窮地
あたしは今まで、目で見える人だけを被害者だと思っていた。それは佐々木先生だった。
だけど身近に、見えないところで、ある意味佐々木先生よりずっと辛くて怖い目にあっているかもしれない人がいるなんて、考えた事もなかった。
しかもその人は、暗さなんかとは正反対の場所にいる様に見えていた。
一晩じっくりと考えれば考えるほど、腹が立った。
あたしは決めた! あたしは負けない! 佐々木先生みたいに泣いてばかりではすませない!
とりあえず……野瀬先生と目を合わせてみる。……あれ?
じゃあ、睨んでもみる。……あれあれ?
自分の非力さを自覚する。小6女子がやれる事なんて、たかが知れてる。
次の日の朝、登校してきた田中くんにあたしは言った。
「田中くん。あたし聞いたよ」
「? 何を?」
「野瀬先生の、放課後特別授業の事」
ランドセルを机に置いた田中くんの、顔が強張った。だけどあたしは思い切って続けた。
「嫌なら嫌って、言った方がいいよ」
「……別に、嫌じゃ……」
「ないわけ、ないよね? あんなの見た後で、あんな人と二人っきりになるなんて」
すると田中くんは、蒼白な顔をして黙り込んだ。床を見つめ、目を僅かに見開き、唇を噛み締めている。でもあたしは、言わずにはおられなかった。
「そんなのやめなよ。お母さんに本当の事を話して、そんなのやめてもらいなよ」
「大きなお世話だ!」
いきなり怒鳴られた。皆がびっくりして振り向き、教室中がシーンとなる。
いつも明るい田中くんが怒鳴るなんて初めてで、誰もがとても驚いていた。
「この前と言い、なんなんだよ?! じゃあ君は母親に言えるの? 言ったの?!」
「……」
「ほっといてよ。菅野さんには関係ないだろ!」
田中くんはそう言うと、険しい表情で椅子に座り、あたしを無視して荷物を机に入れ始めた。イライラを隠そうともしない。
皆が固唾を飲んであたし達二人を見ている。これだけで、あたしはもう、泣きたくなった。
さっきの決意はどこ? だから、こんなに打たれ弱い自分は嫌だ。
涙が出そうになって、あたしは教室を出た。後ろではもう、女の子を泣かした田中くんが悪者扱いされてる。ごめん、ごめんなさい。
トイレに行こうとすると、廊下で、かず君に行く手を阻まれた。
「今度は圭くんと喧嘩?」
この人、また盗み聞きしていた。
「……」
「めずらしいね」
「……次はかず君と喧嘩するから」
俯いて、目から出る水を手でぬぐいながら言ってやる。するとかず君はふにゃっと笑った。
「怖いよぉ」
……くそぉ。
かず君はいつも通りの、穏やかな口調だ。あたしが泣いてるって言うのに。
「圭くんち、母子家庭だから。お父さんの事もあるし、やっぱお母さんには心配かけたくないんじゃない? 頑張ってるんだよ、すごく」
言いたい事は、分かる。
授業料の安い所に行って経済的負担を減らしたいとか、それでもいい学校に入って親を喜ばせたいとか、トラウマ抱えている責任を感じさせたくないとか、辛い目に合ってるって心配かけたくないとか、要はそういう事でしょ?
「……でも……」
子供は、親に守られるべきじゃ……。
そう言おうと思って、ふいにかず君ちの家庭環境も思い出した。血の繋がらない、良好な親子関係。
「……かず君も、気持ちわかる?」
そう聞いたら彼は、少し大人っぽく笑った。
「男だからね」
上手くかわされた。でもおかげで少し気持ちが落ち着いてきた。そういえばあの日以来色々と、かず君には助けてもらっている気がする。この人が幼馴染でよかったな、と素直に思った。
ごめん、田中くん。次はもうちょっと上手にやるから、安心して。
助けてあげるから。
なのにあたしの精一杯の睨みも空しく、野瀬先生は呆れるくらい、今日も爽やかだった。
「じゃ、これ出来た人ー」
男の人にしては大きい目を少し細めながら、教室を見まわす。口元は微笑を浮かべている。
そんな先生の表の顔に騙されるもんかと、あたしはガンを飛ばし続けた。化けの皮、剥いでやる。
すると先生と目が合った。途端にやっぱり、攻撃的な決意がどこかに飛んで行った。もう、本能的に怖い。
「菅野さん。どうぞ」
うそっ。しまった、当てられた。
先生は何が面白いのか、含み笑いをしている。どうしよう、分かるわけがない。
「……まだ、出来てません」
悔しい事に、目を反らして答えてしまった。
「そう? じゃぁ……圭太にやってもらおうかな」
「……はい」
田中くんは迷うことなく、すらすらと黒板に書いた。この彼の変身ぶりにクラスのみんなは「おー」と感嘆の声を上げる。振り向くと彼はおどけて、ガッツポーズをして見せた。みんな爆笑。
「はい正解。順調そうだなー、お前」
優しささえ感じてしまいそうな、先生の笑顔。白々しく、なによ。更に悔しくなった時、パタ、と音がして、あたしは机の中からノートを落としてしまった。緑色だから、自由帳だ。学校にずっと置きっぱなしにしているものだ。拾おうと思って手を伸ばしたあたしは、固まった。
そこにはマジックペンで黒々と「死ね」とか「消えろ」「ブス」「ウザい」と書いてあった。
一瞬固まったあたしは、慌ててそれを拾い上げた。誰かに見られなかったかと焦ったけど、幸い、誰も見ていない。田中くんは盛り上がる中、両手を挙げて声援(?)に応えながら席に向かってる。
急いでノートを机の中に隠し、何事もなかったかのように前を向いた。
だけど頭の中は混乱しきっていて、自分がすごい形相をしているのは感じた。
急に自分の耳が聞こえなくなったみたいに、みんなの笑い声が急に遠ざかっていく。まるでテレビの音を消したみたいに。画面だけが変化していくみたいで、自分がこの場にいる、という感覚も消えた。これは現実? 現実なの?
顔が痺れ、鼓動だけが突き破るかのように、大きく胸を打ち始めた。野瀬先生の事なんてぶっ飛んだ。佐々木先生の事も、田中くんの事もぶっ飛んだ。
どうしよう、どうしよう。何これ、どういう意味? あたし、誰かに目をつけられた? 何で? どうして?
あたしも、佐々木先生みたいになるの?!
「日直はみんなのノート集めて持ってきて。日直ー?」
いつの間にか授業は終わっていた。
「日直は……あ、一人でいいや。菅野さん、お願い」
「え?」
「ノート集めて、職員室まで。わかった?」
先生は、クスッと笑って言った。隣の女子が、羨ましそうな視線をあたしに向ける。あたしは恐怖で毛が逆立った。
もう、何が怖いんだか自分でも分からない。
平衡感覚を失いそうになるのを堪えながら、あたしはノートを集めてそれを職員室に持っていった。椅子に座っていた野瀬先生は爽やかな笑顔で「ありがとう。後、配るものもあるから一緒に来てくれる?」と言った。
あたしの頭の中は、あのノートの事でいっぱいだった。誰が、いつ書いたんだろう? ううん、そんな事は問題ではない。あたしは一体、どんなヘマをやらかしたと言うんだろう? 人付き合いにだけは、細心の注意を払ってきたつもりだったのに。呼吸が、苦しい。息が、出来ない。
平静を装いながら返事をしたあたしは、ふと、斜め前の席の佐々木先生が目に入った。そして驚いた。
佐々木先生は相変わらずアイドルみたいに可愛いけど、とても疲れて見える。でもそんな事じゃない。
先生は、腕まくりをしている。冬になってから一度も人目に触れていないであろう、腕の肌。そこには、沢山の痣があった。あたしが驚いて目を見張っていると、先生はその視線に気づいてはっとして、慌てて袖を下ろした。
「自転車で、転んじゃったのよ。私って運動音痴だから」
野瀬先生が、机に肘をついて身を乗り出した。
「ええ? 大丈夫ですか? あっぶないなぁ、猫とかひいてない? 化けてくるよ?」
すると佐々木先生が、泣き笑いみたいな顔をした。
佐々木先生は、まだ野瀬先生と付き合っている。
そしてまだ、あんなセックスをしている。
そう言えば最近、佐々木先生が着る服はタートルネックばかりだ。
印刷物を取りに、野瀬先生はあたしを、コピー機のある小さな部屋に連れて行った。「ちょっとそこのプリントを取ってくれる? ああ、ありがとう。待っててな」と言いながら、コピーをいじっている。ドアは開けたまま。それはこの学校のルールだ。
先生にプリントを渡したあたしは、なるべく、開け放たれた入り口近くへと移動した。無意識に、安全な場所を確保してしまう。この人は怖い。
その時先生が、コピー機から顔を上げずに言った。
「授業中、ノートを落としたよね?」
「え?」
「随分ひどい事を書かれていたけど」
あたしは心臓が止まるかと思った。見られた?!
先生はこちらを見ると、困ったように眉を下げた。
「大丈夫。他の子達は見てないよ。圭太が盛り上げてくれてたからな。それより困っているんじゃないか?」
「……」
先生の意図を計りかねて、あたしの顔は強張った。「死ね」の文字。ひょっとして、先生は担任だからやっぱり、あたしを救ってくれるのかも知れない? 一瞬、気持ちが揺れた。すがれる?
その時、あたしは先生の左手が視界に入った。少し厚めの唇を無意識にさすっている人差し指。あの手で、佐々木先生を殴ったんだ。途端に血の気が引いた。後ずさりたい。あと数歩で廊下に出れる。そこは人気はないけれど、大声をあげれば響くはず。
けれど、クラスの誰かに目をつけられ、先生まで敵に回したら、あたしは生きていけるのだろうか? 卒業までやり過ごせるのだろうか? 内申は? その後は? まさか自分がこんな窮地に立つなんて。
あたしは息が詰まりそうだった。怖い。怖い。
「最近様子が変だし、今日もずっと、こっちを見てたよな? ……泣きそうな顔をして」
「違います!」
「ごめん。失言です。謝ります」
先生は下がり眉のまま、顔の前で手を合わせる格好をした。許して、のポーズ。ゆるして。佐々木先生の言葉。
「相談したい事、あるだろ? 無理するなよ」
だけどその瞳は、暗く濁って光った気がして、あたしは更に恐ろしくなった。気のせいだろうか、あたしの気のせいだろうか。
「安心しろ。君は僕の大事な生徒だ。絶対守ってやる。だから大丈夫だよ」
気のせいじゃない。この人の瞳は濁っている。あたしを捕えて光っている。そしてその瞳に映るあたしは、滑稽なくらいに怯えている。
誰か助けて。次はあたしだ。
佐々木先生と、田中くんの、次はあたしだ。誰か助けて。
「何が起こっても、僕だけは、菅野さんの味方だからね」
先生の唇が、薄くつりあがった。「これで佐々木先生の味方は、野瀬先生だけになったね」と言うかず君の言葉が、あたしの頭の中でこだました。