11.傷の外側
エルスの視界は、ある一点を捉えて離れなかった。
逆光の中に立つ少女は、光に縁取られて、その細い輪郭だけが切り抜かれたようだった。
彼女は少し首を傾け、目を細めて、地に伏すエルスを静かに見下ろしている。
「あんた、何やってんの」
咎めるような声だった。
だが、何に対しての叱責なのか分からず、エルスは言葉を失う。
少女は一度だけ、倒れている兵士と戦場跡の方へ視線を流した。
「人が来る前に移動するわよ」
言い終えると同時に、彼女は戦場とは逆の方向へ歩き出す。迷いのない足取りだった。
エルスは一瞬その場で呆けていたが、それから慌てて立ち上がり、腹を抑えながら後を追う。
次第に、状況が頭の中で繋がっていく。
優しく声をかけてきた兵士。頭を撫でられた時の笑顔が、まだ脳裏に残っている。同時に、剣を抜いた時の、あの殺意に染まった顔も。
「死んじゃいないわ、多分」
エルスがしきりに兵士の方を振り返っていると、少女がそう言った。
「……あの、ありがとう」
その背中に言うと、少女は足を止めずに、素っ気なく返す。
「何が」
「助けて……くれたんだよな?」
喉がひくりと鳴り、声が思ったよりも細くなった。
「別に、あんたの為じゃないわ」
次の瞬間、彼女が振り向いた拍子に金色の髪が揺れる。
強い意志の宿る瞳が、真っすぐにエルスを捉えた。
「というか、バッカじゃないの?」
そう言うと少女は距離を詰め、エルスの胸元を指で突きながら、畳みかける。
「帝国兵の前で魔術を使うなんて。それも! 全くもって! どうでもいい場面で!」
背丈はエルスより小さい。だが、言葉の勢いがそのまま圧になり、エルスは思わず仰け反るところだった。
「ごめん……。知らなかったんだ。こんなことになるなんて」
少女は訝しむようにエルスを見つめ、大きく息を吐く。
「はあ……、こんな北方の田舎だと、情勢にも疎いのね」
肩を落とし、踵を返す。
その小さな背中には、苛立ちと同時に、微かな諦観が滲んでいた。
「ついてきなさい」
命令口調だったが、言葉には不思議なほどの確かさがあった。
“外の世界”で出会った人々――。村人のみんなには、秩序があった。けれど、あの兵士の行動は、エルスの理解を超えたものだった。
――世界を見る前に、世界を知らなきゃいけない。
エルスは強くそう思い、彼女の後を追いかけた。
道中、少女は度々振り返る。その目線はエルスの腹部に向いているようだ。
「活性系統はあまり得意じゃないの。この先に私の拠点があるわ。薬や医療器具もいくつか。そこで治療するわよ」
「活性?」
「あー……、後で説明するわ」
歩調は早く、周辺を知り尽くしているかのように、迷いがなかった。
木々を抜ける足取りも、風に煽られる外套の揺れも、すべてが無駄なく整っていた。
「少し、聞いてもいいか」
「なに?」
エルスは歩きながら、左手を掲げた。
革の手袋の中央、手のひらの位置に、ぽうっと小さな炎が浮かぶ。
「魔術って、これだよな。どうしてさっきの人はこれを見た瞬間に襲ってきたのか、教えてくれ」
少女は足を止め、ゆっくりと振り返り、炎とエルスの顔を見比べる。その目に浮かんだのは、驚きではなく、呆れに近い感情だった。
「……ほんと、危なっかしいわね」
小さく息を吐き、再び歩き出す。
「帝国と魔術師が敵対関係にあるからよ。言っとくけど、世界中誰でも知ってる常識だからね、これ」
「帝国って?」
「…………大陸中央に栄え、多くの属国を持つ軍事国家よ。最近じゃ北方で変な動きもしてるみたい。あんたも魔力落ちなら近づかない事ね」
「……魔力?」
「ああ、もう! 後で説明する!」
少女が苛立ったように前髪を払って、歩調を早めたので、これ以上の質問は控えて足を動かす。
荒野を外れ、木々を抜け、緩やかな下り坂を越える。
土の乾いた匂いに、青い葉の湿り気が混じる。風がやわらぎ、音が吸い込まれるように静まっていく。
背の高い針葉樹が間隔を空けて立ち並び、その根元に低木と苔が広がっている。
陽光は枝葉に遮られ、地面に落ちる光は細く、揺れていた。
戦場跡の荒野が、ひとつの傷口だとしたら、ここはその縁に縫い込まれた包帯のような場所だった。
少女の足取りは逡巡を知らず、奥へ、奥へと進んでいく。
やがて立ち止まると、木々の隙間を指差した。
「着いたわ」
そこには、簡易なテントがひとつ張られていた。
濃い緑色の布地は木立に溶け込み、注意深く見なければ気づかない。
その前には、すでに消えかけた焚き火の跡。黒く焦げた石が円を描き、灰が薄く散っている。
少女はテントの留め具を外し、内側を開いた。その中は、決して整ってはいなかった。
布団代わりの厚手の布が床に敷かれ、その上に外套が無造作に投げ出されている。壁際には、大きな背負い鞄。口が開き、瓶や包帯の端が覗いていた。
さらに、分厚い本が数冊、羊皮紙の束、書きかけの魔法陣。簡素な杖が一本、立てかけられている。
けれど――雑然としていながら、必要なものはすぐに取り出せそうな配置だった。
「狭いけど、我慢して」
そう言って、少女は荷物を足で脇へ寄せる。
エルスは入り口で一瞬躊躇したが、やがて促されるままに中へ入ると、布の上に腰掛ける。
視線の先では、少女が荷物を漁り、一冊の本を取り出してページを捲り始めた。表紙の文字から察するに、医学に関係した内容のようだ。その中のいくつかの項を流し読んだ後、鞄から包帯を取り出す。
その様子に一抹の不安を覚えたエルスは、恐る恐る聞いてみる。
「……もしかして、医学知識とか無いのか?」
「さっきまではね。もう大丈夫。完璧よ」
その曇りなき眼が逆にエルスの恐怖を呼び起こし、思わず後ずさりする。
「ま、待った。まずはその本を僕に――」
「ガタガタうるさいわね。いいからさっさと傷口を見せなさい!」
少女は遠慮も躊躇も無く、エルスの衣服を捲り、そして――固まる。
その様子に、エルスも自身の腹部を見下ろした。
捲られた衣服には、滲んだ血が固まっている。確かに腹部を切られ、鋭い痛みと共に多量の血が出たはずだ。
だというのに――二人の視線の先には、僅かな傷口も無かったのだ。
本当は――心のどこかでは気付いていた。自身の身体の異常性を。
あの雪山を下りている時、手足は次第に青紫色になり、最後には黒く壊死していた。朦朧とする意識の中、それだけは記憶していた。
しかし、村で目覚めた時、それらは完全に治っていた。それを一部の村人が気味悪がっていた事も知っていた。
施設で見た異形を思い出す――。体に穴が開いても、腕が千切れても、自然に再生したあの化け物を。
ふと、手首に目を落とす。この一年間で多少汚れてしまったが、それでもなおカラフルな色彩を保った紐が結びついていた。
異形にも、同じ紐があった。エルスと、ルカと、ファイしか持っていないあの紐を。
もしも――あれがファイのなれの果てだというなら。
自分もいつか、異形の化け物に変わってしまうのだろうか――。
「……あんた、斬られてたよね、見間違い?」
エルスは何も答えられなかった。答えたら、それが現実になってしまいそうな気がした。
「……まあいいわ。後で詳しく診る」
少女が医学書を鞄に投げ入れ、エルスの方に向き直る。
「で、帝国が北方まで進出してくるなら、この地の魔力持ちも危なくなるわけだけど。……あんた、これからどうすんの?」
問いは淡々としていたが、その裏には、答えを急かさない距離感があった。
テントの入り口から吹き込む隙間風と、森の奥で鳴く鳥の声が、沈黙をゆっくりと満たしていく。
エルスは視線を落としたまま、しばらく考え込んだ。
「村には戻れない」
「そうね。一人の魔力持ちの存在が、村全体を危険な目に合わせるかもしれないもの」
事実を述べるだけの声だったが、その言葉の裏に、切り捨てるような冷たさはなかった。エルスは唇を噛み、静かに息を吸う。
「人を探してるんだ」
腰の剣にそっと手を置くと、冷たい金属の感触が、掌に確かな重さを返す。
「それに……僕は世界の全てを見なきゃいけない」
約束を果たすために、そして自分を知るために。
それは誓いというほど強いものではなく、川の流れが向きを変える、その始まりのような感覚だった。
「そう……。じゃあしばらく同行してあげるわ。あんた危なっかしいから」
軽く言い放ちながら、少女はこちらに手を差し出す。
「リュミアよ。よろしく」
「ああ、僕はエルスだ」
名を交わしただけだった。それ以上の約束は、何ひとつなかった。
けれど、森の静けさの中で、その名は確かに根を下ろし、二人の足元に、見えない道を描き始めていた。




