おまけ 2 「自動睡眠の助走」
午前二時。
YLSスタジオの窓硝子を、深夜の雨が不規則なビートで叩いていた。
レイはいつもと変わらぬ硬質な光を放つモニターに向かい、ひたすら右手のスタイラスを滑らせている。静まり返った仕事場に響くのは、芯が液晶の表面を擦る微小な摩擦音と、時折混ざるキーボードの打鍵音だけだった。
カチ。カチ。カチ。
その規則的な作業音の足元、すなわちスタジオの最下層の床の上では、ひよりが肉体の機能を完全に停止させていた。毛布を蓑虫のように巻き付け、口元を僅かに開けている。その口角から薄く伸びたよだれの光沢が、液晶の残光を反射していた。客観的な医学の見地からしても、彼女の意識はとうの昔にレム睡眠の彼方へと沈没しているはずだった。
トントン、と防音壁の向こうから遠慮がちなノックの音が聞こえ、ドアが静かに開く。
「お疲れ。まだやってる?」
入ってきたのは、いつものようにコンビニのポリ袋を提げた直也だった。
「差し入れ、机の隅に置いとくぞ」
「ありがとう、直也くん」
レイは画面から一切の視線を逸らすことなく、指先だけの短い返答を返した。直也はその徹底された作画モードの横顔に、諦めたような苦笑を浮かべる。
「まだ寝そうにないな」
「もう少しだけ」
「因果な商売だな、本当に」
直也は手持ち無沙汰そうに視線を彷徨わせ、そして床の上の毛布の塊に目を留めた。よだれを垂らした無防備な顔を見て、彼は張り詰めていた肩の力を少しだけ抜く。
「ひよりさんは、さすがにもう完全に夢の中か。なんか安心するよ」
「……もう少しで、本格的に寝る」
「うわっ!?」
直也の身体が、パイプ椅子のバネを鳴らして数センチほど跳ね上がった。
彼は恐怖の混じった目で床の塊を凝視した。ひよりの瞼は完全に閉じられている。呼吸のテンポも先ほどと何一つ変わらない。どう見ても深睡眠の最中にしか見えなかった。
「……え、起きてるんですか!?」
「寝てます」
毛布の奥から、高低差のない無機質な音声データが再生される。
「今、完璧に自分の意思で喋りましたよね!?」
「寝言です」
「そんな滑らかな、文脈の通った寝言がありますか!?」
背後のデスクでは、レイが何事もなかったかのようにパース線の修正を続けていた。
「直也くん、気にしなくていいよ。それ、デフォルトの仕様だから」
「いや気になりますよ! オカルトの領域じゃないですかこれ」
「私も最初はちょっと怖かった」
「今は?」
「……慣れた」
「そんな不気味な機能に慣れないでくださいよ」
床の毛布の繭が、イモムシのような歪な軌道で僅かに身動ぎした。
「直也さん」
「……はい」
「ポリ袋のなか、何が入ってますか」
「プリンだけど」
「なるほど。それは私の燃料ですね」
「やっぱり起きてるじゃないですか!!」
直也のツッコミが深夜の密室に虚しく響く。
「違います」
「何が違うんですか」
「これは高度な自律型セルフ寝言です」
「プリンの銘柄まで特定しそうな勢いの寝言があるか!」
カタカタ、とキーボードを叩いていたレイの肩が、微かに震え始めた。液晶画面に映る自分の主線が笑いのせいで歪まないよう、彼女は必死に息を殺している。直也だけが、この部屋の物理法則のバグに対して一人で憤慨していた。
「ひよりさん」
「はい」
「百歩譲って寝言だとして、今あなたは何をしてるんですか」
「寝るための、最終セットアップです」
「とっくにシステム終了してるようにしか見えないんですけど!?」
「まだです。コアの初期化が済んでいません」
「何が足りないんだよ、そのコアの起動に」
「……プリン」
「ただ夜食が食いたいだけだろ、お前は!」
数分後。ひよりは床の上でのっそりと上半身を起こした。驚くべきことに、その瞼は未だに完璧に閉じられたままであった。
「……ねぇ、ひよりさん。本当に見えてないの?」
直也が怯えを含んだ声で尋ねる。
「心の目で、なんとなく輪郭をスキャンしてます」
「ホラー映画のクリーチャーみたいなこと言わないでよ……」
ひよりは直也の手から、差し出されたコンビニのプラスチック容器を迷いなく受け取った。そして、寝癖で爆発した頭を揺らしながら、機械的にスプーンを動かし始める。
もぐ。もぐ。もぐ。
スタジオに、奇妙に平坦な咀嚼音だけが残される。
レイは黙々とペンを走らせ、直也は目の前の不条理な生態系に完全に圧倒されて立ち尽くし、ひよりは目を閉じたままカスタードを胃袋へと流し込んでいく。
二分後。ひよりは寸分の狂いもない正確な軌道で、空になった容器を直也の手に押し返した。
「ごちそうさまでした。大変美味しゅうございました」
「……あ、どういたしまして」
「脳のグリコーゲンが満たされました」
「それはよかったな」
「これでようやく、本格的な睡眠に入ることができます」
直也は納得のいかない表情で、首を四十五度ほど傾げた。
「じゃあさ、さっきまでのお前の状態は何だったわけ?」
ひよりはすでに重力に従うようにして床へと倒れ込み, 再び毛布の繭の中へとその身を滑り込ませていた。
「睡眠に向けた、助走です」
「シャットダウンするのに助走が必要なシステムがあるか!!」
直也の最後の抗議に対して、床の塊からの返答は一切なかった。
今度こそ、本当に回路が遮断されたのだ。規則正しい静かな寝息だけが、スタジオのアンビエントに吸い込まれていく。
直也は床のヒトデを見つめ、それから諦めたようにレイの背中へと視線を移した。そしてもう一度、床を見た。
「……なぁ、レイ。この部屋、いつもこんな悪質な怪奇現象が起きてるのか?」
「うん。大体いつもこんな感じ」
「大変だな、お前も……」
「大丈夫。そのうち直也くんも、慣れるよ」
「俺は絶対に慣れたくないです」
Ctrl+S。
保存完了の電子音が、静かに雨音の中に溶けていく。YLSスタジオの不条理な夜は、まだ、誰にも邪魔されることなく続いていた。




