序章
性犯罪を連想させる描写が出てきます。
不愉快に思われる方は、次話よりお読みください。
目が、反らせない。
見たくないのに、こんなもの、絶対に見たくないのに、
目が、反らせない。
世の中に、こんなに汚らしいものがあるなんて思わなかった。
女の人は、もはや知らない顔の女性。歪んだ、苦しそうな表情をしている。なのに行為をやめようとしない。
知りたくもない物質が、彼女の顔や首筋やそこらじゅうを、粘着質に濡らしている。
気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い。
どうしよう、どうしよう、あたし、
「吐きそう」
一瞬、自分が言ったのかと思った。
驚いて横を見上げると、あたしより背の高いクラスメートが、顔面を蒼白にして固まっていた。
いつもの屈託のない煌めきが瞳からは消え、目を見開いたまま固まっている。あたしと同じで、目が反らせないんだ。
彼は、自分が小さく呟いた言葉にさえ、気付いていないようだった。
ごくっと生唾を飲む音がする。彼の隣で、背の低い彼が呻いた。
「気持ち悪ぃ……」
ショックのあまり、わずかに震えているのがわかる。無意識に後ずさっている。普段の彼の勢いからは、想像もつかない。
その時、あたしはバランスを崩し、後ろにいた手に両腕をぐっと支えられた。それすら、何が起きているのか分からない。
「帰ろう。ここから離れるんだ」
低くて小さいけど、強い調子。いつもとは違う彼の口調に珍しさを感じて、本当は目の前の光景の方がよっぽどあり得ないのに、あたしの腕を掴んでいるこの手の方がずっと重要な気がして、
後ろであたしを支える、彼を見上げた。
彼は無表情で、あの人たちを見ていた。
その無表情に、いつもの彼だ、とホッとする。無意識の、現実逃避。
一瞬油断したその時、女性の、一段と大きな声が上がった。
そして思わず、視線をそっちに戻してしまった。それが間違い。
オンナ。ヒザマヅク。
ナニカヲ、クワエテル。
クワエテイル。
ナニヲ?
それが何か、あたしは知っている。
『ほら、口あけて』
耳に、あの時の言葉が響いた。目の前の景色が、過去の記憶に浸食されていく。そしてやがて、それしか見えなくなってくる。
イヤダヤメテ。イヤダヤメテ。
『ほら、いい子だから』
イヤダヤメテ。イヤダヤメテ。
誰かが何かを、うわ言の様に呟いている声が聞こえる、気がする。
『口あけるだけでいいから。ね?』
イヤダヤメテ。イヤダヤメテ。
誰かが何かを、呟いている。
チカヅケナイデ。
何かを、懇願している。
ソレヲ、アタシニ、チカヅケナイデ。
許してもらおうとしている。
ソンナキタナイモノ、ヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテ
気付いたらあたしは、下に吐いていた。