決行 4
「何をやってる?」
先生が声をかけた。田中くんと桑原くんはゆっくりと振り向いた。パソコンは、これ見よがしに祠の前に置いてある。ここまで来い、と。
あたしを掴む先生の手が緩んだ。
「佐々木先生はいるのか?」
鬼の様な形相。そんな言葉が頭に浮かんだ。野瀬先生の表情は、おきゃくさんよりずっと禍々しいに違いない。女子に人気の大きな目はまるでホラー映画のように見開かれ、厚い唇は醜く歪んでいる。
そんな先生を桑原くんは睨みつけ、田中くんは丸い目でじっと観察している。
先生は喚き始めた。
「何て事をしてしまったんだ、わかってるのか? 不法侵入や器物破損で警察沙汰だぞ? こんな大事な時期に、もう少し物事をまともに考えられないのか? とんでもない事をしてしまったな、俺が敵にまわったらお前らの人生終わるんだ、分かってるのか?」
「何で来たの?」
「お前がバカなことをやってるって聞いたから、」
「先生に言ってない。菅野さんに言ったんだ」
そう返す田中くんは、すごく落ち着いていた。肝が据わっている、と言うより、諦めとも違う、どこか達観した感じ。今までの不安げで緊張した様子が、嘘のようだった。
彼はあたしに少し近づき、静かに言った。
「早くここから出て行って」
すると先生があたしの腕をグイっと掴んだ。
「いい加減にしろよ、田中」
「その手を離して下さい」
「駄目だ。菅野もグルなんだろ? 離すわけにいかない、それ返せ。大体そんなもの盗んでどうするんだ、バカだな、ほんっとどうしようもないバカだなお前らは。どうなるか覚悟しろよ、俺次第なんだからな、佐々木先生はどこだ?」
先生は興奮したように、まくしたて続ける。日没が近付き、日の光がどんどん弱まる。
田中くんの瞳が暗く光った。
「日が暮れたら、教えますよ」
その言い方に、何故かあたしはゾクっとしてしまった。
「その気色悪い手を菅野から離せよ、淫行教師」
桑原くんが唸るように言った。あたしはびっくりした。まさか彼があたしの事を少しでも気にかけるとは、想像もしてなかった。
「……何?」
「俺らが何も知らないと思うなよ」
桑原くんが、余裕の無い笑みを浮かべながら、先生に近づいて行く。無理をしているのが伝わってくる。
野瀬先生は顔を歪ませた。笑っているらしい。もう全然ハンサムなんかじゃない。ただ怖い。
「……バカか? 何を言っているのか知らないが、俺は悪い事なんてなんもしてないんだよ」
そういうと先生は、いきなり桑原くんに迫った。あたしはがくんと引っ張られバランスを崩す。
桑原くんは襟首を掴まれた瞬間、お腹に強烈な蹴りをくらった。体をくの時に曲げた瞬間、後頭部を力いっぱい殴られた。それはあっという間の出来事で、桑原くんは声すら出なかった。あたしもだ。
先生は、息一つ乱れていなかった。
田中くんは、丸い目を見開いていた。
さっきまでとは一変して、その顔は怯えていた。息を止めて、固まって、桑原くんを凝視している。
先生はそんな田中くんを、苛立ちと軽蔑の目で見て「お前のせいだぞ田中」と言った。そしてうずくまった桑原くんを見下ろすと、満足そうに目を細めた。口の端がわずかに上がった。
「人聞きの悪い事を言うなよ、桑原。証拠でもあるのか? 大体お前らみたいな素行の悪いガキが何を言っても誰も信用しない、そんな事も分からないのか」
あたしは恐怖で固まった。大人の暴力ぐらい絶望的な恐怖はない。だって勝ち目も逃げ場も無く、ただ命の危険に晒されるのだ。先生の笑顔は、明らかに暴力的だ。
でも桑原くんは屈せず、しばらくしてくぐもった声を出した。
「証拠がなきゃ、悪い事してねーっつーのかよ。それが教師の台詞か? 日頃言ってる事と全然違うじゃねーかよっ」
そう言って顔を傾け、下から野瀬先生を睨みつける。やめてよ、そんな事したら……!
先生は桑原くんの髪の毛をぐっと掴んで強く引っ張った。顔を歪めて仰け反る彼を片手で激しくグイグイと振りまわし、その度に桑原くんは、首が取れそうなくらいガクンガクンと体を揺らした。先生は何度も彼をガンガン蹴飛ばし、彼は途中から抵抗をやめた。ただ、蹴られる瞬間になんとか自分の身を守ろうとするだけ。
突っ立って見ている田中くんは、目を見開いたまま、怯えた表情で時折口をパクパクするだけ。まるで息が出来ない魚みたい。
以前かず君が言っていた「暴力を受けた経験がある人は、極端に怯える」と言う話を思い出した。先生が手をあげるだけで、ビクンと身を強張らせるんだよ、こうやって。目の前にいる彼は、話に聞いた通りの状態になっており、あたしは愕然とした。本当にそうだったんだ、信じられない。
先生は桑原くんの髪の毛を掴んで顔を上げると、その額に愛おしそうにキスをした。
嬉しそうに笑う。
「お前は本当に、見かけそのまんま、中身も赤ん坊だな。大人と子供は違うんだ。ん? 分かるか?」
狂気の笑顔だ。
そして桑原くんの顔にペッと唾を吐きかけると、再びお腹を膝で強く蹴り上げた。桑原くんは声も出せずに崩れ落ちた。
田中くんが、涙を溜めた目で、ギリっと奥歯を噛み締めながら先生を睨みつけた。
先生は狂った目で田中くんを睨み返しながら言った。
「自分達が何をしでかしてしまったかも分からない、腐った頭の人間には言っても無駄だろうがな。自分で飯も食っていけなきゃ一人で生きても行けない無様な子供が、分かったような口をきくな!」
そして地面に倒れた桑原くんを見下ろし、頭を、靴でグリグリと踏みつける。
「そういう気取った台詞はな、せめて俺みたいにまともな職に付いて、税金を納め、社会に貢献してから言え!!」
先生が本性を見せている。ここに来て急に。こんなにおかしな本性を見せている。
もう駄目。はやく来て。
あたしはいつの間にか、ガタガタと震えて泣いていた。先生の手は、まだあたしの腕を掴んでいる。
おきゃくさん、はやく来て。もう日没が始まっている。辺りは薄暗くなり始めている。白い花は咲いている。空気は冷たいけどまだ乾いている。
はやく来て。この人を連れて行って。
「俺、確かにバカですから、先生の言ってる事半分もわかんないですけど、」
田中くんの声で我に返った。彼が真っ直ぐにこちらに近づいてくる。
その瞳は激しい怒りに燃えていて、顔は興奮で真っ赤だった。
「話をすり替えんなよ」
沸騰した怒りが口から漏れ出しているような声だった。
「あんたは手を広げ過ぎたんだよ。……手を、広げ過ぎた。俺だけにしておけば良かったのに」
煮えたぎった憎しみで、先生を睨みつけている。
息を飲んで眺めていたあたしは彼の台詞に何か引っかかり、次の瞬間ハッとした。
まさか田中くんは、本当は野瀬先生に……!
「許さない。絶対に許さない。他の奴らにも手を出しているってだけでも鳥肌がたつのに……」
その迫力は凄まじく、まるで見えないオーラが全身を包んでいるようだ。
野瀬先生も思わず怯んだ。それがあたしの腕を掴む手から伝わってくる。あたしは本能的に動いた。
今だ!
先生の手に噛み付く。離れた瞬間に逃げ出したけど、三歩も行かずに再び腕を掴まれ、あたしはそのまま勢いよく地面に叩きつけられた。
顔を強打する。土まみれだ。あまりの痛さに目がチカチカしながら上を見上げると、先生と目が合った。
先生は瞳をキラキラさせながら、笑って言った。
「びっくりしたじゃないか。危ないだろう? 駄目だよ、そんな事をしたら。女の子は怪我するよ?」
口の中に、血の味がする。
あたしは思った。
この人は、あたし達三人が束になってかかっても、怯まないんだ。敵わないんだ。むしろ、喜ぶんだ。
じゃあ、どうすればいいの?
その時、先生の後ろから田中くんの手が伸びた。それを見たあたしは、眼を剥いてしまった。
田中くんが、先生の首筋に、ナイフを付けている?!
「俺の友達に、手を出すのだけは許せない。その目で見る事さえ、許せない。てめぇいいかげんにしろ」
田中くんの声とは思えない、暗くて低くて、ゾッとするような声、
言いながら徐々に力を込めていっているらしい。ナイフを当てられた先生の首の皮膚が、段々と陥没していく。
先生の顔色が変わった。
「圭太、」
「本気だよ?」
み、み、見間違いで無ければ……先生の首筋に、血が滲んでいる?!
あたしは事態についていけなかった。だっておきゃくさんに連れてってもらうんでしょ? それ以上やっちゃだめだよ、血がドピューってなっちゃうよ!!
一生懸命心の中で田中くんに叫ぶのだけれど、彼はちっともこっちを見てくれない。言葉は穏やかだけど、顔も落ち着いているけど、目が、ものすごくものすごく、怒っている。ナイフがどんどんと沈んでいく。このままじゃ血管が切れる、先生を殺してしまう。
ここに来てから皆おかしい。先生もいきなり狂ったように暴力的になった。田中くんがナイフで人を殺そうとしている。あたしに変な事をしたあの人も、ここで行為に及んでいた。何でだろう、どうしてだろう? 祠のせいだろうか? あの祠が人を狂わせているのだろうか? 味方だと思っていたおきゃくさんは、実は違ったのだろうか? でも、でも、
「田中くんまで狂っちゃだめ!!」
あたしは必死で叫んだ。混乱しすぎて、声に出したのか心で叫んだのかわからない。
先生は眼を見開き、先程とは打って変わって、恐怖の表情で固まっていた。後ろの田中くんを見ようと、眼だけ異様に端に寄っている。白目を剥いていて気持ち悪い。
「自分が何をしているのか、わかってるのか?」
「彼女から手を離して、あっちに行って」
「他の先生を呼ぶぞ!」
「無理だよ。携帯壊れてるでしょ?」
その時、先生の顔色が再び変わった。驚愕の表情。信じられないという表情。
理解したんだ。あたし達が、どれほど周到に計画を実行して来たか。
「……お前、学校や受験はどうするんだ? お母さんが悲しむぞ!」
最後の手段なのか、先生はお母さんを持ちだした。
「聞こえなかったですか?」
田中くんの声は、容赦無い。
「あっちへ、行って」
田中くんはうずくまっている桑原くんの脇を通り過ぎて、先生を、祠の前まで移動させた。
「そこに立って」
「何をする気だ」
「何も。そこに立っててくれればいいです」
ナイフを突き付けたまま、彼は先生の正面に対峙する。先生は祠を背に、自分のパソコンと仲良く並んでいる。
「日没まで」
「どういう事だ」
動揺している先生とは対照的に、あたしはホッとした。田中くんはギリギリのところで、冷静さを失ってはいない。計画は進められる。よかった、田中くんは狂っていない。
先生は虚勢を張って、再び彼を睨みつけた。
桑原くんが呻いて、体を少し起こした。あたしも起き上がろうとした。今ここで先生に反撃される訳にはいかない。
その時。
ぶわっと風が吹いた。ズン、と空気が重くなった。辺りは一気に夕やみに包まれた。既に充分日が暮れていたにも関わらず、明らかに、ガクンと暗くなった。
雑木林の中は急に、眼を凝らしても景色がほとんど見え辛くなった。なのに白い小さな花達は、浮くように輝いている。
キタ。
あたしは、冷たく湿ったものが背筋を撫で上げるような感触を覚えた。顔をつけたままの地面から、ズズ、ズスという響きが伝わってくる。耳からは、ゴボ、ゴボ、という僅かな音が聞こえてくる。
待ち望んでいたものが、ついに来た。やっと来た。
なのに全身に鳥肌が立つ。本能的に、体が恐怖を感じている。
田中くんは相変わらず、こちらに背を向けたままだ。表情は見えない。この気配、感じているのだろうか、大丈夫かしら?
おきゃくさんの眼を見てはいけないと、おばあさんが言っていた。あたしの経験から言って、祠の近くにいてもいけない。早くそこからどいて。早くどいて。
その時、田中くんの淡々とした、だけどものすごく冷たい声だけが聞こえてきた。
「俺、今、地獄があればいいのにって初めて思えるよ。言ってやる。……地獄に、落ちろ」