第52話 「あたし、ここにいるよ」
本日もよろしくお願いします。
ここは、どこ……。
暗くて、冷たくて、埃が舞っている。
かすかな光だけが、隙間から滲む、小さな、小さな部屋の隅。
匂いを嗅ぐと、埃と湿気だけじゃなく、何人かの男の汗の臭いがきつい。
手首はきつく縛られ、背中にはずきずきとした痛み。
……きっと、引きずられたときに打ったんだ。それとも……考えたくもない。
目を閉じると、まだ、思い出せる。
あの、屋台の匂い。
甘くて、香ばしくて、ふわりと鼻先をくすぐった、優しい匂いだった。
とーこと一緒に歩いてたとき、ふわっと香ってきた、あの匂い。
「ちょっと……ちょっとだけ、覗いてみようかな」
そんなふうに思った。
すぐにとーこのところに戻って、「これ食べたい」って甘えたかった。
だって、とーこは、いつだって、笑って「いいよ」ってあたしを優しく受け止めてくれるから。
あったかくて、優しくて。
あたしがわがままを言っても、ただ「かわいいなぁ」って言いながら、撫でてくれる。
そんな、とーこの顔が見たかった。
ただそれだけだった。
それなのに。
角を曲がった瞬間。
突然引き寄せられ、口を塞がれる感覚。
「動くな、獣人」
低い声が聞こえた。
そして、気がついたら、ここにいた。
暗い、冷たい、何もない場所で。
手首は縛られ、口も塞がれて、魔法も使えなくて。
多分、手首に巻かれてるのはただのロープじゃないんだと思う。
動けない。
逃げられない。
今思えば、前から警告はされてた。
――首都ってのは賑やかで楽しい場所でもあるが、獣人にとっては必ずしもそうとは限らない。労働力として使われたり、研究対象として目をつけられたりすることもあるからな。
でも、あたしは、すっかり忘れてた。
だって、あたしの周りの人は、みんな、暖かかったから。
リーナも、ミレイも、リディアさんだって。
そして、とーこも。
ぎゅって抱きしめて、いっしょに笑って、名前を呼んでくれた。
だから、もう大丈夫なんだって思ってた。
――油断、してた。
耳に飛び込んでくるのは、男たちの汚い声。
「ったく、手間かかったな……!」
「最近じゃ星4のガキと一緒だしよ、手が出せなかった」
「魔法を使う魔物用のロープよく手に入ったな」
「当然、闇市さ。かなり高かったぜ」
「でも、やっとだ。獣人のガキ、しかも女。こりゃ売れば高値がつくぜ」
「遊んでからでもよくねぇ? こんな機会、二度とねぇだろ」
「馬鹿か、売る前に傷つけたら値が下がるだろ……」
低く笑う声。
そのたびに、背中が、ぞわりと冷たくなる。
身体が小刻みに震える。
怖い。
怖い。
(いやだ、こわい……)
でも、泣いたらダメだ。
泣いたら、負けだ。
(……知ってる)
この空気。
この絶望。
あの時、牢屋の中で。
誰にも名前を呼ばれず。
誰にも助けてもらえず。
泣き叫んでも、ただ時間だけが、冷たく流れていった。
でも、今は違う。
だって、とーこがいる。
とーこはあたしに、エニって名前をつけてくれた。
名前があるって、世界に居場所ができることなんだって、その時、初めて知った。
あのときの、あたたかい手。
やさしい声。
笑ってくれた顔。
(とーこ……)
かすれた心の中で、何度も、何度も、呼ぶ。
(とーこ、来て……とーこ、助けて……)
耳を澄ます。
薄暗い部屋で、ただ、自分の心臓の音ばかりが響いている。
怖い。
震えが止まらない。
けど、心の奥に、小さな火が灯っていた。
とーこは来てくれる。絶対に。
前に絶対助けるって言ってくれてたから。
――そのときだった。
ガチャッ!
鋭く響く、扉の開く音。
それと同時に、靴音が、バタバタと駆けてくる。
空気が変わった。
さっきまでの、あの汚れた笑い声とは、全然違う。
迷いのない、真っ直ぐな足音。
そして――
「エニ!!!」
叫ぶ声が、聞こえた。
名前を――あたしの、あたしだけの名前を、叫ぶ声が聞こえた。
……ああ。
間違いない。
とーこだ。
あたしを「奴隷」なんかじゃなく、ちゃんと一人の「獣人のエニ」って認めてくれる、あたしの大好きな人。
涙が、止まらなかった。
視界が滲んでも、止まらなかった。
ぼたぼたと、頬を濡らしても、止まらなかった。
怖かった。
苦しかった。
でも。
でも、あたしはここにいる。
とーこが、あたしを呼んでくれるから。
とーこが、あたしを見つけてくれたから。
「エニ! エニ! どこ!」
必死な声。
震える声。
でも、誰よりも、温かい声。
あたしのためだけに、とーこが、こんなにも必死になってる。
胸がぎゅうって締め付けられる。
叫びたかった。
ここだよって。
すぐ近くにいるよって。
でも、声が出ない。
縛られて、布で塞がれた口からは、何も言えない。
もどかしくて、苦しくて、それでも、心の中で何度も叫んだ。
(とーこ、あたしはここにいるよ……!)
とーこ。
会いたい。
触れたい。
ぎゅって、抱きしめてほしい。
怖かったって、泣きつきたい。
でも、大丈夫だったよって、笑いたい。
とーこが、見つけてくれる。
その確信だけで、この絶望の中で、あたしはまだ息をしていられた。
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