第二章:地の底の記憶
木島が体験した地下駐車場の怪異は、夜が明けると同時に、まるで悪夢の残滓のように現実感のないものへと変わっていった。陽光が差し込む防災センターの窓、行き交う社員たちの明るい挨拶、コーヒーの香り。それらすべてが、昨夜の出来事を彼の個人的な幻覚だったと囁いているようだった。しかし、彼の心に深く刻まれた恐怖の感触と、鼻腔の奥に残る湿った土の記憶は、決して消えることはなかった。
そして、ビルを蝕む「何か」は、木島の不安を裏付けるかのように、その活動をさらに露骨なものにしていった。
「もうこの仕事辞めます!」
週明けの月曜日、早朝から出勤してきた清掃員の年配女性が、顔面蒼白で防災センターに駆け込んできた。彼女は「もう無理だ」と震える声で訴えた。
「十五階の男子トイレです。床をモップがけしている最中に……何もない場所から、びしょ濡れの足跡が、ぽつん、ぽつんと現れて……それが、壁に向かって数歩続いて、すうっと消えたんです。まるで、そこに透明な誰かが立っていて、歩き出したみたいに……」
木島は黙って彼女の話を聞いていた。水野の見た「びしょ濡れの人影」と、清掃員の見た「濡れた足跡」。共通する「水」という要素が、偶然では片付けられない不気味な符合を示していた。
結局、その清掃員は辞職する決意を変えることなく、その日のうちにビルを去った。彼女の怯えきった目が、木島の脳裏に焼き付いて離れなかった。
追い打ちをかけるように、高村支店長から内線が入った。
「木島君、二十七階の水野詩織さんだがね、今日から休職されるそうだ。ご家族が迎えに来て、そのまま実家に帰られたらしい」
「……そうですか」
「なんでも、エレベーターに一人で乗っていたら、急に緊急停止して閉じ込められたそうだ。非常ボタンも反応せず、真っ暗な中で三十分ほど。その間、ずっと奇妙な声が聞こえたと……」
木島は唾を飲んだ。
「声、ですか」
「ああ。『水底から響いてくるような、低くて聞き取れない男の声』だそうだ。まあ、パニック状態での幻聴だろうがね」
高村の声は努めて冷静をよそっている。だがその裏には焦燥の色が滲んでいた。
「いいかね、木島君。これらの件は、すべて設備の不具合、あるいは個人の精神的な問題として処理するように。テナント側に、ビルの構造的な欠陥や、ましてや非科学的な噂を疑われるようなことがあってはならん。いいね?」
「……承知しています」
高村は、真実から目を逸らし、蓋をすることしか考えていない。
だが、木島にはもう、それが不可能だとわかっていた。水野は、おそらくあの「何か」に直接的に狙われたのだ。彼女の感受性の強さが、怪異を引き寄せてしまったのかもしれない。自分は彼女の訴えをまともに取り合わず、結果的に見殺しにした。罪悪感が、鉛のように木島の胃を重くした。
このままでは、次の犠牲者が出る。
それは、自分かもしれない。
責任感と、自らの身を守りたいという本能的な恐怖。その二つに突き動かされるように、木島は独自に調査を始めることを決意した。
手掛かりは、屋上の社。
すべての元凶は、あの場所にあると彼は確信していた。
―・―・―・―・―・―・―・―
木島はまず、公的な記録から当たることにした。非番の日、彼は地元の図書館や法務局を訪れ、蒼天タワーが建つ土地の過去を遡った。
しかし、すぐに壁にぶつかる。古い地図を見ても、その場所には「社」や「神社」といった明確な記載がないのだ。ただ、田畑や雑木林を示す記号の中に、ポツンと小さな鳥居のマークが記されているだけ。登記簿を調べても、神社の土地として登録された形跡はなく、一帯の地主が所有する広大な土地の一部として扱われているのみだった。
ただひとつ、奇妙な記述を見つけた。
江戸時代末期に書かれたとされる地誌の写本に、その土地に関する短い一文があった。
『――この辺り一帯、古くは沼沢地なり。水捌け悪しく、常に湿り気を帯ぶ。一角に名もなき祠あり、里人はこれを「サカイ様」と呼び、みだりに近づくことなし――』
「サカイ様?」
「境」だろうか。何と何の境だというのか。
さらに調べを進めると、再開発前の航空写真が見つかった。そこには、雑木林に囲まれるようにして、確かに小さな社が写っていた。その周辺だけが、まるで意図的に避けられているかのように、ぽっかりと空間が空いている。地元では、神として祀るというより、畏怖の対象として遠巻きに敬われていたのかもしれない。
だが、その社が何を祀り、何の目的でそこにあったのか、公的な記録からは何も分からなかった。
手がかりは、土地に長く住んでいた人間の「記憶」の中にしかない。
木島は、開発計画の住民説明会の資料を引っ張り出し、立ち退き住民のリストに目を通した。その中に、ひとつの名前を見つけて、彼はペン先を止める。
「佐野たばこ店」
ビルの建設予定地のすぐ隣で、古くから営業していた小さな店。店主は高齢の女性だったはずだ。もし、まだこの近辺に住んでいるのなら、何か知っているかもしれない。
―・―・―・―・―・―・―・―
数日の聞き込みの末、木島は佐野トキという老婆の存在を突き止めた。彼女は開発エリアから少し離れた古い木造アパートでひとり暮らしをしているという。
日曜の午後、彼は手土産の菓子折りを手に、そのアパートを訪ねた。
「佐野トキさん、でしょうか?」
「……なんだいあんた」
錆びついた鉄の扉を開けて出てきた佐野トキは、木島が想像していたよりも小柄で、背中の曲がった老婆だった。しかし、その顔に刻まれた深い皺と、すべてを見透かすような鋭い眼光は、彼女が生きてきた年月の重みを感じさせた。
「……あんた、蒼天タワーの人間だね」
木島が名乗る前に、佐野は低い声で言った。その声には、明らかな敵意がこもっていた。
「ええ。設備管理をしております、木島と申します。本日は、少しお話を伺いたく……」
「帰んな。開発の連中と話すことなんざ、何もありゃしないよ。わしらを追い出して、あんなバカでかい墓石みたいなもんを建てやがって」
取りつく島もなかった。佐野はぴしゃりと言い放ち、扉を閉めようとする。木島は咄嗟に、ドアの隙間に足を差し入れた。
「お願いします! これは、会社のためではありません。ビルで、おかしなことが続いているんです。蒼天タワーで働く女性が、精神的に追い詰められて、休職や退職にまで……。このままでは、もっとひどいことになるかもしれない」
木島の必死の形相に、佐野の動きが止まった。彼女は眇めた目でじっと木島の顔を見つめ、やがて諦めたように深いため息をついた。
「……分かったよ。立ち話もなんだ。入りな」
通された四畳半の部屋は、古い畳と線香の匂いがした。壁には、色褪せた家族写真がいくつか飾られている。
佐野は湯呑に熱い茶を注ぎながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「あんたが聞きたいのは、あの社のことだろう」
「はい。あの社には、名前があったのでしょうか。地誌には『サカイ様』とありましたが……」
「サカイ様、ね。そう呼ぶ人もいたね。うちの婆っちゃは、『ヌマのヌシ様』なんて言ってたかねぇ」
佐野は茶をひと口すすり、遠い目をした。記憶を探り当てようとしているようで、やがてその表情をしかめさせる。
「でもな、ありゃ神様なんかじゃないよ。少なくとも、願い事をしたり、お参りしたりするような、ありがたいもんじゃない」
「では、一体……」
「『蓋』だよ。あるいは、『重し』だね」
佐野の口から出た言葉に、木島は息を呑んだ。
「蓋……ですか?」
「そうさ。あの辺りの土地はな、昔から水気が多いって言われてた。ちょっと地面を掘れば、すぐにじっとりとした水が滲み出してくるような、そんな土地だった。婆っちゃがよく言ってたよ。『あの社の地下には、この土地の良くないもんが全部集まる"水脈"が通ってる。だから、社を置いて、その水脈が地上に這い出してこないように、蓋をしてるんだ』ってね」
「良くないもの……?」
「さあね。婆っちゃも、そのまた婆っちゃから聞いた話だって言ってたから、詳しいこたぁ分からん。ただ、土地の湿気や、昔ここで死んだ人たちの念みたいなもんが、長い時間をかけて水に溶けて、澱のように溜まっているんだと。それが、濃くて、重たくて、粘っこい『何か』になって、地下で蠢いてるんだとさ」
佐野の言葉は、まるで怪談話のようだった。だが、その内容は、木島がビルで体験した数々の怪異と、不気味なまでに符合していた。「びしょ濡れの人影」、「濡れた足跡」、「黒い水の染み」。そして、地下駐車場で感じた、あの生乾きの土とカビの臭気。すべてが、地下に溜まった「湿った良くないもの」というイメージに繋がっていく。
「婆っちゃは、口を酸っぱくして言ってたよ。『あの社だけは、決して動かしちゃならん。場所を移したり、ましてや壊したりしたら、大変なことになる』って」
「大変なことに……」
「ああ。『天と地の境が分からなくなって、空から"良くないもの"が降ってくる』ってね」
その言葉を聞いた瞬間、木島の全身に鳥肌が立った。
空から、降ってくる。
屋上の社。地上から引き剥がされ、空の天辺に置かれた「蓋」。
その意味を、彼は直感的に理解してしまった。
蓋が、本来あるべき場所から動かされた。それも、地の底から最も遠い、空の頂へ。その結果、蓋の力が弱まり、封じられていた「何か」が、行き場を失って、空へと漏れ出しているのではないか。
「ビルを建てた連中は、そんなこと気にもしなかったんだろうねぇ」
内心で驚愕する木島をよそに、佐野は自嘲気味に笑う。
「古い言い伝えなんぞ、迷信だと馬鹿にして。祟りがあるっていうなら、コンクリートで固めて、立派なビルを建てれば神様も文句は言うまい、くらいにしか考えてなかったんだろうさ。とんでもない。あれは、神様の家じゃなくて、化け物の檻だったんだよ」
木島は言葉を失っていた。ゼネコン時代、彼もまた、同じように考えていたひとりだった。古い因習や土地の歴史など、最新の建築技術の前では無意味なものだと。その傲慢さが、今、この事態を招いている。
「あの……何か、鎮める方法はないんでしょうか」
絞り出すようにして、木島は問いかける。
だが佐野は静かに首を横に振った。
「さあね。そんな大層なもん、わしらみたいなもんが知るわけないよ。ただ……」
彼女は少し間を置いて、続ける。
「婆っちゃは言ってた。『ヌシ様は、自分の土地の匂いを覚えてる。だから、決して離れたがらない』って。それだけだよ、わしが知ってるのは」
自分の土地の匂い。その言葉が、木島の頭の中で何度も反響した。
帰り際、木島は深々と頭を下げた。佐野は何も言わず、ただ、どこか哀れむような、それでいて何かを諦めたような目で彼を見送っていた。
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アパートからの帰り道、木島は見上げるようにして蒼天タワーを眺めた。夕暮れの光を浴びて輝く美しいビル。だが、今の彼には、それが巨大な墓標にしか見えなかった。そして、その天辺に黒い点のように存在する社は、開いてしまった災厄の門のように思えた。
佐野トキが語った、大仰な伝説ではない、素朴で、だからこそ生々しい言い伝え。それは、このビルで起きている怪異の輪郭を、はっきりと浮かび上がらせていた。
これはもう、設備の不具合などという生易しい話ではない。土地の記憶そのものが、人間への復讐を始めたのだ。
そして、その最初の標的は、天と地を繋ぐこの巨大な塔、蒼天タワーだった。