08.ある北方辺境の村にて
北方の冬は、音を奪う。
雪が降り積もると、風の唸りも、獣の遠吠えも、遠と言葉も、すべて白の下に沈んでしまう。村はその日も、いつもと変わらぬ静けさの中にあった。
雪解け水が凍り直した小川のほとりで、老人は斧を振るっていた。乾いた音が空に吸われ、返ってくることはない。北方の空は高く、青く、冷たい。そこに雲が流れる日は稀で、晴れた日は逆に人の心を削るほどの寒さになる。
その時だった。
村の外れ、雪原の向こうから、何かが動いた。
最初は獣だと思った。鹿か、狼か。だが、それにしては動きが遅い。ふらつき、よろめき、雪に足を取られては倒れ、また立ち上がる。その姿は、まるで風に吹かれた影のようだった。
やがて、それが人だと分かる距離まで近づいた。
「……子供?」
誰かがそう呟いた。
少年だった。年の頃は、十かそこら。衣服は裂け、血と泥にまみれている。靴は履いていなかった。裸足で、雪の上を歩いてきたのだ。足跡には赤黒い染みが混じり、やがてそれすら吹雪に消されていった。
――助からない。誰もがそう思った。
北方の雪山は、人を拒む。
熟練の猟師でさえ、油断すれば命を落とす場所だ。ましてや、こんな子供が、生きて辿り着けるはずがない。
だが少年は、倒れなかった。
村の境を越えたところで膝をつき、それでも前へ進もうとした。何かに縋るように、何かを探すように。視線は定まらず、それでも、確かに生きていた。
数人が駆け寄り、抱え上げた時、その身体は驚くほど軽かった。骨と皮ばかりで、命が抜け落ちかけている。それでも、胸は微かに上下していた。
「雪山から……来たのか」
誰かがそう言った。誰も答えなかった。
村に運ばれ、囲炉裏の前に寝かされた少年は、熱に浮かされたようにうわ言を呟いた。意味のある言葉はなかった。ただ、名を呼ぶ声と、何かを探すような呼吸だけが、弱々しく続いていた。
数日が過ぎた。少年は、死ななかった。
傷は塞がり、熱は下がり、やがて目を開いた。その回復は、北方の人間が知る常識から、少し――いや、かなり外れていた。
「……丈夫な子だな」
誰かがそう言い、別の誰かは黙って首を振った。その言葉だけでは説明できないと、誰もが感じていた。
村人たちは多くを聞かなかった。
この地では、過去を詮索することは礼儀ではない。生き延びた者が、そこにいる。それだけで十分だった。
少年は、やがて歩き始め、働き始める。
雪かき。薪割り。獣の解体。
教えれば覚え、黙ってやり遂げる。無駄な言葉はなく、礼は欠かさない。夜になると、焚き火のそばで静かに空を見上げていた。
不思議な子だった。
笑わないわけではない。
だが、笑顔の奥に、どこか雪山の影が残っているように見えた。
一年が過ぎる頃には、誰もがその少年を「村の一員」として認めるようになった。
それでも時折、年寄りたちは思い出す。
吹雪の向こうから現れた、血まみれの影を。凍傷し、壊死した手足が独りでに治っていく様を。
北方は、人を選ぶ。
選ばれてしまった者がいる。
少年――エルスは、そうしてこの村にいた。




