第60話 「あなたの名前を抱きしめた」
本日もよろしくお願いします。
――くるしい。
夢の途中で、そんな感覚に引き戻された。
顔に何かがぴとっとくっついていて、鼻と口がふさがって、呼吸ができない。
ばっ! と顔を覆っていた何かを剥がす。
冷たい空気が肺に流れ込んで、ようやく息ができた。
「……死ぬかと思った……」
目を開けると、そこには小さなもふもふ。
私の顔の上に乗っかって、すやすやと熟睡していた。
ふさふさの尻尾が何本も、私の顔の上にぽよんぽよんと広がっていた。
「いや、可愛いけども!!」
私は小さく抗議したけど、当然聞こえてはいない。
まだ、夜明け前。
空はうっすら白んできているけど、あたりは静かで、空気も凛としていた。
そっと顔を上げて――私は、焚き火の方を見た。
火の落ちかけた焚き火の前に毛布にくるまった小さな背中が、ちょこんと座っていた。
エニだった。
丸めた膝を抱えて、揺れる火を見つめている。
耳がぴくっと動いて、こっちを向いた。
「……とーこ、起きたの?」
「うん。ちょっと顔に毛玉が張りついていて、息できなくて」
「毛玉……」
「いや、可愛い毛玉だけどね。可愛いけど、死んじゃうところだった」
「ふふっ……」
エニが、小さく笑った。
その笑い声は、朝の空気の中で、やさしく響いた。
私はそっと毛布を持ち上げて、ユイカを起こさないように注意しながら、ぬくもりをそのまま残すように離れた。
そして、焚き火のそば――まだ残る火の匂いと、ちいさな背中。
「エニ」
私が呼ぶと、耳がぴくっと動いて、しっぽがゆらゆら揺れ始める。
「寒いから、こっちおいで」
私は腰を下ろして、足をすこしだけ開いてみせる。
「ここ、あったかいよ」
エニが一瞬きょとんとして、それから、照れくさそうに笑った。
そして、ちょこちょこと膝をついて近づいてきて、私の足の間に、ちょこんと座った。
ぴた、と背中が私に預けられる。
ふわふわの髪が頬に触れて、私は自然とその体に腕をまわして、そっと包み込んだ。
「……あったかい」
「でしょ」
朝の空気の中、私たちはぴったりと寄り添っていた。
しばらく黙って空を見上げてから、私はエニにそっと伝えた。
「……あの子、ユイカって名前にしようと思ってる」
エニは、肩のあたりでびくりと反応して、それからゆっくり振り返って、小さく笑った。
「ユイカ……うん、かわいい」
「結ぶ火って意味。火の魔法を使う子で、私たちとつながって……こうしてここにいるから」
「……うん、とーこっぽい。すごく、あたたかい名前」
エニの声には、昨夜のやきもちとは違う、穏やかな受け入れがあった。
私はそっとエニ肩を抱いて、頭をあずける。
エニの背中は小さくて、でもちゃんとあったかくて、私の心を静かに満たしていく。
その瞬間だった。
さっきまで私がいた毛布の中で、丸くなっていた小さなもふもふが、頭をもぞもぞと動かして、眠たげに起き上がる。
ふわふわの9本のしっぽが揺れて、ちいさな足取りで、エニのほうへ向かってくる。
「……あ」
エニが、息を呑むような声を漏らした。
そっと両手を差し出すように構える。
すると、まっすぐにエニの腕の中へ――ぽすん、と身体を預けた。
ほんの少し間があって――
「……ユイカ」
エニが、そっと名前を呼んだ。
まるで名前を抱きしめるかのようなやさしい声だった。
「きゅん……」
ユイカが、エニの胸元で、ちいさく鳴いた。
それは、まるで「わたしの名前だよ」って答えるように確かに、そう聞こえた。
ユイカを抱いたエニのしっぽが私の足の間でふわふわ揺れている。
私は、そっとその体を抱きしめて――額をくっつけた。
夜明け前の静けさの中。
私の胸の中で、ふたつのぬくもりが重なる。
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