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世界は、きっと美しい  作者: 白澤 知足
第1章 白い牢獄編

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07.手袋と願い

 ――雪しかなかった。


 空も、大地も、境目を失って白に溶け合っている。

 吹雪は視界を奪い、音を削ぎ、方角という概念そのものを曖昧にしていた。


 先を歩くルカの背中は小さく、今にも雪に呑まれてしまいそうだった。

 彼女の右手に灯る火だけが、この世界に色を与えている。革の手袋の上で揺れる橙色の炎は、風に煽られながらも消えず、必死に形を保っていた。


「……外ってさ」


 ルカが振り返り、ぽつりと言った。エルスは顔を上げる。


「思ってたより、寒いね」


 それだけ言って、ルカは小さく笑った。冗談めかした口調だったが、無理をしているのは明らかだった。歩き方が、少しだけ不自然だ。

 エルスはルカの腹部に視線を向けた。服の下で何が起きているのか、想像しないようにしていた。


 エルスは、自分が歩いているのか、転がり落ちているのか分からなくなりつつあった。

 冷気が皮膚を刺し、衣服の隙間から容赦なく体温を奪っていく。

 息を吸うと、胸の奥がひりつくほど冷たい。


「……まだ、歩ける?」


 ルカの問いに、エルスはただ頷いた。止まるという選択肢は、この白い世界には存在しない。立ち止まった瞬間、思考は凍り、意識は遠のき、すべてが終わる。それだけは、本能的に理解していた。


 ルカの歩幅が、わずかに乱れる。

火を持つ手とは反対側、腹部を押さえる仕草が見えた。

 衣服の下で、血が凍り始めているはずだった。赤黒く濡れた布が、動くたびに硬くなっていくのが、遠目にも分かる。

 それでも、彼女は目は前を見ている。ただ前だけを。


 ――外の世界だ。エルスはそう思った。

 本の中で記され、言葉で飾られ、夢として語られていた世界。

 美しいとも、残酷とも、まだ呼べない。

 ただ、ひたすらに圧倒的だった。


 雪が音を立てて降り積もる。風が方向を変え、二人の身体を横殴りに叩く。

 自然というものが、初めて意思を持って触れてくる。


 エルスは、感覚を喪失している自分の指先に視線を落とした。

 凍えているはずだったが、痛みはない。

 息が荒い。視界は霞む。

 火が揺れ、少し小さくなる。ルカの歩みが、さらに重くなった。


 二人の足跡は、すぐに雪に埋もれていった。

 どこから来たのか、振り返っても分からない。

 どこへ向かっているのかも、誰にも分からない。


 それでも、白い闇の中で、二つの影は進み続けていた。


――――――――――――――――――――――――――


 ――もう、どれほど歩いたのか分からない。


 吹雪は弱まる気配を見せなかった。

 むしろ、時間が経つほどに雪は重くなり、空気は粘度を帯びていく。


 ルカの足取りが、目に見えて鈍くなっている。

 炎はまだ灯っている。だが、先ほどまでの張りのある揺らめきではない。風に煽られるたび、火は引き伸ばされ、今にも千切れそうに細くなる。


 エルスは、その変化を言葉にしなかった。

 言葉にした瞬間、現実になってしまう気がしたからだ。


 そのとき、ルカが立ち止まった。

 急だった。前に出された足は地面を踏みしめることなく、糸が切れた人形のようにその場に倒れ込む。

 エルスは慌てて腕を伸ばし、彼女を支える。その身体は驚くほどに軽く、冷たかった。


「……ごめん」


 ルカが、かすれた声で言った。

 弱音でも、恐怖でもない。ただ、事実を伝えるための言葉。


 エルスが首を振ると、ルカはふっと笑った。

 それは、施設で見せていた笑顔と同じだった。

 本を読んでいるとき。

 未来を語っていたとき。

 その目だけが、まだ輝いている。


 ルカの視線が、ふと右へ逸れる。

 エルスも、それにつられて顔を上げた。


 岩壁に、雪に半ば埋もれた影がある。

 自然に削られた横穴が、吹雪の合間に口を開けていた。

 洞窟――いや、逃げ場だ。


 エルスは迷わず、ルカの腕を肩に回し、身体を引きずるようにして方向を変える。

 一歩、また一歩。

 洞窟が近づくにつれ、風が弱まる。

 雪の音が、少しずつ遠のいていく。


 中に足を踏み入れると、音が消え、風が止まった。

 冷たくも、外とは違う静けさがあった。

 エルスはルカをそっと岩壁に座らせる。

 彼女の身体は、力なく傾く。火が、かすかに揺れた。それでも、まだ消えていない。


 洞窟の中は、思っていたよりも狭かった。

 奥へ続く道はなく、自然に削られた岩壁が、行き止まりのように口を閉ざしている。


 外の吹雪は、入口の少し先で途切れていた。

 風は弱まり、雪の音も届かない。

 その静けさは、安心よりも先に、異様さを伴っていた。


 炎が、彼女の手の上で揺れている。

 洞窟の中では、風に煽られることもなく、火は安定していた。

 橙色の光が岩肌を照らし、二つの影を壁に落とす。


 エルスは、ルカの腹部に視線を落とした。

 布は、ほとんど血と一体化している。

 凍った血が、皮膚を引き攣らせるように固まっていた。

 触れれば、砕けてしまいそうだった。


「……静かだね」


 唐突に、ルカが言った。

 声は弱い。けれど、はっきりとエルスに届いた。

 洞窟の中では、世界が止まったように感じられる。

 外では、吹雪が続いているはずなのに、ここだけが切り取られた時間のようだった。


「本で読んだことがあるんだ」


 言葉の合間に、短い沈黙が挟まる。

 そのたびに、エルスは無意識に身を寄せた。


「洞窟って……昔の人たちが、夜を越えるために使った場所だって」


 それでも、ルカの目は洞窟の奥ではなく、入口の方を見ている。

 白い闇の向こう。外の世界を。


「火を囲んで……寒さをしのいで……朝を待つんだ」


 言葉とは裏腹に、火がどんどんと小さくなる。ルカの呼吸が、少しずつ浅くなる。

 それはもう、体温を保つための役割を果たしていなかった。むしろ、この火を出すことで、ルカの体力が奪われているように思えた。

 間もなく、ルカの手から、火がふっと消える。洞窟内が闇に包まれた。


「ルカ……!」


 エルスはすぐに、その手を包むようにして両手を重ね、手袋の表面に浮かぶ模様に力を流す。

 再び火が灯った。けれど、おかしい――。

 “慣習”では誰よりも長く、大きな火を灯すことが出来たのに、手の中で揺れるのは小さな種火に過ぎない。あれほど満ちていた体内を循環する力の流れが、今はもうほとんど感じられなくなっている。どんなに懸命にやろうとも、結果は変わらなかった。

 

「どうして……!」


 その時、やるせなさでうなだれるエルスの手に、ルカの指先が重なった。

 顔を上げると、彼女は目を細めて笑ってみせる。

 それが、精一杯の空元気である事は明らかだった。


「……まさか、雪山とはね……」

「ルカ、もう喋らない方が――」


 エルスの言葉を、ルカは目で制する。

 その瞳には、弱々しさよりも、どこか決意めいた光が宿っていた。自分の体がどうなっているのか、彼女はもう分かっているのだと、エルスは直感した。だからこそ、最後まで言葉を選ぼうとしている。


「朝になって……、吹雪が止んだら、ここを出よう……。見通しが良くなれば、下山も容易なはずだ」


 未来を語る声音は穏やかだった。だが、その言葉はどれも、すでに自分の手から零れ落ちつつある時間を、必死に繋ぎ止めるためのもののように聞こえた。エルスは、頷くことしかできない。否定する資格など、どこにもなかった。


「それから……旅に出よう。雪山という事は、ここは大陸北方に違いない。王国までは距離があるから、しっかり準備しないとね……」


 それは、描いていた未来の続きを、あたかも当然のように並べ立てる言葉だった。まるで今まで通り、本を片手に地図を指しながら話しているかのようだった。


「冒険者になったら……世界を巡るんだ。そして……、本を書きたい。僕の冒険譚が、誰かの世界を広げられたら……きっと素晴らしい事だ。それから、それからは……」


 その瞬間、言葉は途切れ、感情だけが溢れ出た。

 ルカの瞳から、堰を切ったように涙がこぼれる。


「これから、だったんだ……。ようやく外の世界に出れたのに……」


 それは、恐怖ではなかった。悔しさだった。

 諦めきれなかった未来への、どうしようもない未練だった。

 エルスは、その涙を止める言葉を、何一つ持っていなかった。胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちていく。


「エルス……そこにいるかい……?」

「ああ、いるさ、いるとも……!」


 声が震えるのを、どうしても抑えられなかった。

 ルカが手探りで空中に伸ばした手を、エルスはすぐに両手で包み込む。エルスの手を離れた手袋から灯が消え、洞窟内に闇が落ちた。

 握りしめたルカの手は細く、冷たい。生きている温度が、指の隙間から少しずつ逃げていくのが分かった。


 その手を離してしまえば、二度と戻らない。

 そんな確信が、骨の奥にまで染み渡る。


「その手袋……きっと、役に立つよ」


 ルカは、かすかに笑った。

 それは自分のためではなく、エルスの未来を思って浮かべた笑みだった。

 エルスは、首を振る。


「ルカ、行かないでくれ……! みんな死んでしまった。約束ももう無い。君までいなくなったら、俺は……」


 言葉は、堰を切ったように溢れた。縋るようで、みっともなくて、それでも本心だった。

 この世界に放り出された自分を、繋ぎ止めてくれる最後の存在が、今、目の前で消えようとしている。


「外の世界の人生は……きっと、終わりの無い本を読むようなものさ。そのページを捲ることが出来るのは、君なんだ」


 ルカの声は、ほとんど囁きだった。もう、目を開ける力も残っていないようだった。

 それでも何かを伝えんと必死に言葉を紡ぐ。


「だから、どうか……」


 言葉が、息に溶ける。


「僕の代わりに、世界の全てを見てきてくれ……」


 その瞬間、ルカの腕から力が抜けた。

 エルスの手をすり抜け、そのまま静かに地面へと落ちる。


「ルカ……?」


 呼びかけても、返事はない。揺すっても、胸は上下しない。

 エルスは、しばらくその事実を理解できなかった。


「ルカ」


 呼びかければ、また返事が返ってくる気がした。

 けれど、彼女はもう動かない。

 洞窟の中には、ただ静寂だけが残った。


 エルスは、その場に膝をつき、声にならない叫びを喉の奥に押し殺す。

 零れる涙が、ルカの頬に落ちる。それを指でそっと拭い、ルカの頬に手を寄せる。

 目は開かない。一切の体温も感じられない。それでも、エルスはいつまでもそれを続けた。



 ――その日は、エルスの人生で最も長い夜だった。

 けれど、永遠ではない。

 いつの間にか、洞窟の入口がほんのわずかに白んでいる。

 闇と光の境目が、岩の縁に滲むように浮かび上がっていた。

 朝が、来た。


「……行ってくるよ」


 誰にともなく、そう言った。右手には、幾何学模様が刻まれた革の手袋を付けている。

 

 洞窟を出ると、吹雪は止んでいた。

 雪は白く、静かで、昨夜の暴力が嘘のようだった。


 耳を澄ますと、微かな音がした。きぃ、と掠れた声のような鳴き声。

 エルスが顔を上げると、洞窟のすぐ外、岩肌から伸びた細い枝に、小さな鳥が一羽とまっていた。


 灰色がかった羽毛を膨らませ、寒さをしのいでいるらしい。

 丸い瞳は黒く澄み、エルスを一瞬だけ見つめると、また空を仰いだ。


 視線を巡らせると、細長い木々が斜面に点々と立っているのが見える。

 枝という枝に雪が積もり、まるで白い衣をまとっているかのようだ。

 風が吹くたびに、さらさらと音を立てて雪が落ち、木の輪郭が一瞬だけ露わになる。


 空は、薄い群青から淡い朱へと、静かに色を変えつつあった。

 夜と朝の境目。朝焼けが、雲の縁をやさしく染め、冷え切った空気の中に、ほのかな温度を滲ませていく。


 エルスは、無意識のうちに光の方角へ歩き出していた。

 足元の雪は柔らかく、踏みしめるたびに小さな音を立てる。

 その感触すら、今の彼には新鮮だった。


 やがて、斜面はなだらかになり、視界がひらける。

 一歩、また一歩と進み、峰へと辿り着いた。


 そこから見下ろした光景に、エルスは息を呑んだ。


 大地が、どこまでも広がっている。

 起伏を繰り返しながら連なる山々、その合間に広がる平原。

 雪の白、森の濃緑、遠くに霞む褐色の土地。

 すべてが、ひとつの絵のように溶け合っている。


 地平線の向こうから、太陽がゆっくりと顔を出し始めた。

 黄金色の光が、少しずつ世界を照らし、影を生み、色を与えていく。

 その光は迷いなく、大地へ、山へ、そしてエルスの身体へと降り注いだ。


 冷え切っていた頬が、じんわりと温もりを取り戻す。

 胸の奥に残っていた凍りついた痛みが、光に溶かされるように、わずかに緩んだ。


 世界は、何も語らない。

 けれど、確かにそこに在り、こうして生きている者を迎え入れている。


 エルスは、朝の光を一身に浴びながら、ただ立ち尽くしていた。

 胸の奥に残る喪失を抱えたまま、それでも――。

 この広大な世界の中に、自分が確かに存在していることを、初めて実感しながら。


長い長いプロローグが終わり、ようやくエルスの旅が始まります。

次章 北方辺境編12月19日(金)または12月20(土)より投稿予定です。

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