第8話 殺人未遂の容疑者
バレスティン国の王宮には四つの厨房がある。
一つは王族の料理を作る厨房で、後の三つは下働き用の厨房だ。
下働きだけで千人近くが働いている王宮には、三つの厨房とそれに併した食堂があり、使用人たちは各々、決められた食堂で食事をする。
王族の食事は、毒の混入を防ぐため、厳重な警備のもと作られるが、下働きの――所謂まかない厨房は、なんというか、雑多で、セキュリティという言葉なんて、あったもんじゃない。
王族の厨房とは違い、入ろうと思えば誰だって入ることができるだろう。
それはつまり、毒だって入れ放題ということだ。
もちろん下働きの者の食事に、毒を入れても何の得にもならないため、そんな事件が起きたことなど、今まではなかった。
――そう、この時までは。
目の前の同僚にすごい剣幕で見つめられ、ミモザはどうしましょう、と珍しく頭を抱えた。
以前、元夫のシルヴァンが、不倫相手のリリアと、裏庭の花壇で隠れてキスをしていたのを見た時でさえ、ここまで焦りはしなかった。
いや、あの時は微塵も焦りはしなかったんだった。
けれど今は違う。自分は、食堂のスープに毒を盛った容疑をかけられている。
これまで、『血も涙もない悪徳令嬢』だの、『人の心がない極悪無比令嬢』だのと様々、噂されていたが、明日からはそれに、スープに毒を仕込んだ、『毒盛りサイコパス庭師』が追加されてしまうのかもしれない。
いろんな考えが頭を巡っていた時、アデスがゆっくりと口を開いた。
「……なんて、そんなことする訳ないか。だってミモザだもんな」
あっけらかんとした口調に、思わずずっこけてしまいそうになる。
「えっと、そうなんです、私じゃないんです。……信じてもらえますか?」
頭の中では、もう牢屋に入れられる未来まで想像していただけに、心の底から安堵する。
「ああ。それより、これはどういう状況なんだ。説明してくれ」
アデスにそう促され、ミモザはこの顛末をできる限り簡潔に伝えた。
「――つまり、ミモザが四半刻以上遅れてここにやってきた時には、みんなこうして倒れていたってことだな?」
「はい」
あたりを見渡すと、うめきながら吐き気を催している者もいる。
「今から医者を呼んできても、時間がかかる。とりあえずは、胃を洗うことにしよう。できるだけ多く水を飲ませて、胃の内容物を吐かせるんだ」
「わかりました! 水を準備して、吐かせるのですね?」
「ああ。吐けなければ喉に手を突っ込め。できるな?」
腐っても侯爵令嬢。人の喉に手を突っ込んだことなど、もちろんない。
けれど、この後に及んで、そんなことで躊躇うミモザではなかった。
「もちろんです! 吐かせまくります!」
ミモザは食堂に置いてある飲水用のタンクから水を汲むと、ひとまず、外へ持ち出した。
一方で、アデスは、近くの用具入れから鍬を取り出すと、それで地面を掘って、そこに足跡のゲロ吐き場を作った。
一番小さい第三食堂といえど、倒れている者はざっと百人はいるだろう。
この全員の口に、手を突っ込みゲロを吐かせるとなると、腰が折れそうな作業だ。
その時、食堂の扉が、ギィっと音を立てて開いた。
「へクションッ……。あー、鼻がむずむずするぜ……ってなんだこれは!」
声の主は、この第三食堂のシェフ、ダナンだ。
恰幅の良い中年男性であるダナンは、目と鼻をこすりながら入った食堂で、倒れ込む人の数に、目を白黒させていた。
「ダナンのおやっさん!」
アデスは、ダナンに駆け寄った。
何やら目と鼻が赤いけれど、特にこれといって、お腹が痛いだとか、意識が朦朧としている様子もない。
「アデス! ……こ、これは一体、どうしたんだ」
呆然とするダナンに、アデスはしっかりとした口調で告げた。
「説明は後だ。とりあえず応援を呼んできてほしい。可能であれば、ハック先生も」
「わ、わかった」
何か緊急事態だということだけは把握したダナンは、大きな体を揺らしながら、急いで食堂を飛び出した。
そこからは怒涛の「胃の中空っぽ、ゲロ作戦」。
意識の朦朧としている人には指を喉に突っ込んで吐かせ、意識のあるものは、自分で水を飲み、吐くように指示をして回った。
そうしているうちに、医者と十人程度の使用人を連れたダナンが戻ってきて、全員で取り掛かる。
ゲロを吐いて、水を飲み、落ち着くものもいれば、重症な人間だと、意識朦朧のものもいたが、医者によれば、点滴をすれば回復するだろうとのことだった。
百人を収容するのは、流石に無理だが、特に症状のひどい二十人程度は、王宮の端にある療養所に送られることになり、ひとまずはことなきを得た。
数時間の作業に、ミモザは心底疲れていた。
そして、腹が空いて仕方がない。だけどもう今は何も食べる気がしない。百人分のゲロを見てしまったのだ。
神経が図太いと元夫シルヴァンに褒められたことのあるミモザでさえ、今日ばかりは、何も口に入りそうにない。
アデスと二人、グダリと食堂の椅子に座った時、食堂の扉がゆっくりと開いた。
逆光でよく見えないが、人影が揺れる。
影の主は、後ろで一つにまとめた長い銀髪をなびかせ、胸には、王宮法務院の紋章が光っていた。
そこに現れたのは、王宮法務官のユーティリウス=フェリクス。
王宮で起こった事件を調査する、人呼んで、司法の番犬。
ユーティリウスの歩いた後には、草花さえも凍りつくと言われているほどの冷血感だ。
温室への立ち入りは、できれば固くお断りしたい。
法務官は血も凍るような冷たい瞳で、ミモザたちを見下すと、重く低い声を放った。
「お前らが、殺人未遂犯の容疑者だな?」
そう。まだ、一番大事なことが残っている。
それは、毒の正体。そして、誰がそれを入れたのかということだ――。




