(6)
心臓は主を煽るようにその音を早めていく。とくん、とくん、とく……、
「ちょ、調子にのってんじゃないわよ!」
柚希は高鳴った心臓が一瞬止まる思いだった。
「んがっ! あだ!」
いきなり背後から足が飛んできて、そのまま地面に踏みつけられる。柚希は顔面から地面に倒れこんだ。後頭部を小さな足が踏みつけて、まるで女王様のご褒美かのごとくぐりぐり動かしている。
「おい、陽菜! いきなり、なにすん……」
「誰が陽菜よ? いつ陽菜って言ったのよ? えぇっ!? 何時何分何秒地球が何回まわった時? 言ってみろ、こら!」
柚希はズカズカ踏みつけられたまま、かろうじて顔を動かし、陽菜だと思っていた人物を見た。
「は、羽菜!?」
柚希の顔からはみるみる血の気が引いて、蒼白になっていく。
「おま、おまっ……あだ!」
驚愕のあまり言葉が出てこない柚希を羽菜が容赦無く踏みつける。
「私ら双子だから声質一緒なの。声色真似るなんて楽勝ってわけ」
「はぁ。つーか、なんで真似る必要が……ふんが!」
羽菜は踏み足をぐりぐり動かしながら続ける。
屋上に地面ってこんなに冷たかったっけ……?
「あんたが鼻の下伸ばして、屋上に走ってくるの見かけたからついてきてみたら……みたらぁ……」
「ちょっと待て! 俺がいつ鼻の下を伸ばし……だっ!」
羽菜は柚希の後頭部から頬に足を移動させて踏み潰す。
シューズの裏のデコボコがとても擦れて痛いんですけど!
「なにを期待してたわけ? ああ、そう。あんた陽菜が好きなのね? そうなのね? やっぱり?」
「は、はぁ?」
柚希はとぼけた声で返事した。
好き? 俺が? 陽菜を? なんでそうなるんだ?
柚希は羽菜の言っていることが理解出来なかった。何でそんなことを問われるのかも理解し難い。疑問だけが脳裏を飛び交う。
「どうせ、今、陽菜に告白されるとか思ったんでしょ?」
「そ、そんなこと」
……思ったけど、なんてもちろんこの雰囲気では口が裂けても言えない。言ってはいけない気がする。そう本能が自分に訴えかけていた。
柚希が否定せず言葉を続けないところを見て、
「バッカじゃないの!」
羽菜は足を退けるなり、柚希に向かってパンを投げ捨てた。
「パン?」
柚希は半身を起こしてパンの袋を手にする。見たところ、何の変哲もないコンビニで売られているような袋入りのパンである。
なんだこれ? チョコチップパン?
柚希がパンを眺めていると、
「女同士どうぞ仲良く、ご勝手に」
続けて牛乳パックが顔面目掛けて飛んできた。
「はう!」
回転しながら飛んできた牛乳パックは上手い具合に角が柚希の額に命中した。
「女同士ってなんだよ、女同士って」
柚希は赤くなった額を撫でながら、聞き捨てならぬ言葉に反応を示す。しかし羽菜は何も言わず、振り返りもせず、早歩きで屋上を後にしようとしていた。
「ったく、なんなんだよ。なに怒ってんだよ、あいつは」
柚希は手元にあるパンと牛乳を改めて見た。
パンと牛乳……か。腹が減っている今の柚希にとって、涙が出るほど有難い食料である。
「おーい、これ」
柚希はあぐらをかいたままパン掲げる。無視したまま行ってしまうかと思いきや、羽菜は立ち止まって振り返った。
「ああ、それ。保健室で休んでる陽菜が弁当持っていけないからって。その代わりだそうよ。バカに餌なんて与えなくていいって言ったんだけどね」
しっかり嫌味を加えて言う、羽菜。
「保健室で休んでる? 陽菜、具合悪いのか?」
さっきまであんなに腹が減って死にそうだったくせに、急に真顔で陽菜の心配をする柚希。羽菜はそれが面白くなかった。たまらなく苛立った。
「死にそうって言ってたわ」
羽菜はそっぽ向いて言う。もちろん嘘だ。
「マジかよ。そりゃ大変じゃねえか」
単純な柚希はそれを疑わなかった。姉妹で片割れである羽菜がまさか嘘をつくとも思っていなかったのだ。
柚希は超特急でパンを口に押し込み、牛乳で流し込む。ほぼ丸呑み状態でたいらげると即座に立ち上がって駆け出す。
「ちょっと、どこ行くのよ」
走って自分を追い越していく柚希に羽菜が問う。
「どこって保健室だよ」
柚希は口の端にパンくずをつけたまま階段を駆け下りていった。
屋上に残された羽菜の頬を生暖かい風がなぶる。柚希はあっという間に階段を駆け下りていき、その場から姿を消した。
面白くない、面白くない、面白くない!
羽菜は歯噛みした。地面を右足でドンドン踏みつける。
ちょっとからかってやろうと思って陽菜のふりをしてみた羽菜だったが、その結果、余計に気分を害してしまった。
陽菜だから、陽菜だと思ったから。やはり陽菜なのかと思うと言葉にならない怒りが込み上げてくる。
陽菜のいる保健室に一目散に走っていった柚希。
「あーもう、むかつく! なんなのよ!」
羽菜は怒りで声を荒げ、そして柚希の手の甲に触れた手を反対の手で包み込んだ。
誰もいない屋上を見渡す。屋上がやけに広く感じた。ここで柚希と陽菜、二人で昼食をとっている、その事実――何を話しながら食べているのか? どんな風に食べているのか? 二人で一体……?
「……いたい」
そんなことを考えたら怒りよりも悲しみが押し寄せてきた。何故か胸が傷む。そのきしきしと胸が傷む理由を羽菜はまだわかっていない。
その頃、保健室で深い眠りについていた陽菜は重い目蓋を持ち上げた。せっかく早起きして作った弁当はベットの横の棚に二つ置かれている。一つはもちろん自分の、もう一つの大きめな弁当は柚希のだった。
陽菜は横になったまま視線を弁当に向ける。はぁ、と小さなため息を漏らした。
「柚希ちゃん。ちゃんとお昼食べたのかな」
陽菜はそれが気がかりで仕様がなかった。自分から弁当を作ってくるなんて大きな口を叩いておきながら、その弁当は渡せずじまい。もしそのせいでお腹を空かせていたら……。
そう思った陽菜は保健室へ行く前に弁当を渡してもらえないか、思い切って羽菜に頼んでみたのだった。
しかし答えはノーだった。
羽菜が自分のお願いを聞いてくれるとも思えなかったが、何故そんなに怒って否定するのか気になった。
「朝日さん、体調はどう?」
カーテンを開き、美奈子先生が顔を出す。陽菜はゆっくりと上体を起こした。
「すみません。眠ったら大分落ち着きました」
「そう、それはよかったわ」
美奈子先生は腰に手を当て、にっこりと微笑んだ。そしてカーテンを開いたまま回転椅子に戻る。保健室で休んでいる生徒は陽菜だけらしかった。
「どう? 新しい学校には慣れた?」
美奈子先生は手元の資料に視線を落としたまま問う。陽菜は俯いたまま微笑し、首を小さく横に振った。
「大丈夫よ。すぐ慣れるわ。友達はどう? 出来た?」
美奈子先生は俯いたままの陽菜を横目で見ると、元気付けるように弾んだ声で言った。
陽菜は重く垂れていた顔をあげ、
「はい。で、でも……」
しかしまた俯いてしまった。
「でも?」
「その友達と一緒にいるとどきどきするんです。すっごく。彼女を前にすると恥ずかしくて、ななな、なんていうか……私を助けれくれたこともあって、その、彼女はかっこいいんです! って、あれっ?」
喋っているうちに、いつの間にか愛の告白でもしている気になった陽菜は顔を真っ赤にする。
「まあ」
「お、おかしいですよね。女の子相手にそんなっ!」
陽菜は顔を真っ赤にしたままわざと明るく笑い飛ばした。
「あなたが極度に男の子が苦手なのは聞いてるわ。だから男らしい女の子に好意を抱きやすいことも」
美奈子先生は口元を緩め、書類の上でペンを動かしながら言う。
その陽菜の特徴について何も突っ込んだことは言わなかった。おかしいとも、おかしくないとも、何も言わない。美奈子先生は、ひょっとして、と女の勘であることを察知していたのだ。半分は、そうだったらいいな、という願望でもある。
「そのお友達の名前、聞いてもいいかしら?」
ペンを置き、回転椅子を半回転させ、ベットの方を向く。
「え? と、隣のクラスの、あの、えっと、花月柚希ちゃんです……けど、どうしてですか?」
陽菜はどうしてそんなことを聞くのか不思議だった。頭上に疑問符を浮かべる。
美奈子先生は瞳を煌かせて、
「やだわ、的中ね。冴えてるわ」
パチンと指を鳴らして回転椅子を元に戻した。陽菜はそんな美奈子先生を見て首を傾げる。
「ふふふ。心配しなくても、あなたは正常よ」
余計に理解出来ず、陽菜は怪訝な表情をした。
「大人の女の勘で言うわ。あくまで勘、よ。花月さんは今からここに来るわね」
美奈子先生は何故か楽しそうだった。さっきから顔が緩みっぱなしである。




