(5)
「ほぉれのあおに、ぬわにかくぅいてる?」
視線を感じた柚希は頬張ったまま問うが、何を言っているかさっぱりわからない。しかもご飯粒を飛ばしながら喋るとは、女としてあるまじき行為だ。見た目だけ女、とはいえ。
柚希は口の中のものを一気に飲み込むと、
「俺の顔に何かついてる?」
口元を手で拭きながら再度訊き返した。
「い、いえっ」
まずい、といった顔をすると陽菜は首をぶるぶるっと左右に振って否定する。
食べることに必死な柚希は陽菜の反応は気にせず、またがつがつ食べ出した。
「ああ、美味かった。ごちそーさん」
柚希は最後の一口のじゃがいもを口の中に放り込むと、陽菜に向かって両手をあわせた。お腹いっぱい今なら天国へでも何処へでも飛んで逝ける気分の柚希である。
「この煮物、マジ美味かった。俺、煮物大好きなんだ。なんっつーかよ、じゃがいもの柔らかさとか味付けの甘みが絶妙でぇ」
弁当を食べ終えた柚希は、身振り手振りで勝手に煮物について語り出していた。じゃがいもの柔からさと具にどれだけ味がしみこんでいるか、はかなりの重要ポイントらしい。
「よかったぁ。お口にあったみたいで」
柚希の煮物に対する情熱はさておき、満足そうな柚希を見て陽菜は胸がいっぱいといった顔をした。
「おう! 陽菜、いいお嫁さんになれるんじゃねえの? うん、ぜってえいいお嫁さんになるな」
足を伸ばして寛いだ体勢で膨らんだお腹を叩きながら言う。
「そそそ、そんなことないよっ。ないない、ないもん、ないんだもん」
そんなに否定いなくても……というぐらい首をふって否定する陽菜。その顔はあきらかに赤かった。
しまった、と思った時には既に遅い。その反応を見た柚希は自分の口を手で覆う。
こいつ俺に気があるんだっけ。俺っつーか、女の姿の俺、にか。
柚希は厄介そうに頭を掻き毟った。接触するたび、そんな新鮮な反応をされてはやりずらいのが本音である。
女子高で、あくまで女子同士。そんな関係になる気など一寸たりともない。未来のオバサン達の話題の的に自らなるつもりは全くないのだ。
……なら、男だったら?
男の姿だったら、男として接触していたなら、また違った出会い方をしていたんだろうか。
なーに考えてんだ、俺。
柚希は肩を落として深くため息をついた。
それ以前に男が苦手な陽菜は、柚希が最初から男として出会っていたらなら何の進展もなかっただろう。こうして一緒に弁当を食べるなどもってのほかだ。
男が苦手で女の俺に気がある……って、おい! それって!
思考と妄想を混ぜ合わせたものを駆け巡らせていると、ある重大なことに気づいた。
俺が男だってバレたら……こいつすっげーショック受けるんじゃねえか?
落ち込んだ女のアフターケアほど面倒で厄介なことはない、と思う柚希である。それをネタに永遠と何を請求されるかわかったものではない。
しかし陽菜は自分が見てきた女共とは多少違う性質を持っている。そんな彼女が落ち込んだら……一体、どうなるのか?
つまり俺が男ってバレると今の弁当がもう食えなくなるってことか!
柚希は急に瞳孔を開ききって、自身の時を止めてみる。そしてもう一度じっくり考えた。
「やべえな。これは大問題だ。地球滅亡並に深刻な問題じゃねえか……うーむ」
柚希にとって、自分の胃袋と地球には同じ価値があるらしい。
もしかしたら今後も交流を続ければ、また食べることが出来るかもしれない弁当とお別れをするのは非常に勿体無い。しかし万が一、彼女に男だとバレてしまったら予測不能の事態が待ち構えている。
だとしたら、今後関わらない方が利口か? それでも気兼ねなく教科書を借りれる友人を無くすのは痛手である。
柚希はご都合思考で、結論を導き出そうとしていた。
「うーん、ここはまず……」
迷宮入りの事件でも推理しているような顔で、疑問符を浮かべている陽菜に、
「おまえさ、何で男が苦手なんだ?」
いきなり触れがたい質問をした。
「ど、どうしてそれを?」
嘘がつけないタイプの陽菜の反応は早かった。
何故男が苦手なのか、それは羽菜も口にはしていなかった。まずはその理由を聞き出して、それから事件を解決するつもりらしい。もっとも弁当の為にだが。
「ああ、羽菜に聞いたんだ」
陽菜は視線を地面に落とすと、言い出しにくそうに、しかし柚希には聞いて欲しいようで、
「自分でもよく分からなくて……男の子が怖いっていうか、なんていうか。どうしても苦手で。触れるのも近寄るのも喋るのも、全部駄目なの」
箸を置きながら言う。
俺は女の方が怖いけどな、と言いたかったが口が裂けても言わなかった柚希である。
「で。男らしい女の子に惚れやすい、と?」
柚希はあぐらの上で頬杖をついた。
「ええっ! やっ! 羽菜ちゃんそんなことまでっ!」
「う、うん」
真っ赤になって絶叫する陽菜。
まさか大声を出されると思っていなかった柚希は、圧倒されてどもった。
陽菜は両頬に手を添えて必死に照れを隠そうとしている。そして一向に柚希と目を合わそうとしない。
それを見た柚希は、にやりと笑い、
「男らしい女の子って、例えば私とかぁ?」
余計なことを言い出した。もちろん軽い気持ちだった。冗談のつもりだった。
しかし冗談が通じる相手か、もっとよく考えるべきだったのだ。
「え、ええっ! それは、そのっ、えっとぉ……」
真っ赤な顔からは湯気でも出てきそうな状態である。今彼女の頭上にやかんを乗せたら簡単に水が沸かせるレベル。
「あはは……冗談だよ、じょーだん」
予想はしていたものの予想以上の反応に、自分の発言に後悔する柚希だった。
そしてその反応を見て改めて確信する。女の姿の自分に陽菜は好意を抱いているのだろう、と。
んまっ、今んとこ男だってことはバレてねえみたいだし。
男だとバレていない、女にしか見えてない。内心、安堵感と屈辱感に塗れる柚希だった。
羽菜より鈍そうだし、大丈夫だよな。
横目で陽菜をちらり。陽菜はというと、まだ熱っぽい顔を隠そうと両頬に手を添えたままだった。
ん? 羽菜?
「柚希ちゃん?」
その時、脳内から抹消することが出来るなら、すぐさま抹消したい過去を思い出してしまい言葉を失った。
羽菜……。
NGワードがしつこく頭を過ぎる。
「うぅ……」
思い出して実感すると、背筋に悪寒が走った。
「柚希ちゃん、どうかした?」
「あ、いや……なんでもねえ」
羽菜に弱みを握られ、無理矢理奴隷契約をさせられたことを思い出してしまったのだった。
夢なら覚めて欲しい。しかしそれは忘れ去っていた現実だった。
過去の記憶と出来事を吹っ飛ばすことが出来るなら、神でも悪魔でも何の奴隷になってもいい、と切に思う柚希である。しかし女神と女の悪魔の奴隷だけはごめん被りたい。
柚希が保健室での回想シーンに飲み込まれているところで、チャイムが鳴る。
「げ。もう昼休み終わりかよ」
授業の始まりほどだるいものはない。柚希は仕方なくゆっくり立ち上がると、大きく背伸びした。そのままラジオ体操でも始めそうな勢いで体を左右に捻る。
「あのっ!」
弁当箱を片付け終えたらしい陽菜が座ったまま柚希を見上げた。
「明日も……お弁当作ってきていい、ですか?」
「え?」
「あ、いえっ。迷惑だったら、その、全然いいんですけど……」
陽菜は恐縮しているようで、敬語口調に戻っている。
一方柚希は目に少女漫画の輝きを宿らせて、陽菜の前で屈むと両肩を強く掴む。陽菜は突然の出来事に驚き、きゃあっ、と戸惑った声を出した。
「何言ってんだよ! 迷惑も何もこっちからお願いしたいぐらいだぜ! 作ってくれるなら是非作ってくれよ! な!」
柚希は陽菜を前後に揺さぶりながら本音をぶちまける。手作りの弁当が食いたい、あの煮物をもう一度。それが、それだけが、彼の本音であった。
「ははははは、いっ」
揺さぶられて上手く返事の出来ない陽菜は、目を回しながらも返事は欠かさなかった。
「明日もあの煮物が食えるんだもんなぁ」
柚希はすっと立ち上がり、両拳を握って、きらきらと輝いた瞳で明後日の方向を見つめた。
空は相変わらず真っ黒で、雨が降り続いているにもかかわらず、柚希の周囲だけは数多の輝く星が飛び散っている。
「んじゃ、また明日ここで」
用件が済むと退散も早い柚希である。星を背負ったまま振り返って陽菜に手を振った。
「あああ、明日もっ」
陽菜の声に再び振り返る。
「明日も頑張って作ってくる、ねっ」
弁当箱を抱きしめて立っている陽菜は、ぎこちないタメ語で柚希に向かって叫んだ。
可愛らしく、愛らしく、天使と見まがうほどの汚れなき純白の笑顔で、そんないじらしい発言をする陽菜を正常な感覚が残っている男であれば、誰もが思うはずだ。
…………かわいい。
尽くされたことのない柚希にとって、見たことのない笑顔と言われたことのない台詞だった。純粋に柚希に食べて欲しいと思っているのが伝わる。
陽菜は自分で言って恥ずかしくなったのか、てへっと笑った。そんな姿を見ても殺意を抱かないのは、それが自然体で嫌味も下心もないからだろう。
お、おいおい……なに考えてんだよ、俺!
はっとして自分を取り戻した柚希は自分の頬を一発殴ると、屋上に陽菜を残したまま先に階段を駆け下りていった。
耳に心地良く響き渡る、高く澄んだ音。
毎日聞いているとはいえ、この時ばかりは全く嫌にならないのが不思議でままならない柚希である。
その音のことを考えるだけで、さっきよりひどくなった雨のことなどへとも思わないぐらいだ。
俺はこの音を待ってたんだ。そう、この音を。
柚希は静かに瞳を閉じて、その瞬間を待った。
そして時は訪れた――キーンコーンカーンコーン。
「よっしゃー!」
帰りのHR終了のチャイムが鳴ると、柚希は感激の雄叫びを上げて立ち上がった。
やっと帰れる、それだけで柚希は気分がいい。
「ちょっと! もう柚希ちゃんっ!」
優が慌てて座るようにジェスチャーした。
「……へ?」
柚希は右手をあげたまま静止する。そのまま宇宙にでも飛んで逝ってしまえば、周囲の冷たく尖った視線に突き刺されることはなかっただろうに。
静まり返った教室に、ごほん、と担任のわざとらしい咳払いが響く。




