10.戦場と兵士
春は来ているはずだった。
雪解け水が土に染み込み、凍っていた大地はゆっくりと息を取り戻している。村を囲む針葉樹の枝先には、わずかながらも芽吹きの色が見えはじめていた。
それでも、どこか落ち着かない空気が村に漂っていた。
カイルはまだ、戻っていない。
彼が戦の話を口にしてから、すでに数日が過ぎている。
酒の席での勢いだと笑い飛ばそうとした者もいたが、夜が明け、さらに夜が来ても、彼の姿は見えなかった。
「若い奴は、勢いで動くからな」
そう言った者の声にも、どこか自信がなかった。
村は小さく、噂はすぐに広がる。そして噂は、いつも不安の形をとって人の胸に残った。
エルスは、裏山で罠の点検をしていた。
木の枝と獣皮で作られた簡素な仕掛けを持ち上げ、絡まった紐を解く。霜で固くなった結び目は指先に冷たく、解くたびに皮膚の感覚が少しずつ遠のいていく。
ふと、視線を上げる。山の向こうは今日も静かだった。
――行ったのだろうか。
胸に浮かんだ考えを押し殺すように、エルスは息を吐く。
誰も口には出さないが、皆が同じことを考えているのは分かっていた。
その知らせは、昼を少し過ぎた頃に届いた。
近隣国に毛皮を売りに行っていた男が、慌てて村に帰ってきたのだ。息を切らして、馬から転げ落ちるように降りる。外套の裾は泥に汚れ、遠路を急いできたことが誰の目にも分かった。
「――戦が、始まった」
集会所の前に集まっていた村人たちのざわめきが、ぴたりと止まる。
春先の風が吹き抜け、屋根の上の雪解け水が、ぽたりと地面に落ちた。
「ハーストヴィルと、帝国属国だ。近くで衝突があった」
ハーストヴィル――。村からは馬で半日ほどの距離にある小国だ。
男は深く息を吸い込み、言葉を続ける。
「規模は分からない。だが、兵が動いているのは確かだ」
戦。その言葉は、これまで村にとって遠い出来事だった。地図の上の出来事であり、酒の席で語られる昔話の延長でしかなかった。
しかし、今回は違う。誰もがカイルの顔を思い浮かべていた。
ブラムは無言のまま、男の話を聞いていた。視線は地面に向けられている。何かを言おうとして、結局言葉を飲み込んだようにも見えた。
村人たちは、それ以上問いただすことが出来なかった。
戦の詳細よりも、戻らない若者のことが、胸に重くのしかかっていたからだ。
エルスは、集会所の外でその話を聞いていた。
耳に入る言葉一つ一つが、冷たい水のように胸へ落ちていく。
風に揺れる木々の枝が、きし、と音を立てた。
夜、村は早く眠りについた。灯りの消える時間が、いつもより早い。
エルスは、小屋の中で最低限の荷を整えた。干し肉を布に包み、水袋を確かめ、手袋をはめ直す。靴紐を結ぶ指先は、静かだった。
誰にも告げなかった。告げれば、止められると分かっていた。
戸を開けると、夜気が肌を刺す。
空は澄み、星が冴え冴えと瞬いていた。雪解けの進んだ地面はまだ冷たく、踏みしめるたびに微かな音を立てる。
「――行くのか」
村の敷居を出るまさにその時、背後から声がした。
そこには――ブラムが立っていた。外套を羽織り、手には火の落ちかけた松明を持っている。深い皺の刻まれた顔に、夜の影が濃く落ちていた。
「あの馬鹿息子の事なら放っておけ」
吐き捨てるような言葉だったが、その声音には、いつもの荒さよりも疲れが滲んでいた。エルスは一歩踏み出しかけて、立ち止まる。
「本当は心配なんですよね、カイルの事」
「……そう思うなら、心配事を二つに増やしてくれるな」
短い沈黙が落ちた。遠くで風が鳴り、木々がざわめく音がする。
「カイルの無事を確認してきます。それに……」
エルスは一度、息を整えた。
胸の奥で、何かが確かに鳴っている。それは恐怖ではなく、決意に近いものだった。
「僕は、世界を見ないといけない」
ブラムは眉を動かしただけで、すぐに視線を逸らした。
「……北方の大地は、半端な奴が生き残れる場所じゃあない」
「それでも、行きます」
ブラムは何も言わず、ただエルスを見る。その目は厳しかったが、拒んではいなかった。
やがて、彼は手に持っていた何かをエルスに差し出す。
「……なら、一つ頼まれてくれるか」
鞘に収められた剣だった。見た目以上に重く、鍔には華やかな装飾が刻まれている。
初めて手にする、本物の剣だ。
「村で一番上等な剣だ。……あの馬鹿に会ったら渡してやってくれ。それまでは、身を守るために使うといい。お前さんの力でも振れるはずだ」
「……きっと、届けます」
「おう」
短い返事だったが、それ以上の言葉は必要なかった。
ブラムは剣から手を離し、腕を組みなおす。
「いつでも、帰ってこい」
その言葉を聞いたとき、エルスは何も返せなかった。返せば、足が止まる気がした。
彼はただ頷き、剣を握り直すと、振り返らずに歩き出す。
夜は静かで、星は変わらず光っている。
道は、前に続いていた。
――――――――――――――――――――――――――
山道は暗く、獣道と人の道の境が曖昧になる。
月明かりを頼りに足を運び、時折立ち止まっては耳を澄ませた。遠くで梟が鳴き、風が谷を抜けていく。
昼間に聞いた情報を頼りに、その方角へとひたすら足を動かす。
夜が明ける頃、山の向こうが薄く白んだ。
空の色が変わるにつれ、道の様子も変わっていく。
踏み荒らされた草。折れた枝。車輪の跡。
人の流れが、確かにここを通った。
昼が近づくにつれ、空気が変わった。
鉄の匂い。焦げた木。湿った土。
エルスは歩みを緩めた。
胸の奥が、静かにざわつく。
森を抜けた先の荒野に、戦場はあった。
いや、正確には――戦場だった“跡”だ。
野は無残に踏み荒らされ、草は倒れ、土は掘り返されている。折れた槍、裂けた盾、歪んだ鎧。血の跡は乾き、地面に黒い染みを作っていた。
そして、人がいた。
軍服を着た兵士たちが、無言で後始末をしている。
遺体を運び、武具を集め、火を起こしている。
戦は、既に終わっていた。間に合わなかった、という言葉すら浮かばない。
エルスは、ただ、その場に立ち尽くしていた。
軍服を着た、若い男だった。無精髭が伸びた口でパイプをふかし、鎧の留め具は外され、肩にかけた外套は泥に汚れている。彼は一瞬、エルスの全身を見回し、それから腰に差された剣へと視線を落とした。
「……おい」
低く、しかし敵意のない声だった。
エルスが一歩近づくと、男は周囲を見渡し、手招きした。
「こっちだ」
木立の影まで行って、止まる。倒れた木と低い茂みが視線を遮っているような、戦場の喧騒から切り離された場所だった。
兵士は改めてエルスを見る。
泥に汚れた衣服。年齢に見合わない剣。
「戦場漁りか」
断定ではなく、確認のような言い方だった。
エルスは否定も肯定もしなかった。ただ立っていた。
「まあいい。生きるためだろ」
男はそう言って、懐に手を入れた。革袋から取り出した数枚の硬貨を、エルスの掌に落とす。
「これで今日の飯くらいは食える。死体を漁るよりはまだましだ」
「ありがとう……でも、受け取れません。ここには人を探しに来ました」
「何?」
兵士の眉がわずかに動いた。
予想外だったのだろう。硬貨を返そうとする子供も、戦場跡で誰かを探す子供も、ここでは珍しかった。
「カイルという人を知りませんか? 年は十七で、ちょうどあなたくらいの背丈で……。肩幅が広くて、栗色の髪で……」
言葉を重ねるほど、エルスの声は低くなっていく。
それが希望を積み上げる行為だと、どこかで分かっていた。
言葉の途中で、兵士は首を振る。
「分からないが、この戦に来てたんなら……駄目だろうな」
そう言って、荒野に視線を投げる。
「ここじゃ命の価値は紙切れみたいなもんだ。瞬きの間に倒れて、終わったら、あれだ」
視線の先では、積み上げられた遺体に火が放たれていた。
黒い煙が空に立ち上り、昼の光を鈍く曇らせている。
焦げた匂いが、風に乗って流れてきた。
「だから坊主、お前はこんなところに来ちゃだめだ。分かったか?」
「……はい」
兵士はその返事を聞くと、エルスの頭にぽんと手を置いた。
乾いた手のひらから、温度が伝わる。
「……っと、火が消えちまった」
男は踵を返し、戦場の方へ歩き出す。
口に咥えたパイプを指で叩きながら。
その背中を、エルスは見送った。
見送って――思い出したかのように、呼び止めた。
「あの、火なら、あります」
兵士が振り返り、エルスの手を見る。
そこには、手袋の内側で風に揺られながらも、小さな火が灯っていた。
その瞬間――彼の顔から、さっきまでの緩みが消えた。
空気が凍り付き、一瞬だけ時間が止まったかのようだった。
「お前――魔力持ちか」
「え――」
言葉を選ぶ時間は、与えられなかった。
鋼が光を反射する。男の剣が振り下ろされる。
驚き、仰け反り、エルスは地面に倒れた。
腹に、鋭い熱が走る。遅れて、血が衣服を濡らした。
――息が詰まる。一体何が起きているのか理解できなかった。
しかし、エルスの思考を待つことなく、兵士は再び剣を振り上げる。
「死ね――」
その瞬間だった。空を裂くように、“線”が走った。金属音と共に、兵士の剣が弾き飛ばされ、地面に転がる。
次いで、何もないはずの空間に水が現れた。それは見る見るうちに、球体状に兵士の顔を覆っていく。
男は陸にいながらも、まるで水面に上がろうとするように必死にもがいたが、やがて力尽き崩れ落ちる。同時に、水は音もなく地面に落ちた。
そして――倒れた兵士の背後から、一人の少女が歩み出た。
黒い外套。風に揺れる長い金髪。年齢は、エルスとそう変わらないだろう。
エルスは地面に座り込んだまま、その姿を見上げる。
ただ、分からなかった。男の豹変も。何が起きたのかも。この少女が誰なのかも。
腹の痛みも、血の温かさも、今は遠い。
静寂が戻る。煙が流れ、風が草を撫でる。
苔むした木々の足元に彼女の影が、長く伸びていた――。




