変化 4
ウキウキ気分で、だから昨夜は久し振りに、よく眠れた。
次の日も、晴れ晴れとした気分で学校へ行けた。今日も帰りに、祠へ寄ってみよう。そしてあたしがお供えした(?)マンガとお菓子が無くなっている事を、もう一回確認するんだ。
怖さは感じなかった……と言ったら嘘になるけど、だっておきゃくさんは、お化けではないもの。福をもたらしてくれる神様だって、おばあさんも言っていた。それにあたしは、それが嘘ではない事を知っている。
なのに田中くんは、放課後になると姿を消した。あれ? と思った。今日は塾ではないのに。どこに行ったんだろう? でもランドセルも無い。
あたしは急につまらなくなった。あの場所は田中くんと行く、と約束したし。と言う事は、田中くんがいないと行けないし。あー、つまんない。
他の人……例えばかず君を、ボディーガード代わりに連れて行く、という気は、なんとなく起きなかった。
田中くんと共有した秘密を、あまり他の人にまで、広げたくない。
かと言ってまっすぐ帰る気もおきなくて、あたしは図書室で時間を潰した。家に帰ったら勉強勉強ってうるさく言われる。
でも遅くなりすぎるとまた怒られる。一時間後、ダラダラと一人、昇降口へ向かった。既に誰もいない。
……と思ったら、いた。げ。
そして、睨まれた。
「……何?」
「別に」
何でKがここにいんのよ、と心の中で悪態をつきながら、あたしは上履きを脱いだ。文句でも言っていないと、またあの目つきに怯えそう。
ところが、上履きを靴箱に入れる時、ふと田中くんの外履きが目に入った。あれ? おかしいな、まだ帰っていないの?
一瞬、動きが止まってしまう。すると、あたしの戸惑いに目ざとく気付いた桑原くんが言った。
「圭太、まだいるぜ」
「え?」
驚いて桑原くんを見る。
あたしのその顔を見て、彼は不愉快そうに言った。
「どこにいるか、お前、ほんとに知らないの?」
「……知らないよ」
ていうか、何であたしが知らなきゃいけないのよ?
「どうでもいい事には気付くくせに。ほんと、ムダな奴」
彼にいまいましそうに言われる。
あたしは、ついにキレた。
彼に対する怯えが、プツンと消えた。「嫌われているかも」という怯えが。
「何? どういう事なの?」
攻撃的な口調で言ったら、意外にも桑原くんが黙り込んだ。
でも相変わらず、あたしの事を睨んでいる。
「……」
「ねえ、この間もなんか言ってたよね、あたしに。田中くんが何なの? どうかしたの?」
「……」
「文句ばっかり言ってないで、たまにはまともな事言いなさいよっ」
言っているうちに、あたしは怒りに火がついてきた。
こうなると止まらない。今まで溜めていたものが、せきを切ったように一気に流れ出してきた。
「責任感じてんだか何だか知らないけれど、桑原くんがやってる事って、結局文句ばっかりじゃん。人に当たってばっかで、だけど自分じゃ何の解決もしてないじゃん。塾だってやめてさ、なんか色々と逃げてない?」
立て板に水のごとしあたしの攻撃に、桑原くんは度肝を抜かれたようだった。これか、お母さんがよく言っている、女は怖いってやつ。男の人と喧嘩する時、過去の事までいくつも出してきて相手を責めるらしい。相手ってそれはお父さんの事なんだけど、この場合はKの事で、
「一志だって塾やめただろ?」
アタフタした感じが、確かにお父さんに似ている。うん、言い訳まで、うちのお父さんに似ている気がする。これが男か。
「あの人にはあの人なりの事情があるの! 甘えて暴れてばっかの桑原くんとは違うんだよっ」
「んだよ、その言い方っ」
「あたしの事を嫌いなのはわかるけど、いやわかんないけど、田中くんがどうしたの? はっきり言ってよ、言いたいんでしょあたしに!」
「言いたかねぇよお前なんかに!」
「言いたそうにしてたじゃん!」
こうなったら、徹底的に叩きのめしてやる、くらえ積年の恨みを!
更なる罵詈雑言を浴びせてやろうと、あたしが深く息を吸い込んだその時、
「すげぇ、喧嘩だ」
ふいに階段から、のんびりとした声が聞こえてきた。
シャーっと髪の毛が逆立っていたあたし達二人が振り返ると、そこにはかず君が立っていた。
……喜んでいる。
「すごい、怖くて近寄れない」
「「……」」
「でも面白そう。続き見たいかも」
「「……」」
あたし達はしばらく、かず君を見つめた。
そして、逆立った髪の毛は、ぺちゃってなった。
「あ、待ってよ大ちゃん」
桑原くんが立ち去ろうとした時、かず君が後ろから声をかけた。
「俺も聞きたいな。圭くんが、どうしたの?」
ちょっと、どこから聞いてたのよ?!
桑原くんはイラっとした目でかず君を見ると、だけどすぐに、小さな溜息をついた。ほら、かず君には素直。
「……あいつ、野瀬の特別授業を受けてんだよ」
「特別授業?」
あたしが聞き返す。何それ?
「……塾のない日に、放課後、一人で、野瀬に」
片言みたいに話す桑原くん。意味分かんない、と思ったけど、すぐに心当たりを思い出した。そうだ、田中くん、最近すごく成績が伸びた。クラスでも1,2番だ。塾の効果かと思っていたけど、それだけじゃなかったのか。個人授業……
って、でもやっぱり、分からない。
「……え? 何で??」
「○○中を受けるから」
それは知ってる。中高一貫の公立校で、授業料が安いから競争率と偏差値がべらぼうに高い。あたしにはとても無理。
……でも多分、田中くんにもちょっと無理? だって成績が伸び始めたのってこの間からだし……。
「……昔っから、圭太は野瀬のオキニイリなんだ。カワイガラレてんだよ」
その含みを持たせた言い方に、あたしは良くないものを感じた。
「昔っから?」
「サッカー部」
かず君があたしに言った。……あ、そうか。田中くんは元サッカー部で、野瀬先生は顧問だった。そう思ったら、何故かゾワっとした。
あたしは、奇妙な笑顔の桑原くんを、探るように見た。
「お気に入りって、何?」
「……野瀬がヤバい奴だって事、俺は気付いてたよ。サッカー部の顧問で、見てりゃ分かる。気付いている奴は結構いると思うぜ。時々見せる、目がヤバいんだ。カッとなった時の、顔とかがさ」
苦笑とも、自嘲ともつかない表情で、彼は言う。
「それで、圭太はビビってたんだよ。だからあいつは、野瀬に目をつけられてたんだ」
あたしは茫然としながら聞いた。信じられない、というかまだよく理解出来ない。
「それと個人授業が、どうつながるの?」
「一対一で、あいつがビビってるとこ見んのが楽しいんだろ。そーゆー奴なんだ、野瀬は。……二学期から、あいつ、特に野瀬をビビるようになっちゃったから……」
桑原くんの言葉に、あたしは耳を疑った。
それってつまり、野瀬先生は田中くんを脅す為だけに、個人授業をしてるってこと?
楽しいから? それが理由で? はぁぁ?
「……あー、そうか」
かず君が、この場にそぐわない呑気な声を上げた。
「野瀬先生は、サドなんだね」
「サド?」
「うん。知ってるでしょ? 本とかマンガとかで出てくるでしょ?」
「……ああ、まあ」
必要も無いのに、あたしは赤くなった。えっちマンガを読んでいる事を、かず君に指摘された気分になったからだ。
「人は、相手が自分より生物的に弱いと、本能的に襲いたくなるんだ。それが野瀬先生の場合は、上手く隠しているけど、人より強いんだよきっと。圭くんが野瀬先生を前にビビった時、嗜虐心が湧いたんじゃない?」
「……シギャクシン……?」
何の事か分からず、それでも言いようのない恐怖が襲ってきた。
「まさか田中くん、野瀬先生に……」
変な、こと、
「されてねぇよっ」
桑原くんがムキになって否定した。
「今はまだね」
かず君が無表情に言う。桑原くんがキッと彼を睨んだけど、かず君は無視して言った。
「佐々木先生も同じだよ」
「え?」
話題が急に佐々木先生に移ったので、あたしは面食らった。
かず君は世間話でもするように言う。
「佐々木先生は、相手に強く出られたとき、怯えるんだ。それが野瀬先生に気に入られた理由だと思うな」
……気に入られた理由……怯える佐々木先生……。
あのシーンをもろに思い出し、あたしは思わず顔をしかめた。でも、かず君は構わず続けた。
「あと、2組でいじめられてる理由も」
え? どういう事?
「きっかけは裏サイトかも知れないけどさ。皆ずっと見てたんだ。大ちゃんが佐々木先生に歯向かうと、先生が怯えるところをさ。さっきの話と同じだよ。人は、相手が弱いと、本能的に襲いたくなるんだ。モンスターになるんだよ」
モンスター……。
あたしは驚きっぱなしで、かず君を見つめた。いつもより雄弁な姿、大人顔負けの分析、隙のない理論。
そして若干の、冷たさ。
この人って、こんなんだったっけ?
「……俺のせいってか?」
桑原くんが、むくれた様に言った。
それに対しかず君は、にこっと笑って言った。
「ううん。だって大ちゃんは、歯向かってたけどいじめてないじゃん」
「さっきからよ、お前って本当はいくつだよ?」
「あははー、褒められた」
今度はへらへらと笑ってる。
「でも何で田中くんが目をつけられたの? 野瀬先生を怖がる子なんて、桑原くんの話じゃ他にもいそうじゃない?」
あたしがそう言うと、かず君は一瞬、あの無表情な瞳であたしを見た。そして口を開いた。
「彼、お父さんに暴力を振るわれていたらしいから」
「え?」
「おい、一志」
「昔の話だけどね。今はもう、両親が円満に別れて、圭くんも月に一度か普通に会っているらしいよ。結構楽しいって」
この話は、今まで聞いた中で一番の、ショックな内容だった。
あの、天真爛漫な、少しトボケた所のある元気いっぱいの田中くんが、
父親から、暴力を受けていたなんて……。
全然、見えない。
あたしは胸がキュッとなるのを感じた。なんだか辛い。
田中くんの瞳を思い出すと、余計にキュッとなった。なんだろう、これ。
「……離婚しているのは知っていたけど……」
落ち着かない気持ちで視線を彷徨わせながら、あたしはボソッと言った。かず君は淡々と続ける。
「子供の頃に親に不条理に殴られていると、大人の仕草に、異常な程過敏な反応をするらしいよ。例えば、相手が、普通に手を上げただけで身を強張らせるとか」
そう言ってかず君は、片手を上げてみせた。
ドキ、とした。大人が手を上に上げただけで、身を強張らせる田中くん?
……そんなの、嫌だ。
自分が仏頂面になっていくのを感じる。
あなたは友達の辛い状況を、何でそう淡々と説明できるの?
「……ふうん……で、かず君は何歳?」
「とてもかしこい12歳」
心をこめた嫌味も、あっさりとかわされる。
あたしはかず君の笑顔が初めて癪に障って、うつむいてしまった。
「……やっぱりね、これじゃ良くないよ」
「……」
「田中くんにも話したんだけどね、これじゃ良くないって。どうにかしなきゃ」
すると桑原くんが、くってかかってきた。
「どうにかって何だよ? 先生の個人授業をやめて下さいって言うのか? あいつ成績伸びてんのに? 親だって、あいつを中高一貫の公立に入れられるって喜んでんだぞ? それにあいつは今まで一度も、野瀬に手なんて出されてないんだからな」
「……」
そうかもしれないけれど。
でもそうやって否定ばっかしていたら、何も進まないじゃん。
あたしは黙り込んだ。
不安そうに、瞳がゆらゆらと揺れる田中くん。教室で明るい、田中くん。泣きそうな顔の、田中くん。素直でおかしい、田中くん。お化けが怖い、田中くん。
野瀬先生の事を怖がっている彼を、想像してみる。
やっぱり、嫌だ。
苦しい。
「どうせ俺ら子供は、何を言ったって無駄なんだよ」
桑原くんは吐き捨てる様に言うと、今度こそあたし達に背を向けて、去っていった。
その後ろ姿を見送ると、自然とかず君と目が合った。あ、またあの目だ。「そんでみーちゃんはどーすんの?」
どーすんのって?
ムカついてくる。みんな逃げてばっかじゃない?
自分の身は自分で守る。これ基本でしょ?
どうすればいいのか分からない。大人で教師で卑怯な男の人に、どうやって抵抗すればいいのかわからない。相手に感じる、本能的な恐怖。こんな時、自分が非力な子供で、女である事を自覚する。
だけど、やっぱり、これは間違ってるんだってば!
あたしは自分の胸に、何かが強く湧き上がってくるのを感じた。