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HOPE!  作者: NATSU
第一章 『女血一家の長男』
2/35

(1)

「うわああああああああああッ!」

 柚希は雄叫びをあげながら家を飛び出した。蝉が合唱している、早朝のことである。

 家を飛び出してすぐ躓いて顔面から扱け、しかし即座に立ち上がって必死に逃げる彼の焦りようは尋常ではない。

 登校時間の今。柚希はフライパンを片手に鬼の血相で追いかけてくる怪物から、危険を回避することで頭がいっぱいだった。

 生死を目前にして人間は目覚しい能力を発揮する。車さえも追い越す程のスピードで走る、柚希のように。

「私の作った朝食が食えないって言うの!?」

 怪物は柚希目掛けてダーツの矢のように銀色に輝くフライ返しを投げた。

「うわ、あっぶねー! ちょっと詩織ねーちゃん! んなもん投げんな!」

 的にされている柚希は瞬時に屈み、頭上スレスレでなんとか交わす。

 柚希の姉であり、花月四姉妹の四女である詩織は柚希同様に可愛い顔立ちだが、現代色に染まっていてギャルギャルしい容姿をしている。

 しかし見た目とは裏腹に料理が趣味という女の子らしい一面を持っていた。

 ……料理が上手か否かは、別として。

 今朝も張り切って朝食を作ったのはいいが、フライパンの中にあったのは得体の知れない黒い固体。いや、物体? それとも新生物? 食べたら即座に三途の川へ海水浴にでも逝けそうだった。

「ちょっと焦げただけなのにさぁ」

「ちょっとどころじゃねえだろ! ありゃ豚でも食わねえよ!」

「いいじゃないの。うちじゃ、あんたは豚以下なんだし」

 詩織は鼻で一笑する。

 豚以下の俺って一体……なんて思いながら柚希は思わず顔を歪める。

 詩織は今も尚、殺意を剥き出しにして柚希を追いかけていた。

 制服姿に鞄、既に学校まで逃げ切る気満々の柚希と違い、咄嗟に家を出たせいか詩織の足下はスリッパだった。そのせいか敵は思うように走れていない。無駄に迫力はあるが、大したスピードは出ていない。

 柚希はとにかく詩織を撒こうと考えた。

 逃げ足は更に加速し、柚希に追いつくことが難しくなった詩織は苛立ちのあまり最終手段に出ることにしたらしい。

 その瞬間、柚希は、

「おわっ!」

 と、声を漏らし、己の反射神経の良さを褒め称えたくなった。

 カラン、コロン、と音を立てて、アスファルトの上にフライパンが転がっていく、異様な光景。

「あーもう! 避けるな!」

「無茶言うな!」

 なんと詩織は柚希の足下目掛けてブーメランのようにフライパンを投げたのだ。

 命中してここで扱けてしまっては一生の終わり。自宅に強制連行の後、詩織と応援を頼まれた残りの姉達から袋叩きにされるだろう。

 女しか生まれない、女が絶対権力の家系“女血一家”に生まれたばかりに姉達には下手に逆らえないのだ。逃げるのが一番利口だと柚希は学んでいる。

 詩織は再びフライパンを拾って力いっぱい放り投げた。フライパンは加速しながらブーメランのように回転して飛んでいく。

 柚希は反射的にジャンプして交わす。すると制服のスカートがふんわりと捲れ上がった。

 ここにもし男がいたら拝まずにはいられないだろう。嬉しさのあまり両手を合わせてパンパン。

 しかし幸い男の姿はない。

 ジャンプしたと同時にスカートの中から顔を出す、癒し。

 現役女子高生のパンツが生で見れてしまう、このチャンスを誰が逃すだろうか。

 ……本物の女子高生だったら、の話だが。

 見た目は可愛らしい女の子そのもの。しかしあくまで柚希は男であり、これは女装であり、女子高生もどきなのだ。

 彼は心も体も立派な男である。

 男である以上、スカートを押さえてパンツを隠すという仕草をしなければ、股を閉じるということもしない。

 見えてしまった癒しはたちまち男達の目を釘付けにすること間違いなしだ。違う意味で。

「ちょっと、柚希! なんで男もののパンツなの!?」

「男だからに決まってんだろ!」

 即答。

 迷いなんてものはない。自分は男なのだから。

 パンツまで女ものにさせられた日には、真剣にこの世を去ろうと考えている柚希である。

 スカートの中に潜む、秘密の花園。それが男の下着だなんて、悲しきかな。

 誰も想像つかないだろう。想像したくもない。そんな萎える妄想なんて。

 柚希の可憐なるパンチラ。それは青色チェックのトランクスだった。

「短パン履けって香織お姉ちゃんに言われてんでしょ!」

「詩織ねーちゃんがいきなり追っかけてくっから履く暇なかったんだろーが!」

 香織とは、四姉妹の長女である。

 柚希の女子高生スタイルは四姉妹によって無理矢理、より完璧な形で維持されているのだ。

 もちろん女として不要な無駄毛処理はもちろんのこと、パット入りのタンクトップまで着用させられている。

 しかし柚希はどんなに姉に言われようとも、どうしてもパンツだけは女ものを履けなかった。

 ないようである、男のプライドがそれだけは辞めろと告げているらしい。

 あんな薄っぺらい生地のパンツを男が履いたら……それこそ自己嫌悪に殺されてしまう。

「もう! 変態のくせになんでそんなに逃げ足速いわけ!」

 最後の武器を投げてしまった詩織は、段々走るスピードが落ちてきた。声も遠くなっていく。

「変態ってなぁ……俺が好き好んでこんな格好やってると思うか!? それこそ変態じゃねえか!」

 詩織の声が遠くなってきてある程度の安全を悟った上で、柚希は振り返って言ってやった。見れば詩織が小さくなっている。

 よし、撒ける!

 体力に自信がある柚希はラストスパートをかけ、前方20メートル先にある曲がり角目掛けて一直線に駆ける。

 そこを曲がれば学校はすぐそこだ。

 柚希は大きく両手を振って、風を切り、ゴールへと前進していく。

 最後の最後でもう一度振り返って確認しておいた。もう危険は回避したも同然。

 花月家の本日のお約束はこれにて終了した。ちなみに柚希はこういう出来事が毎日なのだ。

 柚希は勝気で勢いよく角を曲がり――

「きゃあっ!」「うわっ!」

 曲がった先にあるはずの道はなく、目の前には悲鳴をあげて尻餅つく女の子の姿。

 柚希もまた声を出して前に倒れこむ。

「いてて……」

 捻ったらしい腕を庇いながら上体を起こそうとして、その異変に気付く。

 頬も触れ合うような近さにある綺麗な顔。女の子特有のにおい。そして柔らかい感触。

「うわっ、わりぃ!」

 柚希は自分が女の子の上に乗っかってることに気づき、慌てて体を離した。

「ん? 北山学園の制服?」

 見れば、女は自分と同じ制服を着ているのだ。しかし顔に見覚えはない。先輩か……?

 しかし柚希は別に深く気に留めなかった。

 北山学園――そこは柚希の通わされている女子高。

 柚希は女子高生と親しい仲になりたいとは断じて思っていない。ゆえにこの女が誰であろうと興味がないのだった。

 普通の男子高校生ならば親しくなりたいと思うのが年頃の性である。

 しかし普通ではない柚希。そして普通ではない家庭環境。それらがすべて原因だろう。女家族の中で揉まれて育ったせいか、なるべくなら関わり合いになりたくないと思っているのだ。

「ん……」

 女は倒れこむ時に瞑ってしまった瞳をゆっくり開けた。

「大丈夫か?」

「えっ!? あ……は、はい」

「痛い所は? 打ったりとか捻ったりしてねえか?」

 柚希は女の子の体を必死に見回す。幸い擦り傷もなかった。

 女という生き物は傷を嫌う。もしそれをネタに後で脅されたりなんかしたらたまったもんじゃねえ。

 そう無意識で思ってしまうのも育ってきた環境のせいだろう。

「だ、大丈夫、です」

 女は頬をほんのり桃色に染めて、一体何が起こったのか分からないといった顔をしていた。

「よし、なら平気だな。わりぃな、急いでたもんで」

 死に物狂いで走っていたから、とはあえて付け加えなかった。柚希は立ち上がってヨレヨレになった制服を伸ばすように叩く。

「よかったな、特に傷はねえみたいだし。じゃ、俺はこれで」

 柚希は鞄を拾い上げるとそそくさと女に背を向けた。

 「慰謝料払って!」とか言ってこねえよな? ほんっと朝っぱらからついてねえ……。

 過ぎる不安をかき消すように、柚希は頭を掻きながら道を急ぐ。

「……あ、あのっ!」

 背後からする、女の声。

 やべえ。やっぱり「病院代払って!」とか「学校まで運んで!」とか言い出す気じゃ……。

 なんて被害妄想に追い詰められた柚希はその声に反応し、恐る恐る足を止める。

「なっ、なに?」

 柚希は固唾を呑んで振り返った。まだ地面に座り込んだままの女をゆっくりと見下ろす。

 これからどんな判決を下されるのか。それを考えるだけでこんなにも地球は酸素が薄かったのか、と息苦しくなる柚希。

「そっ、そのぉ……う、後ろがぁ……」

 女は罰悪そうに柚希の顔を見て俯き、何かを指差した。

「え?」

 女の子が指したのは柚希のお尻付近だった。

 初対面の女の子にお尻を指差される心当たりなど、もちろんない。

 柚希は女が指す方向へ視線を走らせ、

「ギャ―――――!」

 近所迷惑な声をあげた。

 女の子は申し訳なさそうに、しかし気になる様子で言う。

「な、なんで……おっ、男の子の下着、を着てるんですかっ?」

 柚希のスカートの後ろは捲くれあがったままになっており、青いチェックがはっきりと見えていた。スカートあるあるである。

「―――――」

 絶句。

 この時、彼は姉達による袋叩き覚悟で、一度帰宅して短パンは履いてくるべきだったと深く反省した。

 女の子はそれ以上突っ込んで訊かず、しかし不思議そうに固まったままの柚希を見ている。

 視線を感じ、とにかく何か言おうと思った柚希は口を開いた。

「あ、あはは……え、えっとぅ……趣味?」

 それこそただの変態である。

 言い訳が思いつかなかった柚希はとりあえず笑ってごまかした。ごまかせたかどうかは定かではない。

 そんな柚希を慰めるかのように夏の生暖かい風が吹く。

 そして女の子の前から逃げるようにして柚希は学校とは反対の自宅方向へ走り出した。もちろん遅刻覚悟である。

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