(2)
「…………」
「…………」
沈黙の妖精達は一体どれだけ飛び回れば気がすむんだろうか。いや、実際はそんなに長い沈黙ではないのかもしれないが、柚希にはやけに長く感じた。
足音も物音も喋る声さえもしない。その沈黙に違和感を抱きつつ、このまま保健室を去ってくれることを願う。抱きしめている枕だけが、唯一の味方なような気がした。
しかしそれは突然きた。考える余裕を与えられたところで、
「そこにいるわねッ!」
柚希がいるベットのカーテンが浮き上がり、
「うわっ!」
顔面目掛けて、物凄い速さで枕がぶっ飛んできた。
柚希は体を後ろに反って、間一髪、顔面に枕をくらわずにすんだ。詩織との鍛錬のおかげである。
「び、びっくりした……」
柚希は荒い呼吸を整える。そして幸い壊れずに済んだカーテンを見た。カーテンは風に揺られたように微動している。
「てめえ! 危ねえだろーが!」
カーテンの先にいるであろう羽菜をカーテン越しに怒鳴りつける。柚希が怒鳴るとカーテンが勢いよく開いた。
「誰かいるとは思ってたけど、あんただったの。昨日のバカ」
仁王立ちしている羽菜の姿があった。羽菜は柚希の目の前まで行くと傲然と見下ろす。
「バカって言うな、バカって!」
「バカはバカでしょ? バーカ、バーカ」
ここまで馬鹿馬鹿言われると自分は馬鹿だと認めざるをえなくなってくる柚希である。
柚希はあからさまに大きなため息をついた。羽菜に見せ付けるように。
「あんた、ここでなにしてんのよ」
どうでもよさそうに問う。だったら聞かないで欲しい、と思う柚希だった。
「見ればわかるだろ? 俺は病人なんだよ」
柚希はわざとゴホンゴホンと咳払いをして見せた。羽菜はまじまじと柚希の顔を見るなり、
「ふーん、病人には全然見えないけど」
「!?」
羽菜はベットに膝をついて乗っかり、四つん這いになって、あぐらをかいている柚希の顔を覗き込んだ。
柚希は声を殺して戸惑った。悔しいことに近くで見る羽菜の顔は見目麗しい。陽菜と全く同じ顔なので、それもそのはずなのだが。
いい匂いがする、気がする。
鼻が詰まっているのでそんなはずはない。きっと雰囲気に飲み込まれているだけだろう。
俺はなんでこんな……。
毎日のように見ている女という生き物を前にして、何故今自分が戸惑っているのか理解出来なかった。
突然、綺麗な顔が目の前に現れると柚希は顔面を紅潮させ、その顔を見せないがために、
「うっ、うるせえな。風邪ひいてんだよ」
ぶっきらぼうに言って、顔を逸らした。
羽菜は目を細めて疑いの視線を送りつつ、赤くなった頬を見て、
「あんた、熱でもあるんじゃないの?」
柚希のおでこに自分のおでこをくっつける。
「ななな、なっ!」
「ほら、熱いじゃない」
柚希は近づいてきた羽菜から体を離し、何度も瞬きをする。
胸の鼓動がやけに響くがきっと気のせいだろう、と柚希は思い込むことにした。
「バカでも風邪ひくのね」
「ひくに決まってんだろ」
やはりこの鼓動は気のせいだった、と思う、思いたい柚希である。
「だったら寝てなさいよ。安静にしてないと」
「え?」
思わず声が裏返った。
「なによ」
「え、いや、うん」
柚希は抱きしめていた枕を頭上に置く。
なんだかんだで心配してくれてたり? いやそんなわけがない、とすぐに撤回する。きっと考えすぎだ。
それでも今までの会話の中で一番まともなことを言われた気がした柚希である。
「おまえはどうなんだよ。具合でも悪いのか?」
ちょっとばかり気遣う心の余裕が出来た。
「大丈夫か? 無理すんなよ」
「べっ、別になんともないわ」
羽菜はベットの上に座り込んでそっぽ向いた。心配して言ってやったのに何で怒った口調で言い返されなきゃいけないんだ……と、柚希は頭上に疑問符を浮かべる。しかしよく見れば羽菜の顔もほのかに赤い。
「おまえこそ熱あるんじゃねーの? そうだ、ここ使えよ」
言わずとも勝手に乗ってきたからにはこのベットを使う気だろう、と柚希は思っていた。
ベットは他にもある。出来るだけ羽菜の寝るベットから離れたベットにしよう、そうしよう、と心に誓う。
柚希はベットから降りようとして、
「ちょっと待ちなさいよ!」
羽菜に腕をぐいっと引っ張られた。女にしては力が強く、軟弱で帰宅部の柚希は引っ張られるがままで、
「おわっ!」
叩きつけられるように背中からベットに倒れこんだ。尻と腰が痛いのを忘れていた柚希は今の衝撃で思い出してしまう。
「いってえな、いきなりなにすんだよ」
苦痛に顔を歪め、瞳を閉じた。
「な、なんともないって言ってるじゃないっ!」
「だからって別にそんな引っ張らなくてもいいだろーが」
柚希は目を開け、考える間もなく目の前の瞳を見つめ返した。
呼吸が詰まる。
「お、おい……」
目の前には羽菜の顔あり、何故か羽菜が自分にのしかかっている。
押し倒されている、自分。逃がすまいと掴まれたままの、腕。
かっと頬が熱くなる。今度こそ本当に熱があるのかもしれない。
「なに?」
羽菜は何事もなかったかのように言う。
「あのぅ……」
「だから、なによ?」
「この状況はいかがなものかと」
「この状況?」
羽菜は本当に何とも思っていないらしく、柚希にのしかかっていることを気にする素振り一つ見せない。
さすがに無反応は切なかった。陽菜みたいにちょっとぐらい照れた仕草があれば可愛げがあるのに、なんて思ってしまう。
羽菜は何やら不満そうな柚希を見て、にまぁと嫌な笑みで、
「あんたの名前、柚希、だったっけ?」
「んぁ? ああ、そうだけど」
急に落ち着いた声色で話す。それより早く退いてくれないか、と思う柚希だった。握られている腕が少々痛む。
「……柚希」
羽菜は名前を呼びながら、腕を掴んでいた手を柚希の頬に添えた。
「ななな、なんだよ。急にそんな声出して」
柚希は必死で平然を装いながら、いきなり甘い声を出す羽菜を見た。羽菜は柚希の問いには答えず、顔を斜めにして柚希に近づけていく。
「え、ちょっ……! なっ!?」
突然の予想外の展開に心音が急速に上がり始めた。
なぜこんなに自分が動揺しているのか。意識してしまっている自分を恥じ、しかし嫌でも実感してしまう自分の男としての性。
思えば、女と戦うことは日常茶飯事だが、殴る蹴る罵倒なしで密着することなんてなかったのだ。
初心な柚希でもこの展開の先ははっきりと見えている。
必死に意識の中から羽菜を消し去ろうとしたが、目の前で迫ってきているものを消し去るのは無理だった。自然と目線が唇にいってしまうのが悲しくて、悔しい。
どうすりゃいいんだよおおおおおおおおおお!
柚希は心の中で絶叫した。
「待っ……」
待って、と言おうとした柚希だったが、目の前に迫り来る羽菜は既に瞳を閉じていた。事を運ぶには準備万全である。
自分の頬に添えられた手の感触が鼓動を早める。上に乗られているというのに、ちっとも重さなんて感じやしない。
「や、やばいって」
やっとまともに声が出た。羽菜はその声に反応して、半開きの目で柚希を見た。
柚希は自分の頬に添えられた手を引き離すように握ると、握り返されてしまった。
……じょ、冗談だろ。
握り返されて、そのままベットに押し付けられる。羽菜は柚希の反応を見るなり、再び瞳を閉じた。
羽菜の呼吸が鼻にかかる。くすぐったさを感じ、無償に恥ずかしくなってきた。
柚希は息を止める。
もはや柚希は捕らえられた獲物。雌ライオンに喰われようとしている雄シカだ。もっとも見た目は女同士の禁断の園状態なのだが。
「んっ」
柚希は近づく顔に合わせて、ぎゅっと瞳を閉じた。
………………あれ?
しかし唇には何の感触もない。柚希はそっと目を開けた。羽菜の顔が自分から遠くにある。
「ぶっっっ! バッカじゃないの?」
柚希の視界には、唇の代わりに吹き出して笑う羽菜の姿があった。
「女同士でなに期待してんのよ」
羽菜はほそく笑む。
「てめえ……」
柚希は発しかけた言葉を飲み込んだ。
しまった、という顔をしてしまったことは後で後悔することになる。
冗談にしてはタチが悪い。自分をからかって笑う羽菜を怒鳴り散らしてやりたい気分だ。しかし自分にも汚点があったことに気づく。最大の、汚点。
俺、女装ってんの忘れてた……。
何故、羽菜は陽菜と違って自分にのしかかって急接近しておきながら、顔色一つ変えないのか。そこに少しばかりの不満を抱いた柚希だったが、柚希を女だと思っている以上、それが当たり前なのである。
自分は女として、女子生徒として、この女子高にいる。
この口調のままで、この態度のままで、男だとバレたことのない柚希にとって女を意識的に装う場面は少なかったのだ。しかしこの時は意識的に装わなくてはならなかったはずだ。
中身と体が正真正銘の男である柚希は無意識に男として反応してしまっていた。女の顔が近づいたぐらいで動揺してどうする。
あまりの失態に屈辱と怒りが入り混じった感情が溢れ、柚希は自分を殴りたくなった。もっとも相手が羽菜だから余計に、だ。
「やっぱりあんたって、そーゆー趣味?」
羽菜は物珍しいものを見るように柚希を見た。
「んなわけねえだろ」
「女相手に反応がリアルすぎるわ」
それはてめえの双子の姉妹もだろーが! と言いたいところだったが口喧嘩するには相手が悪い、と柚希は思った。これ以上言い返さない方が利口だと判断する。
「あ、わかった。今もドキドキしてんでしょ?」
「誰がするか!」
さっきの状況で自分がドキドキしてしまったことは絶対に認めたくない、認めない柚希である。
「ふーん。だったら私が確かめてあげる」
「はぁ?」
柚希はこの言葉の意味を理解していなかった。していなかったが為に、
「バ、バカ! いきなりなにしやがる!」
次の瞬間、羽菜がとった行動に対処できなかったのだ。
やばい! マジでやばい!
柚希は慌てて自分の胸元に置かれた羽菜の手を掴み取る。パット入りのタンクトップを着ているとはいえ、安心は出来ない。どんなにクオリティの高いものであっても触り心地は本物には敵わないのだ。
人生最後の日が来たかもしれない、と柚希は顔面蒼白になった。
「なにって、確かめてるだけだけど」
羽菜はあっけらかんと言い放った。その第一声に、柚希は少々安堵感を覚える。




