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世界は、きっと美しい  作者: 白澤 知足
第2章 大陸北方編

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11.傷の外側

 エルスの視界は、ある一点を捉えて離れなかった。

 逆光の中に立つ少女は、光に縁取られて、その細い輪郭だけが切り抜かれたようだった。

 彼女は少し首を傾け、目を細めて、地に伏すエルスを静かに見下ろしている。


「あんた、何やってんの」


 咎めるような声だった。

 だが、何に対しての叱責なのか分からず、エルスは言葉を失う。

 少女は一度だけ、倒れている兵士と戦場跡の方へ視線を流した。


「人が来る前に移動するわよ」


 言い終えると同時に、彼女は戦場とは逆の方向へ歩き出す。迷いのない足取りだった。

 エルスは一瞬その場で呆けていたが、それから慌てて立ち上がり、腹を抑えながら後を追う。

 

 次第に、状況が頭の中で繋がっていく。

 優しく声をかけてきた兵士。頭を撫でられた時の笑顔が、まだ脳裏に残っている。同時に、剣を抜いた時の、あの殺意に染まった顔も。


「死んじゃいないわ、多分」


 エルスがしきりに兵士の方を振り返っていると、少女がそう言った。


「……あの、ありがとう」


 その背中に言うと、少女は足を止めずに、素っ気なく返す。


「何が」

「助けて……くれたんだよな?」


 喉がひくりと鳴り、声が思ったよりも細くなった。


「別に、あんたの為じゃないわ」


 次の瞬間、彼女が振り向いた拍子に金色の髪が揺れる。

 強い意志の宿る瞳が、真っすぐにエルスを捉えた。


「というか、バッカじゃないの?」


 そう言うと少女は距離を詰め、エルスの胸元を指で突きながら、畳みかける。


「帝国兵の前で魔術を使うなんて。それも! 全くもって! どうでもいい場面で!」


 背丈はエルスより小さい。だが、言葉の勢いがそのまま圧になり、エルスは思わず仰け反るところだった。


「ごめん……。知らなかったんだ。こんなことになるなんて」


 少女は訝しむようにエルスを見つめ、大きく息を吐く。


「はあ……、こんな北方の田舎だと、情勢にも疎いのね」


 肩を落とし、踵を返す。

 その小さな背中には、苛立ちと同時に、微かな諦観が滲んでいた。


「ついてきなさい」


 命令口調だったが、言葉には不思議なほどの確かさがあった。


 “外の世界”で出会った人々――。村人のみんなには、秩序があった。けれど、あの兵士の行動は、エルスの理解を超えたものだった。

 ――世界を見る前に、世界を知らなきゃいけない。

 エルスは強くそう思い、彼女の後を追いかけた。


 道中、少女は度々振り返る。その目線はエルスの腹部に向いているようだ。


「活性系統はあまり得意じゃないの。この先に私の拠点があるわ。薬や医療器具もいくつか。そこで治療するわよ」

「活性?」

「あー……、後で説明するわ」


 歩調は早く、周辺を知り尽くしているかのように、迷いがなかった。

 木々を抜ける足取りも、風に煽られる外套の揺れも、すべてが無駄なく整っていた。


「少し、聞いてもいいか」

「なに?」


 エルスは歩きながら、左手を掲げた。

 革の手袋の中央、手のひらの位置に、ぽうっと小さな炎が浮かぶ。


「魔術って、これだよな。どうしてさっきの人はこれを見た瞬間に襲ってきたのか、教えてくれ」


 少女は足を止め、ゆっくりと振り返り、炎とエルスの顔を見比べる。その目に浮かんだのは、驚きではなく、呆れに近い感情だった。


「……ほんと、危なっかしいわね」


 小さく息を吐き、再び歩き出す。


「帝国と魔術師が敵対関係にあるからよ。言っとくけど、世界中誰でも知ってる常識だからね、これ」

「帝国って?」

「…………大陸中央に栄え、多くの属国を持つ軍事国家よ。最近じゃ北方で変な動きもしてるみたい。あんたも魔力落ちなら近づかない事ね」

「……魔力?」

「ああ、もう! 後で説明する!」


 少女が苛立ったように前髪を払って、歩調を早めたので、これ以上の質問は控えて足を動かす。

 

 荒野を外れ、木々を抜け、緩やかな下り坂を越える。

 土の乾いた匂いに、青い葉の湿り気が混じる。風がやわらぎ、音が吸い込まれるように静まっていく。

 背の高い針葉樹が間隔を空けて立ち並び、その根元に低木と苔が広がっている。

 陽光は枝葉に遮られ、地面に落ちる光は細く、揺れていた。

 戦場跡の荒野が、ひとつの傷口だとしたら、ここはその縁に縫い込まれた包帯のような場所だった。


 少女の足取りは逡巡(しゅんじゅん)を知らず、奥へ、奥へと進んでいく。

 やがて立ち止まると、木々の隙間を指差した。


「着いたわ」


 そこには、簡易なテントがひとつ張られていた。

 濃い緑色の布地は木立に溶け込み、注意深く見なければ気づかない。

 その前には、すでに消えかけた焚き火の跡。黒く焦げた石が円を描き、灰が薄く散っている。


 少女はテントの留め具を外し、内側を開いた。その中は、決して整ってはいなかった。

 布団代わりの厚手の布が床に敷かれ、その上に外套が無造作に投げ出されている。壁際には、大きな背負い鞄。口が開き、瓶や包帯の端が覗いていた。

 さらに、分厚い本が数冊、羊皮紙の束、書きかけの魔法陣。簡素な杖が一本、立てかけられている。

 けれど――雑然としていながら、必要なものはすぐに取り出せそうな配置だった。


「狭いけど、我慢して」


 そう言って、少女は荷物を足で脇へ寄せる。

 エルスは入り口で一瞬躊躇したが、やがて促されるままに中へ入ると、布の上に腰掛ける。


 視線の先では、少女が荷物を漁り、一冊の本を取り出してページを捲り始めた。表紙の文字から察するに、医学に関係した内容のようだ。その中のいくつかの項を流し読んだ後、鞄から包帯を取り出す。

 その様子に一抹の不安を覚えたエルスは、恐る恐る聞いてみる。


「……もしかして、医学知識とか無いのか?」

「さっきまではね。もう大丈夫。完璧よ」


 その曇りなき眼が逆にエルスの恐怖を呼び起こし、思わず後ずさりする。


「ま、待った。まずはその本を僕に――」

「ガタガタうるさいわね。いいからさっさと傷口を見せなさい!」


 少女は遠慮も躊躇も無く、エルスの衣服を捲り、そして――固まる。

 その様子に、エルスも自身の腹部を見下ろした。

 捲られた衣服には、滲んだ血が固まっている。確かに腹部を切られ、鋭い痛みと共に多量の血が出たはずだ。

 だというのに――二人の視線の先には、僅かな傷口も無かったのだ。


 本当は――心のどこかでは気付いていた。自身の身体の異常性を。

 あの雪山を下りている時、手足は次第に青紫色になり、最後には黒く壊死していた。朦朧とする意識の中、それだけは記憶していた。

 しかし、村で目覚めた時、それらは完全に治っていた。それを一部の村人が気味悪がっていた事も知っていた。


 施設で見た異形を思い出す――。体に穴が開いても、腕が千切れても、自然に再生したあの化け物を。

 ふと、手首に目を落とす。この一年間で多少汚れてしまったが、それでもなおカラフルな色彩を保った紐が結びついていた。

 異形にも、同じ紐があった。エルスと、ルカと、ファイしか持っていないあの紐を。

 もしも――あれがファイのなれの果てだというなら。

 自分もいつか、異形の化け物に変わってしまうのだろうか――。


「……あんた、斬られてたよね、見間違い?」


 エルスは何も答えられなかった。答えたら、それが現実になってしまいそうな気がした。


「……まあいいわ。後で詳しく診る」


 少女が医学書を鞄に投げ入れ、エルスの方に向き直る。


「で、帝国が北方まで進出してくるなら、この地の魔力持ちも危なくなるわけだけど。……あんた、これからどうすんの?」


 問いは淡々としていたが、その裏には、答えを急かさない距離感があった。

 テントの入り口から吹き込む隙間風と、森の奥で鳴く鳥の声が、沈黙をゆっくりと満たしていく。

 エルスは視線を落としたまま、しばらく考え込んだ。


「村には戻れない」

「そうね。一人の魔力持ちの存在が、村全体を危険な目に合わせるかもしれないもの」


 事実を述べるだけの声だったが、その言葉の裏に、切り捨てるような冷たさはなかった。エルスは唇を噛み、静かに息を吸う。


「人を探してるんだ」


 腰の剣にそっと手を置くと、冷たい金属の感触が、掌に確かな重さを返す。


「それに……僕は世界の全てを見なきゃいけない」


 約束を果たすために、そして自分を知るために。

 それは誓いというほど強いものではなく、川の流れが向きを変える、その始まりのような感覚だった。


「そう……。じゃあしばらく同行してあげるわ。あんた危なっかしいから」


 軽く言い放ちながら、少女はこちらに手を差し出す。


「リュミアよ。よろしく」

「ああ、僕はエルスだ」


 名を交わしただけだった。それ以上の約束は、何ひとつなかった。

 けれど、森の静けさの中で、その名は確かに根を下ろし、二人の足元に、見えない道を描き始めていた。


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