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世界は、きっと美しい  作者: 白澤 知足
第1章 白い牢獄編

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05.轟音

 轟音が、また来た。


 遠く――壁の向こう、廊下のずっと奥から響くはずの音が、なぜか頭蓋の内側を直接叩くように近い。

 鈍く、重く、骨の隙間にまで入り込んでくる衝撃。

 次いで、二度目。三度目。轟音に次ぐ轟音が、間を置かずに施設を揺らした。


 燭台の炎が震え、影が壁の模様の上を滑る。

 カタカタ、と金属が鳴った。揺れているのは燭台だけではない。椅子の脚も、床も、空気も――施設そのものが、呼吸を乱しているみたいだった。


 エルスは椅子に縛りつけられたまま、ぼんやりと目を瞬いた。

 意識が、ゆっくりと覚醒してくる。


 さっきまで――何かがあった。

 痛み。熱。骨が軋む感覚。血の匂い。

 叫んだのか、叫べなかったのかすら分からない。世界が白く飛び、そこから急に落ちて、今ここにいる。


 頭が重い。

 胸の奥が、まだじんじんと焼けたように脈を打つ。

 自分の身体が自分のものではなくなったような、奇妙な空虚が残っていた。

 何が起きているんだ――。答えはどこにもない。ただ、轟音だけが続く。


 部屋の中の大人たちも、同じだった。彼らはフードの奥で目を見開き、互いに顔を寄せて短い言葉を交わしている。声は小さく、しかし切迫していた。


「……外か?」

「いや、内側だ。壁が――」

「あり得ない。ここは……」


 言葉の端々が切れて聞こえる。

 しかし、普段なら揺らがないはずの彼らの声音が揺れていることだけは分かった。


 エルスは唾を飲み込もうとして、喉が乾いているのに気づく。

 呼吸が浅い。肺がうまく膨らまない。

 怖い――そう思った瞬間、恐怖が身体の内側に火をつけたように増していく。

 何も分からないのに、確実に“終わり”へ向かっている気配だけがある。


 次の瞬間、扉が勢いよく開いた。部屋の空気が一気に引き裂かれる。

 焦げた匂いと、鉄が擦れる匂いと、見えない熱が混ざった空気が部屋に入り込む。。


 入ってきたのは、同じフードを被った別の大人だった。

 肩で息をし、足元がおぼつかない。

 袖口が濡れている――血か、汗か。目だけが異様に白い。


「しゅ、襲撃だ!」


 その声が震えた。

 それだけで、部屋の中の大人たちの空気が変わる。緊張が一段階、別の質に飛んだ。


「何だと!?」


 複数の声が重なる。

 問いただす声には怒りが混じっているが、それは恐怖を隠すための硬い色だった。


「して、襲撃者の規模は?」


 男は口を開き、言葉を探すように喉を鳴らした。

 そして、吐き捨てるように言った。


「ひ、一人だけだ、マルティナ様が対処に向かった」


 その名を聞いた瞬間、部屋の大人たちが一斉に息をついたのが分かった。

 肩が、ほんの少し下がる。


「なんだ、ならば何も案ずることは――」


 誰かが、そう言いかけた。

 だが、男は必死に首を振った。フードがずれ、頬の青白さが覗く。


「違うんだ! その衝撃で、あの失敗作を封じていた牢が壊れて――」


 言い終わる前に、轟音が“部屋の中”で鳴った。

 壁が、外側から破壊されたのだ。石が砕け、木材が裂け、床が跳ねる。

 内側へと吹き飛んだ瓦礫が雨のように降り注ぎ、近くに居た男の上半身を押し潰した。ぐしゃり、と肉が潰れる音。次いで、濡れたものが床を叩く音。


 血が飛んだ。

 エルスの頬に、温かいものが触れた。

 それが血だと理解した途端、胃が裏返りそうになる。


 壁に空いた穴の向こう側――そこから、“何か”が入ってきた。


 それは、生き物の形をしているはずだった。

 だが、視界がそれを拒む。形を捉えようとするたび、輪郭がずれていく。


 それは、この世のものとは思えない異形の生物だった。

 影がまず部屋を覆い、次に、赤黒い体表が燭光(しょっこう)に濡れた。

 体のあらゆる部位が肥大している。皮膚は裂け目だらけで、赤と黒がまだらに混ざり、まるで焼け焦げた肉のようだ。その体躯は天井に届きそうで、穴から身を押し込むたびに背中の鋭利な骨が、ぎちりと壁に擦れた。


 頭部は――塊だった。

 目も、口も、鼻も、耳もない。ただの黒い塊。生き物の顔にあるはずの入口が、そこにはどこにも見当たらない。

 足が三本ある。それぞれ大きさが違い、歩くたびに床が軋む。

 一本しかない腕は、異常なほど肥大していて、引きずるたびに床に擦れ、ずるずると音を立てた。


 生物の形をしているのに、生物ではない。

 見るだけで、根源的な恐怖が胸の奥から湧き上がる。


 ――あれは、なんだ。

 問いが形になる前に、大人たちが動いた。


「撃て!」


 誰かの叫び。

 次の瞬間、光と熱と音が炸裂する。


 火が走る。

 水が刃のように弾ける。

 光が針の雨みたいに散る。


 何かを引き裂くための力が、矢継ぎ早に異形へ叩き込まれる。異形の体表が一瞬、焼け爛れたように見えた。だが、異形は止まらなかった。まるで雨粒でも払うように、巨体がぶるりと震える。

 そして異形は、恐ろしい速度で大人たちの列へ突っ込んだ。


 肥大した腕が振るわれる。


 一人、潰れる。

 骨と肉が、紙のように折れる。

 血が飛び、内臓の匂いが部屋を満たす。


 二人、潰れる。

 三人、四人。

 声にならない悲鳴が上がり、すぐに途切れる。

 床に、血だまりがいくつも出来上がる。赤が広がり、黒く冷えていく。


 エルスは動けない。

 手枷が骨を締め、革ベルトが胸を押さえつけている。

 目を逸らしたいのに、逸らせない。

 瞬きすら忘れ、ただ起きていることを見続けるしかなかった。


 喉が震えた。声が出ない。

 呼吸が、ひゅ、と変な音を立てる。

 怖い、怖い、怖い――。

 

 そのとき、不意に、異形がこちらへ向いた。

 目はない。なのに――“見られた”と感じた。

 皮膚の内側を、針で撫でられるような感覚。

 心臓が跳ね上がり、次の呼吸が来るのを忘れた。


 そして、エルスは“それ”に気付いてしまった。

 異形の背中、鋭利な骨の突起に混じって、別のものが生えている。

 人間の腕のようなもの。骨と肉が歪に癒着したような腕。

 その手首に――カラフルな紐が結びついていた。


 見覚えがある。

 いや、見覚えがあるどころか、手首に触れた感触まで覚えている。

 それを結んでくれた人の、明朗な笑顔が脳裏に浮かびあがる。


 「――嘘だ」


 言葉が漏れる。胸の奥が凍った。疑念がひとつ、息をするみたいに膨らむ。

 そんなはずがない。でも、あの紐は――。


「エルス!」


 自分の名を呼ぶ声で、エルスは我に返った。

 穴の開いた壁の向こうから、誰かが飛び込んでくる。

 銀髪が揺れ、琥珀色の目が火に照らされて光った。

 

「ルカ……?」


 彼女は足元の瓦礫を蹴り飛ばし、迷いなくエルスの元へ駆け寄る。

 異形と大人たちが交戦している――否、蹂躙されている隙を縫って、椅子の後ろへ回り込む。


「……なに、してるの、こんな……!」


 ルカの声が震える。

 怒りか、恐怖か、混乱か。全部が混ざっている。

 彼女の手が、手枷にかかった。金属に爪を立て、何かを探るように触れ、そして――外す。カチリ、と音がした。次に、革ベルトが緩む。

 エルスの身体が自由になる。その瞬間、膝が笑い、崩れ落ちそうになった。


「立って。今、立って」


 ルカの声は命令だった。

 優しさを込める余裕なんてない。生きるための声。

 エルスは歯を食いしばり、震える足で立ち上がった。

 目の端では、大人たちがまた一人倒れ、残りは――一人だけになっていた。


「逃げよう、ここから」


 ルカがエルスの手をつかむ。

 指が冷たい。けれど、その冷たさが現実だと教えてくれる。


「早く!」


 叱責に近い声。エルスの思考が追いつかないまま、身体だけが引っ張られる。

 それから、走る。

 床が滑る。血が足の裏に絡む。背後で肉が潰れる音がした。


「待て、貴様ら――」


 最後に残った大人が叫び、こちらへ手を伸ばす。

 何かを放とうとした――その次の瞬間。

 異形の腕が振るわれ、大人は言葉ごと潰れた。


 ルカが息を呑む。エルスも、呼吸が止まる。

 異形が、二人の方へと向き直った。

 腕が振り上がる。風が鳴る。床が割れそうな衝撃の予感。


「走れ!」


 ルカが叫び、エルスの腕を引き、出口へ飛び込む。

 間一髪。背後で壁が砕け、床が抉れ、その部屋は瓦礫の下敷きとなった。

 倒壊していく部屋の唸り声を背に、二人は廊下へ飛び出す。


 走る。走る。走る――。

 ルカの手は離れない。繋いだ二人の腕には、あのカラフルな紐が結びついている。

 同じ紐が、異形の腕にもあった。エルスは、その意味を考えないようにした。

 考えた瞬間、きっと足が止まる。止まったら、終わりだ。


 だから――ただ走った。

 轟音の続く施設の中を、息が切れても、胸が裂けそうでも、

 ルカの手に引かれるまま、前へ、前へと。


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