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世界は、きっと美しい  作者: 白澤 知足
第2章 大陸北方編

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09.祝祭

 春は、音を立てずに訪れる。

 北方ではそれが、なおさら顕著だった。


 屋根に積もった雪が、昼の光に負けて静かに崩れる。

 氷をまとっていた小川が、いつの間にか水音を取り戻し、凍土の下から草の色が滲み出す。村の空気は相変わらず冷たいが、その冷たさの質が、冬とは違っていた。


 エルスは、家の裏で薪を割っていた。

 斧を振り下ろすと、乾いた音が響き、薪が二つに割れる。断面から立ちのぼる木の匂いは、まだ冬を残している。腕に力を込め、もう一度斧を振る。余計な動きはない。身体は自然に、その作業に馴染んでいた。


「相変わらず、手際がいいな」


 背後から声がして、エルスは斧を止めた。

 振り返ると、そこにはカイルが立っていた。村の青年で、エルスより5つ年上の17歳。背丈もエルスより頭一つ分高く、剣も狩りも、誰よりも上手い。


「今日は森に入るんだろ?」

「うん。罠の見回り」


 エルスは短く答え、割った薪を積み上げる。

 動作に迷いはなく、村人の目から見ても、すっかり“働き手”だった。


「終わったら、少し付き合えよ」

「稽古?」

「そうだ。最近、動きが良くなってきてる」


 カイルはそう言って、少しだけ笑った。

 その笑みには、兄のような気安さと、どこか競うような色が混じっていた。


 森へ向かう道は、まだ雪が残っている。

 だが踏み固められた獣道は歩きやすく、陽の当たる斜面では、雪解け水が靴底を濡らした。


 森の奥、獣道が緩やかに曲がる場所に、その罠は仕掛けられていた。

 若木を曲げ、その反発力を利用する吊り上げ式の罠だ。地面には踏み板があり、獣が乗れば留め金が外れ、輪縄が跳ね上がる仕組みになっている。


 だが、踏み板の片側が土に沈み、縄を引き上げる細縄も、樹皮との摩擦で毛羽立っていた。これでは、重い獣が掛かる前に力が逃げてしまう。


 エルスは腰を落とし、手袋を外す。

 冷たい土の感触が、指先に伝わった。


 踏み板を持ち上げ、下に詰まった湿った土と枯葉を取り除く。指で地面をならし、平らに整えると、踏み板はきちんと水平に戻った。次に、輪縄を外し、傷んだ部分を切り落とす。懐から取り出した予備の縄を結び足し、結び目を何度も引いて確かめる。

 若木のしなりを確認し、固定していた杭を打ち直す。石で叩くたび、乾いた音が森に吸い込まれていった。


 最後に、踏み板を軽く押す。

 ――跳ねる。

 縄が勢いよく宙を走り、狙い通りの高さまで上がった。

 エルスは満足そうに、小さく息を吐いた。


「おう、どうだ」


 声をかけられて振り向くと、村の猟師の一人、ブラムが立っていた。肩には弓を担ぎ、顔にはいつもの穏やかな皺が刻まれている。

 エルスにとって、狩猟の知識の多くを教わった、師匠のような存在だ。。


「昨日、足跡が多かった。鹿だと思うがな」

「……なら、今日はかかるかもしれません」


 エルスが答えると、ブラムは小さく笑った。


「一年で、ずいぶん村の言葉が板についた」


 からかうような調子だったが、そこに悪意はなかった。エルスは何も言わず、罠の様子をもう一度確かめる。


「昼には戻れよ。マルタが、またパンを焼きすぎたらしい」

「……分かりました」


 そう言うと、ブラムは手を振って去っていった。

 エルスは一人、森を見渡す。

 この村に来てから、一年が過ぎていた。

 あの日、雪山から現れた少年は、今では村の仕事を手伝う存在になっている。狩り、薪割り、柵の修理。力仕事は限界があるが、動きは速く、目が利いた。何より、頼まれたことを黙ってやり遂げる。

 最初は遠巻きだった視線も、今ではずっと近くなっていた。


 村の中央に戻ると、井戸のそばで子どもたちが騒いでいた。見ると、水桶がひっくり返り、靴を濡らして泣いている。


「エルス!」


 年配の女が呼ぶ。


「悪いけど、ちょっと見てやってくれる?」

「はい」


 エルスは桶を起こし、割れた縁を確かめる。完全には直らないが、応急処置として紐で締め、漏れを止めた。


「ほら、持てるか」

「うん!」


 子どもは笑顔で頷き、桶を抱えて走っていった。


「助かったよ」


 女はそう言って、干し肉を一切れ差し出した。エルスは一瞬ためらい、礼を言って受け取る。

 ――こういうやりとりが、増えた。

 深く踏み込まれることはないが、拒まれることもない。村は、彼を仲間として扱っている。


 昼を過ぎ、仕事が一段落すると、エルスは村外れの空き地へ向かった。

 そこには、既にカイルが立っていた。木で作られた模擬刀を肩に担ぎ、待ちくたびれた様子もない。


「来たな」


 二人は向かい合い、模擬刀を構える。

 合図はない。自然に、間合いが詰まる。


 最初の一撃は、カイルだった。

 鋭く、一直線。だが、エルスは半歩だけずらしてかわす。その動きは、まるで相手の刃が見えていたかのようだった。


「……いい反応だ」


 カイルが息を吐き、次の攻撃に移る。

 斬り、返し、突き。エルスは防ぎ、避け、時折反撃する。そのひとつひとつは重く、正確だった。


 数合打ち合ったところで、カイルが笑った。


「兵士一人くらいなら、相手にできるな」

「なら、カイルは小隊を相手取れるね」


 エルスは答えながら、木剣を降ろす。

 息は上がっていない。汗も、わずかだった。

 カイルはまんざらでもない笑みを浮かべ、再び構えた。

 そうして、模擬刀がぶつかり合う音は、昼下がりの村にいつまでも響いた。


――――――――――――――――――――――――――――


 その日は祝祭だった。

 夜になると、村の中央にある集会小屋に灯りが集まる。

 太い梁に吊るされた油灯が、橙色の光を落とす。石造りの炉では大鍋がぐつぐつと音を立て、煮込みの匂いが小屋いっぱいに満ちていた。干し肉と豆、根菜を刻み、冬越しの保存肉を惜しげもなく使った料理だ。香草の香りが湯気に混じり、腹の奥をやさしく刺激する。


 長い木の卓がいくつも並べられ、村人たちは思い思いに腰を下ろしていた。パン籠には黒と白のパンが混ざり、木皿には燻製の鹿肉、塩漬けの魚、干しリンゴが盛られている。春を迎えられたことへの感謝を、食べることで確かめる夜だった。


「今年は根菜の出来がいい」

「雪解け水が多かったからな」

「それでも、畑に出るのはもう少し先だ」

「今年も生き延びたな」

「生き延びただけじゃない、春だ」


 そんな声が行き交い、笑いが起きる。酒樽も開かれ、薄めた果実酒が杯に注がれていた。

 エルスも、その輪の中にいた。端ではなく、ちょうど真ん中あたり。誰かに呼ばれ、席を詰めてもらい、皿を渡される。去年の冬にはなかった光景だ。彼は静かに礼を言い、勧められるままに煮込みを口に運ぶ。

 柔らかく煮えた豆が舌の上で崩れ、脂の旨みが広がる。温かさが、身体の芯に染み込んでいくようだった。


「エルス、パンは足りてる?」

「はい、大丈夫です」


 マルタがパンを配り、ブラムが杯を掲げる。

 その様子を見ていると、自分の名を呼ぶ声がした。


「おうい、エルス、これちょっと炙ってくれ」


 振り向くと、カイルが薄切りの燻製肉をぶらぶらと振っていた。


「もう燻製してあるけど」

「焼いた方が美味いんだ、頼むよ」

「はいはい」


 エルスが手袋を嵌めて掌をかざすと、小さな火が静かに灯る。以前よりも控えめな炎だったが、問題はない。


「ありがとよ。便利なもんだな」


 カイルは満足げに言う。村の誰も、もう驚かない。

 施設の子供たちは、全員同じことが出来た。けれど、村人でそれを出来る者は居ない。

 どちらが“普通”なのか、エルスはまだ分からなかったが、彼らはその差異も含めてエルスを受け入れている。それだけで十分だった。


「――聞いたか?」


 誰かの低い声が、少しだけ抑えられて落ちる。


「南の方で、またやり合ってるらしい」

「帝国の属国と、あっちの国だろう?」

「小競り合いだって話だが……」


 食卓の端で交わされたその言葉に、空気がわずかに変わる。それにエルスが気づくより早く、カイルが顔を上げた。


「戦か」


 その声は、抑えきれない熱を含んでいた。


「好機だな」

「カイル」


 隣にいた誰かが制したが、彼は構わず続ける。


「剣一本で名を上げる奴は、いつだって戦場から出てくる。帝国だろうが辺境だろうが関係ない。強い者が残る。それだけだ」


 その時、杯を強く置く音が、はっきりと響く。

 音の先には、眉間に皺を寄せたブラムが居た。


「馬鹿なことを言うな」


 低く、しかし揺るぎない声だった。


「戦は武勲を立てる場じゃない。命を削り合う場所だ」

「親父は、臆病なだけだ」


 カイルは立ち上がる。父に向かって放つ言葉は、段々と熱を帯びていった。


「村に閉じこもって、一生を終える気か? 俺は違う」

「村を守るために、狩りをしている」

「それが限界だと言ってるんだ!」


 言葉がぶつかり合い、食卓のざわめきが止まる。誰も口を挟めない。


「豪雨に怯え、暴風に怯え、吹雪に怯え、魔獣に怯え。そうして守った僅かな実りで、かりそめの豊かさを享受する。昔と比べて、山の動物はずっと減った。こんな生活がいつまでも続くわけがない」

「みんなの不安を煽るような言い方はよせ! お前も儂も、みんなこの村で生まれ育った。この地を守る誇りを、どうして分からない……!」

「それが緩慢な自殺に過ぎないと、何故分からないんだ!」


 カイルが机を叩くと、焦げ目の付いた燻製肉が床に落ちる。

 脂の染み込んだ木の床に、黒い影が広がった。その音が、張りつめた空気をさらに硬くした。誰かが息を飲む気配があり、子供の手が母親の袖を握りしめる。火の揺らぎが一瞬だけ大きくなり、梁に映る影が歪んだ。


「俺は行く」

「……何を言っている」

「戦だ。剣を振るう場所に。畑を耕して一生を終えるなんて、ごめんだね」


 そして、小屋を出ていった。扉が閉まる音が、夜気に吸い込まれる。

 集会所には静けさが落ちた。誰も動けなかった。

 炉の火がぱちりと弾け、煮込みの鍋が静かに音を立てている。


「祝いの席に水を差して悪いな……。どうせ、酒の席での戯言だろう」

 

 ブラムは自分に言い聞かせるように呟いて、杯を手に取る。

 だが、その手はわずかに震えていた。酒を含んでも、喉は鳴らず、視線は扉の方に縫い留められたままだった。長い年月を生き抜いてきた猟師の背中が、その瞬間だけ、少し小さく見えた。


「……少し、行ってきます」


 立ち上がったエルスに誰かが何かを言いかけたが、彼は振り返らなかった。


 夜の外気は、昼間の名残をほとんど残していなかった。吐く息は白く、肌を撫でる風はまだ冬の硬さを帯びている。

 カイルはすぐに見つかった。何度剣を合わせたか分からない、あの空き地に彼は居た。月明かりの下、地面に突き立てた木剣を握り、肩で息をしている。

 エルスは近くで立ち止まり、しばらく言葉を探した後、彼の背中に向かって言った。


「本当に……行くのか?」

「この村は故郷だ。嫌いにはなれない」


 カイルは振り向かずに呟く。

 月光に照らされた肩が、僅かに上下している。怒りでも高揚でもない、押し殺した感情が、吐息の合間に滲んでいた。


「けど、明日魔獣が現れて全部を壊していくかもしれない。いずれ帝国の侵攻がここまで届くかもしれない。……俺は、この村の外を知らずに死にたくはないんだ」


 遠くで、雪解け水が流れる音がした。闇の奥で、森が静かに息をしている。

 この場所にある全てが、変わらず在り続ける保証などないのだと、その音が告げているようだった。


「俺は戦に行く。武功を立てて、名を上げるんだ。お前は……どうする?」


 問いかけは強くなかった。選択を迫るというより、ただ確かめるような響きだった。

 エルスは足元の土を見つめる。踏み固められた地面には、二人で何度も付けた剣の跡が残っている。積もった時間の痕跡が、夜露に濡れて淡く光っていた。


「俺は……」


 声を出そうとして、喉が詰まる。言葉に形を与えようとした瞬間、それがどれほど曖昧で、まだ名を持たないものかを思い知らされる。

 言葉に詰まるエルスに対し、カイルは笑って、


「じゃあな」


 短く、そう言って去っていった。

 足音は雪解けの地面に吸われるように小さくなり、やがて完全に消えた。

 空き地には、風の音だけが残った。月は変わらず高く、剣を突き立てていた場所に、冷たい光を落としている。


 カイルの眼を思い出す。夢を語り、希望に満ち溢れた眼だった。

 同じ眼で夢を語った少女を、エルスは知っていた。

 今でも鮮明に思い出せる。本を読みながら、器用に片手でパンをちぎって口に運ぶ姿。ファイから紐を受け取った時の、照れくさそうな表情。そして――。


 次の瞬間、エルスは嘔吐していた。

 まだ消化されていない肉やパンが、その形を保ったまま胃液と共に地面に染みを作る。


 この一年間、あの日の出来事を忘れた日は無い。

 あの異形を思い出すと、身が凍える。角の女を思い出すと、心に黒い感情が広がる。

 脳内では、ルカの最後の言葉がずっと反芻していた。


「――行かなきゃ」


 エルスの呟きは、夜の闇に消えていく。

 その手には、革の手袋が硬く握りしめられていた――。

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