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世界は、きっと美しい  作者: 白澤 知足
第1章 白い牢獄編

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06.血だまり

 廊下を走るエルスとルカの足音は、もはや反響を返さなかった。

 壁という壁が崩れ落ち、部屋と廊下の境目は曖昧になり、空間そのものが裂けているようだった。

 瓦礫が崩れる音が、断続的に響く。

 それは背後からだけではない。左右から、時には足元からも、施設が自ら壊れていくかのように鳴り響いていた。


 床には、いくつもの血だまりがあった。乾きかけたものも、まだ温度を残しているものもある。間には、人間の身体が“点在”している。腕のないもの。半身が潰れて、原形を留めていないもの。それが誰なのか、考える前に、エルスは理解してしまった。

 ――施設の子どもたちだ。


「あの、化け物の仕業だ」


 前を走るルカが、低く言った。

 怒鳴るでもなく、怯えるでもなく、声を抑え込むように。

 握られた手に、力がこもる。

 震えているのではない。怒りを押し殺しているのだと、エルスには分かった。


「ここに居たら、僕らも死ぬ。逃げるんだ、エルス。ここから」


 その言葉に、エルスは何も返せなかった。喉が張り付いたようで、声が出ない。

 走りながら、ふと一つの記憶が浮かぶ。ファイが別れ際に言った言葉。


『――あの子たちを、よろしくね』


 胸の奥が、ぎゅっと潰れる。


「ごめん……ごめんね……」


 誰に向けた謝罪なのか、自分でも分からなかった。

 守ると約束したわけでもない。それでも、任された気がしていた。

 道中、一つの死体が視界に入った。下半身が無く、床に引きずられた痕だけがある。それでも、顔だけははっきりと残っていた。


「ロイ……」


 同じ部屋で眠り、朝になると文句を言いながら起きてきて、冗談を飛ばしていた少年。

 その顔が、もう何も語らない。


 涙が滲む。だが、立ち止まることは出来なかった。

 エルスは歯を食いしばり、ただ走った。


 しばらくすると、廊下の空気が変わっていることに気付く。重く、淀んでいた空気に、流れが生じた。

 冷たい。頬を撫でるその感触に、エルスは一瞬だけ足を緩めそうになる。

 それは、風だった。生まれて初めて感じる、外から来た空気。ただの流れに過ぎないそれが、不思議と生きている感じがした。進む先から、確かに風が流れ込んでくる。


 その瞬間――ずっと後ろで、瓦礫が崩れ落ちる音がした。

 まだ、遠い。けれど確かに、あの異形が二人の通った道を辿ってきている。


 エルスは恐怖に駆られるも、振り返りそうになるのを必死で堪え、ただ足を動かす。

 やがて、視界が一気に開け、広い空間に辿り着く。高い天井。遠くの壁に、巨大な穴が開いている。同時に、強い風が吹き込み、二人の体を包んだ。

 ――あの先が、外の世界だ。

 二人は言葉を交わさずとも、同じ思いを持った。夜の闇と雪が、大穴の向こうに広がっていた。


 そして、部屋の中央に――ひとつの人影が立っていた。


 黒いローブが背後の風に煽られ、布が静かに揺れる。たなびいた長い髪の隙間から、黒い角が覗いていた。大人とも子どもとも言えない。あどけなさを残しながらも、どこか成熟した顔立ちの女性だった。


 じっと立ち尽くしていたその人物は、二人の気配に気付くと、ゆっくりと視線を向ける。エルスと目が合った瞬間、息を呑んだように見えた。

 施設の大人たちとは違う。エルスの直感がそう告げていた。


「助けてください!」


 思わず声が出る。


「後ろに、化け物が――」


 だが、言葉は途中で止められた。隣のルカが、無言でエルスの腕を掴んだのだ。

 彼女の視線は、ある一点を見据えている。

 その先。ローブの人物の足元には、赤黒い血だまりがあった。

 そして、その中心に――ママが倒れていた。


 心臓が脈打つ。呼吸が浅くなる。首筋には、不快な汗が滴った。

 もう、みんな死んだのだ。残ったのは、自分とルカだけ。


 やがて、ローブの人物が、ゆっくりと杖を構える。

 空中に、幾何学的な模様が浮かび上がった。

 瞬間、光が走る。その光はエルス目がけて一直線に進んだ。あまりにも速く、避ける間もなかった。衝撃と共に、視界が揺れる。


 気付いた時には、エルスは床に倒れていた。

 そして――眼前にはうずくまるルカ。その腹部からは血が滲んでいた。

 庇われたのだと、ようやく理解する。


 ローブの人物は杖を携え、感情の消えた目で一歩、また一歩と近づいてくる。

 エルスはルカの体を抱き寄せた。何も出来ない自分が、ただそこにいた。


 ――次の瞬間、視界が、黒に覆われた。衝撃が地面を揺らし、塵埃(じんあい)が上がる。

 異形――。どこからかやって来たあの化け物が、恐ろしい速度でローブの人物に襲いかかったのだ。しかし、その攻撃は届いていない。見えない壁でも現れたかのように、直前で弾かれた。


 そして、杖がかざされると――、次の瞬間、異形の腹に大穴が空いた。血が、肉片が辺りに飛び散る。その攻撃の射線は見えなかった。何かが飛んだ気配も無い。ただ、杖が構えられると同時に、異形の身体が抉れていた。

 

 大人たちが束になっても全く相手にならなかった異形を、目の前の人物は明らかに圧倒している。でも、異形を始末したら、次は、きっと――。

 腕の中のルカは、小さく震え、呼吸も荒い。腹部の傷はじわじわと彼女の衣服を赤で染めている。どうすればいい。いくら考えようと、エルスの頭にこの状況を打開する策は浮かんではこなかった。

 


 ――異形は、まだ動いている。それどころか、肉が蠢き、赤黒い組織が盛り上がり、腹に空いた空洞が見る見るうちに塞がっていく。そうして埋められた腹には、大きな口が生えていた。いつかルカの本で見た、獰猛な肉食獣のような牙がある。


 生まれたばかりのその口で、異形は咆哮した。途端に空気が震え、重力が増したかのような圧がエルスの肺を締め付ける。

 同時に、異形の口から光線が放たれた。線を描き、ローブの人物のもとで大きな爆発を生む。爆風に吹き飛ばされそうになるルカの華奢な身体を、エルスは必死で支えた。

 塵埃が晴れた時、ローブの人物は、同じ場所に立っていた。傷一つ無く、消耗した様子も無い。

 異形は攻撃を止めず、肥大した腕を振り回し、その人物目掛けて何度も叩きつける。


「……逃げよう」


 轟音の中、腕の中から聞こえたルカの声に、いつものような力は無い。それでも、その目には決意があった。


「でも……」

「考えがある」


 ルカに腹部に目をやるエルスの言葉を遮って、懐から何かを取り出す。

 見ると、革製の手袋だった。表面にはどこかで見た幾何学模様が刻まれてある。


「君を助けに行く前、広間で拾ってきたんだ。圧迫による止血では、血は止まらなかった。だから――傷口を焼いて塞ぐ」


 そう言って手袋をつけると、衣服をめくり、一瞬の躊躇も無く炎を出して傷口に押し当てる。もう片方の手で、エルスの手をぎゅっと握った。

 そうだ、この模様は――。いつもの慣例をやる際、羊皮紙に描かれていたものと同じ模様だ。


 ルカが歯を食いしばる。悲鳴を上げるのを懸命に耐えているようだ。握られた手には一層の力が籠もった。エルスはただ、手を握り返す。それが彼に出来る全てだった。


 数秒の後、炎が消える。ルカの首に汗が滲み、呼吸は乱れている。

 大丈夫か――。エルスが問うより先に、ルカが口を開いた。


「さあ……、立とう。逃げるんだ……!」


 エルスは頷く。助けを求める相手はおらず、ルカの身を案じても状況は変わらない。自分たちが助かる唯一の方法は、一刻も早くここから逃げる事だと理解した。


 部屋の中央では、戦いが続いていた。いや、戦いと呼べるのかさえ分からなかった。

 光が走るたびに、異形の肉が爆ぜ、血が舞う。削れた部位から新たな肉が蠢き、形を取り戻していく。  

 だが、再生よりも削る速度の方が遥かに早かった。体よりも大きい腕は真二つに裂かれ、背中から隆起した骨は砕け散る。あれほどの巨躯が、見る見るうちに小さくなっていく。


「3、2……1、今だ!」


 ルカの号令で、二人は走り出す。

 道中、背後の音が止んだ時、エルスは一度だけ振り返った。異形はもはや、ただの肉片と化していた。

 瞬間、ローブの人物と目が合う。杖がこちらに向けられる。

 その瞳に、初めて感情が浮かんだ気がした。悲しみ、諦観、哀れみ。それのどれとも似ていて、どれとも違うような目をしていた。

 攻撃は、来なかった。


 エルスは前を向き、ただ走って穴を抜けると――世界が、変わった。

 その先は、白い世界だった、地面も、吹きすさぶ雪も、吐き出す息も、全てが白い。白いのに、暗かった。

 恐怖からではなく、寒さで身震いする。息を吸うと、肺が痛むほど冷たい。

 隣のルカは、頬に当たった雪を指でなぞり、大きく息を吸って、言った。

 


「さあ、行こう」


 きっと、人生の中で、今が最も死に近い。それなのに彼女は、今までで一番“生きた眼”をしていた。

 ルカの声に導かれ、二人は外の世界へ足を踏み出していった――。


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