(1)
蝉は休むことを知らず、命果てるまでミンミンと耳障りな声で鳴く。そして人はその声を聞くと誰もが夏だと実感した。
夏――蝉の鳴き声が響き渡る真夏の太陽の下で、疲れることを知らない子供達ははしゃいで遊びまわる。
「どうして庭でしか遊べないの?」
柚希、五歳。
当時から女の子にしか見えない、お人形のような可愛らしい容貌をしていた。
一番遊び盛りな幼少時代。しかし彼は家の庭以外で遊ぶことが許されなかった。
何度も母に懇願する柚希に母は口々にこう言った。
「家の外に出て男だってバレたらどうするの」
水着姿になるプールや海なんてもってのほかだった。柚希が生まれて、たったの五年。その歴史上初の男の子孫が生まれた現実はまだ受け入れられていなかったのだ。
女しか生まれない女血一家・花月の女は強く逞しく冷血である。男なんて生き物が生まれた日には、山に捨てられても川に流されてもおかしくはない。
見た目が女の子であることが唯一の救いで、それが柚希の命を取り留めているといっても過言ではなかった。
「お母さん、沙織達と一緒にプール行ってきます」
長女の香織が透明のバックを持って母の前に現れた。三人の妹を連れて近所のプールへ行くという。
「母さん、俺もプールに……」「駄目」
即答。そんな毎日だった。みんなが楽しそうにしている夏はそれが特に辛かった。
いっつもねーちゃん達ばっかり。俺が男の子だから? 女の子だったら遊べたの?
いつも庭に一人ぼっち。もう砂遊びも飽きた。
「柚希。私の宿題やっておいてよ」
透明のバックを肩に担いで傲然と言うのは四女の詩織だ。
女姉妹の末っ子なのもあって一番我侭で自分勝手。いつも柚希を目の敵にしている。それはこの頃からだった。
「宿題って言われても、小学生の問題なんてわかんないよ」
「答え写すだけじゃん。やっといてよ、いい?」
柚希に拒否権はない。この家では女が絶対権力なのである。
「んだよ、詩織。ずるいぞ。柚希、あたしのもやっといて」
言葉遣いも性格も荒く、男勝りなのは二女の沙織。彼女もこの性格はこの頃からだ。
「ええ、やだよ」
「あぁん? んだって? お姉様方に逆らおうってんのか?」
沙織は柚希の頭を鷲掴みして動きを封じると、詩織に目で合図し、二人で微笑み合い、
「ひ、ひっ、ひやぁ―――!」
頭から数匹の虫をぶっ掛けた。柚希は悲鳴をあげて尻餅をつき、虫を取ろうと必死に頭をわしゃわしゃと掻く。涙目になっている柚希を見て、詩織と沙織は腹を抱えてげらげら笑った。
「二人ともなにやってるの。行くわよ」
先に門を出た香織が冷静に二人を呼ぶ。その間、香織の傍らにいた三女の伊織は、分厚い歴史書を片手に口をぴくりとも動かさず、ずっと無表情だった。柚希いじめに興味がないらしい。というより、柚希がどうなろうとどうでもいいようだ。
「いい? 宿題やっといてよ」
「やってなかったら、てめえのベット虫で埋めてやるからな」
詩織は柚希を指して、沙織は笑いながら言い残して、走って門を出ていった。
柚希は姉達の姿が消えて、ほっとしながら立ち上がる。仕方がないので今日も一人で遊ぶことにした。宿題は後回し。
小柄な五歳児にとって庭は広い。しかし遊具も何もない。庭の池には鯉が泳いでいるが姉達に池に落っことされて以来、トラウマになって近づきたくなかった。
庭には大木もある。しかし木登りの途中、姉達に木を揺らされて落っことされて以来、登りたいとは思わなかった。
姉達にとって柚希は最高のいじめ対象であり、パシリだった。主犯はほとんど詩織と沙織だが。母もそれを咎めない。自分を庇ってはくれない。
父はというと、この家では空気のような存在で全く頼りにならない。存在が薄すぎて家の何処にいるのかも分からない状態だ。
柚希は屈んで砂を集め、砂の山を作って遊ぶことにした。砂遊びぐらいしかすることもない。
「そうだ。水で固めて城でも作ろっと」
水を汲みに行こうと立ち上がった、その時だった。
「……ああっ!」
何処からともなく聞こえた叫び声に、
「ん? 今なんか聞こえたような」
柚希は辺りを見回す。周囲に人らしき影は見当たらず、疑問符を飛び散らしたところで、
「危ない!」
同じ声で警告を知らされたが、おろおろと一人で戸惑っている間に事態は既に終わっていた。
「わーわーわー!」
柚希が目にしたのはさっきまであったはずの砂山が崩れ去って出来た、ただの砂場。そこには砂まみれのサッカーボールが埋まっていた。
「サッカーボール?」
柚希は埋まっていたボールを抱かかえて砂を払った。
「すみません、ボールが飛んでしまって」
門に目を向けると声の主が眉尻を下げて立っていた。同い年ぐらいの男の子である。
「ボールって、これ?」
「ああ! 悪いな。飛ばすつもりはなかったんだ」
男の子は門から顔を覗かせ、悩ましげに目だけ動かして左右を確認する。
「今なら誰もいないから、入ってきても大丈夫だよ」
柚希の言葉を聞いて安心したのか、男の子は小走りで入ってきた。段々顔がはっきり見えてくる。綺麗な顔立ちをした、世間で言う美少年がそこにいた。
しかし線の細い美少年とは違い、瞳には揺ぎ無い光があった。簡単に覆すことは出来ないであろう、強い意志が宿っている。そして日焼けした肌が彼の活発さを強調していた。
綺麗、かっこいい、美少年、そんな類の褒め言葉は聞き飽きるほど言われているだろう。かっこいい、なんて言葉は自分には無縁だった。柚希は一目で羨ましく思う。
「おまえ一人で遊んでるのか?」
「うん。ここから出れないから。はいっ」
柚希はボールを手渡した。
「ありがとう。で。出れないって? なぜ?」
「うーん。家の仕来りっていうか、なんていうか」
「家の仕来り? 夏だっていうのに、おまえはそんなもの守って家にこもってるのか?」
男の子は綺麗な顔で半笑い。
「だって、じゃないとねーちゃんや母さんに……」
色んな過去の出来事が脳裏を走り、半泣き状態になる。遊べるものなら遊びたい。友達も作って、外でめいいっぱい遊びまわりたい。それが柚希の本音だ。
「まあいい」
半泣きになった柚希を見て、男の子は宥めるように声をかける。
「それよりおまえ。俺を見て何も思わないのか?」
「何を?」
柚希は腕で目をごしごし擦って、薄っすら浮かんだ涙を拭った。
「おまえ女だろう? 俺を一目見て何も言わない奴なんて初めてだ」
滅多にお目にかかれない程の生粋の美少年だからこそ、その自意識過剰も許される……のかもしれない。男の子は本当に疑わしい様子で柚希を見ていた。
しかし柚希にとってはそんな質問をされる方が不思議この上ない。
「俺、男の子だけど」
柚希は平然と言う。
「嘘だろ!?」
「嘘じゃないっ!」
「嘘をつくな。どう見たって女じゃないか」
「だーかーらー嘘じゃないってば! 男の子なの! 男、男、男、おとこぉ―――!」
女の子に間違われるのは日常だ。女の子に見えなくてはいけない、とも母に言われている。しかし柚希は同い年ぐらいの子を前にして、そんなことは忘れ去っていた。男だと信じてもらえないことが悔しくて癪に障る。
「なら確かめてやろう」
まだ半信半疑の男の子は目を細めた。そして一気に、
「うわっ、なにすんだよー!」
柚希のズボンとパンツを足首まで下ろした。
「本当だ。顔は女そのものだが、おまえ本当に男なんだな」
「もう! だからさっきから何度も言ってんじゃん!」
柚希は慌ててズボンとパンツをあげる。男の子は小さいがちゃんと付いていたのをしかと確認していた。
「ごめんごめん。しかしおまえ、男ならもっとしっかりするべきじゃないのか」
「しっかり?」
「ああ。家の言い成りになったままなんて、なんて情けない奴なんだ」
男の子は首を左右に振りながらため息を漏らす。柚希に同情している様子は全くない。むしろ説教くさかった。
「自由に遊びまわれる、おまえにはわかんないよっ。ねーちゃん達は寄って集っていっつも俺をいじめるし、母さんはねーちゃん達の味方だし、いっつもいっつも……!」
自分の中の何かがプチンと切れた。溜まっていたものをすべて吐き出すように言い出したら止まらない。こんな話を他人にしたのは初めてだった。聞いてもらったのも初めてだ。
「黙れ。ぐちぐち男のくせに女々しい奴だな」
「んなっ、そんな言い方!」
「文句言う暇があったら行動しろ」
「行動って、そんな簡単に……」
「どーせおまえには、その仕来りとやらを破る勇気もないんだろうけどな」
図星だった。柚希は返す言葉が見つからない。姉達や母にいじめられたり、こき使われるのはまだ我慢出来る。しかし外に出れないのは、遊べないのは、我慢も限界に達していた。遊べるものなら遊びたい。
「俺が協力してやる」
それは神のお告げのようで。その瞬間、彼が神々しく見えた柚希である。
「俺が協力してやると言っている。俺に不可能はないからな。必ず遊べるようになるから心配しなくていい」
現れた救世主は憎らしいまでに整った顔で微笑んで見せた。そこまで自信満々に言うのだ。きっと何か根拠があるのだろう。そう、柚希は思っていた。
……後に、彼の発言に根拠は一寸たりともないことを知るが。
「本当? 外で遊べるようになるの?」
「ああ。その代わり条件が二つある」
「条件?」
「一つ目は男らしくなること。顔が顔だからな。顔は仕方ないとして、もっと男らしく振舞え」
「わかった!」
「二つ目は……」
男の子は、ボールを柚希に軽く投げた。いきなり飛んできたボールに柚希は、おわっ、と声を漏らしてキャッチする。
「俺と友達になれ。いいな」
「へ?」
「で。一緒にサッカーでもしよう。キャッチボールでも何でもいい。おまえが好き遊びで遊んでやる」
彼の発言は絶対だった。拒否する間も与えない。あたかも最初から決まっているかのように。
しかし柚希には拒否する理由なんてなかった。初めて出来る、友達なのだから。
「うんっ!」
柚希は極上の笑顔で返事した。
「よし、決まりだな。俺の名前は蜜弥望よろしく」
「俺は花月柚希。柚希でいいよ」
「名前も女みたいな奴だな」
「うるさいなー! もう!」
二人は笑い合った。そして柚希は、花月家のこと、自分が何故家から出してもらえないのか、自分について包み隠さず望に打ち明けた。
「話は分かった。明日行動に移す」
軽い脳みその柚希と違って望は賢かった。




