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世界は、きっと美しい  作者: 白澤 知足
第2章 大陸北方編

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10.戦場と兵士

 春は来ているはずだった。

 雪解け水が土に染み込み、凍っていた大地はゆっくりと息を取り戻している。村を囲む針葉樹の枝先には、わずかながらも芽吹きの色が見えはじめていた。


 それでも、どこか落ち着かない空気が村に漂っていた。

 カイルはまだ、戻っていない。


 彼が戦の話を口にしてから、すでに数日が過ぎている。

 酒の席での勢いだと笑い飛ばそうとした者もいたが、夜が明け、さらに夜が来ても、彼の姿は見えなかった。


「若い奴は、勢いで動くからな」


 そう言った者の声にも、どこか自信がなかった。

 村は小さく、噂はすぐに広がる。そして噂は、いつも不安の形をとって人の胸に残った。


 エルスは、裏山で罠の点検をしていた。

 木の枝と獣皮で作られた簡素な仕掛けを持ち上げ、絡まった紐を解く。霜で固くなった結び目は指先に冷たく、解くたびに皮膚の感覚が少しずつ遠のいていく。


 ふと、視線を上げる。山の向こうは今日も静かだった。

 ――行ったのだろうか。

 胸に浮かんだ考えを押し殺すように、エルスは息を吐く。

 誰も口には出さないが、皆が同じことを考えているのは分かっていた。


 その知らせは、昼を少し過ぎた頃に届いた。

 近隣国に毛皮を売りに行っていた男が、慌てて村に帰ってきたのだ。息を切らして、馬から転げ落ちるように降りる。外套の裾は泥に汚れ、遠路を急いできたことが誰の目にも分かった。


「――戦が、始まった」


 集会所の前に集まっていた村人たちのざわめきが、ぴたりと止まる。

 春先の風が吹き抜け、屋根の上の雪解け水が、ぽたりと地面に落ちた。


「ハーストヴィルと、帝国属国だ。近くで衝突があった」


 ハーストヴィル――。村からは馬で半日ほどの距離にある小国だ。

 男は深く息を吸い込み、言葉を続ける。


「規模は分からない。だが、兵が動いているのは確かだ」


 戦。その言葉は、これまで村にとって遠い出来事だった。地図の上の出来事であり、酒の席で語られる昔話の延長でしかなかった。

 しかし、今回は違う。誰もがカイルの顔を思い浮かべていた。

 ブラムは無言のまま、男の話を聞いていた。視線は地面に向けられている。何かを言おうとして、結局言葉を飲み込んだようにも見えた。


 村人たちは、それ以上問いただすことが出来なかった。

 戦の詳細よりも、戻らない若者のことが、胸に重くのしかかっていたからだ。

 エルスは、集会所の外でその話を聞いていた。

 耳に入る言葉一つ一つが、冷たい水のように胸へ落ちていく。

 風に揺れる木々の枝が、きし、と音を立てた。


 夜、村は早く眠りについた。灯りの消える時間が、いつもより早い。

 エルスは、小屋の中で最低限の荷を整えた。干し肉を布に包み、水袋を確かめ、手袋をはめ直す。靴紐を結ぶ指先は、静かだった。


 誰にも告げなかった。告げれば、止められると分かっていた。

 戸を開けると、夜気が肌を刺す。

 空は澄み、星が冴え冴えと瞬いていた。雪解けの進んだ地面はまだ冷たく、踏みしめるたびに微かな音を立てる。


「――行くのか」


 村の敷居を出るまさにその時、背後から声がした。

 そこには――ブラムが立っていた。外套を羽織り、手には火の落ちかけた松明を持っている。深い皺の刻まれた顔に、夜の影が濃く落ちていた。


「あの馬鹿息子の事なら放っておけ」


 吐き捨てるような言葉だったが、その声音には、いつもの荒さよりも疲れが滲んでいた。エルスは一歩踏み出しかけて、立ち止まる。


「本当は心配なんですよね、カイルの事」

「……そう思うなら、心配事を二つに増やしてくれるな」


 短い沈黙が落ちた。遠くで風が鳴り、木々がざわめく音がする。


「カイルの無事を確認してきます。それに……」


 エルスは一度、息を整えた。

 胸の奥で、何かが確かに鳴っている。それは恐怖ではなく、決意に近いものだった。


「僕は、世界を見ないといけない」


 ブラムは眉を動かしただけで、すぐに視線を逸らした。


「……北方の大地は、半端な奴が生き残れる場所じゃあない」

「それでも、行きます」


 ブラムは何も言わず、ただエルスを見る。その目は厳しかったが、拒んではいなかった。

 やがて、彼は手に持っていた何かをエルスに差し出す。


「……なら、一つ頼まれてくれるか」


 鞘に収められた剣だった。見た目以上に重く、鍔には華やかな装飾が刻まれている。

 初めて手にする、本物の剣だ。


「村で一番上等な剣だ。……あの馬鹿に会ったら渡してやってくれ。それまでは、身を守るために使うといい。お前さんの力でも振れるはずだ」

「……きっと、届けます」

「おう」


 短い返事だったが、それ以上の言葉は必要なかった。

 ブラムは剣から手を離し、腕を組みなおす。


「いつでも、帰ってこい」


 その言葉を聞いたとき、エルスは何も返せなかった。返せば、足が止まる気がした。

 彼はただ頷き、剣を握り直すと、振り返らずに歩き出す。

 夜は静かで、星は変わらず光っている。

 道は、前に続いていた。


――――――――――――――――――――――――――


 山道は暗く、獣道と人の道の境が曖昧になる。

 月明かりを頼りに足を運び、時折立ち止まっては耳を澄ませた。遠くで梟が鳴き、風が谷を抜けていく。

 昼間に聞いた情報を頼りに、その方角へとひたすら足を動かす。


 夜が明ける頃、山の向こうが薄く白んだ。

 空の色が変わるにつれ、道の様子も変わっていく。

 踏み荒らされた草。折れた枝。車輪の跡。

 人の流れが、確かにここを通った。


 昼が近づくにつれ、空気が変わった。

 鉄の匂い。焦げた木。湿った土。

 エルスは歩みを緩めた。

 胸の奥が、静かにざわつく。


 森を抜けた先の荒野に、戦場はあった。

 いや、正確には――戦場だった“跡”だ。

 野は無残に踏み荒らされ、草は倒れ、土は掘り返されている。折れた槍、裂けた盾、歪んだ鎧。血の跡は乾き、地面に黒い染みを作っていた。


 そして、人がいた。

 軍服を着た兵士たちが、無言で後始末をしている。

 遺体を運び、武具を集め、火を起こしている。


 戦は、既に終わっていた。間に合わなかった、という言葉すら浮かばない。

 エルスは、ただ、その場に立ち尽くしていた。

 軍服を着た、若い男だった。無精髭が伸びた口でパイプをふかし、鎧の留め具は外され、肩にかけた外套は泥に汚れている。彼は一瞬、エルスの全身を見回し、それから腰に差された剣へと視線を落とした。


「……おい」


 低く、しかし敵意のない声だった。

 エルスが一歩近づくと、男は周囲を見渡し、手招きした。


「こっちだ」


 木立の影まで行って、止まる。倒れた木と低い茂みが視線を遮っているような、戦場の喧騒から切り離された場所だった。

 兵士は改めてエルスを見る。

 泥に汚れた衣服。年齢に見合わない剣。


「戦場漁りか」


 断定ではなく、確認のような言い方だった。

 エルスは否定も肯定もしなかった。ただ立っていた。


「まあいい。生きるためだろ」


 男はそう言って、懐に手を入れた。革袋から取り出した数枚の硬貨を、エルスの掌に落とす。


「これで今日の飯くらいは食える。死体を漁るよりはまだましだ」

「ありがとう……でも、受け取れません。ここには人を探しに来ました」

「何?」


 兵士の眉がわずかに動いた。

 予想外だったのだろう。硬貨を返そうとする子供も、戦場跡で誰かを探す子供も、ここでは珍しかった。


「カイルという人を知りませんか? 年は十七で、ちょうどあなたくらいの背丈で……。肩幅が広くて、栗色の髪で……」


 言葉を重ねるほど、エルスの声は低くなっていく。

 それが希望を積み上げる行為だと、どこかで分かっていた。

 言葉の途中で、兵士は首を振る。


「分からないが、この戦に来てたんなら……駄目だろうな」


 そう言って、荒野に視線を投げる。

 

「ここじゃ命の価値は紙切れみたいなもんだ。瞬きの間に倒れて、終わったら、あれだ」


 視線の先では、積み上げられた遺体に火が放たれていた。

 黒い煙が空に立ち上り、昼の光を鈍く曇らせている。

 焦げた匂いが、風に乗って流れてきた。


「だから坊主、お前はこんなところに来ちゃだめだ。分かったか?」

「……はい」


 兵士はその返事を聞くと、エルスの頭にぽんと手を置いた。

 乾いた手のひらから、温度が伝わる。


「……っと、火が消えちまった」


 男は踵を返し、戦場の方へ歩き出す。

 口に咥えたパイプを指で叩きながら。

 その背中を、エルスは見送った。

 見送って――思い出したかのように、呼び止めた。


 「あの、火なら、あります」


 兵士が振り返り、エルスの手を見る。

 そこには、手袋の内側で風に揺られながらも、小さな火が灯っていた。


 その瞬間――彼の顔から、さっきまでの緩みが消えた。

 空気が凍り付き、一瞬だけ時間が止まったかのようだった。


「お前――魔力持ちか」

「え――」


 言葉を選ぶ時間は、与えられなかった。

 鋼が光を反射する。男の剣が振り下ろされる。

 驚き、仰け反り、エルスは地面に倒れた。

 腹に、鋭い熱が走る。遅れて、血が衣服を濡らした。


 ――息が詰まる。一体何が起きているのか理解できなかった。

 しかし、エルスの思考を待つことなく、兵士は再び剣を振り上げる。


「死ね――」


 その瞬間だった。空を裂くように、“線”が走った。金属音と共に、兵士の剣が弾き飛ばされ、地面に転がる。

 次いで、何もないはずの空間に水が現れた。それは見る見るうちに、球体状に兵士の顔を覆っていく。

 男は陸にいながらも、まるで水面に上がろうとするように必死にもがいたが、やがて力尽き崩れ落ちる。同時に、水は音もなく地面に落ちた。


 そして――倒れた兵士の背後から、一人の少女が歩み出た。

 黒い外套。風に揺れる長い金髪。年齢は、エルスとそう変わらないだろう。


 エルスは地面に座り込んだまま、その姿を見上げる。

 ただ、分からなかった。男の豹変も。何が起きたのかも。この少女が誰なのかも。

 腹の痛みも、血の温かさも、今は遠い。


 静寂が戻る。煙が流れ、風が草を撫でる。

 苔むした木々の足元に彼女の影が、長く伸びていた――。


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