首輪の意味
紫煙宮の中は、外から想像するよりずっと静かだった。
後宮の他の建物が絶えず宮女たちの囁き声や足音で満ちているのとは対照的に、ここには人の気配がほとんどない。廊下を歩けば自分の足音だけが響き、壁に掛けられた薄紫の幕が風もないのにかすかに揺れている。
洛鈴は首輪付きを支えながら、楊蓮妃の後を追って廊下を進んだ。首輪付きの体重は洛鈴が思っていたよりも軽く、それがかえって胸を締め付けた。ボロ衣の下がどれほど痩せているか、支える腕越しに伝わってくる。
「そこの部屋に寝かせておけ」
楊蓮妃は振り返ることなく廊下の先を指差した。彼女が指したのは廊下のいちばん奥、他の部屋とは少し離れた位置にある小部屋だった。
洛鈴が引き戸を開けると、中には薄い寝具が一枚と古びた卓があるだけだった。格子をはめられた窓が一つあり、そこから桜の木が見える。花の季節はとうに過ぎているが、青々と茂った葉が柔らかな光を透かしていた。
「失礼します」
洛鈴は首輪付きをそっと寝具の上に横たえた。彼はまだ苦しそうに息をしていたが、横になることで少し楽になったようだった。喉元を押さえていた手が、ゆっくりと下りていく。
洛鈴は膝をついて、その顔を覗き込んだ。
前髪に隠されていた目が、今は半分ほど見えていた。切れ長の、思いのほか形の良い目だった。色は深い墨色で、今は天井の一点を見つめている。
洛鈴が覗き込んでいることに気づいて、すぐに視線を逸らした。
「水を持ってきますね」
返事はない。洛鈴はそれを了承と受け取って立ち上がった。
廊下に出ると、楊蓮妃が柱にもたれて煙管を燻らせていた。その仕草は驚くほど様になっていて、洛鈴はしばし足を止めて見惚れてしまった。
「水ならそこの瓶に入っている。茶碗はその隣だ」
「ありがとうございます」
廊下の端に小さな棚があり、確かに水瓶と茶碗が置かれていた。洛鈴が首輪付きのために茶碗に水を注いでいると、楊蓮妃が口を開いた。
「首輪付きは三年前からここにいる」
「三年……」
「私が引き取った。正確には皇帝から賜った、というべきか」
楊蓮妃は煙管から口を離し、細い煙を吐いた。
「賜った、とはどういう意味でしょうか」
黄羅では公には奴隷制を認めていない。皇帝自らが人を物のように扱うことはできない筈だった。だが洛鈴もまた奉公と題して金で売られるように後宮に来たのだ、所詮表向きでしかないのである。奴隷制を認めていないなど。
「平たくいうなら。不要になった道具を押し付けられた、という意味だ」
その言葉はあまりに冷淡で、洛鈴は思わず振り返った。楊蓮妃はすでに背を向けて、廊下の奥へと歩き始めていた。
「余計な情を掛けるな。奴は捨て駒だ。そういうものとして扱うのが奴のためでもある」
足音が遠ざかる。
洛鈴は茶碗を両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
捨て駒、という言葉が胸の中で転がった。それが正しい扱いだと言う楊蓮妃の言葉は、感情を排した論理として成立しているように聞こえる。だがそれを正しいとは、洛鈴にはどうしても思えなかった。
小部屋に戻ると、首輪付きは目を閉じていた。
「起きていますか」
返事の代わりに、まぶたがかすかに動く。
「水です。飲めそうなら飲んでください」
茶碗を卓の上に置いて、洛鈴は少し離れた場所に座った。強引に介助しようとすれば、また弾かれる。それはもうわかっていた。
首輪付きはしばらく動かなかったが、やがて体を起こして茶碗に手を伸ばした。その動作は緩慢で、喉に水を流し込む様子も痛そうだった。首輪の縁が首筋に食い込んでいる。
「その首輪は、ずっとつけているのですか」
首輪付きは洛鈴を見た。何かを問い返すような目だった。
「嫌なことを聞きました、すみません」
洛鈴は膝に手を置いて、少し考えてから言葉を続けた。
「私の名前は洛鈴です。さっき名乗りましたが、覚えていますか」
首輪付きは小さく頷いた。
「貴方のお名前を聞いてもいいですか」
彼は口を開いた。何かを言おうとしてできないことを思い出したように、口を閉じた。
洛鈴はその様子を静かに見ていた。
「名前がないわけではないのですね」
首輪付きは少し考えて、また頷いた。
「紙と筆を用意します、教えてくれないですか」
今度は頷きも首振りもしなかった。ただ洛鈴から視線を外して、窓の外の桜の木を見た。
「わかりました。では私も今のところは私も楊蓮様と同じように首輪付きと呼ばせてもらいます」
首輪付きは視線を戻して、自分の首輪を触る。
「ですが今だけです。絶対に貴方から名前を聞いて見せます」
洛鈴が微笑むと、彼はまた視線を外した。だがそれは拒絶ではなく、どこか戸惑いに似た様子だった。
窓の外で風が吹いて、桜の葉が揺れた。




