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首輪のついた怪物

 紫色の服が、水面を流れていた。

 宦官の「首輪付き」は、洗濯板に向かったまま動かない。艶やかな紫——この後宮で、あの楊蓮妃だけに許された色だ。


 ここは黄羅国の後宮。皇帝の世継ぎを産むためだけに、数多の女性が集められる場所。入ったが最後、二度と外には出られない。


 女性の人格も権利も、ここでは無に等しい。

 幸せに生きる道はただひとつ——皇帝の寵愛を得て、子を成すこと。だが皇帝の体はひとつ。限られた席を巡って、後宮は陰謀と腐敗の温床となっていた。


 それゆえ人が死ぬことなど、珍しくもない。

 

 だから、これも珍しくないはずだった。

 

 蕾のように可憐な娘が、花開く前に枯れていくことなど。

   

 ・

 

 ボロ衣を纏った男が、水路で洗濯をしている。

 

 後宮に入れる男はたった二種類。皇帝と、子を成す力を奪われた宦官のみ。どう見ても皇帝には見えない彼は、宦官だった。それも最も地位の低い、卑しい身分の。

 

 見た目にそれは表れていた。目を隠すほど伸びた前髪。今にも破れそうなボロ布の衣。

 

 だが——。

 

 その貧相な身なりの中に、ひとつだけ異彩を放つものがあった。

 

 首輪である。

 

 曇りひとつない黄金で作られた首輪。メッキなどではない。分厚く重い、純金だけで作られている。見事な蔦と炎の細工が彫り上げられた、値千金の芸術品。


 宮廷工芸の最高峰が、最下層の宦官の首を締めている。

 誰もその理由を知らない。いや、知ろうともしない。名すら語らぬ彼を、後宮の者たちは侮蔑と嘲笑を込めてこう呼んでいた。


 「首輪付き」と。


「あの、少しよろしいですか」


 声をかけたのは、まだあどけなさの残る少女だった。


 洛鈴。つい最近、後宮に入った見習い宮女である。持ち前の愛嬌で先輩たちに可愛がられ、どうにか生活に慣れ始めたばかりだった。


 首輪付きは答えない。


 聞こえなかったのか、無視しているのか。妃ならともかく、一介の宮女は宦官より地位が低い。不興を買えばどうなるか分からない。見るからに地位の低そうな男でさえ、だ。


 ここは一度引くべきだ——頭ではそう分かっていた。


 だが、引けない理由があった。

 洛鈴は意を決して、今度は肩に触れた。


「綺麗な首輪をつけた方。どうかお話を聞かせてください」


 びくっ。

 首輪付きの肩が震えた。洗濯していた服を、衝動的に洗濯板に強く擦りつけ——。

 ビリッ。破れた。


「あっ!」


 洛鈴の顔から血の気が引いた。


「申し訳ありません、私が話しかけたばかりに……」


 彼女は土下座した。破れた服——艶やかな紫色のチャイナドレス——を見つめて。


「申し訳ありません、宦官様。どうか私の命だけで済むようご配慮ください。決して貴方に責が及ばぬよう、私に償わせてください」


 紫色。

 この時代、紫の染料は大変貴重だった。洛鈴の給料では一生かかっても買えない。その貴重さ故に、高貴な者しか使えない色。


 特にこの黄羅の後宮では、たった一人の上級妃が紫色を独占していた。

 楊蓮妃。

 後宮に入る前から苛烈で知られた女。男尊女卑の強いこの時代、女だてらに数多の政敵の汚点を暴き、陥れ、今では皇帝の上級妃にまで上り詰めた傑物。


 悪い噂は絶えない。

 純潔の乙女の血を啜り若さを保っているとか、高名な道士の灰を煙管に詰めて吸っているとか。最近後宮に入ったばかりの洛鈴の耳にも、恐ろしい噂が届いていた。


 そんな上級妃の服を破ったのだ。

 首輪付きは酷い責苦を受けるに違いない——そう確信した洛鈴は、人一倍責任感の強い性分から、身代わりを申し出ていた。

 地面に頭を擦りつけて数分。

 バチャバチャという水音だけが響いている。

 何の返答もないことに不安を感じて顔を上げると、首輪付きはまだ破れた紫のチャイナドレスを洗い続けていた。


 怯えて、現実逃避しているのだ——洛鈴はそう思った。

 そして、とんでもない提案をした。


「もし、私の責だけでは足りないというなら……この後宮から逃げましょう。私に任せていただければ、一人くらいはどうにかなります」


 首輪付きが、ようやく顔を向けた。

 その視線には訝しげな光が宿っている。後宮から女が自力で外に出る手段を持っているなど、基本的にあり得ない。有力な諸侯の娘なら妃とされ、家族への人質として逃げ出せない。一般の家庭出身なら、そもそも抜け出せるような伝手など持っているはずがない。

 首輪付きもその程度の事情は心得ていた。


「信じられませんか?」


 首輪付きは首を振った。

 破れた服を指差す。

 そして、自分の胸を叩いた。


「えっと……貴方に任せろ、ということですか?」


 通じたことが嬉しかったのか、ほんの少しだけ機嫌よく首を縦に振る。


「あの、私には話す価値も……ありませんか?」


 ボディランゲージだけで会話を試みる首輪付きに、洛鈴は不安のままに聞いた。逃げ出すという話で、自分に喋る価値すらないと思われたのかと。

 首輪付きは、ああというふうに嘆息した。

 口を開いて、口内を指差す。

 洛鈴が不思議に思いながら背伸びをして覗き込むと——。

 息を呑んだ。

 舌が、ない。

 切り取られたというより引っこ抜かれ、雑に焼いて止血した痕。手術跡というにはあまりに強引で、痛々しい傷跡。


「……申し訳ありません」


 洛鈴の声が震えた。


「貴方の事情も知らずに、不快なことを聞いてしまいました」


 傷跡を見て、洛鈴はより深く決意を固めた。

 これだけ酷い目に遭ってきた人に、無遠慮に触れ、驚かせた。その結果が貴人の服を破るという、首輪付きの立場を悪くする状況。


 私が責任を負わねば——。

 走り出していた。

 破れたチャイナドレスをひったくって。

 目指すは服の持ち主、楊蓮妃の元。幸か不幸か、洛鈴は彼女の居場所を知っていた。先輩が今朝、忠告してくれていたのだ。


「今日一日、楊蓮妃様と星我妃様が茶会をなさるの。決して桜の間には近づかないように」と。


「あっ、洛鈴! どこ行ってたの? 探したわよ!」


 幼女のような背格好の先輩の姿が見える。今朝忠告をくれた先輩だ。


 ごめんなさい。——止まれません。


 洛鈴は先輩を無視して駆け抜けた。重い処罰が下される者と話していたなどと知られれば、先輩にまで累が及ぶ。無視することこそ最善だ。


(お元気で、幼女先輩)


 息も絶え絶えになった頃、「桜の間」と呼ばれる建物の前に辿り着いた。

 ちょうど門が開く。

 お付きの者も連れず、楊蓮妃と思われる人物が現れた。

 洛鈴は、息を呑んだ。

 あまりに妖艶だった。すらりとした立ち姿。大河を思わせる長く美しい黒髪。キリッとした目元に、泣きぼくろ——まさに魔性の類。


 同性の洛鈴ですら情欲を掻き立てられ、胸の高鳴りが治らない。

 確かに、あんな下劣な噂が飛び交うのも納得だ。

 楊蓮妃は、突っ立って自分を見ている洛鈴に気づいて、訝しげな目線を送った。


「そこの下女。私に何用だ」


 洛鈴は深く息を吸った。

 自らの後宮に来た目的と、これまでの人生を思い出す。

 それでも——一歩踏み出した。


「お初にお目にかかります、楊蓮妃様。私は洛鈴と申します」


 胸に大事に抱えていた服を差し出す。


「此度は、楊蓮妃様の服の美しさに目を奪われ、転倒した末に破ってしまいました」


 真っ直ぐに見つめる。


「申し訳ありません。如何様な処罰でも受け入れる所存です。どうか罰をお与えください」


 楊蓮は面白そうに目を細めた。

 洛鈴の顎を指で上げ、目と目を至近距離で合わせる。されるがままに見上げる体勢にされた洛鈴は、どこか心に踏み込まれるような不快感を感じながらも、決して目を離さない。


「お前、誰かを庇っているな」


 楊蓮の声が、低く響いた。


「ふむ……ああ、その服は首輪付きに洗濯を命じておいたものだな。奴を庇っているのか、下女」


 (首輪付き……? 彼のことをそう呼んでいるのか。やはり私が責を負うことにして良かった。名前ですら呼ばれないなど、どのような目に遭っていたことか)


「首輪付き? 誰のことでしょうか」


「あくまでシラを通すか、下女よ。正直な方が身のためだぞ」


「申し訳ありません。私は今、全て真実を語っています。首輪付き、なる方のことは存じません。破いてしまったのは私です」


「ふっ。なかなか気骨がある」


「どうしたの、楊蓮。そんなところで」


 ゆったりとしたたおやかな声が、桜の間から聞こえてくる。


 扉が開き、現れたのは——お腹が大きく膨らんだ妊婦だった。出産も程近いだろう。星我妃である。彼女は目を丸くした。


「あら楊蓮。下女の子を虐めるのは感心しないわ。めっよ」


「虐めてなどおらん」


 振り返りもせず楊蓮は答えて、洛鈴にしか聞こえぬよう耳元で囁いた。


「お前への罰はそうだな……ふむ、そうだ」


 口元が、わずかに綻ぶ。


「我が宮の女官になれ。それで済ませてやろう。もちろん、お前以外に罰を課すことはない。感謝せよ」


 命すら捨てる覚悟をしていた洛鈴は、罰の軽さに目を瞬かせた。


「行くぞ、洛鈴。罰は今日からだ。住み込みでやってもらう」


 楊蓮は星我妃に向き直った。


「ではまたな、星我。我が弱者を虐めるなどという誤認は直しておけよ」

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