(6)
「……え、えへっ」
自称笑ってごまかすのが得意な柚希は可愛らしく笑って見せた。
今日は久しぶりに居残りも何もない、平常通りの時間に下校出来る日。抑えきれない興奮を作り笑顔に込めて、帰りの挨拶が済むと一目散に鞄を掴んだ。
「じゃぁーねーんっ!」
アイドルのように周囲に笑顔と手を振りまき、鼻歌交じりでドアに駆け寄る。
「柚希ちゃん、バイバーイ」
クラスメイトに横から声をかけられ、横を見ると、
「はぁーい。また明日ねえっ!」
コンサート中に名前を呼ばれたアイドルのように笑顔で手を振った。ここまで機嫌がいいと不気味である。
柚希は余所見をしたまま、愛想よく手を振り、ドアを抜けようとして、
「どわっ、いでっ!」
立ち塞がっている女子生徒にぶつかった。
それでも機嫌のいい柚希はぶつけた鼻を触りながら、穏やかに女子生徒に言う。
「ごめーん。ちょっと通してくれるぅ?」
せっかく早く帰れるのだ。一分たりとも無駄にはしたくないのだろう。
「なに?」
女子生徒は顔をしかめた。綺麗な顔がしかめっ面になると迫力がある。
その顔を見て柚希の気分は急激に悪くなった。まさか一日の最後の最後で、こんな不幸の元凶のような奴にま出くわすなど想定外だ。
「は、羽菜!?」
この時、嫌な予感が電流のように体を走った。冷たい汗が額から流れ落ちる。
カチンコチンに硬直した体を無理矢理ロボットのように動かし、
「そんじゃあ! また明日!」
羽菜とドアの隙間を通り抜けようとした。
「ちょっと待ちなさいよ」
が、羽菜は柚希を引き止める。
ここでその声に耳を傾けてしまっては、もう後戻りが出来なくなってしまう。
柚希は聞こえなかったふりをして、そそくさと逃げようとした、が。
「待ってってば!」
「んぐぅうっ!」
襟を後ろから引っ張られ、後ろによろめき、息苦しさのあまり一瞬三途の川を拝むはめになった。老人が数人泳いでいたように思える。
羽菜は息苦しそうにげほげほ咳き込んでいる柚希に平然と告げる。
「今日の放課後、ちょっと付き合ってくれない?」
「!」
目、鼻、口、ついでに毛穴まで、すべてを開ききった劇画のような顔で羽菜を見た。
一方、羽菜はそれが当然だとでも言いたげな顔をしている。
なんっで俺の貴重な放課後をおまえなんかに費やさなきゃなんねえんだよ! ずうぇーったい嫌だ! 死んでも嫌だ!
……そう、キッパリと言ってやりたかった柚希だったが、
「ちょ、ちょっと今から用事あるんで……」
これが現実というものである。
羽菜の性格を考慮してソフトに言うのが一番だと判断したのだ。
「用事ぃい?」
綺麗な顔の眉間にしわが刻まれる。
「そうそう、用事! だから早く帰らないといけないわけでっ!」
瞬きも忘れて必死に言い訳を考えながら説得を始める柚希。
下げたくない頭は下げない、なんてプライドは捨てた方が身の為だと柚希は知っている。傲慢無礼な女相手にプライドなんてものは自分の首を締めるだけなのだ。
「な? な? だからまた今度っつーことで!」
さすがの羽菜も用事があると言えば見逃してくれるだろう、と柚希は思っていた。信じがたいがあの陽菜の片割れである。そこまで鬼ではないはずだ。
「用事は後回しにして」
いいや、ただの鬼だった。
「あ、あのなぁ! こっちは用事があるつってんだ。また今度でもいいだろーが」
さすがの柚希も当然のように言われては腹が立つ。
「じゃあ、聞くけど。その用事って一体なになのよ?」
「え!」
ギクリとした柚希は鞄を落としそうになった。そんなオーバーに反応してしまっては、態度で嘘をついているのがバレバレである。
羽菜はにやけ顔で鼻を鳴らすと、
「別にいいわよ。今度にしてやっても」
急に態度をガラリと変えた。しかしその笑みにはどうしても偽りがあるようにしか思えない。陽菜と同じ顔なのに不思議だ。性格と雰囲気がどれだけ大事か気づかされる。
柚希は半信半疑で、悪魔の微笑みを自分に向ける羽菜に背を向け、
「わ、わりぃな。今度ちゃんと埋め合わせすっからよ。じゃーな」
手を振って、廊下を前進する。
とにかく帰ろう! 帰って寝て、嫌な現実は忘れよう! そう、胸の内で呟きながら。
しかしそんな考えは甘かった。長く感じる廊下を順調に進んでまもなく、
「いいんだ? バラされても」
背後から言葉の大砲が飛んできた。
大砲に撃たれた柚希は何もない廊下で激しい衝撃音を立てて顔面から雪崩れ込む。
「なっ!」
倒れこんだまま後ろを見れば、邪悪な笑みを浮かべた悪魔がそこにいた。
羽菜は体中の水分がすべて冷や汗となって流れ出そうな柚希に近づき、見下ろす。
「じょ、冗談だろ!?」
羽菜は柚希の悲痛の叫びに応えず、息を大きく吸い、
「花月柚希はぁ、実はぁ、おとぉ―――」「わーわーわーわーわ!」
羽菜の暴露発言を大声で遮ると、柚希はハァハァと肩で呼吸した。
見事に塞いだものの、廊下や教室にいる他の女子生徒達はなんだなんだと二人に視線を送っている。
「ねえ、今日放課後付き合ってくれない?」
その視線の渦の中心で、皮肉にも陽菜そっくりな穏やかな笑顔で言う羽菜。もちろん作り笑顔だ。
「…………ああ」
柚希に選択肢はなかった。こんな周囲の視線を浴びた中で暴露されては一生の終わりだ。羽菜という女はそんなとんでもないことを平気でやってしまう女である。
絶望に浸りながら羽菜を見れば、なんと倒れこんでいる自分に手を差し伸べていた。柚希は身震いする。
「ほら、早く立ちなさいよ」
手を掴んで立とうとした瞬間、手放す気ではないか。いや、突き飛ばす気では?
そんな自分の予測に根拠はないが自信はある柚希。しかしそんな低レベルで悪質なことを高校生にもなって……彼女ならするだろう、きっと。
「もうっ! なにしてんの!」
急かす羽菜の手を仕方なく握り、柚希は立ち上がった。突き飛ばされずに済んでほっとする。
羽菜は立ち上がった柚希の肩に手を置き、耳に口を近づけ、
「仮にもあんたは私の奴隷なんだからね。犬なんだからね。下僕なんだからね。自分の立場をもっと弁えなさいよ」
そう囁くと、いかなる苦情も文句も受け付けないといった一睨みを柚希に送った。そして左手を腰に、右の人差し指を立て、嫌味な体勢をする。
そして闇に満ちて先が見えなくなった柚希に釘を刺した。
「すぐ行くから玄関で待ってて。もし! 逃げたりなんかしたら………………だからね! いい?」
その釘は柚希の胸中を貫き、しっかりと突き刺さる。
その間がこえーよ、間が!
今度はどんなバラし方をするのか分かったものではない。まして自分のいない間に言いふらされも困る。
柚希は仕方なく重くなった足でのっそり歩き出し、先に玄関へ向かうことにした。その後ろ姿は暗く、悪霊にでもとりつかれているようである。




