プロローグ
『人生は選択の連続である』
シェイクスピアの格言を、祖父は特に好んでいた。
折に触れて、独自の解釈を交えつつ口癖のように言うので、俺は幼い頃から耳にタコができるほど聞いてきた。
だが───特段、あの日の祖父の台詞だけは、いつまでも鮮明に残っていた。
『──人生は選択の連続だ。だがな──俺はな、獣のそれは選択だと思わね。生得的な本能に従って積み重ねた人生は選択の連続なんかじゃねぇや』
この世の終わりの如く深い夕暮れに染まる帰路で、祖父は言った。俺はそれを話半分に聴き流していた。
それは、祖父が亡くなる前日のことだった。
聞くに、どうやら見知らぬ少年を庇ってトラックに轢かれたらしい。
葬式で見たその死に顔は何処か満足そうだった。
後先長くない祖父が、自らの命を差し出し、まだ若い少年を救った。立派なことだ。
この祖父の死は選択の結果と言えようか。
しかし、俺にして見れば……年老いた人間が身を挺して次世代の子供を救うのは、生物として、人間として、極めて自然な──本能に忠実な行動の一つのように見えた。
||| ||| |||
見渡す限り白い世界。天井と地面の区別すらつかない。手を胸に当てると、その奥で心臓が脈打つ感覚はせず、呼吸もしていない。よく見たら、胸を押さえた筈の手までない。
目が覚めたらこの状況だった。
自分は何をしていたのか。何度目か分からない疑問の答えは見つからない。奇妙なものだ。思想、趣向、そう言った自己同一性は保たれているのに、肝心のプロフィールが思い浮かばない。しかし俺はそれに対して恐怖を感じることもなく、かと言って外からの刺激の殆どないこの空間を彷徨うことに退屈を感じることもない。理由は不明だ。
「──お待たせ! いやぁ、ごめんよ、ちょっと調整に手間取っちゃって。といっても髪色で悩んでただけだけど」
ふと後ろから声がした。まるで十年来の親友にでも語りかけるような親しげな声音。それでいて、厚みの欠片も感じられない浅薄な響きがある。
遅れて姿が現れて──。
───その瞬間、闇が差した。
いや、おそらく実際は光ったのだろう。けれども、その光はそう表現する他ないほど禍々しい色調を持ち、そして何より、人間とした俺が培ったであろう理解を超えた不気味な空気があった。
眼球も鼓膜もないが、その圧倒的な存在感に認知の容量の全てが奪われる。
「あぁ、分かるさ。さぞ混乱していることだろう? だけど心配はいらない。君は……新しく生まれ変わるんだ! それも、魔王として! さぁ、流転の人生の幕開けだ」
闇は一箇所に集まり、やがて人型を模った。そこ人型はまるでマネキンのように均整で特徴がない。
何処かのぼせたように手を広げて語られる内容はいまいち要領を得ないものだ。しかし、どうしてか俺の胸中には動揺も猜疑もなく、その感覚は、敢えて言うならまるで感情の波の大部分が抑制されてしまっているようだった。
色々訊きたいところだが、生憎と言う口がない。
闇はそんな俺の反応など意にも介さず、依然その姿からは想像もつかない軽薄な調子で続けた。
「まぁ驚きはないと思うけど。んー、多分忘れるだろうけど、一応ここでも説明はしとくよ。君は元いた世界とは別の世界──異世界に、魔王として誕生する。身体は悪魔だけどね」
息継ぎすらせず話しながら、闇は額に手を当てた。
「君のすべきことはただ一つ───世界を征服することだ。ほら、昔から、魔王の悲願は世界征服と相場が決まっているだろ?」
世界が揺らぐような錯覚を覚える。
同じ言語を話しているとは思えないほど、言葉からは状況が掴めない。ただ一つ明らかなのは、この状況が俺の持つ常識の範疇を遥か逸脱したものであるということだけだ。
せっかく夢から覚めた筈なのに、これじゃあどっちが夢か分からない。
「そして何より……一番大事なことだ。ここからが本題と言っても過言じゃない」
真剣な声音。
闇が霞むように少し広がった気がした。
ただでさえ引き寄せられる意識を、俺はより一層、それこそ無い頭が熱くなるほど集中させる。
「そう──転生後の君の容姿だ! さっき言った髪色もそうだけど、いやぁ、勿論端正とは決めてたんだけどさ、ほら、組み合わせは文字通り無限じゃん? どうせなら容姿も楽しめるようにしたいけど、いくら神でも無限の中から一つを選ぶのは──………」
……。
俺は神経を少し弛緩させた。
いや、或いは『この闇が面食いである』という情報は有益なのでは?
………。
うん、ないな。
「───とまぁこんくらいかな。後は能力が配られるんだけど、それについてはランダム仕様だから言えることはないね」
そうして暫く心を無にしていると、容姿について(何故か)背中越しに啓蒙してくれていた闇が思い出したように振り返る。
俺は察した。
漸くか。
「渡さないといけない情報はまだあるんだけど──まぁいいよね。全部渡したら……多分ゲームにならない」
これまでと変わらず軽薄な調子だが……不思議と、俺にはその声の奥に、肌が栗立つほど冷たく仄暗い、何か底知れないものが渦巻いているように感じられた。
「それじゃあ、そろそろ旅立ちの時だよ」
不意に俺の周りにも光が迸る。湿気を帯びた猛烈に陰鬱な闇とは一転し、青白く、清々しい光だ。見ると、無い俺の身体を包むようにして光が湧いているのが分かった。
闇の言葉の通りなら、いまから俺が飛ばされるのは異世界だ。
実感は湧かない。
それでも───この世界には、まだ知らない選択肢が無数にあるらしい。
「君なら世界を征服できる筈だ。期待してるよ」
何処までも薄っぺらく、最後に妙な言葉を投げかける闇。それを最後に、俺の意識は光の奔流に呑まれた。
この時の俺には、拒絶するための身体も、震えるための心臓もなかった。
だから、気付けなかった。
選ばされたことに。
そして、それが『選択』ではなかったことにすら。




