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世界は、きっと美しい  作者: 白澤 知足
第1章 白い牢獄編

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03.卒業

 夕飯の時間が近づくころ、エルスは広間を出て廊下に出た。

 あの火球の熱は、もう肌から消えているはずなのに、耳の奥にはまだ爆ぜた音が残っている。


 燃え上がった炎の壁。焦げた匂い。ママの「大丈夫よ」という声。そして、あまりにも軽く落ちた言葉――卒業。

 考えれば考えるほど、言葉が自分の外側を滑っていく。

 卒業。外の世界。門出。祝福。

 それはずっと前から知っているはずの制度で、子どもたちはそれを当たり前に語ってきた。なのに、自分の番が来た途端、それが“現実”として胸に落ちてこないのはなぜだろう。


 廊下の灯りは淡く、壁はいつものように均一で、曲がり角の向こうまで見通せるほど整っている。足音がやけに大きく響いた。心臓の音まで、床に伝わってしまいそうだった。


 食堂の扉の前に立つ。

 ドアノブに手をかけると、ひやりと冷たい。


 ――いつも通り。そう思い込むようにして、扉を開けた。

 瞬間、ざわりと空気が揺れた。食堂にいる子どもたちの視線が、一斉にエルスへ集まる。

 それは好奇心であり、不安であり、そして期待でもあった。

 ママと広間に残ったのはエルスだけ。あの後に、何をしていたのか。何が起きたのか。言葉にされる前から、その問いが食堂中に漂っているのが分かった。


 誰かがエルス名前を呼びそうになり、別の誰かが「聞いていいの?」と小声で止める。

 テーブルの上のスープの湯気が、いつもより細く見えた。

 エルスは一歩、食堂に足を踏み入れた。途端に、自分がみんなと同じでいられなくなったような気がした。


 そのとき、ママが配膳台の前で手を叩く。

 ぱん、と乾いた音。それだけで、食堂はすっと静まり返る。


「みんな、よく聞いてね」


 子どもたちは息をひそめる。ママの声は穏やかだった。

 けれど、その穏やかさが今日は妙にきれいで、逆に胸の奥をざわつかせた。


「――今日、エルスが卒業することになりました」


 一拍遅れて、食堂が波のように騒がしくなった。


「えっ」

「うそ」

「だって、ファイがこの前……」

「エルス、ほんとに?」


 言葉がぶつかり合い、揺れて、膨らんでいく。

 エルスはその中心に立ちながら、なぜか遠くから見ているような感覚に陥っていた。


 ファイが卒業したのは、ついこの間だ。数日しか経っていない。卒業は、もっと先にあるものだと思っていた。

 いつか自分にも来る。けれど、それは本の中で読んだおとぎ話のようで、現実味が無かった。なのに、今それが自分の名前と結びついている。


 エルスは笑うべきなのか、泣くべきなのか、分からなかった。口角が上がりそうになるのに、胸の奥が冷たくなる。


「落ち着いて。ひとりずつね」


 ママが柔らかく言い、子どもたちは徐々に秩序を取り戻した。けれど、視線はずっとエルスに刺さったままだ。

 誰かが近づいてきて、エルスの袖をつかむ。

 年少の子だ。目が潤んでいる。


「エルス、行っちゃうの……?」


 言葉に、胸がちくりとした。

 行く――そうだ。行くことになる。けれど、どこへ? 何がある? 戻って来られるのか?

 エルスは何も答えられず、ただ頭を撫でる。


 次に、ロイが駆け寄ってきた。鼻をすすり、唇をわななかせる。


「エルス、なんだよ。おまえ、まだ……」


 声が詰まる。言葉にならず、ロイは肩を震わせて、泣き出した。


「エルスぅ……!」


 普段は強がるのに、年少の子と一緒になって泣きじゃくる友人の姿に、思わず笑みがこぼれる。けれど、何か言いたいのに、喉の奥に言葉が引っかかったまま出てこない。


 卒業が祝福なら、なぜこんなに痛いんだろう。周囲では次々と別れの言葉が飛び交った。

 励まし、羨望、泣き声、冗談めかした「忘れるなよ」

 そのどれもが温かい。だからこそ、エルスの胸の奥が静かに締め付けられていく。


 やがて、いつもの席に着いた。盆の上には、いつものスープとパン。同じ匂い。同じ湯気。同じ味になるはずの夕飯。なのに、舌が上手く動かない。


 向かいの席に、ルカが座る。

 本は閉じている。いつもなら食事の最中でも開いているのに、今日はそうしなかった。代わりに、ルカはエルスをじっと見ていた。


「まさか、年下の君の方が先に卒業とはね」


 声は平静を装っていた。けれど、その奥にほんの僅かな刺が混じっているのを、エルスは感じ取った。悔しさ。寂しさ。祝福したい気持ち。ルカはその全部を、器用にひとつの言葉に押し込めている。


「……俺も、よく分からない」


 エルスが正直に言うと、ルカは小さく息を吐いた。


「それにしても突然だね。広間であの後、何があったんだい?」


 問いは、まっすぐだった。興味だけではない。心配が混じっている。

 

 ――あの空中に浮かぶ模様。火球が生まれた時の、胸の奥が裂けるような感覚。燃え盛る炎を見て、エルスは初めて、自分の中の“それ”が制御の外にあると知った。

 未知の領域に足を踏み入れ、怖気づいたのかもしれない。あるいは、高揚したのかもしれない。エルスにはまだ、あの出来事がうまく消化できていなかった。


「……まだ、うまく話せない」


 ルカは一瞬、何か言いかけて、やめた。

 そして懐から本を取り出した。ぱらり、とページを開く音が、小さく食堂に落ちる。


「じゃあ、話題を変えよう」


 ルカの声は軽くなる。軽くしようとしている、と分かる。そういうところが、ルカの優しさだった。

 ルカの広げた本は、いつか見た地図が載っている本とは、別のものだった。


「――太陽が姿を現すと、庭の花たちは夜の露を振り払い、小鳥たちは美しい調べをうたう。今日初めて生まれた人間のように、清らかな朝日を迎え入れる」


 ルカの指が紙面をなぞる。線を辿るように、書かれた文章を拾い上げていく。


「――午後になると、吹き抜ける風に木々の葉は揺れ、遠くで聞こえる小川のせせらぎ。緑が世界を包み込み、思いは自然に、心は喜びに満たされる。やがて、銀色の月光が山々に影を落とし、傾きゆく星と共に、人々は眠りにつく。人の夢を見守るように、月は静かに夜に浮かぶ」


 目で見たことがないはずなのに、ルカの言葉には不思議な熱があった。読み込んだ文字が、まるで体験に変わっているような説得力。語るほどに、琥珀色の瞳が明るくなる。


「僕は、本が好きだ。自分の知らない世界に連れて行ってくれるから」


 ルカは少し声を落として続けた。


「でも、僕は空を見たい。風を感じたい。本のページからじゃなくてさ。本物の風を」


 ルカはそこで言葉を切り、ほんの一瞬だけ視線を上げた。天井の向こう――この施設のさらに外、そのまた外にあるはずの空を、想像するように。


「君が卒業するなら、僕も、きっとすぐだ。たぶん、想像しているより早く」


 その言葉が、胸に刺さった。卒業――その意味を、さっきより明確に現実として感じてしまう。

 ルカは本を閉じ、エルスを見つめる。


「国の名前は覚えているかい?」


 エルスは、前にルカが指差した場所を思い出す。線の集まるあたり。西方。運河の先。


「……バルドリック王国」

「そう」


 ルカは満足そうに頷いた。


「僕はきっとそこに行く。ファイのやつにも目的地は伝えた。……きっと、僕らはまた会えるさ」


 ルカの視線が、ふと手首へ落ちる。そこに結ばれた、あのカラフルな紐。指先でそっと結び目を撫でる。

 それはただの飾りだ。遊びだ。けれど、今は約束の形に見えた。

 エルスは自分の手首を見る。同じ約束が、そこにある。結び目の感触が、肌に確かに残っている。その瞬間、胸の奥の重さが少しだけ和らいだ。

 外の世界が怖いわけではない。ただ――、知らないだけなんだ。


 ふと、食堂の片隅でこちらを見つめるママの姿に気付く。

 いつも通りの微笑み。けれど今日は、その視線がどこか“待っている”ように感じられる。


「エルス」


 ママの声が、食堂の喧騒を割った。

 子どもたちが一斉にこちらを見る。今度は、好奇心ではなく、惜別の視線。


 ロイがまた泣きそうな顔をする。年少の子が袖をつかむ。

 「頑張れ」「忘れるな」「また会えるよね」と、言葉が次々に投げられる。

 エルスはひとつひとつ受け取るように頷いた。温かい言葉なのに、胸が痛い。けれど不思議と、さっきより呼吸が楽だった。

 ルカの方を振り返る。彼女は別れの言葉を言わなかった。代わりに、手首に結ばれた紐を掲げる。

 “また会える”。その約束が、これから向かう世界の輪郭を作っていくようだった。


「行きましょう」


 ママと共に、エルスは食堂を後にした。

 廊下を進む。灯りの淡い道に、静かな足音が落ちてゆく。

 いつも通る道なのに、今日は少し違って見えた。施設そのものが、遠ざかっていくような感覚を覚えながら、エルスの足はママを追う。


「……ここ、行ったことない」


 思わず口に出すと、ママは振り返って微笑んだ。


「そうね。あなたにとっては、今日が初めて」


 やがて、ある部屋の扉の前で、ママが立ち止まる。見覚えのない扉。取っ手は古くもなく、新しくもなく、ただ無機質にそこにある。


 ママは扉を開ける前に、そっとエルスを抱きしめた。

 突然の温もりに、エルスは一瞬、息を止める。その腕は優しく、強くも弱くもない。


 幼い頃の記憶が、ふっと脳裏に蘇る。

 ずっと前、慕っていた年長の子が卒業して、エルスは一晩中泣いたことがある。

 止められなくて、苦しくて、胸が破れそうで。

 ママはそのときも何も言わず、ただこうして抱きしめてくれた。温かい腕の中で、エルスは安心して、気づけば眠っていた。

 泣き疲れた頬に、ママの衣の匂いが残っていた事を今もまだ覚えている。

 そして今も、同じ匂いがする。胸の奥のざわめきが、少しずつ静まっていくのを感じた。


「怖がらなくていいのよ」


 ママの声が、耳元で囁く。

 怖い、と言ったつもりはなかった。けれど――そうか。自分は怖がっていたのかもしれない。

 ママがゆっくりと体を離す。それでも、腕の温もりはしばらく残っていた。


「さあ」


 扉が開く。部屋の奥は暗く、空気がひんやりとしている。いつもの食堂や寝室とは違う匂いがした。

 エルスは一歩、踏み出した。胸の奥が、ほんの少し軽い。

 ルカの言葉が残っている。紐の結び目が、手首にある。

 外の世界へ向かうのだと、まだ実感はない。それでも、足は部屋の中へ進んでいく。

 安心と不安を半分ずつ抱えながら、エルスは、知らない扉の向こうへ入っていった。


【年齢】

エルス 11歳

ファイ 12歳

ルカ  12歳

ロイ  10歳


作中で年齢に言及する事を忘れた愚か者です。どうか責めて貶して辱めて下さい。

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