04.世界の崩壊
通された部屋は薄暗かった。
それまでの施設のどの場所とも違う。廊下に灯っていた穏やかな明かりはなく、壁に施された装飾も見当たらない。空気は重く、息を吸い込むだけで胸の奥がひりつくようだった。
エルスは、思わず立ち止まった。ママ以外の大人を、この施設で見たことはない。けれど部屋の中には、フードを深く被った者たちが何人も立っている。誰一人として顔を上げず、こちらを見ているのかどうかも分からない。
「……さあ、おいで」
低い声だった。それは呼びかけというより、命令に近い響きを帯びている。
エルスの足が、わずかに引ける。
胸の奥に、今まで感じたことのない感覚が芽生え始めていた。理由は分からない。ただ、ここにいてはいけない気がする。振り返って、来た道へ戻りたい衝動に駆られる。
「怖がることは無い。君は外の世界に行くんだ」
その言葉に、胸が小さく揺れた。脳裏に浮かぶのは、ファイの背中。ルカとの約束。まだ見ぬ世界の空と風――。
もう、この部屋に入る前には戻れない事を強く悟る。あの穏やかな日々が、二度と帰らない事も。
目の前に広がる異様な光景に、エルスはただ信じるしかなかった。ママの手の温もりを。自分が歩いてきた日々を。
小さく息を吸い込むと、エルスは再び前を向いた。
部屋の中央に、鉄製の椅子が置かれている。
無骨な作りで、床に打ち込まれた杭によって固定されていた。その周囲を、大人たちが円を描くように取り囲んでいる。
近づいた瞬間、視線を感じた。
フードの奥から、値踏みするような目が向けられている。
ぞっとするほど冷たく、そこには人を見る温度がなかった。
背後で、扉が閉まる音がした。
ガチャリ、と金属音が響き、施錠される。
同時に、部屋の燭台すべてに一斉に火が灯った。
揺れる炎が床を照らし出し、一面に重なって広がる赤黒い染みが露わとなる。
「……座りなさい」
強い口調だった。拒否という選択肢は、初めから存在しない。
エルスは震える足を前に出し、椅子へと歩み寄る。腰を下ろした瞬間、冷たい鉄の感触が背中に伝わった。
次の瞬間には、手枷がはめられ、革のベルトが締め上げられる。
逃げ場はなく、身体は椅子に完全に固定された。
視界の端で、大人たちが淡々と作業を続けている。その表情は見えない。けれど、そこに感情がないことだけは、はっきりと分かった。
――大丈夫だ。
エルスは必死に自分に言い聞かせる。
やがて、一人の男が小さく手を上げると、床に光が走った。
幾何学模様が浮かび上がり、複雑に絡み合いながら広がっていく。その中心にあるのは――エルス自身だ。
次の瞬間、痛みが来た。エルスの叫び声が、空間を裂くように響く。
全身の血液が、内側から暴れ出すようだった。内臓が雑巾のように絞られているようだった。薄れていく意識の中、骨が軋み、変形し、皮膚を突き破るのを見た。
耐え難い激痛に意識が飛び、すぐに痛みによって目を覚ます。それを何度も繰り返した。永遠に続くかのような苦痛の波に、思考は粉々に砕け散る。時間の感覚は失われ、ただ「苦しい」という事実だけが残った。
――もう、どれほど経ったのか分からない。
けれど今回は、意識を取り戻した時、何かが明確に変わっていた。
もう痛みは無く、身体のあちこちから白い蒸気が立ち上っている。
かすんだ視界の向こうで、大人たちがざわめいていた。
彼らの声は弾んでいる。喜びに満ちている。『成功』。その単語だけが辛うじて聞き取れた。
未だ明瞭にならない意識の中で、エルスはゆっくりと視線を下ろす。
衣服は血で染まり、床には無数の赤い跡が広がっている。
それが、自分の血だと理解した瞬間、胸の奥が凍りついた。
骨が、皮膚を突き破る瞬間を確かに見た。
けれど今、身体は――何事もなかったかのように、そこにある。
理解が追いつかない。
怖いのに、痛みはない。
苦痛からの解放に安心すべきなのに、何も安心できない。
その時。
施設全体を揺るがすような轟音が、部屋の外で響き渡った。
――世界が、壊れ始めた音だった。




