した後、国語教師の背中に向かって舌を出して見せた。
「ゆーきちゃん。今日もノート取ってないでしょ? 写す?」
隣の席の石橋優が柚希の顔の前にノートを差し出す。
「おおっ、さすが優ちゃん。いつもわりぃな」
何かと気遣ってくれる優とは隣の席だということもあって、唯一まともに会話をする女子生徒である。女の子らしく、しかし元気系で誰からでも好かれるような子だ。柚希も悪い印象は持っていない。
「先生、昨日失恋したらしいからそれで機嫌悪いんだよー」
「相変わらず情報通だな。一体何処でそんな話を」
柚希はミミズのような汚い字で早速ノートを写しながら言う。
優は真実からゴシップまで北山学園一の情報通である。学園内でほとんど交友関係を持たない柚希にとって唯一の情報源だった。
「なになに? なん話してるのぉ?」
柚希と優が親しげに話している姿を見て数人の女子生徒が近寄ってくる。
「あ、そうだ。俺、数学の教科書借りに行かねえと」
席の周囲に女子生徒達が来ると柚希はさりげなく席を立った。ぶつぶつ独り言を言いながら入り口に向かう。
女達の会話に入ったら抜けれなくなるからな……。
話題が恋愛話や噂話なら余計にである。教科書を忘れたのは事実だが、それを理由にあの場を抜け出したのも事実だ。
優の席に集まった女子生徒達は柚希の後姿を見ながら首を傾げた。
「柚希ちゃん、なんであんな可愛いのに男言葉なんて使うんだろうね」
「もうっ、分かってないなあ。そのギャップがいいのよ! 萌えじゃない?」
「ギャップは男ウケしそうだよねー!」
「ねー!」
男ウケしても嬉しくねえ!
柚希はあえて聞こえないふりをして教室を後にした。
廊下に出るとワッと声の洪水が一度に襲ってくる。しかも女特有のキーキー声だ。
柚希は休憩時間で賑わう廊下の端の端の端を歩いていく。
もちろんそんなに端っこを歩くには訳がある。休憩時間の廊下は女達の溜まり場であり、騒がしいレベルではない。
普段、男相手に黄色い声で叫ぶ女達は男がいないと知れば黄色いどころか茶色い声だ。しかも耳をすませば何処からかドスのきいた声まで聞こえてくる。
それだけではない。暑いからといって年頃の女が股を大きく開いて座り、スカートのひだをヒラヒラさせてみたり、上は制服、下は体操服の短パン姿だったり、スカートのひだを持ち上げ、中のブルマや短パンを見せたまま走り回る下品な奴までいる。
なんとも色気のない世界が、そこに広がっているのだ。
きっと男達は知らない――この歪んだ世界を。見てはいけない女達の本性といえよう。女という生き物は男がいない空間で化粧前・化粧後並に態度が急変するものなのだ。
女家系の柚希にとっては見慣れた光景だった。なにも戸惑うことはない。いつもの光景でしかないのだから。
しかし見ていて気分がいいものでもなかった。なるべく、いや絶対に、彼女達と関わり合いにならないように、と柚希は人目につかぬ端っこを歩いているのだ。
「世の男共に知らしめてやりてえぐらいだぜ」
思わず心の声が外まで飛び出してしまった柚希は周囲から視線を浴びる。
「いやっ、そのっ……あはは……」
柚希は無理矢理満面の笑みを作ってごまかし、その場を逃げ切った。そして壁に背中をつけたままカニ歩きする。
どっかのクラスの奴に適当に借りるか。廊下側の席の奴に借りるのが一番だな、なんて柚希は思っていた。借りるのも返すのも楽だからだ。
そしていざ隣のクラスに入ろうとして、柚希は人だかりを発見する。
「なんだ?」
そこは隣のクラスから少しばかり離れている、女子トイレ付近だった。連れションにしてはやけに団体様だ。
柚希は何かを取り囲んでいる野次馬同様、好奇心からその人だかりへ近づいく。
男の中では小柄な方だが、女の中では中の上ぐらいに属する。柚希は後ろでピョンピョン跳ねて、野次馬の中心部を覗こうとした。
あれは確か……。
飛び跳ねるたびに明るい茶色や金髪に染まっている頭上が五個程見え隠れする。何となく柚希は事態が飲み込めていた。
「なぁ、あれって」
柚希は確認の為、隣の女子生徒に声をかける。
「乙美達だよ」
「やっぱり、そうか」
嘆息交じりで言う。予想は外れていなかった。
誰だか知らねえが、面倒な奴らに目つけられたな……。
井寺和留乙美を中心とする北山学園一年を仕切っている派閥の五人組。彼女達に目をつけられたら最後で、自分達が納得いくまで相手を呼び出して打ちのめし、嫌がらせが繰り返されると言われている。
どこの学校にも存在するであろう学級カースト最高位。それが女子校ともなれば、共学よりも派閥色が濃くなる。
彼女達のことは耳にしたことはあったものの、実際呼び出している姿を見たのは初めてだった。
呼び出しは通常、時間のある昼休みや人気が少なくなった放課後に行われていることが多いと聞く。授業と授業の合間の10分休憩にわざわざ呼び出すとは、よっぽど気に食わないことがあったんだろう。
柚希は気の毒そうに再び飛び跳ねて中心部を覗こうとする。
「今日来たばっかりの編入生を早速呼び出したみたい」
「編入生?」
飛び跳ねるのを辞めて女子生徒の声に耳を傾けた。
こんな時期に編入してくるなんて何か複雑な理由でもあるんだろうか、なんて思いながら柚希は野次馬に紛れて突っ立っている。
途端、鼓膜を震わす声で、
「いい加減にしなよ、あんたあああああッ!」
中心部から聞こえた怒鳴り声。
廊下は一瞬にして静まり返った。耳が痛いほどシーンとしている。
柚希はその大声に体をビクつかせると、そのまま体が動かなくなってしまった。姉に怒られたような錯覚に陥る。
「……一体なにやってんだよ」
状況は悪化していくばかり。しかし誰一人助けようとはしない。
野次馬達が後ずさり徐々に中心部が見えてくる。
隣同士で顔を見合わせ、複雑な表情を浮かべる。一体何があっているのか興味はあっても、そこに巻き込まれたくはないのが本心だろう。
誰もが皆、巻き込まれるのを恐れ、平穏を望んでいるのだ。
誰が好き好んでよく知りもしない編入生を助けるだろうか。助けたところで何の得にもならない。名誉? そんなものは誰も欲しがらない。飛び火するだけだ。
誰もが自分を守ることで精一杯。中にはどうにかできたら、と思う人もいるだろう。しかし行動に移さなければ思ったところで何の意味も成さない。
“可哀想だけど……どうしようもないよね”の一言で片付けられてしまう。
それが女だけの世界、戦場――女子校なのだ。
「ったく、どいつもこいつも」
柚希は歯を食いしばる。
彼は見た目は女でも、中身は立派な男だ。こんな状況を目前にして黙って見届けるような男ではない。
まして見えた頭の数からすると一人対数人。卑怯にも程がある。
しかし心の中で誰かが、他人の揉め事に首を突っ込むことは辞めた方が身の為だ、と警告していた。しかも女同士の揉め事なら尚更だ。男が首を突っ込むようなことじゃない。
柚希はその一歩が踏み出せず、その場に突っ立ったままだ。




