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〈晩菊の心は既に冬にあり 涙次〉



【ⅰ】


杵塚春多はカンテラ一燈齋事務所の居候部屋を出て、新たに借りたマンションに引つ越した。考へてみれば、新進氣鋭の映画監督ともあらう者が、然も子連れで、事務所の屋根裏部屋のやうなところに巢食つてゐると云ふのも不自然だ。これからは來客も頻繁にあらうし、大體に於て只飯を食らつてゐると云ふのも可笑しい。

マンションは思ひ切つて、廣いところにした。10畳のリヴィングにキッチン、8畳・5畳の部屋がある。由香梨のプライヴェートも考へて、5畳の方は彼女の個室だ。バイクの駐車場から程からぬ處に、良い物件を見つけられたのは倖ひだつた。



【ⅱ】


映画の方の友逹が大勢詰めかけた。みんな手に手に酒とつまみを提げてゐる。牧野から轉居祝ひに一升瓶の黒糖焼酎も届き、「今夜は修羅場だな・苦笑」と思つた杵塚は、一旦由香梨を事務所に帰し、彼女の部屋には鍵を掛けた。

友人たち、來るは來るは、リヴィングと杵塚の部屋、立錐の余地もなくなつた。その中には勿論結城輪、水智欣路(前回參照)も混じつてゐる。杵塚を差し置いて、皆てんで勝手に映画論などをぶち、杵塚の監督した3作の映画を褒め讃へてゐる。酒が入る、と云ふ事で、乱闘など警戒してゐた杵塚だつたが、だうにか平和裡に濟んだのは、まあもつけの倖ひだつたらう。



【ⅲ】


輪は寄宿舎に帰つてからの事を考へて、ノンアルコールビールを自分で用意してゐた。飲酒は舎監の目が煩い。寄宿舎の門限が近づくと、彼は辞去した。それに應じて、他のメンバーも三々五々、ふらつく足取りでマンションを出て行つた。勿論、これから近所の酒場で二次會を行ふのである。殘つたのは、杵塚も一目置いてゐる、水智だけだつた。



※※※※


〈氣に入りのラルフのシャツをまた出して月日光陰思ひけるかも 平手みき〉



【ⅳ】


つひ「癖で」バイクで來てしまつたと云ふ水智は、泊まつて行く事になつた。やうやく映画の話が出來る余裕を得た杵塚、水智とアレクセイ・タルコフスキー、アレハンドロ・ホドロフスキー、ジョン・カーペンターなどのフィルムについて水智と論じあつた。彼は「スターウォーズの欣ちやん」と呼ばれるだけあつて、SFがかつた、然もシリアスな映画が好みのやうだつた。杵塚の映画も、(何せ本作、NWSFと銘打つてゐる通り)SFめいた物を感じる、と云ふ。サイエンス・フィクションではなくスペキュレイティヴ・フィクション(思弁的フィクション)の匂ひが濃厚だと云ふ。杵塚はそんな事は、自分の映画評として初めて聞いた。観る人が違へば、本質は暴かれるものである。



【ⅴ】


エアコンディションが程よく利いてゐる中、やがて水智はフローリングの上で丸くなつて寢た。杵塚は、ほつと溜め息を一つ付くと、真新しいベッドに入つて、眠つた。夢を見た。大蛇が杵塚の脚に絡まつて、身動きが取れない。水智が蛇の精である事は、前回書いた。だがそんな事は杵塚は知らない。がば、と飛び起きた。水智は書き置き(酔ひが醒めたので失礼します、とあつた)一つ殘して去つてゐた。



【ⅵ】


翌朝、宿酔ひで痛む頭を抱へて、杵塚は事務所に出所した。すると、カンテラ開口一番、「水智と云ふ男が來てゐたゞらう」と云ふ。「カンさん、知つてゐるんですか?」-「あゝ、以前斬る寸前のところまで行つた。あれは蛟(水棲の蛇)の精なんだ」-「あゝ、だうりで」-「夢見たんだな?」-「良くご存知で」-「人の夢に現れ、色々とやらかす。だが、實害はない。依頼が來たのだが、まあ『証拠不充分』と云つたところで、斬るには至らなかつた。* 安条展典と同じで、妖怪になるのは、そいつの勝手だ」-「この儘付き合ひを續けていゝものなんでせうか」-「ま、好きにするさ」



* 前シリーズ第198話參照。



【ⅶ】


だがそれつきり、水智は杵塚の前に姿を現さなかつたのである。身許がバレたせゐか。その他の理由か。分からないのだが、マンションの住所宛てに手紙が來た。「僕は、貴方は天才だと思ふ。あの夜、お話出來た事、一生忘れません。」とだけ、書いてあつた。



※※※※


〈鰤のあら生姜で煮たる菜一品 涙次〉



さて、杵塚はいゝとしても、水智が姿を晦ましたのでは、惚れた輪が可哀想である。罪な男。蛟の精の孤愁。


お仕舞ひ。

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