第2話 ベルセポネ
うとうとする意識の中で、亡き母ヘリアの夢を見た。
「――そこで出会った精霊、メンテーの美しさに、ハデスは魅了されてしまったのです」
寝かしつけのための『ギリシャ神話』を読み聞かせながら、ヘリアは静かに本をめくる。
「夫の浮気心を知ったベルセポネは怒り、精霊メンテーを雑草に変えてしまったのです」
ミモザは脳内で、妖精が雑草になっていく姿を思い描いてみた。
元が妖精ならば、きっと小さくて可愛らしい草になったことだろう。
だとしたらカタバミあたりだろうか。
ハート型の葉を思い浮かべ、その可愛らしさに、きっとそうだとうっとりする。
「そうしてできたのが、――ミントだと言われています」
「ミント!」
大好きなハーブの名前に、ミモザの顔がぱっと輝いた。
名前を聞いただけで、鼻腔に爽やかな香りが広がったような気になる。
ふふっと笑みを漏らしながら、ヘリアは静かに本を閉じる。
「ミモザも早く寝ないと、ベルセポネから雑草にされちゃうわよ」
「え! どうしよう、それならセダムアクレがいいなぁ」
本当は自身の名前の由来となった〝ミモザ〟に変えられたい。でも雑草ではないし。
雑草の中では、セダムアクレが一番ミモザの花に似ているから、だから、もしベルセポネに雑草にされそうになった時には、セダムアクレに変えてもらおう。
そう本気で考えるミモザを、ヘリアは愛しげに撫でた。
「ほんと、ミモザは植物が好きね」
体が弱く、日中一緒に過ごせないぶん、ヘリアはいつも眠る前に、こうしてミモザに話を読んで聞かせてくれる。
本当は眠いけれど、まだヘリアと一緒にいたくて、ミモザは眠い目をこすりながらヘリアに訊ねた。
「でも、本当に怖い人だったのかな?」
「え?」
「だって、ベルセポネは植物を司る女神でしょ。私、草花好きの人に悪い人はいないと思うの。だから、ベルセポネも本当はいい人だったんじゃないかな」
花や木々を見て綺麗だと思う心の持ち主が、怖い人なわけない。
ミモザにとって、一番身近なのは母ヘリアだ。
ヘリアは、植物が大好きで、庭の全ての植物は、ヘリアが植えたものだ。
侯爵夫人と思えないほど畑仕事が好きな母からはいつも、温かな大地の匂いがしていて、ミモザはそれが、大好きだった。
だから、ヘリアが病床に伏すようになってからは、代わりにミモザがお世話をしている。ヘリアが元気になるまでは、自分がこの庭を守ってみせるのだ。
「そうよね。草花を愛する人に、怖い人がいるわけないわよね。母さんもそう思うわ」
植物好きな母がそう言うなら、きっとそうなのだろう。
「むしろ、愛情深い人だったのかもしれないわね。だからこそ、夫の裏切りが許せなかったのかも」
ミモザにはその言葉は少し難しかった。
愛情深いなら、なんでも許せるのではないのだろうか。
そう思いながらも、ミモザは「でも」と口を開いた。
「メンテーには気の毒だけど、感謝しなきゃね。だって彼女のおかげで毎日美味しいミントティーが飲めているのだもの」
「ふふふっ、そうね」
母はくすくすと笑いながら、またミモザの頭を撫でた。その手の温もりに、ミモザは重くなった目を、ゆっくりと閉じた。
ガタッ――
突然の揺れに、体が大きく跳ね、遠のいていた意識が一気に引き戻された。
気づけばミモザは馬車の中にいた。
体は小刻みに揺れ、外から馬の蹄の音が聞こえる。
「大丈夫ですか?」
目の前のマーガレットは、鉄仮面をつけたように無表情でこちらを見ている。
決して怒っているわけでは無い。彼女はこれが通常運転なのだ。
ミモザが、大丈夫と声に出す前に、マーガレットの言葉が続く。
「目を開けながら寝る術でも学んだんですか?」
「なっ、寝てないわ。 ちょっと昔を思い出していただけよ」
鉄仮面のままで失礼なことを言ってくる侍女を、軽く睨む。
侍女とはほとんど名ばかりで、マーガレットはミモザにとって姉のような存在であり、良き友であり、一番の理解者だ。
一年前、ワートル家から嫁ぐ際も、マーガレットだけを連れていった。
そして今、マーガレットと共に、あの日と同じ道を馬車で走っている。来た時とは逆方向に。
「あの方は、ミモザ様には合ってませんでしたよ。離婚して正解です」
ミモザが落ち込んでいると思ったのか、マーガレットは柄にもなく、励まそうとしてくれる。口調はいつも通り、淡々としているが、優しさが伝わってきて、ミモザは小さく「ありがとう」と呟いた。
離縁したことを、後悔はしていない。
同じ家にいるだけで、シルヴァンとは食事も、寝室も別だった。家族というよりも、ほとんど同居人。
だから、離縁することでシルヴァンが幸せになるのなら、これほど良い選択はないと思っている。
けれど、一つだけ、気がかりなこともある。
それは、父と継母を悲しませてしまうことだ。
娘が離縁して戻ってきたなんて、きっと二人は悲しむだろう。いや、もしかすると、怒られ、罵られる可能性もあるかもしれない。
出戻りとはそれほど不名誉なことなのだ。
どんな厳しい言葉だって受け入れる。そんな覚悟で、実家に戻ったミモザを待っていたのは、想像とは違う言葉だった。
「お帰りなっさーい!」
ワートル家の扉を開けた途端、明るい声がミモザを迎えた。
真っ先に視界に入ったのは、ドレスを翻しながら小走りで駆け寄ってくる継母エルダの姿だった。
十五歳になる息子がいるとは思えないほど可愛らしい童顔に、柔らかな微笑みを添えて、エルダはミモザの手をぎゅっと握る。
「ミモザさん! また一緒に暮らせるのね。嬉しいわ」
その少後ろから、少し遅れて、腹違いの弟のイーリスもやってくる。
「母さん、姉さんは離縁して戻られたんだよ。そんな風に手放しで喜んだら……姉さんに悪いよ。姉さん、母さんが、こんなでごめん。でも僕も、姉さんとまた一緒に暮らせて、本当にうれしいよ」
母親譲りの整った顔を綻ばせて、イーリスはきらきらした瞳でミモザを見つめる。
継母と弟の言葉に、少しだけ落ちていた気分がふわっと浮き上がる。
「お義母様、イーリス。気を遣ってくださって、ありがとうございます。今後の身の振り方を考えるまで、少しの間お世話になります。迷惑かけっぱなしで、ごめんなさい」
ミモザの言葉に、二人はすごい勢いで首を横に振った。
「ここは姉さまの家なんだから。僕はずっといてくれてもいいんだよ」
「そうよ。もうどこにも行かないで」
社交界では、血の通わない植物のような女だと噂され、極悪無比の〝植物姫〟なんて呼ばれているけれど、ここではホッと胸を下ろせる。そんな風に戻って来れる場所があり、家族がいる自分は本当に幸せ者だと思う。
一年ぶりの実家での暮らしは、想像以上に居心地がよかった。
ミモザの覚悟とは異なり、家族はミモザの離縁に怒ることも、蔑むこともなく、むしろとても気を遣ってくれた。
出戻ってからのミモザは、朝から晩まで屋敷の土いじりを、心ゆくまで満喫した。
ここには、泥だらけになることを咎める人間はいない。
無理に行きたくもないお茶会に行くことも、仲が良いふりをしてシルヴァンと腕を組み社交界に行くことも、もうしなくていい。
フランシス家にいた頃と違い、自分が自分でいられる。ちゃんと呼吸ができる。
けれど、いくら居心地が良いといえど、いつまでもここにいて良いわけがない。
それはミモザが一番よくわかっていた。
バツイチで出戻りの娘が居れば、ワートル家の名前に傷がつくことは火を見るよりも明らかだった。
貴族というのは噂が好きな性分だ。
ミモザの離婚も、翌日にはバレンスティン王国の隅々にまで回っていたほどだ。
ここにこのまま居続ければ、根も葉もない噂で、家族に迷惑をかけてしまうかもしれない。ただでさえ、植物姫だなんて呼ばれて、迷惑をかけているというのに。
イーリスにも、いつ婚約の話が来てもおかしくない。
けれど、家にバツイチ義姉が居るとわかって、嫁ぎたがるような奇特な人はそういないだろう。
イーリスの婚約話に影響が出る前に、どうにか手を打たねばと思いついた方法は二つだった。
再婚か、就職か。
けれど、離婚した傷モノの侯爵令嬢に結婚を申し込む令息など、まずいない。
そもそも、もうだれかと結婚するなんてミモザ自身も懲り懲りだ。次もダメになるに決まっている。だって自分は、人を愛することができない植物姫。相手に失礼だ。
だとしたら就職するしかないのだが、特にこれといった取り柄もなく、ずば抜けた才能があるわけでもない温室育ちの令嬢が働ける場所など、あるのだろうか。
きっと就職活動をしても、侯爵令嬢という肩書き故、扱いづらいと雇ってもらえないだろう。
貴族は就活に不向きなのだ。
いっそのこと身分を隠して偽名で働くというのもありかもしれない……なんて考えていたある日。
家族団らんで朝食を囲んでいると、父バルトスから思いもよらぬ打診を受けた。




