客人
「何?」と先生は言ったのかもしれない。顔をしかめて、一瞬、訝しそうな表情をしているのが見えた。田中くんの口調に変化を感じたからなのか、或いは辺りの気配に変化を感じたからなのか。
その顔はすぐに、驚愕と恐怖の表情で歪んだ。先生の真正面、あたしの後ろ上方を凝視している。
「何だあれ!!」
ざわめきが大きくなったような気がした。音が聞こえ辛い。だけど何のざわめき? 鳥の声だって、虫の鳴き声だってしていないのに。
重く湿った空気が自分の体にまとわりつき、聴覚と視覚を包み込むように邪魔してくる。
田中くんが、先生の表情につられた様にこちらを……後ろを振り向こうとした。
「見るな圭太!!」
桑原くんの叫び声。弾かれるように田中くんの背中がビクッと動いた。
桑原くんはもぞもぞと動く。時々呻く。
「うっ……」
必至で前へ進もうとしているらしい。そんな彼の周りをも、異質な気配が包み込んでいく。ゆっくりと、ねっとりと。あたし達は、徐々に、浸食されていく。
あたしは地面に伏せたまま、動く事が出来なかった。冷や汗が垂れてくる。ゴオーっと言う地鳴りか、風の音。気圧が変わったみたいに、耳が痛い。
あたしの脇を、白い足が通る。すっかり育ったソレは、もう人間の足と変わらない。透き通ってもいない。筋肉すら見える。だけど何故か、すり足で進んでいる。
時折、ゴボっという音とともに、上から白いしずくが落ちてくる。ぽたっ。それは地面に落ちると、小さな白い花になる。
ゴボっ。ぽたっ。また垂れた。
ゴボっ。ぽたっ。
あたしは、思わず上を向いてしまった。
そしておきゃくさんの、顔を見てしまった。
髪の毛も無い真っ白な顔に、黒い穴が二つ、眼のように並んでいるだけ。鼻も口も無い。どこかで見た事がある。あれだ、教室の本棚で見た、アメリカの宇宙人。違和感を感じる。あたまがボーっとする。こんな異常な空間で違和感とか言うのも可笑しいのだけれど、日本の祠にアメリカの宇宙人。妙な感じだ、地球は一つ。混乱している? あたし。
二つの黒い穴は、ただの穴だ。底が見えない、真っ黒な穴だ。なんの心も読みとれない、無表情の二つ穴だ。
その穴が、こちらを振り向いた。
無表情。読みとれない。
だけどあたしは、あの穴を知っている。
前にも見た事がある。
眼が、合ってしまった。
無表情の眼だ。
知っている。
無表情の、
そんでみーちゃんは、どーすんの?
そうだったんだ。わかんない。あたしを連れてくの? それでもいいけど、野瀬先生とだけは嫌だな。
するとおきゃくさんは、手をすっと顔の前に上げて、人差し指を立てた。立てた指をそのまま、ありもしない唇の前に持ってくる。
その仕草に、あたしは、数十分前の学校での光景を思い出した。
『見ててごらん』
黒い二つの穴を、あたしは知っている。見慣れて安心できる、あたしだけに読みとれる、
これは、笑いを含んだ眼だ。
あたしはどこか他人事に感じていた。目の前の光景は、ガラス一枚隔てた別世界の出来事に思える。だから頭がぼーっとしているし、だから冷静に眺めていられるんだ。
おきゃくさんはゆらっと先生に向き直った。ゴボゴボ、ポタポタ、と頭から顔から体中から、白い滴を垂らしている。まるでロウソクが溶けているみたいだけど、一向に小さくならない。先生は口を開けたまま固まっていて、声が詰まっているみたい。
やっとの思いで立ち上がった桑原くんが、田中くんの腕を掴んで強く引っ張った。二人は転がるように地面に倒れ込んだ。その田中くんの頭を、桑原くんが抑え込む。そこだけ妙に現実的で生々しい。田中くんに、おきゃくさんを見せないようにしているのね。自分は眼をギュッと瞑って彼の上に覆い被さって、って、あたしの事は無視ですか? なんで普通に?! そこまで差をつける?!
空気が更に重くなった。息苦しい。体が重い。嵐のように音がうるさい。おきゃくさんが先生の首に手を伸ばした。先生はおきゃくさんの顔を見たまま固まり続けている。金縛りなのだろうか?
「よ、よせ」
野瀬先生の顔は恐怖で、もっともっと歪んでいる。眼は見開きすぎて、眼球が飛び出しそうだ。
「よせ、触るな、やめろ、やめてくれ、やめてくれ、やめてくれやめてくれやめてくれ……」
口から涎と泡を吹いている。飛び出しかかった目からは涙。はっきり言って、現実離れしているおきゃくさんより先生の形相の方が、よっぽど怖い。
おきゃくさんは先生の首を掴んだ。
「ヒっヒィィっっ!」
先生は後ろに倒れた。逃げようとしたけど、足を掴まれた。おきゃくさんはそのまま引っ張りだす。ズルズルズル、と片手で。なんてすごい力。
途中、パソコンのコードも掴んで一緒に引きずった。でもそれはすぐに本体から外れて、おきゃくさんはコードだけを引っ張って行った。ポタポタと、白い滴が落ちている。
先生は起き上がろうとするけど、引っ張られて起きれない。逃れようとするけど、容赦無く引きずられる。なにか喚いている。だけどざわめきが大きくってほとんど聞こえない。あたしの耳は何かで塞がれているみたいで、全ての気配がぼやけて感じる。
「離せっ離せっ離してくれっ離してくれ離してくれ離してくれ……」
先生は足を引っ張られ、コードと一緒に、祠に連れ込まれた。
大きな体が、小さい祠の中に、引きずり込まれていく。
そしてすぐに、風に煽られた勢いで、扉が大きな音を立てて閉まった。
ガタガタと、祠が揺れる。中から揺れているのか、風に揺らされているのか分からない。やがてそれは、あっけなく動きを止めた。
後には、濡れた物が引きずられたような痕跡が残っているだけだった。
あたしは、茫然とした。何も考えられない。
ただ、ひたすら、茫然とした。
「……やった……?」
どのくらい経ったのだろう。うずくまっていた桑原くんが小さく呟いた。
いつの間にか、風も地鳴りもざわめきも、収まっている。冷たく重かった空気が、相変わらず冷たいけど、乾いて軽いものに変わっている。
急に呼吸が楽になった気がした。
滑稽なくらいに、悩みのない空気が広がっている……。
桑原くんは恐る恐る顔を上げると、辺りを見回した。
「……やった。やったぞ圭太! やった!!」
「……本当だ……」
田中くんも茫然と、辺りを見回した。
「いない……」
「すっげぇ、いないぜ! あいつ連れて行かれた! カミサマに連れてかれたぞ! ずっげぇ、成功した!! 信じらんねぇ!! イッテ、やった!」
「う、うん。本当だね……やった。……やったぜ! やったんだ! うおおーっ!!」
「うわぁーっ!!」
「わあぁぁっ!!」
男の子二人が、一気に盛り上がった。受け入れるの、早すぎる。
田中くんは、顔も目も真っ赤にして、涙ぐんでいる。大騒ぎしながら時々目を腕で擦り、「くそう、やったぜちくしょう! くそう、ちくしょう……」とか呟いている。案外言葉が汚い。
あたしはまだ、茫然と座り込んでいた。
気付けば、辺り一面白い花畑だった。よく見るとそれは、おきゃくさんが白い滴をポタポタと落とした場所に咲いている。ふと見ると、あたしの頭や体にも、白くて小さな花がついている。
あたしは急に、鼻と喉の奥がツン、と痛くなった。
一通り盛り上がった二人は、やっとあたしに気付いたらしい。
桑原くんが四つん這いで、顔をしかめながらこっちにやってきた。
「おい、何呆けてんだよ」
「大丈夫、瑞希ちゃん?」
「瑞希ちゃん? はぁぁ?」
桑原くんは気味悪そうに、肩眉をあげて田中くんを見上げる。
ぽろ、とあたしの目から涙が零れた。
それを見た二人は、ぎょっとした顔をした。
「だ、大丈夫? やっぱ怖かったよね? どっか痛いの?」
「おい、ここで泣くなよ面倒だから」
同じ表情で全く違う事を言う二人をよそに、あたしは空中を見つめたまま、涙を三つくらい零した。
この人達は、あたしがおきゃくさんと目が合った事を、知らない。
目が合ったのに連れて行かれなかった事を、知らない。
その目がどんなものだったのか、知らない。
さっきからあの人の顔が、頭から、消えない。
やっとの思いで、言葉を絞り出した。
「……か、かず君を、探さなきゃ……」
二人は顔を見合わせた。
「そうだ一志に知らせようぜ。喜ぶぜぇあいつ! どんな顔すっかな! でもそういや、何でついてこなかったんだろうな? 菅野が連れてこられたら、あいつなら絶対、隠れてでもやってきそうな気がしねぇ?」
「本当だね。飼育小屋の掃除が忙しいのかな?」
「こんな暗くちゃ、もう終わってるだろ」
あたしの脳裏にこびりついている、あの真っ暗な目。あの時あたしは、なにもかも分かった気になっていた。何故かとても、納得したのだ。
でも冷静に考えて、そんなバカな。冷静に? 何をどこまで? そもそもあたし達がした事を、冷静に考えていいの?
よしじゃあ学校に戻ろう、と田中くんが立ちあがった。あたしも、と、ゆっくりと立ち上がろうとした時。……あ、あれ?
もたつく。
ゆっくりにも程がある。
「ちょ、ちょっと待って」
え? と丸い目で田中くんがあたしを見下ろす。こんな事が起こった後ですら、真っ直ぐな目だ。場違いにちょっとドキっとする。
あたしは若干の恥ずかしさを覚えながら言った。
「あの……もう少し待ってくれませんか?」
「どうしたの?」
「……た、立てない」
「ええっ! どこ怪我したのっ?」
やあっそんなに心配しないで。
「じゃなくて、その……力が、入んない……」
「何で?!」
「さあ……」
「ババくせぇ。腰が抜けたのかよ」
隣から、もっのすごっく、無遠慮な声が飛んだ。
バ、ババくさいぃ?
カチーンと一気に現実に戻った! 戦闘態勢!
あんたのキャラもっ、この期に及んでっ!!
「あんただって! さっきからはしゃいでるけど立ててないじゃないの!」
「バカヤロウ! 疲れたから座ってるだけだ!」
「嘘ばっかり! ボッコボコにされたから痛くて立てないんでしょ!」
「それ程痛かねぇよ! つかお前と状況が全然違うじゃねーかよ、威張るなテメェが!」
「またテメェって言った!!」
「ちょっと待ってよ、わかったよ。それじゃあ二人が立てる様になるまで、ここに座ってよう。ね?」
田中くんが慌てながら、身を屈めるようにしてあたし達二人を宥める。
あたしと桑原くんは、顔を見合わせた。その顔、お互いに戸惑っている。情けない事に、瞬時にお互いの意思を確認してしまった。
……ここにまだ、座っている……?
もうとっぷり日が暮れている。祠は無言でそこに立っていて、周りには白い花が浮き上がっている。
そこにある、濡れて引きずられた、跡。
あたしは桑原くんと目配せをした。そしておずおずと、田中くんに言った。
「……でも、出来る事なら……もうココ離れたい」
「……気味悪いし」
桑原くんの援護&追従。
田中くんはポカンとして、あたし達二人の顔を見比べた。
目で必死に訴えるあたし達。だからお願い、あたし達を……
「……え、嘘でしょ? ……マジで?」
わかったよ、ほら腕かして、と諦めた様に溜息をついた田中くんは、桑原くんをおぶって、あたしの腕を肩に背負って、ふらふらしながら雑木林を出る事になる。なんでおぶられたのがあたしでなく桑原くんなのかと言うと、あたしが激しく拒否ったからだ。そんなの駄目、絶対無理、色んな意味で。だったら例え貞子と呼ばれたって這って進むわ。
興奮とすがすがしさが入り混じった様子で、田中くんと桑原くんは進んでいく(Kはおぶられているけど)。けれどもあたしは、緊張と切なさが胸を埋め尽くしていた。
かず君。
今、どうしているの?