第一話 前史
【資料0-A】郷土史料────
出典:『○○県山間部村落史』(昭和五十三年刊)
著者:郷土史研究会編
該当箇所:第七章「灯之村の歴史と民俗」より抜粋
灯之村の開村は、記録によれば享保年間(一七一六〜一七三六)とされる。開祖は越後国より移住した山田庄兵衛なる人物で、飢饉を逃れて山深い地に入り、わずかな耕作地を切り開いたと伝わる。
村名の由来については諸説ある。一説には、庄兵衛が夜道を歩いていた際、山中に不思議な灯火を見つけ、それを追って辿り着いた地であるという。また別の説では、村に伝わる「火渡りの神事」に因むともいわれる。
注目すべきは、享保十七年(一七三二)の「享保の大飢饉」に関する記録である。この飢饉は西日本を中心に甚大な被害をもたらし、死者は九十六万人以上とも推計される大災害であった。しかしながら、灯之村においては死者が皆無であったと、村の過去帳には記されている。
周辺の村々が壊滅的な被害を受けるなか、灯之村だけが無事であった理由は不明である。村の古老たちは「神様のおかげ」と語るのみで、具体的な説明は得られなかった。
ただし、この時期を境に村の風習に変化が生じたことは、複数の資料から読み取れる。
【資料0-B】古文書────
出典:灯之村役場所蔵『村方覚書』
推定成立年代:江戸時代後期(文化・文政年間)
※原文は変体仮名・漢文混じり。現代語訳を付す
【原文】(一部抜粋)
客人來リタル時ハ 必ズ火ヲ渡スベシ
両ノ掌ヲ差シ出シ 心ヨリ火ヲ送ルベシ
客人ハ之ヲ受クルノミニテ 返スコト能ハズ
此ノ定メヲ破リタル者ハ 村ヨリ追放ス
【現代語訳】
客人(よそ者)が来たときは、必ず火を渡すこと。
両手の掌を差し出して、心から火を送ること。
客人はこれを受け取るのみで、返すことはできない。
この定めを破った者は、村から追放する。
【編者注】
この「火を渡す」という記述が、現在の「挨拶」の起源であると推測される。しかし、何を「火」と呼んでいるのか、なぜ客人は「返すことができない」のかについては、この文書からは読み取れない。
また、「村より追放す」という厳しい罰則が設けられていることから、この風習が村にとって極めて重要なものであったことがわかる。
【資料0-C】古文書────
出典:○○寺所蔵『当山由来記』
推定成立年代:江戸時代後期
※虫食い・水濡れにより判読不能箇所多数
【判読可能部分の書き起こし】
……享保ノ大飢饉ノ折、周辺ノ村々ハ餓死者多数ニシテ、死屍累々タル有様ナリキ。サレド当村ニオイテハ一人ノ死者モ出デズ、コレ偏ニ……(虫食い)……ノ御加護ナリト……
……村人ドモ相談シテ曰ク、此ノ……(水濡れにより判読不能)……ヲ外ニ出スコトニヨリ、村ハ安泰ナルベシト。ヨッテ……(虫食い)……客人ニ渡スコトヲ定メタリ……
……サレド此ノ事、決シテ口外スベカラズ。知ラレタル時ハ……(判読不能)……
【編者注】
この文書は、飢饉の際に村が何らかの「対策」を講じたことを示唆している。「外に出す」「客人に渡す」という表現からは何か不穏なものを感じる。「対策」と何か関係があるのだろうか。
しかし、重要な部分が虫食いや水濡れで判読不能となっており、詳細は不明である。意図的に損傷された可能性も否定できない。
【資料0-D】明治期の行政文書────
出典:○○県立公文書館所蔵
文書名:『村勢一班 灯之村』
作成年:明治二十三年(一八九〇年)
一、戸数 百二十三戸
一、人口 五百八十七名(男二百九十一名、女二百九十六名)
一、主ナル産業 稲作、林業、養蚕
一、特記事項
当村ハ山間僻地ニ位置スルモ、住民ノ健康状態ハ極メテ良好ナリ。明治二十年ヨリ同二十三年マデノ四年間ニオケル死亡者数ハ僅カニ十二名ニシテ、県内他村ト比較シテ著シク少ナシ。
村内ニ医師ナク、住民ハ主トシテ民間療法ニ頼ルモ、重篤ナル疾病ノ発生ハ稀ナリ。此ノ理由ニツキテハ、清浄ナル水ト空気、及ビ住民ノ節度アル生活ニ因ルモノト推察ス。
尚、当村ニハ独特ノ風習アリテ、来訪者ニ対シ両手ヲ差シ出ス挨拶ヲ行フ。村人ニ問フモ、古ヨリノ習ハシトノミ答フルノミニテ、其ノ由来ハ判然トセズ。
【資料0-E】新聞記事────
出典:○○新報(地方紙)
日付:大正十二年九月十五日
見出し:「奇跡の長寿村 灯之村を訪ねて」
○○県の山奥に、不思議な村があるという噂を聞きつけ、記者は灯之村を訪れた。
村に入ると、まず驚かされるのは老人の多さである。畑仕事をする白髪の老婆、薪を割る腰の曲がった翁。しかし彼らの動きは驚くほど機敏で、とても八十、九十の老人とは思えない。
村長の山田氏(七十二歳)に話を聞いた。「当村には九十歳以上の者が二十名以上おります。百歳を超える者も三名。特別なことは何もしておりません。水が良いのと、皆で助け合って暮らしているだけです」
村には独特の挨拶がある。来訪者に対し、村人たちは両手を差し出して迎える。掌を上に向け、何かを捧げるような仕草だ。記者も何度となくこの挨拶を受けた。「お客様への感謝の気持ちを表しているのです」と村長は説明したが、どこか言葉を濁しているようにも見えた。
滞在中、記者は一度も病人を見かけなかった。診療所すらない村で、なぜこれほど健康な老人が多いのか。その謎は、結局解けないままであった。
なお、帰京後、記者は三日間の発熱に悩まされた。医師は「旅の疲れでしょう」と言ったが、妙に気にかかる。
(記者・田中)
【資料0-F】学術論文(抜粋)────
出典:『日本民俗学会報』第三十七号(昭和六十二年)
論文名:「○○県山間部における厄渡し習俗の研究」
著者:東京大学文学部 民俗学研究室
【要旨】
本研究は、○○県山間部に残存する「厄渡し」習俗について、フィールドワークに基づく調査報告を行うものである。
調査対象地域のうち、灯之村においては特異な習俗が確認された。同村では、来訪者に対して両手を差し出す挨拶が行われている。この挨拶は村人から来訪者への一方向のみに行われ、来訪者が同じ動作を返すことは禁忌とされる。
聞き取り調査によれば、この習俗の由来は「古くからの言い伝え」とされ、具体的な起源を語る者はいなかった。しかし、その形式は他地域に見られる「厄渡し」「厄移し」の儀礼と類似しており、何らかの災厄を外部に転嫁する呪術的行為である可能性が高い。
興味深いことに、調査チーム三名のうち二名が、帰京後に原因不明の発熱を経験した。これが偶然か否かは判断できないが、記録として付記しておく。
【以下、詳細な調査データが続くが省略】
【資料0-G】明治期の行政文書────
出典:○○県立公文書館所蔵
文書名:『明治二十六年 郡内伝染病流行ニ関スル報告書』
作成者:○○郡役所
作成年:明治二十六年(一八九三年)
【報告書本文】
明治二十六年七月ヨリ九月ニ至ル迄、当郡内ニ於テ原因不明ノ熱病流行シ、甚大ナル被害ヲ生ゼリ。茲ニ其ノ経過及ビ被害状況ヲ報告ス。
一、発生経過
本年七月中旬、○○村ニ於テ最初ノ患者発生。高熱、激シキ倦怠感、頭痛ヲ主症状トス。当初ハ夏季ノ流行病ト見做サレタルモ、患者数ハ日ヲ追フテ増加シ、八月上旬ニハ隣接スル△△村、□□村ニモ蔓延セリ。
八月中旬ニ至リ、患者数ハ急激ニ増加。郡内十二村ノウチ、九村ニ於テ患者ヲ確認ス。特ニ○○村、△△村ニ於テハ、村民ノ過半数ガ罹患スル惨状ヲ呈セリ。
九月上旬、流行ハ漸ク終息ノ兆シヲ見セタルモ、此ノ時点ニ於テ既ニ多数ノ死者ヲ出シ居タリ。
二、被害状況
【罹患者数及ビ死亡者数】(村別)
○○村 罹患者二百四十三名 死亡者八十七名
△△村 罹患者百九十八名 死亡者七十二名
□□村 罹患者百五十六名 死亡者五十一名
◇◇村 罹患者百二十二名 死亡者三十八名
☆☆村 罹患者九十七名 死亡者二十九名
●●村 罹患者八十四名 死亡者二十三名
▲▲村 罹患者六十一名 死亡者十五名
■■村 罹患者四十三名 死亡者九名
◎◎村 罹患者二十七名 死亡者四名
郡内合計 罹患者千三十一名 死亡者三百二十八名
特ニ老人及ビ幼児ニ於テ死亡率高シ
三、特記事項
奇怪ナル事実トシテ、灯之村ニ於テハ一名ノ罹患者モ出デザリキ。同村ハ○○村ニ隣接シ、日常的ニ住民ノ往来アリタルニモ関ハラズ、疫病ハ恰モ同村ヲ避ケルガ如ク、周囲ノ村々ノミヲ襲ヘリ。
此ノ件ニ付キ、灯之村村長山田某ニ問ヒタルトコロ、「当村ニハ古来ヨリ疫病除ケノ風習アリ」トノミ答フルノミニテ、詳細ヲ語ラズ。
四、病因ニ関スル考察
県ヨリ派遣サレタル医師ノ見解ニ依レバ、本病ハ「腸窒扶斯ニ類似スルモ、之ト断定スルニ足ル証拠ナシ」トノコト。水質検査、食品検査等ヲ実施スルモ、原因ヲ特定スルニ至ラズ。
五、過去ノ類似事例
郡内ノ古記録ヲ調査シタルトコロ、類似ノ疫病流行ガ過去ニモ複数回発生シ居ルコトガ判明セリ。
・文政六年(一八二三年) 死者約二百名
・嘉永三年(一八五〇年) 死者約百五十名
・明治九年(一八七六年) 死者約九十名
六、結論及ビ提言
本疫病ノ原因ハ特定サレズ。灯之村ノミガ被害ヲ免レタル理由モ不明ナリ。
科学的見地ヨリスレバ、灯之村ノ地理的条件(山間ノ隔絶サレタル位置)ガ感染拡大ヲ防ギタルト考フルノガ妥当ナリ。然レドモ、同村ト周辺村落トノ間ニハ日常的ナ往来アリ、此ノ説明ニハ疑問ガ残ル。調査官ノ発熱ニ関シテハ、念ノ為記録ニ留メ置クコトトス。
明治二十六年十月十五日
○○郡役所




