第三章:空から降るもの
佐野トキとの会話は、木島の心に決定的な変化をもたらした。これまで断片的だった怪奇現象が、「土地の記憶」という一本の線で結ばれ、恐ろしい全体像を描き出したのだ。彼はもはや、この事態を「気のせい」や「不具合」として処理することはできなかった。これは、自分たちが足を踏み入れている土地そのものからの、明確な警告であり、攻撃だった。
木島は防災センターに戻ると、誰にも見られないよう、過去の監視カメラの録画データを徹底的に洗い直した。特に、深夜帯の映像に集中して目を通す。
すると、これまで見過ごしてきた、あるいは意図的に無視してきた無数の「染み」がそこにはあった。
「こんなに……」
深夜の廊下の隅、エレベーターホールの床、誰もいないオフィスのデスクの下。ほんの一瞬だけ、カメラの映像に黒く湿ったような影が映り込み、次の瞬間には消えている。それはあまりに僅かな変化で、注意深く見ていなければノイズとして片付けてしまうほどだ。だが、佐野の話を聞いた後では、それらが何を意味するのか、木島には痛いほど分かった。
地下に封じられていた「地の底の何か」。それは、水や泥に近い、不定形の存在。社という「蓋」が地上から引き剥がされたことで、その力が弱まり、ビルの構造体の微細な隙間や配管を伝って、少しずつ地上へと滲み出してきているのだ。まるで毛細管現象のように、ビルそのものが「何か」を吸い上げている。
そして、最も恐ろしい仮説が、彼の頭を支配した。
佐野は言った。「空から"良くないもの"が降ってくる」と。
屋上は、このビルの最高地点。物理法則に従えば、水は高いところから低いところへ流れる。
もし、屋上に漏れ出した「何か」が、ある一定の量に達したら?
地の底で蠢いていたものが、ビルを伝って屋上の社を目指し、そこを通じて外へ出ようとする。
そして重力に引かれるように、ビルを伝って地上へと「降りて」くるのではないか。
木島は、自分の立てた仮説のあまりの恐ろしさに、背筋が凍るのを感じた。
蒼天タワーは、もはや単なる建物ではない。それは、「地の底の何か」が天に昇り、そして再び地上に降り注ぐための、巨大な「通り道」と化してしまっているのだ。
―・―・―・―・―・―・―・―
その日の午後、天気予報は「今夜半から、台風の接近に伴い、局地的に激しい雷雨となる見込み」だと告げていた。
木島は胸騒ぎを覚え、部下たちにビルの防水扉や窓の施錠を再確認するよう指示を出す。彼の脳裏には、水野が見た「びしょ濡れの人影」という言葉が、不吉な予言のように何度も蘇っていた。嵐は、このビルに溜まった「何か」を活性化させてしまうのではないか。木島はおぞましい想像を止めることができずにいる。
予感は、最悪の形で的中した。
「なんだこれは……」
夜が更け、風雨が強まり始めた頃、最初の異変が起こった。ビルの外周を監視するカメラの映像が、一斉に乱れ始めたのだ。まるで、レンズに黒い泥でも塗りつけられたかのように、視界が不明瞭になる。
「雨粒にしては、粘っこくないか?」
部下のひとりが訝しげに呟く。木島は防災センターの窓に駆け寄り、外の様子を窺った。
街灯の光に照らされて、銀色の筋を描いて降り注ぐ雨。それは、一見すると普通の豪雨に見えた。しかし、ガラス窓に叩きつけられる雨粒は、すぐに流れ落ちることなく、まるで油のように窓に張り付き、黒く汚れた筋を残していく。
「……雨じゃない」
木島が呻くように言った瞬間、ビル全体が、ぎしり、と大きく軋んだ。
まるで巨大な何かに締め上げられたかのような、嫌な音。
同時に、防災センターの照明が一斉に明滅し始めた。
「ビル全体で電圧が不安定になっています!」
「非常用電源に切り替えろ!」
とっさに木島が怒号を飛ばす。だが、部下が操作盤に手を伸ばした時、すべての照明が完全に落ちた。防災センターは、監視モニターと非常灯の赤いランプだけが灯る、不気味な半闇に包まれた。
「ダメです! 非常用電源も起動しません! 何かが、電力系統を物理的に……」
部下の声が、恐怖に震えていた。窓の外、闇に包まれた街の中で、蒼天タワーだけが、まるで巨大な墓標のように黒々と沈黙している。しかし、それは静かな闇ではなかった。
ビルの壁面を、何かが蠢いている。
窓ガラスに張り付いた黒い雨は、筋となり、集まり、まるで生き物のように壁面をずるずると下っていく。それは無数の黒い蛇、あるいは巨大なナメクジの大群のようにも見えた。街灯のわずかな光を反射して、ぬらぬらと黒光りしている。
そして、窓ガラスという窓ガラスに、内側から叩きつけるような音が響き渡り始めた。ばん、ばん、ばん、と。まるで、ビルの中に閉じ込められた人々が、一斉に助けを求めているかのような音。だが、この時間、ビルに人はほとんど残っていないはずだ。
いや、違う。叩いているのは、外からだ。
木島は、オフィスの窓に目をやった。そこには、べったりと張り付くようにして、黒い「手形」のような染みが浮かび上がっていた。ひとつふたつではない。無数の手形が、窓を覆い尽くさんとばかりに次々と現れ、重なり合っていく。
「空から降るもの」。その正体は、雨に紛れて降り注ぐ、「地の底の何か」そのものだった。それはビル全体にまとわりつき、内部へ侵入しようと、あらゆる隙間を探しているのだ。
パニックに陥った部下たちが、意味のない怒鳴り声を上げている。その時、木島のポケットで携帯電話が震えた。表示された名前は「高村支店長」。
「木島君か!? いったいどうなっているんだ! 私の部屋のドアが、開か、開かないんだ! 何か、黒い、泥のようなものが隙間から……!」
高村の声は、恐怖で完全に裏返っていた。事なかれ主義で全てを片付けようとしていた男の、哀れな悲鳴が響く。
木島は混乱する上司の声を耳にしながら、得も言われぬ危機感に駆られていた。
このままでは、ビルが「何か」に完全に飲み込まれてしまう。そうなれば、このビルは地上に現れた「異界」そのものになるだろう。閉じ込められた人間は、二度と外へは出られないに違いない。
どうすればいい。
どうすれば、この流れを止められる。
木島の脳裏に、佐野トキの言葉が蘇った。
『ヌシ様は、自分の土地の匂いを覚えてる』
そうだ。あの社が封じていた「何か」は、本来いるべき場所、つまり「地の底」に執着しているはずだ。ならば、その執着心を利用できないか。
屋上の社は、もはや「蓋」としての機能を失い、逆に「何か」が空へ漏れ出す「蛇口」になってしまっている。その蛇口を、もう一度、閉め直すことはできないか。
木島は、ほとんど直感的に、やるべきことを悟った。
「元の場所の土と水を、社に返すんだ。地に足をつけてやるんだよ」
佐野が言っていた、不確かな儀式。それがなんなのかは分からないが、今となっては社を地上に戻すことは叶わない。
では、逆なら? 元の土地の要素を、空に浮いた社に与えることで、社と土地との「繋がり」を回復させる。弱まった封印を、もう一度強化するのだ。
それは、あまりに非科学的で、荒唐無稽な賭け。だが、今の彼には、それしか思いつかなかった。
「高村支店長、聞いてください! 今から、俺がなんとかします。だから、絶対に部屋から出ないでください!」
木島は一方的に電話を切ると、防災センターの隅に立てかけてあった、大型の懐中電灯とバールを掴んだ。
「お前たちは、ここにいろ。絶対に外へ出るな。通信が回復したら、すぐに外部へ救助を要請しろ」
「木島さん、どこへ行くんですか!?」
部下の制止を振り切り、木島は防災センターを飛び出した。
彼の目的地はふたつ。まず、ビルの最も深い場所。そして、最も高い場所だ。
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停電で静まり返った廊下を、木島は懐中電灯の光だけを頼りに走る。壁からは、じっとりと黒い水が染み出し、床にはぬめぬめとした感触があった。空気は、あの腐った土とカビの臭いで満ちている。ビル全体が、「何か」の胎内に変貌しつつあった。
彼はまず、地下へと向かう非常階段を駆け下りた。目指すは、地下四階の、さらに下にある貯水槽室。このビルに供給される全ての水の、源だ。
貯水槽室の分厚い扉は、電子ロックで固く閉ざされていた。停電のせいで、開くはずがない。木島はバールを扉の隙間にねじ込み、渾身の力で無理やりこじ開けた。
中には、巨大なステンレス製のタンクが鎮座していた。彼はタンクのバルブを捻り、持参した空のポリタンクに水を満たす。これが、この土地の「水」だ。
「よし」
次に、土。基礎工事の際に、非常用の土嚢としていくつか残されていたはずだ。
木島は記憶を頼りに、地下駐車場の片隅にある倉庫へと向かった。
ポリタンクを持ちながら、ほどなくして倉庫の前にたどり着く。倉庫の扉も、バールで破壊した。
倉庫の中には、彼の記憶通り、麻袋に詰められた土嚢が積まれていた。そのひとつを、肩に担ぎ上げる。ずしりと重い。これが、この土地の「土」だ。
土と水を、手に入れた。
あとは、これを屋上へ運ぶだけだ。
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停電しているため、もちろんエレベーターは動かない。残された道は、非常階段だけ。地下四階から、屋上のある最上階まで、およそ五十階分。木島は、重い土嚢を担ぎ、ポリタンクを手に、気の遠くなるような階段を登り始めた。
一歩、また一歩と、コンクリートの階段を踏みしめる。彼の荒い息遣いと、靴音だけが、不気味な静寂の中に響き渡った。
だが、静寂は長くは続かなかった。
十階を過ぎたあたりから、階段の壁や天井から、黒い水が滴り落ちてくるようになった。ぽた、ぽた、という音が、次第に数を増していく。
二十階。踊り場の壁に、べったりと黒い人影が張り付いていた。懐中電灯の光を当てると、それは蠢くように形を変え、壁の中に溶けるようにして消えた。
三十階。階段の途中で、何かに足を取られて転びそうになる。見ると、床に粘り気のある黒い液体が溜まっていた。それはまるで、彼を捕らえようとするかのように、足首にまとわりついてくる。
「くそっ。邪魔するんじゃねぇ」
「何か」は、彼が「元の土地の要素」を屋上へ運ぶのを、明確に阻止しようとしている。このビル全体が、彼の敵だった。
木島は歯を食いしばり、ひたすら上を目指した。
汗が目に入り、視界が滲む。
肩に食い込む土嚢の重みで、全身が悲鳴を上げていた。
それでも、彼は足を止めなかった。
水野の怯えた顔、高村の悲鳴、そして、この事態を招いた自分自身の傲慢さへの贖罪。それらが、彼の心を支えていた。
「もう、少し」
四十階。それは遂に、彼の目の前にはっきりと姿を現した。
階段の踊り場を、黒く、ぬらぬらとした人型の何かが、塞いでいた。それは決まった形を持たず、まるで原油のように絶えずその輪郭を揺らめかせている。頭部にあたる部分から、水底で響くような、低く、意味をなさない声が聞こえてくる。これが、水野がエレベーターで聞いたという声なのかもしれない。
木島は、恐怖で立ち尽くした。
だが、ここで止まるわけにはいかない。
彼は覚悟を決め、懐中電灯を強く握りしめると、雄叫びを上げてその人影に突進した。
「おおおっ!」
人影にぶつかった瞬間、氷のように冷たい水の中に飛び込んだような衝撃が全身を襲った。視界が真っ暗になり、腐った泥の臭いが肺を満たす。だが、彼は構わず前へと突き進んだ。
数秒後、木島は人影を突き抜け、反対側の壁に叩きつけられていた。振り返ると、そこにはもう何もない。ただ、床に大きな黒い染みが残っているだけだった。
彼はもう満身創痍だった。
だが、心は折れていなかった。
木島はよろめきながら立ち上がり、再び階段を登り始めた。屋上は、もうすぐだ。
そして遂に、最上階の手前までたどり着く。
最後の鉄扉の前に立った時、木島はもはや立っているのがやっとの状態だった。扉の向こうからは、嵐の轟音と、何かが激しくぶつかり合うような異様な音が聞こえてくる。
木島は最後の力を振り絞り、扉のロックを外し、それを押し開けた。
その瞬間、凄まじい風と、黒い雨が彼の身体を叩く。
屋上は、地獄と化していた。
空は鉛色に渦巻き、粘り気のある黒い雨が、滝のように降り注いでいる。その中央で、古びた社が、まるで異界の門のように、禍々しい気配を放っていた。社の周囲の空間は歪んで見え、そこから絶え間なく、黒い靄のようなものが溢れ出している。それが、この黒い雨の源だった。
木島は、風に身体ごと持っていかれそうになりながら、一歩一歩、社へと近づいていく。彼が、この百五十メートルの天辺に立つ、最後の希望だった。