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世界は、きっと美しい  作者: 白澤 知足
第1章 白い牢獄編

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04.世界の崩壊

 通された部屋は薄暗かった。

 それまでの施設のどの場所とも違う。廊下に灯っていた穏やかな明かりはなく、壁に施された装飾も見当たらない。空気は重く、息を吸い込むだけで胸の奥がひりつくようだった。


 エルスは、思わず立ち止まった。ママ以外の大人を、この施設で見たことはない。けれど部屋の中には、フードを深く被った者たちが何人も立っている。誰一人として顔を上げず、こちらを見ているのかどうかも分からない。


「……さあ、おいで」


 低い声だった。それは呼びかけというより、命令に近い響きを帯びている。

 エルスの足が、わずかに引ける。

 胸の奥に、今まで感じたことのない感覚が芽生え始めていた。理由は分からない。ただ、ここにいてはいけない気がする。振り返って、来た道へ戻りたい衝動に駆られる。


「怖がることは無い。君は外の世界に行くんだ」


 その言葉に、胸が小さく揺れた。脳裏に浮かぶのは、ファイの背中。ルカとの約束。まだ見ぬ世界の空と風――。


 もう、この部屋に入る前には戻れない事を強く悟る。あの穏やかな日々が、二度と帰らない事も。

 目の前に広がる異様な光景に、エルスはただ信じるしかなかった。ママの手の温もりを。自分が歩いてきた日々を。

 小さく息を吸い込むと、エルスは再び前を向いた。



 部屋の中央に、鉄製の椅子が置かれている。

 無骨な作りで、床に打ち込まれた杭によって固定されていた。その周囲を、大人たちが円を描くように取り囲んでいる。


 近づいた瞬間、視線を感じた。

 フードの奥から、値踏みするような目が向けられている。

 ぞっとするほど冷たく、そこには人を見る温度がなかった。


 背後で、扉が閉まる音がした。

ガチャリ、と金属音が響き、施錠される。

 同時に、部屋の燭台すべてに一斉に火が灯った。

 揺れる炎が床を照らし出し、一面に重なって広がる赤黒い染みが露わとなる。


「……座りなさい」


 強い口調だった。拒否という選択肢は、初めから存在しない。

 エルスは震える足を前に出し、椅子へと歩み寄る。腰を下ろした瞬間、冷たい鉄の感触が背中に伝わった。

 次の瞬間には、手枷がはめられ、革のベルトが締め上げられる。

 逃げ場はなく、身体は椅子に完全に固定された。

 視界の端で、大人たちが淡々と作業を続けている。その表情は見えない。けれど、そこに感情がないことだけは、はっきりと分かった。


 ――大丈夫だ。

 エルスは必死に自分に言い聞かせる。


 やがて、一人の男が小さく手を上げると、床に光が走った。

 幾何学模様が浮かび上がり、複雑に絡み合いながら広がっていく。その中心にあるのは――エルス自身だ。


 次の瞬間、痛みが来た。エルスの叫び声が、空間を裂くように響く。

 全身の血液が、内側から暴れ出すようだった。内臓が雑巾のように絞られているようだった。薄れていく意識の中、骨が軋み、変形し、皮膚を突き破るのを見た。


 耐え難い激痛に意識が飛び、すぐに痛みによって目を覚ます。それを何度も繰り返した。永遠に続くかのような苦痛の波に、思考は粉々に砕け散る。時間の感覚は失われ、ただ「苦しい」という事実だけが残った。


 ――もう、どれほど経ったのか分からない。

 けれど今回は、意識を取り戻した時、何かが明確に変わっていた。

 もう痛みは無く、身体のあちこちから白い蒸気が立ち上っている。


 かすんだ視界の向こうで、大人たちがざわめいていた。

 彼らの声は弾んでいる。喜びに満ちている。『成功』。その単語だけが辛うじて聞き取れた。

 

 未だ明瞭にならない意識の中で、エルスはゆっくりと視線を下ろす。

 衣服は血で染まり、床には無数の赤い跡が広がっている。

 それが、自分の血だと理解した瞬間、胸の奥が凍りついた。


 骨が、皮膚を突き破る瞬間を確かに見た。

 けれど今、身体は――何事もなかったかのように、そこにある。


 理解が追いつかない。

 怖いのに、痛みはない。

 苦痛からの解放に安心すべきなのに、何も安心できない。


 その時。

 施設全体を揺るがすような轟音が、部屋の外で響き渡った。


 ――世界が、壊れ始めた音だった。


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