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第四章:百尺の番人

 ビルの屋上に吹き荒れる風は、単なる自然の暴威ではなかった。それは意思を持った力のように木島の身体を打ち、前進を阻もうとする。足元のコンクリートは黒い粘液に覆われ、一歩踏み出すごとに、ぬちゃり、と嫌な音を立てて足が沈み込んだ。空から降り注ぐ黒い雨は、氷のように冷たく、彼の体温と気力を容赦なく奪っていく。

 その地獄のような光景の中心に、社はあった。

 木島がこれまで見てきた古びた木工細工の面影は、もはやどこにもない。社そのものが、まるで黒い炎のように揺らめき、その周囲の空間をぐにゃりと歪ませていた。固く閉ざされていたはずの扉は、わずかに開き、その隙間から、闇よりも深い、絶対的な虚無が覗いている。そこから、黒い靄となった「地の底の何か」が、脈動するように絶え間なく溢れ出し、嵐に混じって空へと拡散していく。ここが、すべての災厄の源泉だった。


「……っ、くそっ」


 木島は、肩に担いだ土嚢を地面に下ろし、ポリタンクの蓋を開けた。佐野トキの言葉が、嵐の轟音の中で、彼の頭に響く。


『元の場所の土と水を、社に返すんだ。地に足をつけてやるんだよ』


 特別な儀式の作法など、彼は知らない。ただ、その言葉を信じるしかなかった。

 彼はまず、土嚢の口を解き、両手で湿った土を掴んだ。

 そして、社の周りに、円を描くようにしてそれを撒き始めた。

 風に飛ばされそうになる土を、彼は必死になって社の基部へと押し付ける。

 それは、本来この社が立っていたはずの、大地の感触だ。

 次に、ポリタンクを傾け、その土の上に水を注いだ。

 貯水槽から汲んできた、この土地を流れる水。それが土を浸していく。

 その瞬間だった。

 じゅうううっ、と生々しい音が響き渡った。

 まるで、乾ききった大地が、初めての雨水を貪るような、飢えた音。木島が撒いた土は、水を吸って黒々と色を変え、社の土台に泥のようにへばりついていく。

 劇的な変化は、何も起こらなかった。

 天が裂けることも、光が射すこともない。

 ただ、社の周囲を圧迫していた、あの空間の歪みが、ふっと和らいだように感じられた。溢れ出ていた黒い靄の勢いが、明らかに弱まっている。

 社の奥、扉の隙間から、まるで満たされない渇望のような、あるいは断末魔のような、低いうなり声が聞こえた気がした。

 「何か」は、元の土地の気配を感じ取り、その意識を空から地へと引き戻され始めているのだ。木島はそう確信する。彼は残っていた土を社の周囲に盛りきり、タンクの水をすべて注ぎきった。

 すると、それまで彼を叩きつけていた黒い雨が、次第にその色と粘性を失っていくのが分かった。黒い泥水は、ただの土砂降りの雨に変わり、やがてそれも勢いを弱めていく。天と地を無理やり繋いでいた超自然的な嵐は、本物の台風の雨音の中に、静かに溶けて消えていった。


「はっ、はっ、は、く、はぁっ……」


 どれくらいの時間が経っただろうか。気づけば、風雨は嘘のように止んでいた。分厚い雲の切れ間から、弱々しい月光が差し込み、水浸しになった屋上を照らし出す。

 木島は、その場に崩れるように膝をついた。全身は泥と水で汚れ、疲労で指一本動かせそうにない。だが、彼の視線の先にある社は、元の、ただの古びた木造建築に戻っていた。扉は固く閉ざされ、禍々しい気配は消え失せている。その足元には、彼が作った小さな泥の円だけが、生々しく残っていた。

 戦いは、終わったのだ。



 ―・―・―・―・―・―・―・―



 翌朝、蒼天タワーは何事もなかったかのように静けさを取り戻していた。電力は夜明け前に復旧し、ビルを覆っていた黒い染みや手形は、跡形もなく消えていた。昨夜の出来事が、すべて集団で見た悪夢だったかのように。

 高村支店長は、憔悴しきってはいたが、木島の前に立つと、いつもの事なかれ主義の仮面を貼り付けていた。


「木島君、昨晩はご苦労だった。聞けば、停電の中、ひとりでビル内の安全確認に奔走してくれたそうじゃないか。この埋め合わせは、必ずさせてもらう」


 彼はそう言って、分厚いボーナスの封筒を木島に手渡した。その目には、感謝よりも、厄介な真実を知る者への口止めの色が濃く浮かんでいた。

 ビルで起きたことは、公式には「台風による大規模な漏電と、それに伴う設備の複合トラブル。一部従業員に、閉鎖空間でのストレスによる集団ヒステリーが発生」として処理された。誰も、真実を語ろうとはしなかった。語ったところで、誰が信じるというのか。

 数週間後、休職していた水野詩織が、退職届を提出したと人づてに聞いた。彼女は、もう二度とこのビルに足を踏み入れることはないだろう。それでいい、と木島は思った。


「……」


 だが、木島の日常は、もはや元には戻らなかった。

 彼は、誰に命じられるでもなく、毎日一度、必ず屋上へ足を運ぶことを自らの日課とした。そして、社の前に立ち、その足元に目をやる。

 彼が作った泥の円は、まだそこにかすかに残っていた。

 土が乾きすぎていないか。

 おかしな染みが出てきてはいないか。

 扉の隙間から、不吉な気配が漏れ出してはいないか……。

 それを確認することが、彼の新たな仕事になった。

 木島はもう、ただの設備管理主任ではなかった。天と地の境を、人間の傲慢さによって歪められたこの場所で、脆弱な「蓋」が二度と外れることがないように監視する、ただひとりの番人。それが、彼が自らに課した、終わりのない責務だった。

 あの嵐の夜、彼は確かに怪異を鎮めた。しかし、封印が完全に戻ったわけではないことを、彼は本能的に理解していた。屋上に移された社は、あくまで応急処置を施されただけの、不完全な「蓋」でしかない。いつまた、その力が弱まるとも限らないのだ。


「あ……」


 ある日の午後、いつものように屋上を訪れた木島は、社の前に誰かがいることに気づいた。振り返ったのは、佐野トキだった。彼女は、小さな一輪挿しを手に、社の前にそっとそれを供えていた。

 佐野は木島を見ると、少しだけ驚いたように目を見開いた。


「……あんただったのかい。あの夜、ヌシ様を宥めてくれたのは」

「なぜ、それを」

「分かるさ。この土地の空気が、少しだけ軽くなった。……ご苦労だったね」


 老婆はそれだけ言うと、深く皺の刻まれた手で、社の柱をそっと撫でた。その仕草には、長年連れ添った厄介な隣人を見舞うような、奇妙な親愛の情がこもっているように見えた。


「でも、安心しちゃいけないよ。ヌシ様は、ただ腹を満たして、今は眠っているだけさ。腹が減れば、また目を覚ます。その時は、また土地のものを食わせてやらなきゃならん」


 佐野はそう言い残し、ゆっくりとした足取りで屋上を去っていった。

 木島は、彼女の言葉の意味を噛み締めていた。

 この監視は、永遠に続く。土が乾き、水が涸れ、土地との繋がりが薄れそうになった時、彼は再び、この社に「餌」を与えなければならないのだ。

 何とも言えぬ気持ちになり、木島は空を見上げる。天辺よりさらに高みにある空は、憎らしいくらいに青く澄み切っていた。


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