勘違いで惚れ薬を盛ってしまったら、塩対応の堅物騎士様が豹変しました!
魔女はどこにでもいる。
こっそりと隠れてあなたの隣人として。
彼女たちが正体を明かすのは、たった一人、心に決めた伴侶だけ。
これはこの世界にまことしやかにささやかれる言葉だ。
魔女なんていない? そんな風に思う人は一度考えてみて欲しい。
目の前の女が魔女かそうでないかなんて、どうやって確かめるのだろう。
空を飛ぶ? アヤシイ薬を作る? でもそんなもの、いくらでも取り繕うことができる。
だから、本当のことなんて、分からないのだ。
「ちょっと、クリスタ! あんた、順番が逆よ。ルリトウワタの花はベイリーフの葉の前に入れるの!」
そんなことを考えていたら、メリ姉に鋭い声で止められた。
心ここに在らずだったからなのか、こんな簡単な薬の調合も間違えてしまう。
「ご、ごめんなさい」
メリ姉は派手な見た目の割に魔法薬の名手である。夏の日の夕焼けの空のように鮮やかに波打つ髪を払って、彼女はこう続けた。
「で、あんたどうすんのよ? 期限までもうふた月もないわよ?」
わざわざメリ姉に言われるまでもなく、そんなことは分かっている。
「考えてるよ、ちゃんと」
わたしは今度こそ正しい手順で、ルリトウワタの花を入れた後にフラスコにベイリーフの葉を入れて手をかざした。
すると、フラスコは美しい青色に輝く。これは、花嫁に贈る結婚の祝福のお守りだ。いいなあ。わたしもこんな風になれたらいいのに。
「一体何をそんなにこだわっているのよ。最初の男なんて、誰でもいいじゃない。別に減るもんじゃないんだし」
いや、絶対に色々と減ると思う。純情とかときめきとか、そういうもの。
「大事なのは最後の男よ」
メリ姉は腰に手を当てて豊かな胸を見せつけるようにし、そう言い放った。そりゃあ、そんな立派なものがあればそうも言えるだろう。
わたしは自分の体を見下ろした。対して、こちらにあるのは何とも慎ましやかなあれである。
最初の男が最後の男になる確率大であるし、なんならその最初の男も存在しないかもしれない。
「あんたが処女も捨てられない落ちこぼれだったら、私達フィオーレ家全員、今年の魔女集会で笑い物じゃないの」
わたしはもうすぐ十八歳で、今まさに成人を迎えんというところである。
魔女の成人の儀は、誕生日の次の満月までに処女を捧げること。
そう、何を隠そうわたし――クリスタニア=フィオーレは魔女の家系の生まれなのである。
「それに、成人の儀をクリアしなきゃ昇級試験も受けられないじゃない。この先ずーっと、一生四級でいるつもり?」
さすが史上最年少で一級魔法使いになった人は言うことが違う。
「それも、分かってるけど」
「わかった。じゃあ、手当たり次第にぶつかるのはやめにしましょう。ちょっといいなって、思ってる人とかいないの?」
「……いないよ」
「ふうん」
応えるメリ姉の紫の瞳に、不穏な色が宿る。にたり、とその口角が上がる。
「どうしてこう、奥手なのかしら。いい? クリスタ。考えてるだけじゃだめなの。魔女は行動してこそよ! 必要なのは体力・気力・根性。薬でもなんでも、盛っちゃえばこっちのものよ」
言うが早いか、メリ姉は棚を開けて目当ての薬を探し始める。思想が強すぎる。そしてここはメリ姉の営む薬局だから、どんな薬でもある。
それがたとえ、世の中的には違法な、いかがわしいものであっても。
出されてしまったら、それを手に取らずには解放してもらえないだろう。わたしはあの禍々しいばかりにピンク色の液体が詰まった瓶の存在を思い出し、ぷるぷると首を横に振った。
「あ、わたしもう時間だ! いってくるね」
わたしは咄嗟に時計を見て、殊更大きな声で言った。本当はまだもう少し時間があったのだけれど、メリ姉に捕まりたくなかったので。
「ちょっと、クリスタ! あんた!」
駆けて行く背中にメリ姉の声が追いかけてくる。けれどわたしは、それには気づかないふりをして、懸命に足を動かした。
ショーウインドウに野暮ったい鳶色の髪が映る。
魔女と言えば、人はどんなものを想像するだろう。
例えば、真っ赤な髪に黒いとんがり帽子。黒いローブにたっぷりの色香。目配せするだけで星が舞うような、そんな感じだろう。
けれど、そういうものはわたしには何もない。
いたって普通の茶色の髪に凹凸の少ない体。どこからどう見ても一般人だ。
わたしの髪もメリ姉みたいな目を瞠るような色だったらよかったのに。
そんなことを考えながら辿り着いたのは、五丁目のパン屋さん。今のわたしの職場である。
裏口からそっと店に入る。店主のおじさんとおばさんはもう、作業を始めていた。
「おばさん、おじさん。おはようございます」
「おはよう、クリスタちゃん。今日も早いね!」
返事をしてくれたのはおばさんだけで、おじさんは黙々と生地を分割している。別に愛想が悪いというわけではなくて、本当に静かな人なのだ。ここで働くようになってもう一年になるけれど、わたしは未だにおじさんの声を聞いたことがない。
手早くエプロンに着替え、わたしもおばさんと一緒に生地を丸め直す。ここからまた成型して二次発酵させる。
開店時間までは時間との戦いだ。
メリ姉には「もっと楽しそうなところにすればいいのに」と散々言われた。確かに魔法で作ろうと思ったら、作れないこともない。
でもだからこそ、わたしはこうやって自分の手を動かしているのが好きなのだ。
小麦にイースト 砂糖とお塩 そして最後にひとつまみ
あなたのおいしいを求めたら パンは夢のように膨らむでしょう
オーブンに入れる前の生地にいつも、わたしはこっそり語りかける。
これは、魔法じゃなくてただのお呪い。
何度見ても思う。ただの粉だったものがこんな風に膨らんで、焼き上げられておいしいパンになる。魔法もすごいけれど、同じぐらいすごいと。
これを見ていられるから、パン屋さんは最高の仕事だとわたしは思っている。
◇
「いらっしゃいませ! 焼き立てのパンはいかがですか?」
パン屋が一番混み合うのはお昼時だ。この時間帯はわたしも、店番をやっている。会計をするレジの前に行列ができている。
「やあ、クリスタ! いつものある?」
訊ねてきたのは、エイベルだった。お決まりのチョココルネを一つレジに置く。彼の昼食はいつもこれだ。
「あるよ。ちょっと待ってね」
取り出したのは、パンの耳だった。エイベルは下に弟妹が多いから融通してやってあげて、とおばさんから言われている。余ったパンなんかもこっそりあげているのだ。
「いつもお疲れ様。頑張ってね」
手早くコルネとパンの耳を袋に入れて渡す。
「ありがと、クリスタ! またな」
それをさっと掴んでエイベルはまた職場に戻っていく。確か年は十六歳だったと思う。わたしより年下なのに、エイベルは家を助けるために左官の親方のところで働いている。本当にすごいなと思う。
そんなことを考えていたら、すらりとした長身が目の前に立った。
「こんにちは、アルフレッド様」
いつものように、くせのない黒髪を一つに束ねている。切れ長の目は、晴れた日の空のような澄んだ青。
何度見てもこんなかっこいい人が、なぜうちの店に来るのだろうと疑問に思う。王都騎士団の黒と赤を基調とした制服は、パン屋には似つかわしくないと思う。
「クリスタニア嬢」
そして、この仰々しい呼び方も。エイベルよりも低いその声でそんな風に呼ばれたら、まるで自分がお姫様か何かになったような気がしてくる。
実際のわたしは、絶賛落ちこぼれ予定の魔女でしかないけれど。
「今日のサンドイッチは、なんだろうか」
「今日のはですね、えっと」
サンドイッチはおばさんが成型の合間に作っているので日替わりだ。当店の人気商品でもある。
なお、そうやって出たパンの耳が、さっきのエイベルへのおまけ。
「ベーコンとトマト、サーモンとクリームチーズ。あ、あとカツサンドもあります!」
そう、アルフレッド様は確かカツサンドがお好きだったはずだ。毎回買っていくのである。
「そうか。では、それを全部」
「分かりました!」
わたしは一個のサンドイッチでお腹いっぱいになるんだけれど、騎士の方は訓練が厳しいのでも沢山食べるらしい。最初は面食らったものだが、最近はもう慣れっこだ。
「これは?」
いそいそとサンドイッチを箱に入れていたら、アルフレッド様が訊ねてきた。
「ああ、これは」
それはレジ前に置いておいたフルーツサンドだった。ベーコンやサーモンといった具材の代わりに、生クリームとフルーツが挟んである。
「わたしが作ってみた新商品なんです」
おかずになるサンドイッチもいいけれど、デザートみたいなのもいいんじゃないだろうか。そう思って、おばさんに相談してみたら、試作をしてもいいと言ってもらえた。最近は女性客を中心に密かな人気がある。
「君が……」
青い目が食い入るようにそれを見つめている。真剣な顔をすると精悍さが増すような気がして、わたしはしばしその端整な顔に見惚れた。
「では、こちらも」
「あ、ありがとうございます!」
にしても四つってちょっと食べ過ぎじゃないだろうか。こんな無駄のない、引き締まった体のどこにサンドイッチが四つも入るのだろう。
けれど、売れ行きがいいに越したことはない。
「お待たせしました」
サンドイッチの詰まった重い袋を手渡すその一瞬、青い瞳と目が合った。
涼やかなその青が、不思議な色を宿している、ような気がする。
一番上のお姉様、セレ姉は魅了の魔法が得意だった。その力を遺憾なく発揮してどこかの国の王子様を誑かして、今は見事お妃様に収まっている。
一度セレ姉に聞いてみたことがある。ねえ、魅了の魔法ってどうやるの、と。
――それはね、だいすき、って思いを込めて見つめるの。そして、にっこり笑えば完璧。
セレ姉はなんてことないことのように教えてくれた。
――ね、簡単でしょ? クリスタも今度やってみればいいわ。
その瞳はわたしと同じ色なのに、紫水晶のように輝いた。
微笑んだその様は、妹の目から見ても美しかった。まさしく誰をも魅了する大輪の花だ。同時に、わたしにこれは一生できないなと絶望した。
けれど、考えてしまうことはある。
セレ姉みたいに魔法が使えれば、と。
だから、わたしはその青い目を真っ直ぐに見つめ返した。そして昔、姉がしてくれたようににっこりと笑ってみた。
「またのご来店をお待ちしております」
わたしが差し出した袋に、アルフレッド様が大きな手を伸ばしてくる。
「クリスタニア嬢、俺と」
意を決したように、青い目がこちらに向けられる。その声が僅かに掠れて聞こえる。
「どうかされましたか?」
わたしが首を傾げたら、アルフレッド様は切れ長の目をはっと見開いた。
「……ああ、ありがとう」
落ち着いた声はいつものように、静かに返事をした。
剣を握るその手は、わたしの手と重なることはない。決められたお代をもらって、それで終わりだ。
「ねえ、クリスタ。アルフレッド様とどんな関係なのよ!」
昼のピークが過ぎて少し落ち着いた頃、わたしが休憩室でパンを食べようとした時だった。
「どうと言われましても、ジェシカ」
ジェシカはおじさんとおばさんの一人娘だ。
わたしはそれだけ答えて、シナモンロールをかじった。
「とぼけないでくれる? あんなに楽しそうに話してたのに、それはないでしょ」
隣に座ってきたジェシカにくいっと肘で小突かれる。品出しをしていたから見られていないと思っていたのに、ばっちり見られていたらしい。
彼女の手にあるのは、歪んだクープの入ったバケット。
成型が上手くいかなかったものや焦げてしまったものは売り物にならないから、こうやってわたし達のまかないになる。
「そりゃあ、お会計する時は少しは話すよ」
何も無言で接客することもないだろうし。
「でも、アルフレッド様のあの顔、絶対になにかあると思うのよねえ」
わたしを見つめたあの青い目を思い出す。
「なにもないってば」
「じゃあさ、三丁目の薬局に行ってみない? あそこの薬は魔法がかかってるみたいに恋に効くっていうし!」
「そそそそ、それだけはやめて!」
わたしは慌てて顔の前で両手を振った。
三丁目の薬局はメリ姉の店だ。
どんなことがあっても、あそこにだけは行ってはならない。
「えーなんで、だめなのー?」
「なんでも、絶対!」
わたしを見るジェシカの目はさっきのメリ姉のものとよく似ている。それよりは、もう少しときめきとか好奇心に彩られているような気もするけれど。
「大体さ、わたしとアルフレッド様じゃあ釣り合わないよ」
そう、釣り合うわけがない。アルフレッド様は貴族の次男坊で、武術大会で優秀したこともある立派な騎士様だ。
対して、わたしはどうだろう。
きっと、このまかないみたいなもの。
魔女としては落ちこぼれで、多分女としてもそこまで魅力的ではない。
セレ姉やメリ姉みたいに、店頭に並ぶことはない。商品にはなれないのだ。
あんな風に笑ってみても何も起こるわけがないと、頭では分かっている。人間には区別がつかないかもしれないけれど、魔法は奇跡ではない。きちんと起こる理由がある。
落ちこぼれ魔女にだって、それぐらいの分別はある。
「今のままで十分」
たまにああやってお話できればそれでいい。
「そうかなぁ」
ジェシカがそういう呟く声だけが、休憩室に響く。ほんの少しだけ、胸がちくりとする。寂しいとも悲しいとも似た何かが広がっていくのを、わたしはパンを食べることで忘れることにした。
うまく膨らまなかったシナモンロールは、ぼそぼそと喉を通り過ぎていくばかりだった。
◇
わたしがそのことを聞いたのは、またいつものように休憩室でまかないのパンをかじっている時だった。
その日は朝からとても忙しかった。おじさんが最近新しく作り始めたカレーパンが好調でレジには長い行列ができていた。アルフレッド様の番になってもほとんど話をする暇がなくて、機械的に会計を済ませるだけだった。
お昼休憩を取れたのもだいぶ遅くて、わたしはぼんやりと座り込んでいた。
そんな時、ジェシカが休憩室に現れた。
「ねえ、クリスタ。今、食堂に配達に行った時に女将さんから聞いたんだけど……」
うちのお店では近くの食堂にパンを卸している。その配達は彼女の仕事なのだ。
けれど、ジェシカはそこで口ごもったまま、続きを言おうとしない。
「どうしたの? 顔色悪いよ」
何か重大な隠し事でもあるみたいに、その顔は蒼白だった。
「あのね、落ち着いて聞いて」
「そんな、何かあったの?」
そんな身構えるようなこと、一体何があるというのだろう。首を傾げたわたしに、ジェシカは意を決したように一つ息を吸ったかと思うと、わたしの肩に両手を置いた。
「あんたにも関係あることよ」
おてんばでみんなの人気者のパン屋の看板娘。
そのジェシカの目に、わたしの知らない光が宿っている。
「アルフレッド様が、結婚するらしいって」
なんでも、食堂の客の一人がアルフレッド様が女性と二人で街を歩いているのを目にしたのだという。相手はそれはそれは美しい、貴族のご令嬢だったという。
ジェシカの言葉を聞いた時、わたしの頭の中は一瞬真っ白になった。
「で、でもさ、一緒に歩いていたからって結婚するとは限らないんじゃないかな」
何かを考えるよりも先に、気が付いたらそんな風に口走っていた。
それは多分、誰よりもわたしがそう思いたい、ということでしかなかったのだけれど。
「いい? 他の騎士様ならともかく、アルフレッド様が今まで女の人と歩いていたことなんか、あった?」
わたしの見苦しい言い訳を、ジェシカはぴしゃりと否定する。
そう、アルフレッド様は堅物で有名なのだ。数多の女性と浮名を流す方も多い中で、アルフレッド様はずっと、驚くほどに潔癖だった。
聞けば、玉砕覚悟で告白したどこかのご令嬢は一刀両断で丁重なお断りを賜ったのだという。
だからわたしは多分、そのことに甘えていたんだと思う。
仮に自分が結ばれることがなくとも、アルフレッド様は誰のものにもならないと、どこかたかをくくっていたのだ。
その後の記憶はどこか曖昧だ。
明日のサンドイッチ用のパンの仕込みをした気がするけれど、夢のようにふわふわとしていて、よく覚えていない。
まるで地面から浮き上がったような気持ちで、わたしはメリ姉の待つ薬局へ帰ったのだった。
家に戻ったら、ちょうどメリ姉が仕込みをしている最中だった。
見つからないようにそっとカウンターの下に隠れる。メリ姉は仕込みを見られるのをあまり好まない。けれど、こういう時のメリ姉は本当に素敵なのだ。
フラスコに魔法薬の材料を順に入れて、一度その紫の瞳を閉じる。いつもくるくると華やかな表情を浮かべているメリ姉の顔が、すん、と静謐なものになる。
そして、すうっと大きく深呼吸をする。
シレネの花に夜の風 月の涙と淡雪のかけら そして最後にひとつまみ
あなたの心を求めたら 恋の魔法はここに咲くでしょう
ふわりと、まるで歌い上げるようにメリ姉は言う。
右手で掲げたフラスコは一度虹のように輝いて、薄桃色に落ち着く。丸いキャンディのようなものがすん、と底に落ちてくる。そうなれば薬の完成だ。
「で、そこで何してるのよ、クリスタ」
「いやあ、上手だなと思って」
魔女は詩に心を乗せる。その心の分だけ、魔法は深くなる。メリ姉の薬が上質なのは、込められている心の純粋さにほかならないのだと思う。
「別にこれぐらい大したことないわよ。入れるものを入れて、唱えるだけ」
本心から褒めたのに、メリ姉は少し不服そうに唇を尖らせる。
「あんただって、惚れ薬ぐらい作れるでしょう?」
そう、メリ姉の手の中で薄桃色に輝くこの薬は、惚れ薬なのだ。
「それは、そうだけど」
惚れ薬はそこまで難しい薬ではない。薬局でも人気商品で、それこそこの街の女の子達は恋が叶うおまじないとしてこぞって買い求めている。
「それよりねえ、人のことより自分のこと考えなさいよ」
窓から見える月はもうすぐ満ちる。
誕生日はその後すぐだから、次の次の満月までにわたしは相手を見つけなければならない。
「あんた、本当はどうしたいの」
詠唱の時とよく似たメリ姉の声が問う。それはまるでさざ波のように、わたしの心に広がってしまう。
「わたしは……」
アルフレッド様は結婚してしまう。夜空にぽっかりと浮かぶ月を見上げながら、噂のご令嬢その人の姿を思い描いてみる。
きっと見るも麗しい人だろう。あのアルフレッド様の隣を歩いてもなんら遜色のない、美しい女。
それは決して、わたしではない。
わたしは、全ての結論を出さなければならないのだ。
「クリスタニア嬢」
低く艶やかな声で名前を呼ばれて、はっと我に返る。
「は、はいっ!」
わたしの様子に、アルフレッド様はその澄んだ青い瞳を眇めてみせる。
「何か、あったのか」
アルフレッド様のパン屋の店内を見回して、そう言った。
レジの前には『本日サンドイッチお休み』の貼り紙がしてある。先ほどわたしが書いたものだ。
そのせいか、ここ何日かに比べると店の混雑は落ち着いている。アルフレッド様と普通に話をすることが、できてしまう。
「実は……」
早朝、おじさんとおばさんが作業を始めようとしたら、昨日わたしが仕込んだ生地に、イーストが入っていなかった。
「すみません、わたしが昨日、失敗してしまって」
勿論生地が膨らむはずもない。他の作業もあるし、今から仕込んでも昼のピークには間に合わないかもしれない。
ということでサンドイッチは今日は急遽お休みになったのだ。
こんなことは、ここで働き始めてから一度もなかったのに。あろうことか一番大事なイーストを入れ忘れるだなんて。
『きっと疲れてたのよ、クリスタちゃんも』
おばさんはそう言って、やわらかな手で励ますように肩を叩いてくれた。おじさんは何も言わずに黙々と成型しているだけだ。
ジェシカだけがただ、何か言いたげにわたしを何度もちらちらと見つめてきた。
言いたいことは分かっている。だから、それを口にされないように、わたしは尚更仕事に精を出した。
「アルフレッド様もサンドイッチ、楽しみにしておられましたよね」
お昼ごはんに買い求める人も多いのに、わたしのせいで台無しになってしまった。アルフレッド様は今日のお昼はどうするのだろう。何か他に気に入るものがあればいいのだけれど。
俯いて組んだ自分の手を見つめていたら、頭の上から穏やかな声が降ってきた。
「俺のことは、どうでもいい」
そう言って、アルフレッド様が屈む。そして、すっと距離を詰められた。
「どこか具合でも悪いのか? それなら店主に言って休みをもらった方がいい」
涼やかな瞳が、食い入るようにわたしを見ている。長い睫毛がすぐそこで揺れている。
それは、どんな宝石よりも美しい青だった。
わたしは少しの間、ここが街の一角のパン屋のレジであることであることを忘れ、魅入られた。
「クリスタニア嬢」
もう一度自分の名前が呼ばれて、やっとわたしは現実に戻ってきた。
「顔が赤いな。熱があるのでは?」
そりゃあ、こんな目で見つめられたらない熱も上がるだろう。別にわたしに限ったことじゃない。みんな、そうだ。
大きな手が、そっとこちらに伸ばされる。慌ててわたしは、ぶんぶんと首を横に振った。
「だ、大丈夫です! わたしは、元気です!!」
その手は、わたしの頬に触れる寸前でぴたりと止まる。
「なら、いいのだが。無理はしない方がいい」
「ありがとう、ございます」
切れ長の目はまだわたしを見つめている。その目に浮かぶのは、純粋な心配だ。それ以上でも以下でもない。
「では、今日は俺はこれで」
結局アルフレッド様は何も買わずにパン屋を後にした。
例えば恋人を見つめる時、アルフレッド様はどんな目をするのだろう。
もっと熱を帯びた色を浮かべるのだろうか。それとも。
そこで、思い至ってしまった。
わたしには、それを知る方法がある。ほんの少し、あの薄桃色の薬をサンドイッチに混ぜればいい。そうすれば、アルフレッド様を手に入れることができる。
そんなことをしてはいけないと、頭では分かっている。
けれど、それを知りたいと、思ってしまったのだ。
今夜、メリ姉が出かけることをわたしは知っていた。定例の魔女集会に向かうためだ。
材料は全て、薬局の戸棚の中にあった。こっそりと必要なものを集めて、並べる。
メリ姉の手伝いで惚れ薬を作ったことは何度もある。三級魔法使いの試験にも出るような初歩的なものだから、わたしでもできる。
その時は、何も考えずにただ薬を作っていた。
惚れ薬の効果は永遠ではない。どんなに強い思いを込めた薬でもそれは同じ。
一度眠ってしまえば、どんなに愛していても忘れてしまう。夢幻みたいなものだ。
みんなどうしてこんなものを求めるのかと疑問に思ったものだ。
今なら、ちゃんと分かる。
好きな人と想い合うことができれば、最高に幸せだろう。けれど、そうでなかったら多分、恋は苦しい。
だからきっと望むのだ。一番好きな人の心を。
たとえそれが、どんなに愚かな行いだと分かっていても願わずにはいられない。
わたしはメリ姉の真似をして、歌い上げた。
耳に聞こえる詠唱は、遥かに未熟だ。それでも、薬は完成する。
「これで、出来上がり」
確かめるように俯いたら、ぽとりと一つ雫が流れ落ちた。なんのものか分からない涙が頬を伝って消えていく。
「あ」
それはまるで吸い込まれるようにフラスコの中に落ちる。
ぽわりと一つ薬が輝いた気がしたけれど、きっと気のせいだろう。
夜空に浮かぶ月は、満月。
アルフレッド様はわたしの知らない誰かのものになってしまう。
それだけは、変わらない事実だ。
◇
その日も、アルフレッド様はパン屋を訪れた。
「クリスタニア嬢、本日のサンドイッチは」
「今日は、ツナサンドとたまごサンド、あとカツサンドにチェリーのフルーツサンドがあります」
「そうか。ではそれを、全て」
やることは簡単だった。フルーツサンドの中に、ひとつだけそれと分かるように印をつけておいたものがある。それを、アルフレッド様に渡すだけ。
「ありがとう、ございました」
「ああ」
決まりきったやり取りをして、お会計をして、それで終わり。
罪悪感がなかったわけではない。それでも、わたしはやってしまった。アルフレッド様はいつものように、颯爽とパン屋を後にした。
聞いた話では、アルフレッド様はいつも街の広場でサンドイッチを食べて、それから午後の仕事に戻るのだという。
薬の効果は絶大だった。わたしの想像を、軽く飛び越えてもお釣りがくるぐらいに。
「クリスタニア嬢」
サンドイッチを食べ終えたのであろうアルフレッド様は、すぐにもう一度パン屋にやってきた。
流れるように美しい所作で片膝を突いたかと思えば、わたしの手を取ってこんなことを言う。
「君さえよければ、これから少し時間をもらえないか」
熱を帯びて紫がかかった青い瞳が、わたしを見上げてくる。
まるでどこかの舞踏会の一場面かのようだった。夢にだって、こんな光景は見たことがない。人が見られる夢には限界がある。
「え、えっと」
わたしはたったそれだけのことを口にするのが精一杯だった。こういう時なんて言うのが正解なんだろう。
「あら、ちょうどよかったじゃない、クリスタ! 今日はもう上がっていいわよ」
石になったわたしに、畳みかけるようにジェシカの声がする。
「でも、まだ店番……あと、明日の仕込みも」
「そんなの、どうだっていいわよ。ね、お母さん!」
ジェシカは奥で仕込みをしているおばさんに大きな声で問いかける。おおらかな声が「もちろんよー」と言うのが遠くから聞こえた。
「ということなので。うちのクリスタをどうぞよろしくお願いいたします、アルフレッド様」
とん、と肩を押されてわたしは一歩前に足を進めることになる。その分だけ、アルフレッド様との距離が近づく。
ぎゅっと、手を握られる。包み込まれるようなその手は大きくて、剣を握る人特有の硬さがある。
「では、しばしの間クリスタニア嬢をお借りする」
「どうぞどうぞ。なんなら返さなくてもうちは大丈夫ですんで」
「ちょっと、ジェシカ!」
わたしの混乱を他所に、ジェシカは顔中ににやにやを浮かべている。
「では行こうか、クリスタニア嬢」
すっと、手が引かれる。
強引ではない。けれど紳士の洗練されたリードだ。
「は、はい。アルフレッド様」
見上げると、アルフレッド様はにこりと微笑んだ。
こんな顔もできるのだな、とわたしは思わずにはいられなかった。
だってアルフレッド様は今まで一度も、その怜悧な相貌を崩したことなんてなかったから。
手を引かれるがままに歩く。けれど、何を話せばいいのか分からない。
「こんにちは、騎士様。お花はいかがですか」
通りかかったのは花売りだった。抱えたバスケットには、色とりどりの花が咲いている。花売りはわたしの隣に立つアルフレッド様に微笑みかける。
「可愛い彼女さんに、おひとつ」
「そ、そんなんじゃないです!」
ただ今この時一緒に居るだけで、彼女だなんて。アルフレッド様に申し訳が立たないと思ったけれど、見ればアルフレッド様は顎に手をやって真剣に花を選んでいた。
「では、これを頂こう」
すらりと長い指が、マーガレットの花を一輪取る。そのままアルフレッド様はわたしに向き直った。
青い目がこちらを捉える。すっと、大きな手がこちらに伸びてくる。
甘い花の香りと、硬い手の感触が頬を掠める。たったそれだけのことで頬が熱くなるのを感じる。
かんざしのように、アルフレッド様は花を髪に挿してくれた。
「うふふ、どうぞお幸せに」
花売りの娘がそう呟くのが聞こえた。
もしかして、本当にもしかして。奇跡的にわたしとアルフレッド様が恋人同士に見えているとしたら。
それはどんなにか、幸せなことだろう。
「とてもよく似合っている、クリスタニア嬢」
そう言って、髪を撫でてくれる指先さえやさしい。心の中にじんわりとあたたかさが広がっていく。
けれど、一番芯のところが冴えているのも事実だった。
「……気に入らなかったなら、他の花にしよう」
端整な顔が微かに曇る。わたしはそれに、静かに首を振って応える。
「いいえ、嬉しいです。とっても」
だってそのためにわたしはあの薬を作ったのだから。
何も間違っていない。わたしの願いは叶った。ただそれだけだ。
男の人と二人して街を歩いたことなんてなかった。
あんなに長身のアルフレッド様が、背の低いわたしに合わせて隣を歩いてくれている。
見慣れた風景が、色づいて見えるほどだった。
惚れ薬を使ったところで、性格が変わるわけではない。現にアルフレッド様の口数は少ない。
だから、この気遣いはアルフレッド様の生来のものなのだろう。
きっと、婚約者の方ともこんな風に歩いていたのだろうと思った。
流行りの喫茶で差し向かいでお茶を飲んだ。わたしにはケーキを勧めてくれたのに、アルフレッド様はブラックのコーヒーしか頼まなかった。
「あの」
「いや、いいんだ。君は、好きなものを頼んでくれ」
わたしのフルーツサンドよりもきっとここのケーキの方がおいしいだろうに。
頼んだケーキを食べている間、アルフレッド様は珍しく頬杖をついて、こちらをずっと見つめていた。
正直、食べづらいことこの上ない。けれど不思議といやな気分ではなかった。
ぽつりぽつりと、アルフレッド様は色んな話をしてくれた。
将来家督を継ぐであろうお兄様をとても尊敬されていること。
歳の離れた弟君をとても可愛がっておられること。
毎朝、騎士団の誰よりも早く王宮へ行って一時間訓練していること。
わたしの知らないアルフレッド様が、そこにいた。
憧れの騎士様は、確かにこの今生きている人間だったのだ。
そんな当たり前のことも、わたしは分かっていなかった。
「随分遅くなってしまったな。家まで送ろう」
辺りが夕闇に包まれた頃、アルフレッド様が言った。
「ここで、大丈夫です」
何せわたしの家はあの薬局なのだ。魔女だとバレてしまうし、色々とややこしい。
「そうか。ではここで」
わたしが申し出を断ると、アルフレッド様の青い瞳にきりりとした光が宿った。
「クリスタニア嬢」
アルフレッド様が、こちらに手を差し出してくる。その手のひらにあったのは、美しいネックレスだった。
銀の細工の真ん中に、青い石がはまっている。そう、ちょうどアルフレッド様の瞳のような。
「クリスタニア嬢、俺と正式に交際してはくれないだろうか」
こんなもの、いつの間に用意していたのだろう。装飾品の店に寄ったりはしなかったのに。
そこで、分かった。
これはきっと、婚約者の人に渡すためのものだ。
アルフレッド様はずっと、その人に渡すためにずっと前から準備をしていたのだろう。
「……返事を聞かせてはもらえないだろうか」
青い瞳が不安げに揺れる。どうしてだろう。そんな顔をされたら、わたしよりもうんと年上のはずのアルフレッド様がふと少年のように見えてくるから不思議だ。
「わたしは」
アルフレッド様がぐっと、息を詰めたのが分かる。
青い瞳に丸い月が映る。曇りのない澄んだ瞳が、わたしを見つめる。
ああ、この人はこんな風に、愛しい人を見つめるのだ。
ひと時、心を埋めるならだけならいい。少し夢を見るくらいなら、きっと許される。
けれど、人のものを掠め取るようなことをしてはいけない。
ちゃんと返さなければ。
「ごめん、なさい」
わたしは思い切り頭を下げた。目に入るのが、自分の爪先とアルフレッド様のそれだけになる。
「ずっと、アルフレッド様の恋人になりたかったんです。けれど、わたしは一番してはいけないことをしました」
本当に思うなら、薬になんか頼ってはいけなかった。
わたしはこれを、自分の力で口にしなければならなかったのに。
一番大切にしていたはずの想いとパンを、恋のために利用した。
わたしは大ばか者だ。
ポケットの中に手を入れる。指先がこつんと、かたいものに触れる。
それは、惚れ薬を作った時にフラスコに溜まるもの。
薬と同時にできるのはその解毒薬。
これを飲ませてしまえば、瞬く間に惚れ薬の効果は切れる。
ぎゅっと丸い塊を握りしめて、顔を上げる。
にこりと微笑んで、アルフレッド様と見つめ合った。
そのまま解毒薬を口に含んだ。すっと、背伸びしてすべらかな頬に手を当てる。
ばかなわたしは、その愚かさゆえに、これから一番大切な人を失うのだ。
「アルフレッド様、だいすきです」
それだけ言って目を閉じた。
きゅっと引き結ばれた唇に、唇で触れる。
彫像のように立ち尽くすアルフレッド様が、僅かに震えたような気がした。
すとん、と地に踵を付けて目を開ければ、その喉仏が動いたのが分かった。
アルフレッド様が薬を飲み終えたのを見てから、わたしはもう一度彼を見上げた。
「これは……つまり……」
そう呟いて、確かめるように頬に手をやった。そのまま、アルフレッド様は長い指で己の唇をなぞった。
「俺と付き合ってくれるということで、いいのだろうか、クリスタニア嬢」
「えっうそ」
これは、一体どういうことだろう。おかしい。
ちゃんと解毒薬を飲ませたはずなのに、青い目の熱さが変わらない。
「無理です、どう考えても、無理です!!」
こんなかっこいい人と付き合うとか考えられない。わたしなんかはきっと、お呼びじゃない。
とにかく一度ここは引こう。困ったら逃げるべきって、メリ姉も言っていた。
「きっと何かの間違いです! それでは」
くるりとアルフレッド様に背を向けて走り出そうと思ったところで、ぐっと右の手首を掴まれた。
「クリスタ」
普通に名前を呼ばれたのは、はじめてだった。
そのまま、背中からぎゅっと抱きしめられる。その仕草は性急でアルフレッド様らしくない。
「どこに、行くんだ」
耳元に吐息が触れる。
「はじめてパン屋で見かけた時から、素敵だと思った」
ぞっとするほど色気の乗った声に言われて、わたしは魔法でもかけられたかのように動けなくなる。
「君に会いたくて、苦手な甘いパンも買った。できることは全部やった。これでも俺は、必死だったんだ」
「えっ……」
そう言えば、アルフレッド様は喫茶では何もお菓子は食べなかった。
ただわたしと話をするために、あのフルーツサンドを買っていたのか。
「けれど、ちっとも君は気づいてくれなくて他の男に親し気に微笑みかけて、他にはあげない商品まで」
確かにエイベルには他にはあげない商品を渡していたけれど。
「あ、あれはただの残り物です。売り物にはできないものなだけです!」
どうしてだろう。惚れ薬の効き目はもう切れたはずなのに。これでは、まるで……。
「俺は、君のことが好きなんだ」
しなやかな腕が閉じ込めるようにわたしの胸の前で交差する。囁いた声は熱っぽく掠れる。
くるりと、体の向きを変えさせられて向き合うようになる。肩に大きな手が置かれる。
「俺の何が無理なんだ? 改善できるところがあれば、改善しよう」
その真摯な様はアルフレッド様が本気だと伝えてくる。でも、わたしにも気になることはある。
「でも、アルフレッド様はもうすぐご令嬢の方とご結婚されると」
「俺が? そんな予定はないが、どうしてそう思ったんだ?」
「街を女性の方と二人で歩いていたと、聞きました……」
アルフレッド様は少しの間額に手をやって考え込んでいた。そして、思いついたように小さく「あ」と呟いた。
「アリシアのことか」
「アリシア、様?」
「ああ、母方の従妹だ。王都を見て回りたいと言われたので案内していたのだが、それが何か」
その方、アルフレッド様の婚約者とのことで街中持ちきりです。
――で、でもさ、一緒に歩いていたからって結婚するとは限らないんじゃないかな。
実はわたしの予想の方が、正しかったということらしい。
「聞きたいことはこれで全てか?」
「は、はい」
つまりは全部わたしの勘違いだったわけだ。
勘違いで、とんでもないことをしてしまった。
「それで、君のしたとんでもないこととは、一体何なのだろう」
「えっと、その、色々と、誤解がありまして」
「誤解? 何が誤解なんだ?」
きちんと説明しなければならないと思うのに、目の前のアルフレッド様の青い瞳が悲し気な色を宿す。肩に乗せられた手の力が少しだけ、強くなる。
「では、君は俺に誤解や間違いで口付けをしたのか」
その手が、微かに震えていることにわたしはやっと気が付いた。
自分の本当の想いを伝えることは怖い。
それはきっと、誰だって、アルフレッド様だって、同じだ。
「いいえ」
だから、今度こそちゃんと、それに応えたいと思う。
「わたしは、誤解や間違いでキスしたりなんか、しません」
勘違いは色々あったけど、わたしがアルフレッド様を好きなのは事実だ。
「では、俺と交際していただけるということで」
「はい」
わたしが頷いたら、アルフレッド様がわざとらしく咳ばらいをした。
青い瞳に、不思議な光が宿っている。何か企みを宿したようなそれは、いくらか窺うように揺れる。
わたしが首を傾げれば、
「もう一度、構わないだろうか」
許しを乞うように、アルフレッド様は言った。
「本当は、こういうことは俺からしたかった」
そこまで言われて、わたしはやっとそれがキスのことだと気が付いた。自分のしてしまったことが途端に現実として迫り来るようで、かっと頬が熱くなる。
たまらず、わたしはアルフレッド様から目を背けた。
「いや、いいんだ。君が嫌なら、しない」
これが存外にややこしい。別に嫌というわけではなくて。けれど強請れるようなものでもない。
顔を上げれば、満月から少し欠けた月と目が合った。
くいっとアルフレッド様の服の袖を引っ張る。
「いやではないです」
これより先を望む言葉の語彙は、わたしの内にはない。だから後はただ、身を任せるように目を閉じる。
「クリスタ」
火照った頬と同じぐらい熱い手が触れる。長身のアルフレッド様が屈む気配がして、額を吐息が掠める。
「愛している。俺と一緒にいてくれ」
そしてもう一度、唇にやわらかさが触れた。
わたしはそれを確かめるように、アルフレッド様の広い背に手を回した。
◇ ◇ ◇
「それで、一体どういう風の吹き回しなのよ!」
わたしの首元に揺れる青い石のネックレスを睨み付けながら、メリ姉は言った。
「どういう風、と言われましても」
自分でもどうしてこうなったのかなんて分からない。いつの間にか嵐のようなものに巻き込まれていて、こうなった、としか言いようがない。
そういえば、嵐と言えばもう一つ。
「しかも、なに! ちゃっかり成人の儀まで済ませてるじゃない、あんた! お姉ちゃんに分かるように説明しなさい」
「べ、別にちゃっかりじゃない、もん……」
そう、あのままアルフレッド様とわたしはキスだけでは終わらなかったわけで。
アルフレッド様は、わたしを抱きしめたまま離してくれなかった。
――俺が君をどれだけ愛しているのか、きちんと伝えさせてくれ。
果たしてこんなことをあの熱っぽい瞳で言われて、断れる女がいるだろうか。いたらぜひ、お会いしたいものだ。
そしてもう一度嵐に飛び込む羽目になった。何度も何度も繰り返された「愛している」も、わたしに触れるその手も、アルフレッド様の愛を確かに教えてくれた。
「ふうん。あんたはそれでよかったのね?」
「うん」
これは確かにわたしの意志だと、自信を持って言える。
「なら、いいわ」
何か言いたげな紫色の目が、わたしを見つめる。ただそれ以上はメリ姉も何も聞いてはこなくて、ゆるりと薬局のカウンターの上で頬杖をついた。
こつんと、その肘がフラスコに触れる。
「あら、なにかしら。これ」
「あ」
作った惚れ薬の残りを置きっぱなしにしてしまっていた。
「あのね、その、メリ姉、それは」
どうしてわたしはこう、最後の最後に詰めが甘いのだろう。これではわたしが何をしたのか、火を見るより明らかだ。
「……薬? でもちょっと色が違う……これは多分」
ゆらゆらと見極めるようにフラスコを揺らしたかと思うと、おもむろに人差し指でその薬を掬ってぺろりと舐めた。
「ちょっとメリ姉!」
何しろそれはあのアルフレッド様を一瞬で情熱的に変えてしまった惚れ薬であるので。魔女であるメリ姉はある程度耐性があるだろうけど、それでも。
おろおろするわたしを他所に、メリ姉は何かに気づいたようにくすりと笑った。
「そういうこと、ね」
そして、ぺろりと唇に残った薬を舐めとってにやりと妖艶に口角を上げる。
どういうことだろう。わたしにはさっぱり分からないのに、メリ姉は何かに気づいたようだ。
「あんた、作った薬が違ってたのよ」
「ち、がう?」
アルフレッド様にはあんなに効いたのに。何が間違っていたというのだろう。
メリ姉は戸棚を開けると、ガラスの小瓶を二つ取り出して並べた。どちらの瓶にも白く小さな花が入っている。
「あんた、シレネの花とハナツメクサを間違えたの」
「へっ」
「こっちはシレネ。こっちがハナツメクサよ」
確かにわたしが使ったのはハナツメクサだった。こうして見比べてもよく似ている。それに、あの時は自分のことで頭がいっぱいだったから。
「あと、あんた泣きながら薬作ったわね?」
さすがは一級魔法使い。まるで見てきたかのように、メリ姉は言う。
「そうだけど……」
「だったらやっぱり、あんたが作ったのは惚れ薬じゃないわ。“真実の薬”よ」
惚れ薬よりこっちの方が数段難しいんだからと、メリ姉は溜息を吐く。
「人の心っていうのはどこか取り繕ったり本音と建前があったりするものでしょう? けれどこの薬を飲んだ者はそれができなくなって、全部本音を話してしまうの」
「ってことは」
わたしが作ったのは惚れ薬ではなくて、真実の薬だった。
脳裏に、様々な光景が蘇る。
わたしの手を取って跪いたアルフレッド様。
花を髪に挿してくれたアルフレッド様。
喫茶の向かいの席で、わたしをずっと見ていてくれたアルフレッド様。
あれは全部、アルフレッド様の本音だったということ?
「で、でもちゃんと最後に解毒薬も飲ませたのに!」
わたしがフラスコに残っていた丸い塊も飲ませたと言ったら、メリ姉はぱちぱちと瞬きをした。
「え、あんたまさか“真実の結晶”も飲ませたの?」
「う、うん」
メリ姉は大袈裟に肩を竦めて両手を天井に向けた。「真実の薬に解毒薬はないの。その代わり、その効果を数段高めた真実の結晶が副産物としてできるの」
「奥手だと思ってたのに、意外とやるじゃない。そりゃあ、この急展開にも納得よ。私ちょっと、相手の騎士様に同情するわ」
どうやらわたしの恋は最初から、叶っていたらしい。
しかしながら、少々、かなり荒っぽい手法で。
「まあでもよかったじゃない。真実の愛を見つけた魔女さん」
そう言って、メリ姉はわたしの額を小突く。そのまま得意げに片目をつぶってみせる。
「お姉様にだってこんなこと、できっこないわ」
こうして、わたしは無事大人の魔女の仲間入りを果たしたのだった。
秘密の心に春の花 乙女の涙と星の夢 そして最後にひとつまみ
飛び込む勇気があったなら 真実の愛は実るでしょう
本当は最初から全部叶っていた話。
《花言葉》
シレネ:罠、誘惑
ハナツメクサ:臆病な心
お読みいただきありがとうございました。
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また次のお話でお会いできれば嬉しいです。